小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑥ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス

 










ヴァンの前半生どころか、その最期の二十年たらずを除けば、ことごとくが戦争か、紛争か、独立闘争の時代にあてはまめられて仕舞う。フランス兵の軍用銃から、日本軍の日本製の歩兵銃、アメリカの、ソヴィエトの機関銃、あるいはどさくさに紛れて中国人と韓国人の発砲した銃弾をまでヴァンは知り、そして、フランス兵が、日本兵が、アメリカ兵が、韓国兵が、この地の女たちに生ませた子供たちを見てきた。時には報われることの少ない愛によって。そしてその大半は容赦もない戦場地域にありふれた単なる日常的な暴力のひとつとして。生きているという事は、生き残っていると言うことにすぎない。その当たり前の事実を隠すことも出来ない時間の無造作な集積に、ヴァンはその人生の大半を浸した。

なにか、いつか自分勝手に想いあぐねて、歯軋りしそうなほどに感傷的な、どうしようもないはらわたに滲みる惨めったらしさを、誰にと言うわけでもなく感じて仕舞いながらも私はその場を離れようとし、表で、近親者たちの雑談に交わる気にもなれなかった私は、私に向って振り上げられたいくつかの手と喚声に、気付かなかったことにして、奥、ひとりで裏庭に出た。

いつもの、喉を腫らした痛々しい老犬がブーゲンビリアの木漏れ日の、淡い日陰のなかに憩う。かつては見事だったに違いない茶色い毛並みは、皮膚病さえ併発していたのか、あるいは喉の腫れに起因する発熱のせいでもあるのか、所どころに斑な脱毛と薄毛を曝して、眼差しのなかに、ただただ目に映るもの、耳にふれるもの、鼻に感じられるものの、それらすべてがただ厭わしく、歎かわしいのだと、彼の頭をまともに撫でてやったことさえない私にさえも、その上目の視線が訴えていた。

表で鳴らされ始めた、ベトナム仏教の念仏の、ながいながい節回しが、伴奏のエレキギターを伴って背後に遠い轟音の幕を作って、録音されたものを再生しているにすぎないそれに、人々の喚声が、ときに、まばらに、混じる。人の死に目にあって静謐とした、…とは、間違っても言獲ない環境の中で、耳元に聴こえているものにさえ聴こえはしない振りをし通そうとした老犬はただ、木漏れ日の中に頭べを垂れた。あの日、ミーが殺された翌日に、スコップを借り出した私は家に帰って、上半身を日差しに曝して、ブーゲンビリアの根の近くを掘ろうとしたのだった。試みが不可能だという事は、すぐに気付いた。その荒々しく動きもない図太い樹木の、地下にいかにも支配者然として張り巡らした根に、振り下ろされて土を掻く一本のスコップごときでは抗いようがないのだった。

背後に、仏間の木戸の日陰でフエは、相変わらず素肌を曝したままに片手のスマホをいじって見せながら私を見守り、時に私を画像に収めて、不意に声を立てて笑って仕舞うことに、いったい何の意味があったのかは私にはわからない。映された画像には、陽光に曝された無残なミーの死体さえもが映っているのだから、だれにも見せられないふたりだけの秘密、のつもりだったのだろうか。もっとも、その死体は私たちが殺したのではない。あくまでも、見殺しにしただけだ。そんな言い訳など、だれかに通用するのだろうか?

朝の日差しが長く描いたブーゲンビリアの翳りの、その先端の草地を掘り起こし、私は三十分近く掛けて、ミーを埋葬すべき穴を掘った。家の向こうで、

いつか

焼き尽くされたばかりの町の喧騒は

芽を出す花々は

おさまならない。その

いま

忌々しい臭気さえも。振り返った

種の中の

白い、開けっ放しの鉄門の向こう、

眠りの中に

主幹道路を警察の、

憩う

救急の、あるいは消防の車が通り抜け、そればかりか徒歩で何人もの警官が実況検分に歩き去っていくのだが、

ほら

だれも

ぼくは

私たちを

ここに

眼差しに

いるよ

捉えようとはしなかった。

私はミーを、そのまま担いで穴に放り込もうとした。

Không !

その瞬間にフエが、

No !

