小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑨ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
…あの子の仕業よ。こんなことするなんて、あの子しかいないわよ。
結婚するときに、初めてダナンの親戚の家に、フエと挨拶に回って、ここに辿り着いたとき、私はチャンの滑稽さに噴き出して仕舞いそうになった。その日、夕方の紅蓮に空の片隅を染め上がらせて、朝焼けに似た空の破滅のあざやかな、あたたかな光線を好き放題に侵入させたこの部屋の中に在って、チャンはベッドに片足だけを引っ掛けて、床に寝転がっていた。
色褪せた、趣味と言うものを感じさせないキャラクター・プリントのピンク色のTシャツを、胸まではだけさせて。
彼女の姿が視界に入った瞬間に、私は彼女が、いわゆるまともな状態で生存している人間ではないことに気付いた。眼の前の人体に比べれば、あきらかにトゥイThủyのほうが人間種として、立派に知性をきざんでいた。事実、トゥイは私たちとは違う知性のありようをしているだけであって、彼女の内部にはあからさまで強靭な知性が巣食い、そして、彼女に固有の視界を強固に、整然とかたちづくっていた。反して、目の前にあるのは、なにもかもが崩壊した、文字通り廃墟でさえない残骸の散乱に過ぎなかった。
My friend
友達なの…と、フエの
My…
言うその
Trang
声は、ただひたすらに
My...
冴えるだけで、かすかな
She is ...
心ひだの動きさえも
My…
伝えはしない。むしろ、
Your friend ?
「君の?」言った私の声のほうが、あきらかに
Dạ
おののいていた。フエの
My…
その、
Bạn tốt
冴えた冷淡さに。「そう…」
Dạ
友達なの。
…そう
ささやく。なにもかも諦めきったかのように。フエは。フエが瞬くたびに、そのまぶたから涙が零れ落ちるのではないかとあやぶみながら、そんな事など在り獲ないこともまた、私ははっきりと知っていた。フエの眼差しには、いささかの感傷さえ入り込む余地は無かった。
ただ、眼差しにふれるものに、自分の網膜を好きなだけ、好きなようなように触らせて恥じない、どこか不埒な高慢ささえもが、目醒めていた。
ベッドに横たわったその女のはだけた腹部から、片胸の膨らみに至るまで、あきらかに色づいた年の頃の女の、あからさまな煽情さえもがあった。それは、華奢ではあってもかならずしも性的な魅力に富んでいたわけでもないフエのそれに比べても、あるいは、比べるべくもないほどに、女の気配を曝け出していた。…ほら?
あなたは
欲しい?
わたしに
そう、耳元で
ふれない
かすかに軽蔑的な吐息とともにささやきかけられたかのような。そして、その、目醒めきった性の誘惑を無造作に投げ棄てて、沈黙のままに息遣うだけの身体には、老いさらばえた、若々しい肌づきの、眼窩を陥没させた女の顔が表情もなくくっつけられていた。
半開きの唇が、寝息のような息を
あなたは
吐き、
わたしに
吸う。その
ふれなかった
音が、かすかにだけ耳にふれる。開け放たれた窓の向こう、主幹道路のバイクと、車の音響が耳にさわり、そして、夕暮れは窓に、その丁度半分だけを曝していた。
オレンジ色に近い光線の光に差し込まれて、光の色彩にあられもなくすべてのものは、着色されていた。床の上の女の地肌も、フエの首筋、二の腕、そして、
あなたは
部屋の壁、仏壇、ベッド、その
わたしに
乱れ放題のシーツ、ずれ堕ちかかった毛布もなにも、その
ふれない
固有の色彩に、空の新たな色彩を装って、匂わせる。自分勝手にいつものように、破滅していく空の瑞々しすぎる色の戯れの、その繊細な手付きを。
床に投げ出された女が、美しいのか、そうでは無いのか、私の眼差しは判断しきれない。美しい形態をしていたのかも知れない。そんな程度の完成度には値しない、品のない産物だったのかも知れない。いわば
あなたは
野晒しで、美しさも醜さも志向しない、うち棄てられただけの
わたしを
顔は、もはや
ふれなかった
それら一切の美醜の判断を受け付けることなく、その本来の形態だけを、明け透けに曝した。チャン。話して聴かされた。フエに。目の前の壊れた女、チャンが自分の眼を抉り出したときの、発見の顛末をは。チャンの、そのかたちを変えたある種の自殺、あるいは自裁、もしくは自己救済は、その正確な意味づけをチャン以外のだれにもあかさないままに、たしかに悲劇的な事件だったには違いない。とはいえ、夕焼けた日差しのあざやかさの中に
あなたが
自分勝手に憩うその
わたしに
存在は、どこにもその
ふれない
身の悲劇性など残存させはせずに、単なるできそこないの暢気さだけを曝しているしかなかった。いかなる気品さえも、持ち合わせてはいない。
ベッドに寝かせ直すだけの力のないフエの代わりに、私はチャンを腕に抱いた。チャンの四肢は抗いもなにも、私にふれられている自覚の存在をさえ曝しはしない。単なる肉の塊にすぎなく想われたそれを、ふたたびベッドに、私が横たわらせようとした瞬間、チャンの唇が一気に開かれ、その
