小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑦ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス

 










花をしがみつかせたままひとつたりとも散らしてはいなかった、フエの指先がはさんだ花ざかりの枝を、私は奪い取ると彼女の意向のままに、ミーの胸元に投げ棄てた。ただ数輪の花々だけが、ミーを弔って、彼女は添われた。花々に、そして私は土を、ミーに振りかけるのだった。胸元に留まった、その花々の匂わせた色彩にさえも。そして、土の中に目醒めたままでいるはずの無数のこまかな生命の群れの、無造作の氾濫の中に、埋没される。…


私の仕事が片付くまで、フエはそこにしゃがみこんだままだった。横向きに捩った眼差しで私の一挙手をまで確認しながら、もの言わないまま、表情さえなく。

相変わらず、その体中に花々を撒き散らされたままで。曝された素肌の褐色の上に、花々はひたすら残酷で、赤裸々な野生の色彩を曝した。人肌の、花の色彩にふれたせいでもはや、どこか穢らしく、みすぼらしく、あきらかに無残で、くすんでさえ見えたその、彼女の色彩をフエは惜しげもなく曝して、むしろなんらの恥じらいもなくその、何も言わない眼差しを地面にそのまま投げ棄てた。

ミーの墓に墓標はない。あるいは、いつか草花が芽吹いて、墓標の代わりに咲いて見せるかもしれない。手入もされなくなった庭は、あきらかに荒れていた。繁殖する草、樹木の苗木、それら植物に、やがてはここは飲み込まれて仕舞うのかもしれない。それらの理不尽なまでの生命力の横溢の中で。私は、たぶん、もしそうなったとしても、私たちがそのままに棄て置くに違いないと、何の確信もなく想った。私に手を引かれるままに立ち上がって、家屋の中に連れ込まれようとしたフエは、不意に抗うように私にもたれかかって、しがみつき、胸に顔をうずめたフエの体温に、私の曝された上半身はむせかえる。

頭をなぜた。彼女の唇が、私の唇にふれられることを、意識される前の当然のここととして、認識していることには気付いていた。私がその顎に指先を添えて、顔を上げさせようとすればフエは抵抗して、…駄目よ。

好き?

いや。

わたしの

と、その

すべて

気配がフエの周囲にだけ乱れる。私は頬を押さえつけて唇を奪った。いつか、嗜虐的な色が、私の眼差しの中に浮んだ。フエは抗うことをやめない。私の腕が彼女のもがく身体を強く、潰して仕舞いそうなほどに拘束し、

好き?

筋肉の力みと、

この

骨格の

世界の

うごめき。それらは

息吹き

じかに私にふれる。見あげるまでもなく、空は青くそれ自身の色彩を曝して、そこに輝いて、ただあるがままに停滞しているに違いない事は知っていた。フエの、私の唇に暴力的に塞がれた息遣いが耳にこすれて鳴った。

私の指先は、彼女の背中の皮膚をなぜ、それは愛撫に外ならず、私たちは息遣う。足をくねらし、腰を引き離してもがき、私から離れようとするフエを私は許さない。後ろを向かせて、ブーゲンビリアの樹木の幹に手をつかせようとはしたものの、抗うフエに容赦はない。不意に、私が彼女をひっぱたいたとき、フエは抵抗をやめた。身動きもなく私をただ見つめる、上目遣いの眼差しには、突発的な怒りもなければ執拗な憎しみもなく、澄んで明確な言葉の、その断片をさえ匂わせないまま、フエのふるえもしない眼差しは、鮮明な歎きを訴える。

破壊してやりたい衝動が私に芽生えていた。唐突な、衝動が私の喉の奥に発熱した不健康な温度を与えていた。何を破壊して仕舞おうとしているのか、私にはわからなかった。ブーゲンビリアの樹木に両手をついて、ときに爪で幹を掻きさえしながら、後ろを向いたフエは私を受け入れるしかなかった。どうせ、衝動が収まって仕舞えば、いつものように、途中でやめて仕舞うことなどだれにも明白だったのに。頂点に向おうとはしない、惰性の長い行為がフエを痛めつけるわけでも、恥辱にまみれさせるわけでさえなく、かさなりあいはしない息遣いのうちに、かすかに風に打たれたブーゲンビリアが花を散らす。まばらに、私たちを、そして花々は想うがままに穢した。…なにを、と。

見ていますか?

