小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑧ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
彼女の首に、私の手のひらは、そして感じ取られたもの。その、汗ばんだ触感。すでに為すすべはない。
なにものによっても許され獲ず、なにものによっても正当化させれ獲ず、なにものによっても救済されようもない、そして殺意さえありはしない行為。…私は見い出し続けていた。
私は、ずっと、いつでも。光。
その光さえない氾濫。
救済の、横溢する神々の光が私たちをつつむ。相変わらず、代わり映えしない救済の中で、私とタオは自らを焼き尽くそうとする。最期の、もはや行き場所のない破滅へと、ただ。
光。…氾濫する、光、そべてのものが、そして彼女の、締め付けられた喉が苦痛に、あるいは、苦痛そのものが与えられた、もはや恍惚であいかない光の白濁に、倦む。吐き棄てることもできな発熱が、タオを襲った。ささやき続けた。私は。
自分の唇の中にだけ、その、だれにも聴き取られはしないささやきを、私の頭の中でだけ反芻する。…ねぇ。
…ね。…と。
どんな気がする?
…ねぇ、と
どんな、…ね?
いま、…と
どんな気がする?
なにを?、と、私は
何が見える?
いま
ねぇ、と。…君は
留保なき絶望の風景
何が見える?…と、そう
どんな?…いま
生まれてきたことをさえ後悔した、と、その
留保なき絶望の風景
ねぇ、なにに、と、そう私は
その
生まれてきたことをさえ後悔した
どう?…いま
みずから燃え上がり、みずから、と。
その
君はいま、もう
焼き尽くすしかない、と、あるいは
みずから燃え上がり、と、私は、みずから
もはや、…ね?、と、その
風景
焼き尽くすしかない
君は、…そして
風景、…と
塗れる。私は、吐き出される彼女の体液に。きざまれ始めるもの。その、私が見つめたその身体に、あきらかに、破綻。
もう
破壊。
見えますか
破滅。
あなたにも
すでに、
未来の
もはや
かけがえもない
成立できないもの。
輝きが
成り立たずに、手のひらの
その
中で
永遠の
最期の
きらめきが
ときを、もたらしてやらなければならないもの。死にかけた彼女は、もはや生き延びてはいない。タオはいまだに、死に獲ていないだけに過ぎない。私は知っていた。最期に、タオが自分を含めたすべてに抗うように、立てた獣じみた割れた叫び声を、長く、立てて仕舞うのを。つつまれる。
好き?
光に。
あなたは
つつまれていた。当たり前のこととして。裏口から
なにが
入ったキッチンのスペースの中にも。光は
好き?
群がり、
あなたは
散乱し、
好き?
氾濫していて、
なにが
相変わらずに、それらが
好き?
貫くすべてを、空気の一瞬のゆらぎひとつにいたるまで、あますところなく救済しようとしていることを。もはや、容赦はなかった。キッチンに並べた赤いプラスティックの椅子に座って、ヴァンVặnとその姉のイェン Yên と、もう一人の老婆が耳打ちしあいながらささやきあっていた。老婆がひとりだけ私に気付いて、その眼差しに微笑をくれた。イェンが、私を見向きもしないままに、日本人よ。
Người Nhật
そう言った。
深刻な表情を好き放題に曝した彼女たちが、実際にはありふれた世間話に淫しているにすぎない事は、話しなど聴き取らずともすぐにわかる。私の頬が、眼差しを終には笑わせることないままに、老婆のために優しい微笑を作るが、たしかに、老婆の方だって、私に投げてよこす微笑の眼差しは、結局はなにも、微笑にさえもふれてさえいはしなかったことに今更ながらに気付く。笑い獲はしない眼差し同士の、かすりもしない、ただ親密なふれあい。
表に出ると、フエはいなかった。祭壇の周りにも、テントの幕の下にも。丸テーブルのひとつに、クイが媚びるように群がった近親者の集団をはべらせて、周囲の人々に好き勝手に話させながら、自分はひとりで沈黙していた。盛んに語りかえられる泡だった言葉の群れに、相槌さえうちもしないままに、そして人々はよくこんなクイに向って口々に話しかけられるものだと、私は不意に笑って仕舞いそうになった。
クイが私を、その投げ棄てられた眼差しが上向いた瞬間に、見留めた。近づいて微笑み、その手を握手に取ってやる私を、拒絶するわけでもなければ受け入れるわけでもない。そんな力などありはしないよ、と、そうとでもいいたげに、私の手のひらにふれられるに任せて、握り返すわけでもない。その半面の、容赦も遠慮もなく捻じ曲がった顔が、無残な戦争の後遺症の癒えることのない残骸を曝して、それを恥じるわけでも、誇るわけでもないクイの眼差しは、ようやくにして、私に微笑みかける。…やぁ。
わたしは
来てくれていたんだね。
ヒトです
馴れ合ったというのでもない、
あなたは?
