小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑫ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス

 










日差しの下、花々は眼差しの先に散っていた。

フエはシャッターに背を持たれ、地べたに座り込んでいた。コンクリート舗装もされていなかった、当時の土の地面が、じかにフエにざらついたその触感を投げかけた。フエは眼をとじる。日差しの温度が、皮膚にふれた。眠いわけではなかった。日差しがあまりにも鮮明に過ぎて、まぶたを閉じるよりほかに手立てがないのだった。見つめるには、無慈悲なまでに明るすぎる光満ちた風景が、眼の前に拡がっていた。

醒めたままに、やがて失心して仕舞ったのに違いなかった。やがて、その、いつか、終には、フエは、かつて、そのときに見た風景を、その、閉じられた眼差しに不意に、見い出していた。夢。…かつて見た、かつてその身に刻まれたことのある最期の風景。雪が降る。このベトナムに、在り得ない異常気象の夏に、雨季の雨のふれる中以外には途絶えることのない永遠の、夏であるべき、その気候を裏切った降雪に、見渡す向こうまでもが雪にうずもれた。何人もの、ただでさえ死にかけの雪に不慣れな人間たちが死んで仕舞ったことなど知っている。そのときに、千人近い人間たちが、それぞれの事情と必然のうちに、純白の雪の中、命を絶たれたはずだった。フエの周囲の、数キロの半径の中で。雪が堕ちつづける。抱きしめた肌に、いまだに暖かさを維持したその少女の亡骸の温度が残る。

記憶の名残りとして、そこにあきらかに残存し発散されている発熱そのものとして。

息絶えた少女はもはや、鼓動も感じさせず、かつて耳の至近距離にひびいたかすかな息遣いをさえ立てないままに、首筋。ながい、おどろくほどながい首がもはや力なく、へし折れたように肩にのけぞってかかる。

あまりにもこれ見よがしな肩を、フエの手のひらが抱いていた。仰向けの、のけぞった眼差しが見開かれたままなのは知っている、そのいま、その、息絶えた眼差しは目にはふれない。ぶざまに、向こうの方を見ているだけなのだから。その、もはやなにものをも見てはいない眼差しを投げ棄てて。

十六歳の、自分を愛した少女を殺して仕舞ったフエは、彼女が垂れ流した絶命の体液と、汚物に塗れた。雪が降った。

もはや、生き延びられる場所などどこにもなかった。海へ、と、フエは想った。覚えていた。フエは、その想いつきの唐突さを。想わず、フエは声を立てて笑って仕舞いそうにさえなった。…確かに、と。

そう想う。確かに、この海沿いの街に、この町が雪に埋没して仕舞ったならば、もはや辿り着けるのは海、雪につつまれた海にでも辿り着いてやるしかない。

フエは、少女の亡骸を、そこにそのまま、投げ棄てたように棄て置くと、着の身着のままに、海を目指した。周囲に、彼らの気配があった。フエを追いかけまわす彼ら。いっそのこと、復讐として、私をころして仕舞えばいいのに、と、想い、そして構いはしない。たとえ、海に辿り着けないままに息絶えたとしても。ショートパンツに、Tシャツだけで、そしてバイクなど走らせようがないのだから、歩いていくしかないサンダルに、雪の零度がじかに触れる。雪の、本当の温度を知った気がした。

あの、海の向こうの故国で、なんども味わったはずの雪の温度を、生まれて始めて。想いだす。フエは、その時の凍えるしかない温度。死んで仕舞っても構わない。だれも路上にいなくなった深夜のこの町で。その除雪もされない路面の上に。どうでもいいことだった。海を見出せようが、それが叶わなかろうが。どうせ、見い出し獲るのは、いま、いくらでも見い出していて、そして、眼差しが見つめるしかない、その、純白の風景に代わり映えのしない、ただただ白い色彩の束でしかないのだから。このまま、と。想う。

死んで仕舞っても、と、その肩を揺り起こされたときに、不意に眼を開いたフエに、アンは一瞬、為すすべもないおびえを、眼差しに、素直に曝した。

咬み付きなどしないのに、と、アンは後に想い出し、自分をはかなく嘲笑ってやるしかない。午後三時の、いまだに容赦のない日差しのもとに、拘束されて行ったときのままの、Tシャツと短パンだけの体躯を苦しげに捻じ曲げて、庭先の地べたに倒れ臥したフエは、もはや彼女が死んで仕舞ったとしか思えなかった。アンの眼には。その胸がいまだに息遣い、鼓動をきざんでいたのは気付いていたにもかかわらず。

