小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑪ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス

 










階段を降りてきたクイが、その半面に砕けた顔を無防備に、いつものように曝しながらフエに微笑み、ありがとう、と、その短い感謝の言葉をかけると、これから病院に行く、と、クイは言った。

だれの?

ai

問い返したフエは、チャンがまだ生きていることを、まだ知らなかった。両眼を抉り出しても人間が生きていられることを、フエは初めて知った。チャンの生も死も、フエは考えもしなかったことに、いまらさに気付き、いずれにしてもあきらかだったのは、あの、フエの知るチャンがもはや永遠に失われて仕舞ったことで、彼女が未だに生きているのか、死んでいるのか、警察官も尋問のうちに告げず、気を遣った家族のものたちも、チャンの話など一切しようとはしなかった以上フエは、なにも知らなかったのだった。知らないことさえ、フエは意識していなかった。…そう、と、フエは独り語散、…彼女、元気?

khỏe

そう言った、自分の言葉を、フエは恥じた。

không

…どうするの?

không

フエが言う。

khỏe

不意に、私を

không

見つめたフエは、傍らのチャンを慮る気配さえ見せながら、「私が死んだら、…」

khi

「どうしますか?」

em

ささやく。階下に、

chết

太鼓と銅鑼がふたたび立て続けに

anh

鳴らされて、新しい

làm

忌問客が到着したことを知らせた。いつか、

ギターと民族楽器を抱えた楽団が呼ばれて、追悼の音楽を耳障りにもかき鳴らし始める。…死んだら?

と、言葉もなく問い返す私の眼差しに、フエは反応をしめそうとしない微笑の数秒の後で、不意に、ようやく素に返ったように声を立てて笑ったフエの、その身を捩った瞬間に彼女の髪の毛の匂いはたつ。散る。至近距離に近付けられた唇が、…悲しい?

buồn

言った。もちろん、と、私の眼差しがささやきかけたに違いない。フエは、なにかに満足した眼差しを曝したが、…でも。

anh

悲しみ。唐突にふれて仕舞った容赦もない悲しみに、フエは、自分自身おののきながら、「…寂しいわね。」

buồn

独り語散る。唇がどこにでもなく投げ棄てなければならなかったささやき声として。背後に人の気配がした。そして、床に粉砕されたグラスが割れて飛び散る音響と。タオ、…と、

Thảo

短くその名前を、彼女を見向きもないままに、フエは言った。私にだけ聴こえるように。

buồn

振り向き見たそこに、入り口を入ったすぐの日影、タオがひとりで突っ立ていた。両手を為すすべもなく垂直に垂らして、なにもかも放棄して仕舞ったことを、だれにもかれにも教えて、理解させなければ気がすまないとでも、そんな、自分勝手に呆然とした眼差しを曝して。

タオの足元に、どんぶり皿が割れていた。彼女が割って仕舞ったのは、チャンに食わせるためのおかゆだった。タオはいま、なにが起きているのか、自分が何をしでかしたのか、なにも理解できないままに、ただ、そこで、なんでもないなにかの犠牲者であるよりほかにすべはなかった。

フエが、私の頬に口付け、その一秒もない一瞬の後に、立ち上がるとタオに微笑む。

Em...

大丈夫。

Không sao

なんでもないわよ。

…O.K. ?

…ね?

Em...

タオが、フエのみならず、そのフエの声にさえおびえているのは明らかだった。フエはいつでも、タオを、あきらかに虐待していた。身体的な不意の、理解不能な殴打のみならず、言葉の容赦もない暴力をも含めて。私の眼にそれは単に無残だった。フエにとって、タオの遣ること為すことが、拒否と否定の対象だった。まるで、と、クイはつぶやいた。いつか、あの母親の仕打ちみたいだ。…と。フエの、母親の。彼は、そう、そしていつかの日、香草の下ごしらえをしていたタオの、その籠いっぱいの香草の束を、何も言わずにフエが投げ棄てて、見あげた眼差しのうちに、もはやなんの非議も、疑問をさえも投げかけようとしないタオを、立ち去り際、いきなり振り向いてひっぱたいたときに。叔母のイェンはあわててフエに、気を遣って慰めかける声をかけながら、その腰を抱いて引き離すのだが、フエ自身、それ以上の折檻をなど求めているわけではない。

すぐさま気を取り直したフエが、ごめんなさい、大丈夫、でも…ね?

ほら

…だって、…口籠り、

…ね?

思いあぐね、そして、

でしょ?

つまりは大丈夫よ。もう、

そう…

心配しないで。…と。

ね?