希薄な親密さを、こ馴れた上品さのうちに、クイはかすかな頬のゆるみに表現しおおせた。
周囲にでたらめに群がった、クイに媚びいる話し声の、塊りになった連鎖がやまない。ただ、気の抜けたやる気のない茶飲み会合にすぎなかった、クイの不在時の人々たたずまいは、もはやなにもなかったことにされて、葬儀には似つかわしくないほどの活気を撒き散らす。弔いなど女たちに任せておけばいいんだ。
はじめまして
なぜって、
わたしは
俺たちは
ヒトです
女じゃないんだからね。人々の
あなたは?
あふれ返った声の群れに、そんな風にささやかれた気がした。
ややあって、何かを察したクイが、立てた指を上に向け、上にいるよ。
Vợ con
君の妻なら、上にいる。
ở đâu ?
微笑みさえしない眼差しには、奇妙に馴れ馴れしいやさしさが匂う。私は、かならずしもフエを探していたわけでもないままに、クイに首がふるえたほどのかすかな会釈を返して、階段を上る。
フエが、どこにいるのかの、大方の察しはついていた。三階の、かつての親友の許に添うているに違いなかった。この家を訪れて、彼女が人々の前から姿を消すとき、それは彼女がそこにいるを事をだけ、意味した。
急な階段を上って、仏間とチャンの部屋を兼ねたその部屋の入り口をくぐると、ドアと言うものさえない吹きっ曝しのそこ、窓越しのやわらかな逆光の中、その女はそこにいた。
ベッドに腰掛けて、こちらのほうを向いてはいるものの、存在しない眼球は私のすがたのなにものをも捉えはしない。傍らに
ぼくは
寄り添ったフエは、私に一度だけ眼差しを
ここに
くれたが、想いあぐねたように黒眼を震わせ、その、
いるよ
かすかに
ここに
潤んだ気配。なにか、
ぼくは
涙ぐみそうになる心境か、感傷だかが、こんな葬儀の日のチャンの傍らに、フエの鼻先に嗅ぎ取られて仕舞ったのかも知れない。このところ、と、私は想う。
ぼくは
君は泣いてばかりいる。
そばに
私はまばたく。…かならずしも。…と。
いるよ
かならずしも、
きみの
なにかが
そばに
鮮明に悲しいわけでもないくせに。その、私の不意の想いは、言葉にもしなければ彼女に匂わせさせえもしない。フエが、
きみの
視線を流すように眼をそらし、空中の
そばに
何かに
ぼくは
彷徨ったそれは、ややあって、
きみの
結局は
ぼくは
チャンの横顔に
いるよ
堕ちる。
きみの
チャンは、
いるよ
笑うしかない痴態を
ぼくは
曝していた。眼の
きみの
周りにまわされた白い、
ぼくに
薄穢れた布で目隠しを
いるよ
されて、その
ぼくの
眼の在るべきだった
きみは
陥没部分には、若干の
ぼくに
皺によじれた、ウィンクを
いたよ
曝す下手糞な
ぼくに
眼の
きみの
落書きが
そばに
あった。…なに?
ぼくは
なんなの?…これ。と、
いるよ
私がつぶやきも、気配に
ぼくは
漂わせもしないうちに、フエは、
きみが
かならずしも
そばに
察したというわけでもないに
ぼくは
違いない、
Thảo
タオよ。
…ね?
独り語散る。
Anh à...
…あの子の仕業よ。こんなことするなんて、あの子しかいないわよ。
結婚するときに、初めてダナンの親戚の家に、フエと挨拶に回って、ここに辿り着いたとき、私はチャンの滑稽さに噴き出して仕舞いそうになった。その日、夕方の紅蓮に空の片隅を染め上がらせて、朝焼けに似た空の破滅のあざやかな、あたたかな光線を好き放題に侵入させたこの部屋の中に在って、チャンはベッドに片足だけを引っ掛けて、床に寝転がっていた。
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