フエは、生きていた。まぶたを開いたフエの眼差しに、一気に光が直射した。その直射の余りの鮮明さに、フエはふたたび失心しそうにさえなった。アンが抱き起こしたとき、自分がかいた汗に体中、髪の毛の芯まで濡らしたフエは、一瞬引き攣り、身を見開いて、自覚する。何も見えない。

なにを

なにも、

しているの?

いま、

こんな

見えてはいない。フエは

ところで

絶望のうちに

あなたは

絶叫した。血をさえ、

ひとりで

噴き出して仕舞いそうだった。アンは、

なにを

フエの喉の奥にだけ

しているの?

ちいさくたった、その

もう

かすかな、力なく歎くような音声を、

空は

耳に

晴れています

やさしく聴き取った。

フエを肩に、抱きかかえるようにして階下に下りたとき、葬儀の楽団ははでに、自分勝手な野曝しの演奏に耽っていた。そして、集った近親者のだれも、それをもはや単なる雑音としてしか認知などしていなかった。嘲笑うでもなく哄笑がいつか、意識しないままに私の口元をゆがめさせたが、人々はそれを悲しげな微笑として消費する。…落ち込むなよ。そんな、ふしだらまでに気遣いをあふれさせた眼差しをすれ違いざまにくれて。

タオはどこにもいなかった。二階に彼女とその母親、マイの部屋が在るはずだったから、そこに引き籠って仕舞ったのかも知れない。ただ、フエのやさしい抱擁を避けるために。フエは、三階での事の顛末を、だれにも言おうとはしなかった。もはや、記憶の彼方に勝手に色褪せていくままに、なかば忘れ去って仕舞ったのに違いない。

ヴーの死に顔を、わざわざ拝顔しようとするものなどいない。ヴーの葬儀の中で、なにものよりも真っ先に忘れ去られているのはヴーの亡き骸の存在と、そもそものヴーの不在そのものだった。人々はそれぞれ想いのままに、本来の意味さえ忘れられかけた集会に憩った。壁際に一塊に身を寄せあった、白装束の女たちとその装束の色彩に眼を留めて、彼女らに声をかける一瞬を除いては。

フエの眼差しに、癒しようのない歎きが曝されて、その眼差しには記憶が在った。ミーを埋葬したそのあとの、私が彼女に加えた愛の行為、あるいは不当なる陵辱、あの、ブーゲンビリアの花々の下に見出された、光景のさなかに、あるいは、そして、そのあとで彼女を抱きかかえたソファの上に、曝されていた彼女の眼差し。

…ねぇ

フエは、もはや

いま

私を見つめようともしないままに、視線を

何時ですか?

天井に投げ棄てて、あるいは、見ていたのだろうか。醒めたままに見る

いま

夢を。あるいは色彩のない、鮮血を流し出すしかない誰かの

そこは

昏い翳りをでも。

いま

横たわったフエの、投げ出されただけの息遣う身体の傍らに

ブノンペンは

ひざまづき、私は

プエルトリコは

シャッター越しに侵入した午前の日差しの照らし出した、褐色の肌に

バグダッドは

頭を預けた。皮膚に添った耳は確実に、

北京は

死んで仕舞ったようなフエの、呆然をあざやかに裏切って、

ハ・ノイは

躍動する体内の音響を聴き取り、鼓膜の中に

何時ですか?

響かせる。

ホイ・アンは

私は聴いていた。フエの

そこは

音響。嘘偽りない、彼女が生きてあることを無様に

ニャ・チャンは

証明してやまない響き。

サ・パは

私は知っていた。フエが、私を

ビン・ズオンは

断罪しもしないままに、すでに

何時ですか?

完全に許し、和解して仕舞っていたことを。フエの

プー・コックは

まぶたが、ときに、音もなく

ダ・ラットは

瞬く。想い出す。タオ。やがて

クアン・ビンは

十六歳になったタオの最期のときに、私を

ハー・ティンは

受け入れたときにタオも、満たされたような、あるいは

何時ですか?