あなたの
顎が外れて仕舞いそうな開口を
わたしが
数秒間静止しさせ、
ふれなかった
叫んだ。
不意に、チャンは、その喉の奥から獣じみた太い、低い、声帯いっぱいに罅割れさせた長い絶叫を。
午前9時をまわりかけたばかりの、浅い午前の、未だに朝と呼ばれるしかない逆光の中に、チャンに寄り添ったフエの、足元に膝をついて私は彼女を見上げた。フエを。
愛しい女。私の愛する、そして、彼女が私であることを走っている。繰り返される転生。際限もなく。時間の流れなど嘲笑いながら、過去も未来も現在も、すでに知り尽くされている以上、もはや時間がまっすぐに流れていることなど不可能だった。時間は、ただ空間に無造作に点在するにほかならない。知っている。匂う。フエの体温が、その体臭を巻き上げて、匂わせる。私の鼻腔の浅い部分に。
私の手のひらが、フエの太ももに添うて、
あなたを
愛撫の意味をさえ持ち獲ないままに、やさしく
わたしが
ふれて、そっと、
ふれない
ただ、なぜた。…ね?と、フエの眼差しは私に同意を求めたが、その、何に求めたのか語りかけもしない理不尽な眼差しを、私は許した。そして、微笑む。彼女のために。その肩越しの向こう、窓越しのベランダに、フエは血を流していた。
頭の先から片足を生やして、でたらめに左右の位置をさえ間違えた腕を腹から突き出して、うごめきさえしないフエが、色彩をなくしたまま、ベランダに樹木のような不埒さで生え、翳るしかないその形態のうちに血を流す。時間を逆流さえさせた遅延のなかに、血は、その色彩をだけ鮮烈に匂わせて、その血、斜め下方にどこまでも堕ちていく鮮血の三本の筋。
素直にフエの顔をかたちどったその翳りの顔は、私を見つめながら、…無意味だ、と。
あなたが
私は
わたしを
想う。もはや、
ふれなかった
なにをも見い出し獲ないのなら、目も口も開け拡げていることに、意味など一切在りはしない。いっそのこと、なにもかも燃え尽きて仕舞えばいいのに、と、私の心がかすかなわななきとして、こまかな心境をふるわせる。心境とさえ言獲ないたんなる大気のふるえのようなもの。かすかすぎる風の中に、おののたような野晒しの花びらの、見い出せない震動のけはいのようなもの。もはや。
わたしは
やがて眼をそらして、丁寧に、寄り添うように自分の膝に据え置かれていたフエの、手のひらに私は唇をふれる。
夢を見ていた。
いつ
浪立っていた。海は。
きみに
その、
出会えたの?
原始的な、野生の海は、そしてそれはいまも、あるいは地球の滅びのときにさえも、結局は、原始的で、あからさまな野生をしか曝し続ける以外にすべを持たないのだった。
いつ
むせ返るほどの、
君を
潮の臭気を
愛したの?
撒き散らしながら。
海に浮び、浪にもはや侵食されて、同化されて、次第に
鳥たちは
浪そのものに喰いあらされていながらも、私の肉体は
堕ちた
崩壊していくしかなかった。
失心の中に
下半身などもはや
やがて
浪に飲み込まれてその
羽撃きながらも
巨大な鼓動そのものの不整脈の中に飛散させられ、見い出された両手のひらさえおののいた痙攣のこまかな震えの中に、粒子と化して散り散りに舞い散り砕けて消えうせていく。
ほら
逆流する時間の流れの中で、どうしようもなく
いま
その崩壊など
ぼくは、すでに
曝すことも、実現することさえも叶わないままに、
目醒めていた
無際限に崩壊しながらも。私の肉体はそのものとして息づき続けるのをやめない。
とめどもない私の崩壊は、永遠に終焉することのかなわない、留保もない不可能性の顕現そのものに
鳥たちは
過ぎなかった。
いつか
あとかたもなく
すでに
崩れ去っていく私の肉体が、
堕ちる
時間の逆流の中にいよいよ強固にその形態を息吹かせ、息づき、私は目醒め続けていた。
一切の、色彩の喪失も、かすかな色褪せさえもその身に実現しはしないまま、永遠に。
畏れた。ひとりで、私は
ほら
おののく。その、
野生の
気が遠くなるなるような永遠の、無際限な
太陽は
時間の膨大さのなかに、
もう
失心することさえ、一瞬たりとも
昇った
できない私は目醒め続けて、立ったまま、ブーゲンビリアの木陰の下に、私に穢されるつづけるフエは、唇を自分で咬み、いつか切り裂いて、唇に血をにじませていたのには、私は気付いた。彼女を羽交い絞めにして、抱きしめたときに。
もはや、私のそれは、行為を成立させ獲てはいなかった。たんなる、打ちのめす腰の殴打の執拗な暴力だけが繰り返されていたに過ぎない。フエが、ただ冴えた眼差しを曝して私のなにをも破壊しない暴力に屈した。
屈辱に塗れるべきだった。フエは。私に、かならずしも穢されるわけでもなくて、蹂躙されていたのだから。羽交い絞めにされた上半身は、日差しの中にただそのあざやかな褐色を曝した。
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