その声に振り返り見て、家屋の

わたしの

裏口の日陰にたたずんだタオを、

微笑み

眼差しは見つける。

「…して、いますか?」

ヴーの葬儀の騒音は耳の向こう、タオの存在をさえ塗りこめて、そこに停滞していた。彼女が、そこに立っていた事は、すでにその投げ出された気配によって、私の背中に察知されていた。

なにうぉしてぇまっか

タオのささやき声が、耳のうちに反芻されて、刻まれた無残なほどに昏い絶望的な眼差しのままに、彼女は微笑んで、あるいは、やがてちいさなささやき声を立てた。唇の端に。彼女のその音声が、何を言ったのかは

うんぃたぁんのひ

聴き取れなかった。それがベトナム語なのか、日本語なのか、英語だったのかさえ、私にはわからない。

笑いかけもしない私の、どこか呆然としているに違いない眼差しを、タオは見つめていた。幼すぎる少女。とはいえ、確かにその年の頃にしか許されない、むしろ中性的なあやうい美しさを、タオの身体は無防備に曝すしかない。

あの日、ブーゲンビリアに引っかかっていた鼠の死体に、私たちは庭の小石を投げあったものだった。昏い眼差しが浮かべた深刻な絶望を、一切くずしもしないままにタオはときに声を立てて笑い、私の発した派手な笑い声を聴く。

首をかしげて、そして私は聴いている。私たちは。聴いていた。その三階に匿われている、頭のおかしくなった、両眼のないタオの叔母が、唐突な、獣じみた叫び声を立てて仕舞ったのを。頭の中で、その響きは無意味に反芻されて、木魂すこともなく、チャンという名の彼女がいったい何におびえ、あるいはなにに抗おうとし、なにに非議を訴え、なにを軽蔑し、拒否し、憎悪し、そして終には立てられて仕舞った叫び声なのかは、一切言葉をは発さなくなったそのチャン自身以外には誰も知らない。

二十歳のときだ、と、フエは言った。彼女が、自分で自分を殺して仕舞ったのは。自分で、自分の両眼を抉り出して仕舞ったチャン。そのとき、…何をしてるの?

Em

言って

làm gì ?

想わず耳元にささやきかけたフエの声に、フエを認識したに違いないチャンは、両手のひらに転がしていたふたつの眼球を、握りつぶした。その瞬間、眼球の内部のものの、薬品じみて感じられた匂いをフエの鼻は嗅ぎ取った。いずれにせよ、チャンは自分にしか分からない恐怖か、なにかに、その野太い低音で、威嚇を突きつけていた。そのときにタオが

あなたは

まばたく。

ふれられはしない

何の

わたしをは

音さえもたてずにふるえた、その

決して

まぶた周辺の空気が、震動を私の眼差しの中にだけ曝した。

タオの投げた小石が鼠には当らないまでも、その至近距離をかすめて、やっと置かれただけの枝の上からずれ堕ちて仕舞いそうな気配を立てた。声を立てて笑いながら、ふたりの眼差しがそのくせ息をひそめて注視し、その、見つめずに入られない視線の先に、不意に、前触れもなく鼠が堕ちた瞬間には、タオは頓狂な歓喜の声を上げていた。…いくら見つめていても、と。

もう、なににも

そこにはもう、

あなたは

鼠なんか

ふれられはしない

死んでいないわ。

すでに

そんな言葉を、私に、何の言葉もなく語りかけている気さえした。その、裏口の日陰に私を見つめる、少女の優しげな眼差しは。…諦めて。

ふれなさい

もう。…無駄だから。

あなたの

微笑んでやるべきだったろうか。私は、

のぞんだものに

そうに違いない気がした。私は、私に、もはや微笑む余力をさえ感じはしなかった。庭の、何事もない風景には、すでに飽きていた。裏口の方に歩を進め、私がタオにすれ違いそうになった瞬間に、ん、と、その鼻にかかったタオの音声を

