小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説④ブログ版
ザグレウスは憩う
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ
Ζαγρεύς
ザグレウス
…知ってる?
見えますか?
その眼差しはいつか涙を流すことさえ忘れていた。
ぼくの
「三つ眼の眼が開くのよ。」
こころ
…ほら。
あなたを愛した
「ここに。」
ぼくの
言って、自分の額を指さしたとき、
こころ
フエの眼差しは明らかな恍惚と、隠しようもない恐怖とを曝していた。…宗教。たしかに、宗教としての、ためらいもなく容赦もなく留保もない恐れと憧れが、その眼差しにはあからさまに匂った。私は眼をそむけることもできずにフエを見つめてやり、微笑む。私は、そしてそれしか、私にできることなどなにもない。
あきらかに、フエは私ではない。私はフエではなく、それぞれに獲得された固有の眼差しの中にすべてを見つめるしかないのだった。
フエは、泣きやんでなどいないのだろう。涙は、止まってはいないのだろう。ただ、涙は流されることを、フエに、いつか忘れられて仕舞ったにすぎないに違いない。そんな実感が、私の眼差しの中にはあった。みっつめの眼、確かに、そうなのかもしれない。現在、過去、未来すべての記憶を取り戻して仕舞えば、それは確かにみっつめの眼が、額にこじ開けられたに他ならないのかも知れない。
その、私を見つめ続ける、かすかな熱狂を曝したふたつの眼差しを、すでに持て余して仕舞っていた私が、フエの頬に口付けるのにフエは抗いはしない。もはや、そのまま受け止めるわけでもなく頬に、私の唇の触感をだけ感じてあの日の朝、私たちはミーを埋葬してやった。
夜の《盗賊たち》の、いつ果てるともなかった饗宴がいつか終って、その早朝に、彼らが街に火を放って歩いたそのばかばかしい騒ぎも落ち着いた午前九時に庭先には、だれにももはや忘れられたミーの血と泥に塗れた亡骸が、しずかに、なににも訴えかけることも、訴えるべきなにものをももはや持たずに、破壊された、空っぽの身体としてだけ自らをさらして、それを差すのはただ朝のあざやかな曇りみない光。救急車と消防の、あるいは警官たちの群れの、さらには焼け出された人々の悲痛な喚き声と罵り声が、数枚のコンクリート壁の向こう、町の隣のブロックに渦巻いて、その庭にまで聴こえていた。学校にも、会社にもすでに、今日は休むと伝えて仕舞ったあとだった。火事のことをすでに聴き知っていただれもが、それどころではないとむしろ私たちの身の上を案じた。私たちには、なんの被害もなかった。あるとすれば庭先に奪われた生命の亡骸が転がっているというだけで、その生命にしても、私たちに固有の生命でもなければ、私たちの所有でもなんでもなかった。結局は、なにも奪われはしなかったのだった。
あるいは、私とフエは、唐突に与えられたミーの死と言う事実、与えられたその死体に、戸惑うしかなかった。《盗賊たち》にしてもそうだったに違いない。彼らはミーを与えられ、終に自分たちのものにしたのだった。何も奪われはしなかった。なにも、だれも、町の人間たちにさえも、新たな悲惨が与えられていた。なにも、だれも、奪われはしなかった。叩き付けるようにして、私たちはみんな、それまで見たことも、体験したこともなかった風景を一気に、それぞれの眼差しのうちに与えられていた。死者は、ただ、その死に絶えたさまを無防備に曝していた。煙の名残りのいまだに匂う、焼け出された路上にさえも。…埋葬してあげましょう。
そう、フエの眼差しは言っていた。庭先に、目線を投げた後に、その背後にたたずんでいた私を振り向き見て、
…ね?
そうするしかなかった。警察に、ミーの亡骸を手渡してやる気にはなれなかった。バイクを飛ばして、クイ Quý の家にスコップを借りに行くのは私の仕事だった。なにかの適当な理由をつけるのは、フエの仕事だった。クイの父親たる在りし日の最期の数日を過ごしていたヴーに、フエは電話をした。庭の掃除でもするのよとでも言ったのだろうか。邪気もなく笑い声を立てながら。こんな大火事の日に。バイクにまたがった後、何の気なしにフエに手を降ってやると、フエは不意に声を立てて笑いながら、それがめったにないイベントであるかのように手を振って、投げキスをいくつか送ってよこすフエは、ただ、笑う。幸せをさえ、不意に、感じ取ってしまったかのように。そんなささいな一瞬の仕草さにさえも。…ね?