あとには、呆然として、自分が犯して仕舞ったに違いない犯罪的な行為にひたすらな悔恨をいだく少女が取り残された。フエの一瞬の逆上の意味も、理由も、フエ以外にはだれにも理解できない。…大丈夫。

không

私は、

sao

立ちつくしたタオに近づいたとき、タオが一瞬、予測された折檻に身を固め、あからさまなおびえをその身体に曝したのを、見逃しはしなかった。

フエは、床に飛び散ったおかゆの残骸に、その素足を穢して仕舞うのにも構わずに、タオを抱きしめた。

床には、フエに踏みつけられたおかゆの残骸。

小柄なフエは、華奢な十一歳とは言え、若い世代で、発育期の少女と並べば、その身体に殆ど変わりはない。私の眼差しに、やさしくいたわる女と、縋るような眼差しのうちにいたわれる、同じような身体のふたつの差異するたたずまいが、なにか、あからさまな倒錯を感じさせた。

タオは、不意の抱擁に戸惑うことさえ出来ずに、ただおびえた眼差しをそらし、見つめるべき対象を失っていたそれは私を見つめて仕舞うしかない。…なに?

どうすればいいの?その、言葉もないままに訴える眼差しを、私は無視した。床に散ったおかゆは無造作にフエたちの足元の周囲を穢して、ただ、見苦しい。フエが、あるいはベトナム人たちが、私をも含めた愛するものたちに無差別にする、耳の裏の匂いを嗅ぐ仕草さを、フエは突然タオに曝して、その仕草さにさえタオはあきらかに傷付く。いたたまれないほどに傷付き、蹂躙され、虐待された少女が、眼の前に為すすべもなく立っていた。フエのやさしい抱擁は、タオをむごたらしいまでに、いま、打ちのめしていた。フエが、タオの頭をなぜた。傍らの背後に、

いま

チャンの息遣う音が

聞こえますか?

聞こえていた。

わたしの

タオ。

鼓動が

そのあまりにも撫で肩の曲面は、なんということもないTシャツをさえふしだらに見せた。驚くほど長くのびた首が、やっとの想いで頭の重量と、そこに密集した豊かな髪の毛を支えた。

黒眼がかすかにふるえて、私は眼をそらした。布巾かなにか、持ってきなさいよ。そう、私には聴き取れなかったフエのささやき声が、その耳にはふれたに違いなかった。フエの抱擁に抗うように身を捩って、タオはその腕から自由になると、一瞬、その表情を失ったままの顔を曝した。

繊細な瞬間があった。一種の空白に似た瞬間があって、そして、すぐさまタオは羞恥に、顔から、その胸元までをも染めた。もはや耐えられないとでも言いたげに、タオは踵を返して、駆けて行った。

誰もいなくなったフエの傍らを、私は見ていた。フエは、うな垂れて立ちつくしていた。むしろ、虐待されているのは自分なのだと、初めて真実を曝したような、そんな物言わぬ悲痛な気配を、その背中が私の眼差しいっぱいに拡げて、見つめられることを、求めもせず、惜しみもしない。…好きよ。

ね?

やあやって、ようやく私を振り向き見たフエはささやいた。

知ってた?

私は、好きなのよ。

わたし

眼差しはむしろ、留保もない

好きなの

あの子の事が。

ね?

絶望を、あるいは、

あなたが

諦めを曝す。倦む。フエは、あきらかにその、自分がそのときに抱え込んでいた感情のすべてに倦んでいた。タオは帰ってはこなかった。床の上の陶器の破片も、飛び散ったおかゆの残骸も、だれにも片付けられもしないままに、私たちは時間を浪費した。フエはやがて私の膝の上に座って見せ、首をかしげ、…ね?

んー…と

ささやく。その、いつくむしむ眼差しが。…信じる?

ね?

わたしはあの子を、好きなのよ。

ん?