どうしようもない危機感を

駄目よ

曝した声を立てて私は振り返り、私にしずかに微笑みかけているままのフエを見い出す。ミーの穢れた亡骸を腕に抱いた私をじっと見つめて、ややあって、立ち上がったフエは素足のままに、乾いた地を踏んだ。歩き、傍らに、寄り添うように私を見上げたフエが、ミーの開かれた眼差しを閉じてやろうとした。私は膝をついて、ミーをやさしく地に横たわらせて、そしてフエを見守った。息をひそめながら。未だに死後硬直は始まっていなかった。むしろ、フエの想うままに、ミーはその表情をつくり、髪の毛を徒刑囚のように刈り上げて眼を閉じた、血と泥にいっぱいに穢されて微笑む少女を完成させた。薄穢れ、引き裂かれて、張り付いたままの衣服を引き剥がす。死んだ、いかなる生き物の息吹きもない、どうしようもなく私たちへの無関係さをだけ曝す他人の素肌を日差しにふれさせ、もはや生命をきざむことのない肉体は、好き放題にそれら固有の憩いのときをむさぼっているように見えた。魂など、不在なるがままに。

日差しは直射する。一切のやさしささえ感じさせずに。

私たちはときに肌をふれあわせて仕舞いながら、ミーの傍らにひざまづいて、そして彼女は生まれたままの姿で、誰にともなく、なにをも見出さない閉じられたまぶたのうちに、最期の微笑を曝しだしたのだが、不意に、フエが鼻に笑い声を立てたのに気付いた。…どうしたの?と、その私のつぶやくべきだった言葉をさえ待たずにフエは私に顔を上げて、微笑みのうちに見つめれば、私の頬にキスをくれた。

もう片方にも。催促されるわけでもなく、私はフエの唇に、唇を添わせて、短い口付けのあとにミーを抱きかかえる私を、フエは見つめた。…雪が舞った。

開け放たれた木戸の向こうに、ブーゲンビリアが雪に埋もれ、その葉の群れ、枝の拡がり、図太い樹木の幹の沈黙、荒れた木肌、そして咲き乱れるしかない花々にさえ、ただ白いだけの雪の色彩はその自分の色彩のうちに埋もれさせ、あるいは、不意に開いた白の色彩の裂け目の点在の下からわずかにのぞいた緑と、むらさきに近い紅彩が、純白を破壊しないまでもあざやかに裏切って、それらはあくまでも固有の色彩に自分勝手に淫した。

少女が振り向き見て、いつもの昏い眼差しを向ける。私に。彼女は何か言った。私に。私は

なにを

それを、

見てるの?

意図的に

わたしを

聴き取りは

見てるの?

しなかった。すでに

いま

知っていた。彼女が

咲きます

何を

花が

言ったのか。そのとき、

音もなく

やがて

ひっそりと

来る私の最期のときのなかで。

知っていますか?

微笑んだタオが、

名もない

ややあって

花々の

ささやきかえるのを、そして、

名前を

私がそれらを聴こうとさえしないのはただ、静寂のうちにだけ、彼女を見つめていたいからだったのかもしれない。美しい女。確かに。

成熟しかけたままに無造作に放置された、ずさんな、いわばうち棄てられた美しさを彼女の身体は曝す。自分勝手に、想うがままに息づきながら、それを所有する本人自身に軽蔑され、貶められていた野生の肉体。自分で素肌を曝し、褐色の、肌は雪の日の夜の反射光の中でだけその色彩を空間に、不意に生じたなまなましい翳りとして暴き立てて、タオは声を立てて笑った。

そのときに。不意に。やがて、私に殴りつけられ、壊されかかって、…ほら。

雪の中に

言った。彼女は、ささやく。耳元に、…見えますか?

花が

なにが、見えますか?

咲きます

声。私はその声を耳の中に反芻した。なんども。…出来た?

知っていますか?

想う。私は。あなたが望んだとおりに、いま、

あなたの知らない

あなたは生まれて来たことそれ自体をもはや憎み、後悔できていますか?

花の名前を

タオのうつろになっていく眼差しを見る。失心を繰り返し、壊れ、崩壊していく。何を?

知っていますか?

想った。何を見てるの?

名前を知らない

あなたの眼差しは、いま。

わたしの

ときに、

名前を

唐突に、

知っていますか?