庭に出した数メートルの先に、
あなたが
仰向けに、傷だからけの素肌を曝した
好き
ミーの死体が、いまだに眼を見開き、口を「あ」のかたちに
ね?
こじ開けたままかたまって、日差しに
その目が
ふれる。速やかですばしこい蠅が、すでに
好き
たかり始めていた。
わたしを
町は匂う。生きたままの
見つめるあなたの
人間をさえ含めて、
その
さまざまなものを焼き尽くして仕舞った町は、
好き
焼け爛れて崩壊し、それら
わたしに
残骸の群れは、
そっと
廃墟とさえ言えない。生き生きとした、
口付ける
残骸であるそれらの
想わせぶりなあなたの
現在形を、
その
あざやかすぎるまでに
好き
曝けだし、
あなたを好きな
匂い立たせる。
わたしが
悲惨な
好き
風景、と言獲た。事実、町のその焼け堕ちた二百メートル四方のブロックだけが、そこでだけ熾烈な内戦かなにかでも起こったような、どうしようもなくすさんだ風景をだけ拡げていた。無数の焼死体が路上に曝された。救急車の類が数台群れ、警官がバイクを路上に駐車し、ほぼ通行止めの状態の中、交通規制もない。逃げ延びた人々が口々に手当たり次第の誰かにつめよって、なじり、ののしり、非議を訴え、讒訴し、いずれにせよ、まるで口を閉ざせば死んで仕舞うとでも言いたげに、言葉をおさめやまずに発し続けて、物見の人々は好き勝手に大量にあふれた。路上、車とバイクの狭間、焼け爛れた残骸の群れ。惑う負傷者。私は彼らをかいくぐってバイクを走らせ、その二十キロもない速度の中に、燃え落ちたあらゆるものたてた臭気が拡がっていたことに後れて気付く。路面に並べられた焼死体に、いく人かの人々は群がって歎きの声をあげ、喚き散らして、もはや収拾などつきようもない。警官が私を振り返り見て、ただ、忌々しげな眼差しを投げ棄てた。ミーが殺して仕舞ったタンThanhの母親、ハンHạnhが路上の真ん中に立ちつくして、口を半開きにしたまま呆然としていた。なにかの疾患を抱えた人間の知性をすらもはや、彼女の眼差しには感じられない。その片手に、幼児のための青いシャツが、煤と黒煙にうす穢れたままに握り締められていた。眼の前で、燃え上がる孫の姿を見たのかもしれない。コンクリートの家屋は、倒壊はしないままに真っ黒く染まった残骸としての姿だけを曝し、中に入った消防の人間が焼死体を運び出すたびに上げられた怒号が拡がる。駆け寄る人々が両手を振り回して、臭気。満ち溢れていたのは夥しい臭気の充満。ガソリンの残り香。そして、あるいは、焼けて仕舞った人体が立てる、為すすべもない臭気。馴れてはなんども、ふたたび臭気に気付く。吐き気がした。眼をそらしようもないないままに、通りを抜けると、人々の集団は一気に疎らになった。いまだに匂いは鼻を抜けない。
サイレンが鳴り、声の群れが無造作に飛び散ってかさなる。叫喚の風景。人の疎らになった通りでは、あたりさわりのない、どこあに緊張を曝した日常がそれなりに繰り広げられていた。カフェは店を開け、物見の群れから離れて来た近所の人間が集う。歎かわしげに言葉をかさねあい、ときに邪気もない笑い声さえもが立つ。ヴーの家は、すぐ近くだった。
角を曲がって、そして数百メートル直進した角の、主幹道路に面したヴーの家にまで行くと、もはや完全な日常がそこに拡がっていた。町の中の、あくまでも局所的な悲劇。その悲劇の息吹きはここにまでは襲って来ていない。法律家にして、町の名士たるクイは、これからまた忙しくなるのかも知れない。一つの集落が、焼け落ちて仕舞ったのだった。顔の半分を、カンボジア戦役で失って仕舞ったクイは、そのままその半分崩れた顔を曝したままに、一階に開いた氷屋兼野晒しカフェの軒先に座り、友人たちと話しこんでいた。いつもと違って、私には見向きもしない。赤いプラスティックの粗末なテーブルひとつを囲んで、クイをあわせた6人ばかりは顔をつきあわせて、深刻な顔をするわけでもなく何を話し込んでいるのかまでは私にはわからない。時には、あけすけに陽気な笑い声さえもが立った。シャッターを隅まで開けっ放した一階の奥にヴーが、同じプラスティックの椅子を出して座ってい、そして私に力なく微笑みかけて手を振った。想えば、すでに老いの果ての死の兆候が、だれに隠す気もなく兆されていたのかもしれなかった。そして、考えてみれば、それが、私が生前の彼を見た最期の姿だった。クイとダット Đạt の父親である彼は、驚くほどにその息子たちとは似ていない。大造りな顔を大きく曝して、見あげるほどの巨体をそのまま椅子いっぱいに投げ出していれば、白髪は灰色に、無造作に、その部分的な薄毛を見せ付けるだけだった。不意に乱暴に、振り上げた右手は、奥に行け、と、そう言っていたに違いない。