…ん、とその

聴いた。耳に、

あきらかに

至近距離に鳴ったように感じられた、

日本語の

それを。

音声を

すれ違いざまの傍らに、立ち止まったタオは白装束を曝しままに、私を見つめ、その上目遣いの視線のどこかに、一瞬の想いあぐねた不安がのぞいた。かすかに、けれども鮮明に。いたいけもない、というには、その眼差しの昏さのせいで、大人びすぎているように見えたタオが、焦燥に駆られながら周囲の気配を探り、その眼差しに、終にあからさまにいたずらじみた色彩が浮んだときには、それを私に見留める隙さえ与えもしない刹那、爪先だったタオは私の唇に押し当てていた。みずからの唇を。

一秒もかからない一瞬だけのふれあいを、私の唇は執拗に反芻した。醒めやらない触感として。女として見ることの不可能な少女が、とはいえその眼差しのうちには、男としか見い出せない男を見い出していることに、なんどめかに気付かされた瞬間に、声を立てて笑うタオの眼差しに気付いた。

あなたを

私を見つめた、その。

見ていますか?

自分が、

なにが

なにかに

あなたを

勝利したかのように。タオは私の傍らを通り抜け、

見ていますか?

ブーゲンビリアの先の家屋の隙間を

あなたは

抜けて行った。

わたしを

華奢な子供にしか通り抜けられない近道。

やつれた老犬が、その後姿を眼に追い、鼻に嗅ぎ取ると、ややあって犬は身をもたげ、重力にふれることそれ自体がもはや苦痛なのだと言いたげに、タオの行方を追った。不意の幼い口付けに、私は呆然としていたわけではない。

むしろ、私の意識はただ冴えて、何の言葉をも想いださないだけだった。やがてあの雪の日に、タオの体に交わった、かすかで執拗な熱狂を、為すすべもなく沈静化させて仕舞いながら、望まれたていこと。

タオに。眼差しがささやく。閉じられたままに、まるで、徒刑が執行されるときを迎えて、眼に部厚い布をぐるぐる巻きにでもされたかのように、…見えないわ。

それを

いま、私は。

擬態しながら

タオは、

見えないの

…なにも。

わたしは

痙攣させる。

なにも

あけ開いたままの唇を。

...と

わななかせて。その身体が、曝された褐色の肌をいっぱいに、不健康に汗ばませていることには気付いていた。何かの身体機能が崩壊したかのような、いびつな発汗。あきらかに零度の境界にふれた、凍えるしかない大気にじかに、その

わたしは

素肌を接触させながら。

なにも

タオの、

見えません

閉じたまぶたはふるえもしない。

もう

眼差しの

あなたしか

ふれるものすべてに、私は絶望していた。私のそれはすでに、その意味を失っていた。やわらかなだけのそれは、ただ萎えきって、ふれあった粘膜のあるかなきかの圧力にさえ為すすべもなく、無造作にこすり付けられるにすぎなかった。最初から、何の熱狂もなかった気がした。頭の中、神経の中を冴え、癒しがたい発熱に白濁させて仕舞いながら。

いつか眼差しさえ、温度を持っていた。病んだ、何かが明らかに壊れて、制御の可能性を失った暴走の温度を。私は醒める。

ただ、冴えて、醒め、なんども目醒める。繰り返し、一瞬たりともまどろみさえもしなかった冴えた眼差しの中で。

明らかな、発狂を、…精神疾患に還元することも、分類することも不可能に違いない、あざやかな不意の墜落に似た突破を、タオの閉じられたまぶたが曝し、倦む。タオは、みずからの発狂に、そして、ふれる。

彼女の首に、私の手のひらは、そして感じ取られたもの。その、汗ばんだ触感。すでに為すすべはない。

なにものによっても許され獲ず、なにものによっても正当化させれ獲ず、なにものによっても救済されようもない、そして殺意さえありはしない行為。…私は見い出し続けていた。

私は、ずっと、いつでも。光。

その光さえない氾濫。

救済の、横溢する神々の光が私たちをつつむ。相変わらず、代わり映えしない救済の中で、私とタオは自らを焼き尽くそうとする。最期の、もはや行き場所のない破滅へと、ただ。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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