私はフエの背中をなぜた。警察の拘留を解かれたその日、家族は、アンさえも、迎えには来なかった。友達のハーHàを呼び出して、家に帰りつく。ハーの、自分を慮る眼差しに、彼女は私が、チャンを殺して仕舞ったのだと、そしてだれもがいまやそう知っているのと変わらない確信を、心のどこかにさまざまに共有しているに違いないと、フエは想った。その認識に、抗う気にもなれなかった。ハーの背中に、ときに小柄なチャンは横顔をうずめながら、その身の不幸を悔いた。その、鮮明に悔いられた不幸が、誰の身の不幸なのか、フエには分からなかった。だれが哀れみ、いつくしまないではいられないほどに不幸なのか、フエには分からなかった。アンが轢き殺して仕舞ったおかげで、もはやこの世には存在していないハンHằngの不在に、むしろフエは感謝した。午前十時。まだ、日差しにはかすかにでも朝の光のやさしさが名残った。フエの頭部は、ハーの背中の震動を感じる。

家に帰ると、誰もいなかった。鍵さえかけられていた。アンか、ダットがかけたに違いない。フンたちに顔を合わせなければならない正面口から、フエは家の中に入る気にはならなかったハーに手を振って、…いいわよ。

ありがとう。帰っていいわ。

フエを案じるハーの眼差しに、犯罪に手をそめた、穢れた、滅びるしかない哀れな人間に対するいつくしみが、あふれていた。その眼差しに、フエは憩うしかなかった。

ハーだって、かならずしも危険なフエに、うかつには近づいていたくはないに違いなかった。散々慰めの言葉と、その身を案じるやさしい言葉を撒き散らしたあとで、想い残すことなく、振り向き見もしないままに、ハーはバイクで立ち去った。南京錠がかけられたままの、シャッターの前の直射日光にフエを、ひとり放置して。

立ちつくすかないフエは、そして、立ちつくしかなかった。裏門の前の細い土の道を、数台のバイクが通り過ぎ、老いさらばえた女か、群れなした子供たちがときに歩き去る。だれも、フエのほうをは見ない。なぜなら、彼女がそこにいることに、なにも気付いてはいないのだから。いつも不思議だった。だれも、その眼差しを、道の脇のブーゲンビリアの樹木とバナナの木の向こうにまで、投げてよこそうとはしないのだった。そこに、そんな家屋など存在してはいないかのように。なにかの禁忌として禁じられ忌まれている気配を曝したわけでもなくて、ただ単に。

誰の目にも触れない。たとえ、と、想う。たとえここで、いま、フエがチャンのようにその眼を自分で抉り出したとしても、あるいは、獣じみた声を上げて仕舞ったとしても、誰も、それには気付かないに違いない。フエの喉が立てた獣の叫び声さえ、本当に、どこかで野生の獣が泣いたのだと想って仕舞うのだろうか。飼い馴らされ、野生などとっくに失った、穢らしい放し飼いの犬どもしか徘徊しないこのあたりで。ブーゲンビリアの花々の陰に、枝にぶらさがったかのように反対向きに、

わたしは

その頭を曝したマイを見た。でたらめで、もはや

ここに

形態をさえなさない体躯に伸びた首が、溶かされたチーズのように

いたよ

たれさがって、ようやくのことでその頭部を吊り下げていた。色彩のない

ここに

それが、くぼんだ、穴ぼこをみっつ、無様に

わたしが

散らしていたが、流れ出す血。

いるよ

鮮血が、

わたしは

いよいよあざやかに上方に、どこまでも伸びていく。

見つめるフエの眼差しにさえ気付かないままに、マイはフエを見つめていた。昏く、翳り、為すすべもなく、そこに存在しているマイは、歎きの声さえたてはしない。想い出した。疲れた、と、ただ一言だけその背中につぶやいたとき、疾走するバイクの風の中に、聴き取れなかったフエの声を、ハーはあのとき、聴き返した。ほんの数分前の、あのとき。

フエは答えなかった。変わりに微笑みだけを返し、その、投げ返された微笑を見い出したものなど、だれもいはしない。

日差しの下、花々は眼差しの先に散っていた。

フエはシャッターに背を持たれ、地べたに座り込んでいた。コンクリート舗装もされていなかった、当時の土の地面が、じかにフエにざらついたその触感を投げかけた。フエは眼をとじる。日差しの温度が、皮膚にふれた。眠いわけではなかった。日差しがあまりにも鮮明に過ぎて、まぶたを閉じるよりほかに手立てがないのだった。見つめるには、無慈悲なまでに明るすぎる光満ちた風景が、眼の前に拡がっていた。

醒めたままに、やがて失心して仕舞ったのに違いなかった。やがて、その、いつか、終には、フエは、かつて、そのときに見た風景を、その、閉じられた眼差しに不意に、見い出していた。夢。…かつて見た、かつてその身に刻まれたことのある最期の風景。雪が降る。このベトナムに、在り得ない異常気象の夏に、雨季の雨のふれる中以外には途絶えることのない永遠の、夏であるべき、その気候を裏切った降雪に、見渡す向こうまでもが雪にうずもれた。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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