小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説③ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス 











《盗賊たち》のだれかが、スマホから、ハウス系のダンスミュージックにアレンジされた、この国の伝統歌謡を垂れ流していた。踊って見せた。彼らが焦がれていたものが、いま、彼らの手の内にあったのは事実だった。彼らはそれを破壊した。命ぜられたままに。私は気付いていた。彼らは、終に、最後に、その焦がれていたものに手をふれたのだった。ミーはもはや留保なく、彼らのものだった。彼らは、ミーを我が物にした歓喜につつまれ、わなないた歓呼に全身を装われているに違いなかった。たとえ彼らが沈黙する一瞬にあってさえも。それは間違いではなかった。彼らの罵るような嬌声と、適当に流され続ける音楽と、ときにささやかれる声すら、それら、無数の音響が連なって、単なる轟音の喜びあふれた塊りにしか過ぎなかった。聴き取られた私の耳の中では。

私に、何度目かに気付いた背の低い肥満しかけた男が、ブーゲンビリアの木陰に立って笑いながら、私に手を振った。…どう?

元気かい?

背後で、彼らの立てる夥しい物音の群れに眼を醒ましたフエは立ち尽くして、…知っていた。私たちは、ミーがそうなることなど。いくつも、なんども繰り返して見た夢の中で。その鮮明な兆しの中で。自分の死と、宿命をさえも。生まれ変わった後の世のあらましさえをも。すべて。フエも、知らないわけがなかった。私は。言葉を失ったままフエは、そして、彼女を振り向き見た私に言った。

…どうして?

もはやフエはただ

Tai sao ?

疲れ果てた表情をだけその

あなたはなぜ、

眼差しいっぱいに

You can smailin’

曝して。

笑ってるの?

私は自分の指先で、頬に張り付いている私の、なにかに駆られたような微笑をなぜた。私は微笑み続けていた。ときに、不意に失笑の音をさえ唇と鼻に漏らしながら。

元気かい?

フエの眼差しは、私をとがめだてさえせずに、いつか、

Khỏe không ?

悲しげな、なにをも喜んではいない微笑をこぼれさせて、

元気かい?

行って来なさいよ。…と。

ささやく。

「あなたも、彼らと遊んできなさいよ。」

彼女は。言葉もなく、その眼差しの気配のうちに。

私たちは見つめあい、言葉を失ったわけでもなく沈黙し、背後で、誰かが声を上げながら戯れに、わざと下手糞にしたダンスを踊り始めたのは知っている。

ほら、いま

その日、

楽しい

戸締りはしなかった。彼らに

この

任せた。私たちは

世界の、その

寝室に引き篭もり、私は

すべては

フエの体臭をかぐ。髪の毛の匂いを、…悲しい?

フエが、つぶやく。私の…ねぇ?

ね?

耳元に、

Anh

声を立てて。そして

buồn nhỉ ?

覆い被さった彼女の身体の、押し付けられる皮膚が曝す汗ばんだ触感を、肌がふれあった全面に感じ取って私は、花々。

見い出す。何度目かに。

私たちは、…花々。愛し合う。

花。…ブーゲンビリア。

フエが私の指先をくわえ込み、それは、

咲き乱れる花々。

見えますか?

私が彼女の頬をなぜようとして差し出した左の人差し指。

匂い立つ花の色、その

瞬く。

色彩が

撒き散らされた花々が停滞していた。空間の中に。はるか向こうにまでも、どこまでも、ただひたすらに無際限に。もはや限度などありはしないと宣告し、冷酷に言い放ったような花々の拡がり。無造作な、その、もはや海のような花々の群れの拡がりに、浮んだひとりの少女が指先を伸ばした。

上の方に。

仰向けにその身を浮かべた花々の上、見上げられたそこにはなにもありはしないというのに。見あげれば、どこまでも拡がり、どこまでも延びていく空間の無窮だけが、その眼差しのうちに曝されていることなど、私はすでに知っていた。

