小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑩ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス











羽交い絞めにされた上半身は、日差しの中にただそのあざやかな褐色を曝した。唇が

好き?

血をにじませ、顎に

わたしの

垂れた。花々が、

くちびる

私たちを穢した。終に、立ち続けることも出来なくなったフエは、縋りもせずに、私の羽交い絞めに拘束した腕に、その身を

好き?

預けるしかなかった。

わたしの

大気の中に、淀み、滞ったままの

延焼の臭気が、覚めやらない。鼻にこびりつて苛み続けるにもかかわらず、それらは嗅覚を麻痺させさえしない。

その、無際限なまでに複数のもろもろの臭気の、固有の束なりあった雑多な鮮度を無造作に、空間の中は曝してうち棄てて、

好き?

花々は香った。

わたしの

私たちの周囲に、その

花々の色彩をさえ含めて、ひたすらあざやかに色づいて、花々が匂い続ける。執拗な、ざわめき立った臭気の群れを背景に、むしろそれらに埋没して果てさえしながらも。

力尽きたわけでもなく、むしろ飽きて仕舞ったに違いないことすら明確には意識できないままに、私はもはや体中を脱力させるしかないフエを、腕に抱いた。まるで、彼女の身体はすでに、彼女の肉体が死を体験して仕舞った後のような、そんな、ふしだらな崩壊をきざむ。

縋りつくすべもなく、私の腕に身を投げ出ししかなかったフエは、腕の中でその反り返らされた首をさえ揺らす。ただ、だらしもなく。

家屋の中に連れ込む私に、一切の抗いの、意思表示さえ、その気配のうちにも匂わない。

二つめの居間の、ソファに横たえさせると、その唇が一度、かすかに震えて見せた後で、つぶやかれた言葉。…ねぇ、と。

Anh...

私は聴く。

ねぇ

どうして、…

...Tai sao

「あなたは私を、

ね?

壊そうとしたいの?」

Bầu trời xanh

歎きの気配さえもなく。…私は、君に、手をふれることさえできなかったというのに、なぜ、

ね?

君を壊そうとするのだろう?何かを、と。

眼を閉じて

想う。

見つめてごらん

壊すことなどできるはずもないのに。あるいは、むしろ、と。

眼を閉じて

おののき?

嗅いでごらん

壊されることさえ、できはしない。

眼を閉じて

おののく。私は。

聞いてごらん

私を見つめないフエの眼差し。天井に投げ棄てられたその眼差しの容赦のない孤立に。

わたしは

見つめていた。フエは。天井に

あなたを

張り付いたそれ。色彩をなくした

見ていました

形態の残骸。…流れ出すもの。

横向きの鮮血が、それだけが他のすべての色彩を嘲笑うかのように鮮烈に、ただ、赤く、チャン。

色彩をなくしたチャンが、身じろぎもしない完全な静止を曝してみずからの、翳った昏さだけを見せ付ける。

フエの眼差しに。

私はそして、フエに口付けてやるしかなく、フエはそれを受け入れるしかなかった。…壊れてるの。

もう

と、そうフエは

花は

言った。初めて

咲いています

チャンと出会ったときに。ベッドの上に身を横たえさせられて、その瞬間立てた獣じみた雄たけび、…絶叫、…悲鳴?それは、ほんの十秒程度、ひとえに吐き出されるチャンの息が尽きるとともに、何事もなかったようにもはや、立てたチャン自身にさえ忘れられていた。

すでに

…なに?

もう

なにかありましたか?と、

いつでも

不意に

花は

振り返って微笑まれた、そんな錯覚を、その、安らかでさえない、何をも語りかけない目隠しの窪みに、私は見い出していた。不意の驚愕に曝されて、言葉さえなくした私に気遣かったに違いないフエは、いつか私により添いながら、ささやいたその、…壊れたの。

もう

その言葉が耳に反芻された。なにが?と、

すでに

ややあって

どこにも

フエを振り向き見た私に、ただ

かしこにも

慰めるやさしげな眼差しを曝し、フエは何も言わない。…知ってるわ。

Em

彼女は。

biết

なにもかも。

Em

言った。…なにを?

đã

そう、問い返すべき言葉が

biết

唇の先に、こぼれそうになりながらぶら下がったが、なにもかも、

đã

目にふれるものすべてをすでに

biết

許して仕舞ったのだと、やるせない

đã

諦めの気配をただ

em

無防備に漂わせたフエの眼差しが、私を

biết

沈黙させた。…そう。

đã

壊れたの。

em

私は想う。

biết

そして、と。なにもかも、知ってるの?

em

頭の中に、…彼女は。独り語散て、声などつぶやき出しさえしない。もう十年ばかりずっと、彼女はここにこうしている、とフエは言った。自分で眼を抉り出して仕舞ってから。その日の記憶を、想い出そうとするわけでもなくなんどか想いだし、そしてフエはその記憶にもはや、なんらのおびえも恐怖さえも感じられはしなくなった。チャンがそれをした日、呆然としているだけのクイたち、ただ自分勝手に、なにも考えられない意識の白濁と戯れるしかない彼らを棄て置いて、ややあって、フエは救急車を呼んだ。日差しの中に、冴えた意識を白濁させたまま。救急の隊員たちは、語りかけても要領を獲ないクイたちの意識の破綻を疑った。哀れみながら、彼らはフエに尋ねた。…いったい、なにが起こったんだ?