不意に声を立てて笑うタオの見出した風景には花々。…あの、彼女が愛したブーゲンビリアの花々は咲いていたのだろうか?安置した。ミーを、私は穴の中、土の上に。土には、あからさまな土の荒々しい、いわば容赦もない野生の臭気が匂い立ってって、漂い、停滞し、それらのうちにあらゆる細菌の類が育まれているに違いないことはすでに実感させられていた。これら、無機物の無残な臭気は、たしかに、さまざまな生命体を育んでやまない生命の温床にほからなかった。こまかな地中の虫が地を張って、むき出しにされて仕舞ったミミズが混乱のうちに地を張った。私の体のいたるところに付着した土をフエは、声を立てて笑いながら払ってくれ、その頬に口付けてやろうとして遣れば、フエはわざと拒絶して戯れた。ミーに土を掛ける前に、フエが言った。…待って、と、そのフエはブーゲンビリアの樹木の枝の周囲を彷徨って、眼差しに何かを追い、捜し求め、やっと見い出したのは、花をいっぱいにつけた細い枝のひとつだった。花を散らして仕舞わないように慎重に、フエは枝を折ろうとはするのだが、生き生きとした野生の、瑞々しい繊維にみなぎった命の執拗さに、所詮はフエの華奢な指先などかなう敵ではなかった。

フエの意図するところは理解していた。奥に入って、はさみを取ってこようとした私をフエは制止する。ブーゲンビリアの小高い花の枝に、背を伸ばして手を伸ばしたままのフエは、かすかにふらつきながら木漏れ日をあびて、その素肌の褐色の上に、さまざまに斑な葉と花々の形態の名残りを翳らせた。

不意に私を振り向きて、声を立てずに、あえてひそめて笑って、彼女はゆっくりと、そっと、枝を引く。彼女の顔の前にまで、花々を乱す枝はときに絡まりながら引き摺られたのだが、数片の花びらは舞って堕ちる。フエは、狙いの枝に、噛み付いた。

咬みつき、咀嚼さえして、すこしずつ、その柔軟で強靭な繊維を千切っていくと、その数分間を、まるで彼女固有の趣味であるかのように浪費する彼女の真剣な眼差しには微笑みさえない。装わずに私は声を立てて笑って仕舞い、ときに唾を吐き棄てながらも繊維を咬む、フエの唇のうごきは樹木のしなった枝にかすかな震動をを与えて、ほんの、ふれれば壊れて仕舞うわななきが、フエの肌の褐色の上に翳りを揺らめかせてその色彩をおののかせる。風に吹かれた、ちいさな花々の震動の集積をあますところなく曝して。

終に、フエの葉が枝を断ち切った瞬間に、その弾き上げる反動に撃たれたフエは、小さな悲鳴を上げてしゃがみこんだ。枝を指先に掴み取ったまま、そして、彼女たちを降り注いだ、舞い堕ちるブーゲンビリアの花々が、いっぱいにむらさきがかった紅彩の断片に埋め尽くす。

私は堪えきれずに声立てて笑った。しゃがみこみ、膝に顔をうずめてまるまったまま、フエは身動きひとつしようとしない。散乱した花々に覆われて。もはや好き勝手な自由の中に、為すすべもなく上方にわなないた枝の、好き放題のわななきの連鎖が、フエになおも無数の花々の紅の雪を降らせた。頭に、髪に、肩に、背中に、積った花々の色彩は身動きしないフエのせいで、かすかにも動きさえしないままに、上方にわなないた翳りがそれらのすべてに微細な躍動を匂わせるのだった。

ややあってもしゃがみこんだまま動かないフエに、その傍ら、私がひざまづいて添ってやると、不意に顔を上げた彼女は私を見つめ、涙さえ流さずに、そしてフエはひとりで泣いていた。花々を撒き散らしたままに。

泣いているとは言えない。涙もなければ、その声もなく、しゃくりあげるわけでもない安らかな、その一瞬、言葉の存在を忘れて仕舞ったのかも知れない沈黙の中で、表情さえ喪失して泣いている彼女は、

Buồn...

…悲しい。

言った、その言葉は私の耳だけにふれた。ほかに、

悲しみは

聴くものなど誰もいはしなかった。彼女に

いま

添うのは、すくなくとも

夢の中で

いま、私しかいない。そして、

咬み付いた猫の

向こうの主幹道路を

残した

行き来する警官たちと、町の

傷痕のように

人々の群れでさえもが、私たちのことをすでに

そっと

棄て置いて仕舞っていた。

傷付けた

フエの、

わたしだけを

追悼の言葉、その耳障りを、わたしは為すすべもなく耳の奥にとどめた。

花をしがみつかせたままひとつたりとも散らしてはいなかった、フエの指先がはさんだ花ざかりの枝を、私は奪い取ると彼女の意向のままに、ミーの胸元に投げ棄てた。ただ数輪の花々だけが、ミーを弔って、彼女は添われた。花々に、そして私は土を、ミーに振りかけるのだった。胸元に留まった、その花々の匂わせた色彩にさえも。そして、土の中に目醒めたままでいるはずの無数のこまかな生命の群れの、無造作の氾濫の中に、埋没される。…






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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