見たこともない少女が天を指差す。…彼女は、美しいのだろう?果てもない無窮の延長。…美しい?存在の限界に、終には…きみは。ふれ獲ない永遠の拡がり。…ねぇ。

と、私が微笑みながら、話しかけて仕舞いそうになるのはなぜだろう?その少女と、終に出会ったあとで、私は彼女を穢して、破壊し、殺して仕舞うというのに。異常な、気圧配置の下で、降り止まない熱帯の雪の日に。なぜ、彼女は私を見つめようともせずに、なにも見えはしない上方にだけ、その眼差しを棄てて仕舞うのだろう。…ここだよ。

と。

ほら

僕は、と。想う。

咲いています

ここにいるよ。

花が

そんな必要は

ここにも

ない。ささやきかける必要など。彼女に。花々に素肌を曝した少女はすでに知っていた。私の存在も、何もかも。いまだに、その眼差しに私が彼女に曝した姿を見い出しもしないままに。つぶやく。…悲しい?

Anh

声を立てて。そして

buồn nhỉ ?

フエは私の耳元に唇をつけて、そして、舌はふれて、やがて、歯が軽く咬んでみせれば、聴こえた。フエが、私の耳元に不意に立てて仕舞った短い笑い声の、その吐息を吹きかけてすぐに羞じた音。息遣い。音になる以前の、かすかな気配。感じられていたフエの体内の、心細い触感に、私のそれはもはや何の興味を感じたわけでもなく、惰性としての硬さだけを獲得していた。フエを抱きながら、私は彼女を想う。ブーゲンビリアの樹木に凭れて、《盗賊たち》の饗宴を見つめ続けていたあの女、ミーの女だった色づいた、豊満な女は、その露出のきつい悪趣味なポルノ・ダンサーのそれようなドレスに身をつつんだまま、その眼差しのなかに何を見ていたのだろう。

眼の前で、崩壊させられていく自分の愛した…愛する…て、いる男の姿に。あるいは、条件はそのほかの《盗賊たち》と同じだったには違いない。彼らだって、みんなミーを愛していたのだから。呆然として立ちつくした私の存在に最初に気付いたのはその女だった。なにかに耳元で呼ばれたかのように、不意に顔を上げて、自然、見あげられた眼差しに、彼女は立ちつくした私を捉えて、私が想わず噴き出して笑って仕舞ったのをさえ見ていたに違いなかった。その表情を派手な笑顔に崩しながら、彼女は煽っていた。無言のうちに、人々、周囲に散らばる高揚した《盗賊たち》、あるいは、高揚してもはや単なるひとつのでたらめな塊りにさえなった気配の、ただただ部厚いだけの束なり、その発熱そのもを。…もっと。

と、もっと。…と。

もっとしなさい、と。

ね?

女が屈託もなく笑い声を立て、その眼差しに邪気はない。もっと。そう…ほら。

もっと。激しい苦痛をもっとあげなさいよ。そいつに。もっと。凄惨な痛み、もっと、残酷な破壊、もっと。そして、もっと、なんども殺してあげなさい。なんども、もっと。なんども、気が遠くなるほどに、もっと、なんども。

…いい?

なんども

ね、

繰り返し

…もっとよ。

私を見い出した彼女の眼差しが、…でしょ?つぶやく。その、鮮明な気配として。…じゃない?彼女は、そのとき繰り広げられている饗宴のさなかに、彼女のミーへの愛が終に完成したことに目舞いさえしたに違いない。ミーの崩壊は、とりもなおさず彼女たちの愛の時間の終焉で、つまりは終に完成して仕舞ったのだった。ふたりの愛し合った事実そのもの、その固有の経験そのものが。樹木にもたれたまま、突っ立って、無意味に息を切らせさえしながら、彼女の眼差しには明らかな高揚と、醒めた嘲笑とがあった。だれもが笑っていた。好き放題に声を立てて。嘲笑ってやるしかなかった。何を?

ミーを?

ほら

それをも含めて。その

花が咲く

眼差しが捉え、皮膚が感じ取り、

ぼくたちが

耳にふれるものの、それら

愛した、その

ことごくのすべてに。

花が

たとえ沈黙していてさえも捲き起こる哄笑の無際限な連なりが、ずっと、耳に木魂し続けている気がした。…おもしろい?