What’s

フエは答えた。…わたし。

happen

わたしが、やったのよ。

is

想いつめた気配さえもはやなく、淡々と

what

微笑みさえしながらつぶやくフエの

happen

その独白を、駆けつけた警官たちは

is

真に受けた。救急隊員たちは、

what

寄り添うように警官たちと

is

うち合わせ、フエは連行された。嘘などつくすべもなく、その

happen

日の個人的な事実を自白するしかないフエは、すぐさま同情と供に解放されて、連行された当初に、気違いのあばずれ呼ばわりした彼らはすでに、彼ら自身がフエをそう罵ったことさえすでに忘れていた。フエには忘れられなかった。その、あまりにも正確すぎる言葉が、自分のすべてを表しているとしか想えなかった。警官たちはやがて、いつか、唐突な自殺未遂のあまりに猟奇的な結末に、この歳若く清楚を極めた眼の前の女性は混乱してして仕舞ったに違いないその心の現状を、もはや哀れんで歎いてやる以外のすべを持ってはいない。事実、だれもかれが正気を失って、まともな対応さえ出来ないでいる中に、このけなげな女性だけがまだしもまともだったのだ。

二日間だけ拘留されて、解放されたあとのフエは部屋に閉じこもった。かならずしも閉じこもったつもりではなかった。単に、何をする気にもなれなかっただけだった。会社はそのまま、退社することにした。どうせ、来月になればこの町を離れるのだった。解放されたあとの三日目に、ようやくフエはクイたちの家に行った。慰問というべきだったのだろうか。その、自分の訪問の意味までをもは、フエは自分で解釈し切れなかった。羽交い絞めにされ、許し難い犯罪者として連行されるフエを、何の表情さえ浮かべずに、むしろ確かに、と、そうだったのかも知れないと、そんな、その、あの、やさしいチャンを壊して仕舞ったのはこの穢らしいフエに違いないと、そんな、在り獲ない眼差しをさえ、縋るように浮かべていた彼らに、フエは逢って遣らなければならない気がしていた。たとえ、彼らに対して、何をすべきかわからないままだったしても。

彼らへの憎しみも、嫌悪もない。そして、チャンにさえも。チャンは一人で、自分勝手にすべてを壊して仕舞った。もっとも犯罪的なのは、チャンみずからだった気がした。クイのうちは、いつものように氷を売っていて、クイが仕事をやすんでいるらしい事は、店先にクイのバイクが止められていることが、明示していた。いつもだったら、クイは日中に、家になどいない。多忙な名士のクイは。午前十一時、日差しはもはや正午の明るさを獲得し、大気が温度を孕みこむ。そのままじかに肌にふれる。

軒先に座ってるヴァンは、フエを眼差しに見留めると、駆け寄ってその、眼差しが捉えたけなげな姪っ子を抱きしめた。…なにをしていたの?

どうして

元気だったの?

空が青いのか

豊満で、

考えていたら

生暖かい体温に羽交い絞めにされて華奢なフエは、

笑えて来た

語りかけられるままに微笑み、その

不意に

表情。眼差しが捉えたヴァンの、あまりにも性急で、がけっぷちの、追い込まれた想い遣りの表情に歎かわしいほどの違和感を感じながら、いつか笑い出して仕舞った自分をフエは、彼女にしがみついてその首筋に顔をうずめ、声を上げて泣き出して仕舞うことによって、ごまかした。

どうして

かろうじて。

海が海が青いのか

ヴーは気を取り戻していた。奥のキッチンで、

考えていたら

一人で早めの昼食を取り、フエに

涙が

哀れんだ眼差しをくれた。…大変だったろう?

あふれて来た

なに?

勝手に

警察に、…そう。大変だったわ。と、声を立てて、泣きながら笑ったフエを、ヴーはただ、けなげに想った。

階段を降りてきたクイが、その半面に砕けた顔を無防備に、いつものように曝しながらフエに微笑み、ありがとう、と、その短い感謝の言葉をかけると、これから病院に行く、と、クイは言った。

だれの?

ai

問い返したフエは、チャンがまだ生きていることを、まだ知らなかった。両眼を抉り出しても人間が生きていられることを、フエは初めて知った。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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