終に

いま

獲得したような、あるいは悲しげに何かを失った事実を認識したような、あるいはもはや穢されて仕舞った残酷さに目醒めたような、それら、いずれにせよフエをさえ含めたさまざまな女たちが、私を受け入れた瞬間に思い思いに曝した表情の群れのヴァリエーションには一致しない、フエが曝しているのと同じ深刻な歎きをきざんだ。

私をもはや見つめない眼差しの中に。相変わらずの、微笑んでさえいても、想いつめて昏いその眼に巣食った色彩を背景にして。その嘆きはどうしても癒し難かった。肩を抱かれたフエのそれと、まったく同じくに。癒してやらなければ、その眼差しにふれさせる私をさえ、巻き添いにして滅ぼして仕舞うに違いないにもかかわらず。容赦もない哀れみと、慈しみの、かさなりあったあたたかさと、同時に、許し難い鮮明な憎しみの発熱が、私のまぶたの裏に芽生えた。壁際の白装束の女たちに、想わず眼差しがふれた瞬間に、フエは微笑んだ。哀れみも、追悼も、何の感情もさらさらない微笑みがフエの口元をはかなくゆがめて、女たち。生み出すものたち。

彼女たち、生み堕としつづけ、生み堕とすためだけに生み出されたにすぎない有機体たち。永遠に、母なるものにさえなれない存在。彼女たちだって、結局は生み堕とされたものに過ぎない以上、母にはなり獲ながら、母そのもには終に同化し獲ない。母としてまさに母であるものとして目醒めつづけてあることの可能性に、永遠に拒絶された、いつかその肉体を滅ぼすしかない穢らしいちいさな生命たち。男たちほど、命そのもへの無関係さを曝すことさえもない。彼女たちは、しずかに目配せと、耳打ちのささやき声のなかに、ヴーの不在を歎いた。もはや、フエさえもが彼女たちの中に寄り添って、肌を寄せ、寄せ合い、肩を抱かれ、抱かれあい、一塊の一群になって、その周囲に、男たちは、そのうち為すすべもなく滅びていく脆弱な肉体をゆすりながら行き来したが、だれも弔いなどしないヴーは死んでいた。私の背後に安置された棺の花々の中に。女たちは歎く。ヴーの遺伝子が覚醒させた、卵子細胞の慣れの果てに過ぎない有機体の集団たちは。

彼女たちは、寄り添いあう。いま、此処に存在していることそれ自体の中に、悲劇は目醒めているのだとさえ言いたげに。息をひそめ、声を殺して。

背後に、アンが私を呼んだ。

軒先のテーブル、アンの声がした方に歩みよると、褐色の人々一群のなかに、アンの笑い顔が見出される。背の高く、体格のいいアンは、私の一回り、姉のフエのふた周り以上の巨体を曝して、そのくせ、極端に甘ったれたやさしげな顔立ちを体躯の上に孤立させる。

始めて見たとき、戦争の周辺の曲折のせいで、白人の血でも入っているのかと疑われたほどにアンは、堀の深い、端整な顔立ちをしていた。調っているとは想えない。どこかで、甘みが強すぎる顔立ちは、あきらかに品性を欠いて見獲た。それでも、女たちが彼に群がっている事は知っている。手も出してもらえないくせに、必死に、想い想いの流儀と技法と自分勝手な想いのかけらによる、その媚態を張り巡らして。

アンが座れと、早口のベトナム語を罵るように口走って

Anh

笑い、私に

ở đây

身振りするままに、彼の眼の前に座って、私は彼に微笑みかえしてやる。アンは姉を見つめ、ややあって、不意に、自分がようやく正気づいたような気がした彼は、彼女を腕に抱いた。病んだように発熱するフエ。二十歳をすぎたばかりで野晒しに、長時間の直射日光に痛めつけられた挙句に、呆然とするばかりで意識さえ定かでは無い彼女が、正気づかないままに好き放題に投げかけた体重に、アンの腕は重む。女の体を抱きかかえた片腕に苦労して鍵を開けると、弟はシャッターを足にこじ開けた。日陰の中にはせめてのもの涼気があった。その、かすかな涼気が、日差しに熱せられ続けたフエの皮膚に、肌寒いほどの温度としてふれていることには気付いていた。想いあぐね、アンは自分の部屋のベッドに、横たわらせた。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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