Vui không ?

背後に言ったフエの声を、私は振り向きはしなかった。その、不意に漏らした失笑にすぎない声に、私は彼女の終に微笑んで仕舞った顔を見たいとは想わなかった。もはや殺されていくミーは悲鳴さえ立て獲ない。

寝室にはいると、フエは眼を醒ましていた。なにも見出そうとはせずに、起きようとも、もう一度眠りつこうともせずに、ただ開かれているだけの眼差しは、私を見つめ返そうとしもしない。

言葉をかけようとして、

ねぇ

なにもかけるべき言葉を想いつかずに、私は

なにが

その傍らに座り、フエの額を

見えますか?

なぜた。…服を着て。

フエは

わたしは

言った。想い出したように。そして、

あなたを

私の指先が

見ています

額にふれることこそが目醒めのときの合図だったかのように、フエは身を起こすと、ハンガーを掻き分けて、私の白いワイシャツを探し出し、どこまでも褐色の素肌を曝した自分の体にあてて微笑む。…ほら。

Ông Vũ

今日はおじいさんに会いに行かなくちゃね。

chết

老人の死に顔を

rồi

確認しに。フエの褐色の肌に、寄り添うように朝のやさしい日が差して、季節は日本で言えば春の終わり。五月の初頭。ダナン市は亜熱帯の町だから、温帯のような四季はない。春もなければ秋もなく、長い夏と、テトと呼ばれる旧正月、太陰暦の元旦を迎えるまでの三ヶ月ばかり、一日中雨がこの地方に降り注ぐ。台風の雨をも含め。基本的には弱々しい雨が一日中降り、時には南部のスコールに近い土砂降りが降り注ぐ。この地に届く台風は、はるか沖合いのフィリピンですでに消耗したあとなので、日本のそれに比べれば、いちじるしい発育不足を曝した幼児程度のものか、老いさらばえた残骸状態のものであるかにすぎない。

そして、雨季の間、気温は冷え込む。とは言え、観光地たるここでは、外国人旅行者たちは相変わらずのリゾート・ファッションを曝すので、そのタンクトップやキャミソールは、明らかに異常なものとして現地の人々の眼には映った。熱帯のようにはっきりと雨期と乾期に分かたれているわけでもなく、四季さえもないこのあたりの五月を、いったい、どう呼べばいいのだろう。亜熱帯とは、たしかに、熱帯と温帯とのグラデーションが刻むしかなかった、言葉にしづらい過渡のなにかなのかも知れなかった。

シャワールームにそのまま消えていくフエの、やわらかい翳を添わした背中を見守った。もはや、悲しみなどすこしのそぶりにさえ見せなかった。昨日の夜、泣き顔さえつくらずに、泣き声さえあげないままに、涙をただあふれ流させているフエを見かねて、私が終に彼女を抱きしめたときに、フエはそれには抗いもしない代わりに、縋りさえもしないで、ただ、そのまま泣き続けて、ソファの上、私に抱きかかえられながら、やがて、彼女は想い出したように言った。…ねぇ。

「知ってる?」

Do you

何を?

know

「仏陀になると、どうなると想う?」

the third eye

身を捩って、フエは

of the

不意に私を見上げて見つめたのだが、

Buddha

…知ってる?

見えますか?

その眼差しはいつか涙を流すことさえ忘れていた。

ぼくの

「三つ眼の眼が開くのよ。」

こころ

…ほら。

あなたを愛した

「ここに。」

ぼくの

言って、自分の額を指さしたとき、

こころ

フエの眼差しは明らかな恍惚と、隠しようもない恐怖とを曝していた。…宗教。たしかに、宗教としての、ためらいもなく容赦もなく留保もない恐れと憧れが、その眼差しにはあからさまに匂った。私は眼をそむけることもできずにフエを見つめてやり、微笑む。私は、そしてそれしか、私にできることなどなにもない。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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