奥まったキッチンに、ヴァンがいて、その肥満した巨体をゆすりながら、裏庭を指す。声を立てて笑いながら私に何か言う。私にはその言葉など聴き取れはしない。気を使って、微笑みかける私をは、まともに見ようともしないままに彼女は、ひとりで昼食の準備に追われていた。ざるに投げこんだ香草を千切り、ほぐして下ごしらえをする。
キッチンから、周囲の隣の家屋の壁に迫られた裏庭に出た。ブーゲンビリアの樹木と、私の名前の知らない、花のない樹木がその葉を茂らせる。その翳りにいまや、ただの物置になった離れのあばら家があって、タオは、樹木の茂った枝の下に突っ立っていた。葉々の翳りの中に、日差しから身を隠すようにして。…その少女。十一歳の少女には、いまだ私に愛される手立てをなど持たない。ただただ乳臭さの抜けない無防備な幼さを曝しながら、マイ Mai が十七歳のときに、未婚のままに獲たその少女が、私をすでに愛している事は知っている。私に気付いて、振り向いて、すぐさまそらした眼差しが、容赦もなくそれを語る。…好き。憧れのようなもの。とはいえ、
あなたが
鮮明に、愛し焦がれているには違い、
好き。もはや
それ。隠しようもなく、そして
どんなときも
ふたたび彼女は傍らの、花のない
どんな場所でも、たとえ
樹木の先を見上げた。私は
ふたり
タオに
永遠に
微笑みかけてやりながら、私が
引き裂かれても
やがて
好き
殺して仕舞う少女。
タオは瞬きもしない。なぜか上方、樹木の先を見つめ続け、そこで世界が終って仕舞っているのだとでも言いたげな、ただひたすらに深刻な眼差しを曝していた。声をかけることさえ憚られ、終には、私は声を立てて笑った。かならずしも嘲笑ったわけではなく、少女が浮かべた眼差しはあきらかに、その年齢には深刻に過ぎた。深刻すぎて、自分が淫した深刻さをただ自分勝手にもてあそんでいるようにしか見えずに、私の笑い声に気付きながらもタオは無視して、褐色の肌は木漏れ日の中に曝された。その、粗末な白いタンクトップの先から。もともと、昏い、心憂い、想いつめたような眼差しをしている少女だった。いつでも、笑ったときにさえも、そして母親マイには髪型しか似てはいない。その、ベトナムに最も多い、そのまま伸ばされて後ろでひっ詰められた髪型しか。父親似なのかも知れず、マイは決して、その父親の名前をは語らない。家族のだれにも。家族たちはもはや、その眼差しにマイへの諦めに似た赦しを浮かべるしかすべはない。その沈黙に対しては。タオはかならずしも、それをもって家族の者たちからつまはじきにされているというわけではない。ただ、フエを除いては。好き嫌いはともかくも、とりあえずは誰に対しても心優しく接しはするフエはただ、タオに対してだけは容赦をしなかった。あからさまに、まるで誰にも公認の被差別人種を扱うようにして、穢らしげにあつかい、フエはその眼にふれる彼女のことごとくを非難した。たとえ、沈黙の眼差しにあってさえも。髪の毛の毛先の跳ね上がり方一つさえも、フエにとっては容赦もない批判と軽蔑の対象にほかならなかった。タオはフエを畏れ、いかなるときにも、その眼差しの先から逃げようとしていた。ヴーを筆頭に、クイの家族たちの中で、人徳者として公認されたフエは敬愛され、尊敬されこそしても批判されるべき対象ではなかったから、そのフエの撒き散らす理不尽は、為すすべもなく赦され理解されるしかないのだった。マイの沈黙と同じように。
やがて、私の立てた笑い声が、外の主幹道路のバイクの群れの騒音さえも届かない、内庭に寂たる大気の中に消え去って、ややあって、私が彼女から目線をそらそうとした瞬間に、タオは当然のように私を振り返った。私を見つめた。
ん?…と。
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