小説《ザグレウスは憩う》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ザグレウス…世界の果ての恋愛小説②ブログ版







ザグレウスは憩う

…散文




《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。

Prelude in A minor, 1913, Joseph-Maurice Ravel




《in the sea of the pluto》連作:Ⅰ

Ζαγρεύς

ザグレウス











日本語学校の授業が終って、家に帰ったとき、フエはもう会社から帰っていた。夜の九時半すぎ、開け放たれたままのシャッターをくぐると、ふたつめの居間で洗濯機を回していて、目が合った瞬間に、

なに?

言った。…死んだわ。

誰が?

私の

おじいさん。

心は

私を見つめる彼女の眼差しに、

つぶやいた

あきらかに戸惑いがあった。一瞬呆気に取られて、そしてすぐさまそれを羞じた、…と。

そんな。…知っていたくせに。…と。もうすでに。その、彼がいつ死ぬのかなど。そんなこと、と、私は、彼がどうやって死ぬのか、知っていたくせに。その意識が、…すでに、と。かろうじて捉えた最期の風景さえも。…と、私は、もう、…と、知っているくせに、と、彼女をあえて、なじる気にさえもならないで私は、つぶやく。

見えますか?

「おじいさん?」

この

…だれ?

世界のすべて

ヴーさんよ。…わたしの、だいすきな…

見ましたか?

そのとき、

もう、その

私が何と言ったのか

眼差しで

わからない。あー…、と、そんな

Aaa......aa......a......

音。同意したのか、何なのか。なにを意味したのか、自分でも分からない音声を、私の喉は立てていて、…ね?

Anh…

わたし

em

悲しいの

buồn

…ね?雪。

Tuyết

…想い出していた。

Snow

不意に、私は

Tuyết sẽ rơi

想い出していたのだった。私が

Fall

見い出す私の

Snow

最期の風景。雪が

Will

降りしきる海を

Snow

見るのだった。私は

Falled

すでに、鮮明に

Will

記憶していた。数年後の、世界の崩壊したあとの異常気象の3月に、ベトナム、ダナン市、この熱帯の町を不意に襲った寒波。…知っていた。在り得ない雪が降った日に、もうこれで、と、人々は想っていさえいたかもしれなかった。世界は壊れちゃったな。

…もう。

こんなところに

もう

雪が降るなんて。

すべて

異常な、在り獲ない

終っちゃったな

寒波。とはいえ、

すでに

氷河期をさえ

いつか

かつて

もう

経験したこの数億年の土壌の中では、なにも決して在り獲もしないことなどでは在り獲なかった。ほんのちいさな事故だったに違いない。ほんの数万年地表にしがみついたにすぎない人間たちにとっては残酷な、最後の脅威に外ならかなかったに違いなくとも。私を追った彼らから逃げ出して、ミーケー・ビーチにまでやっと辿り着いた私は、その、もはやこれ以上は逃げようもない海岸線をしばらく彷徨って、やがては倒れこむしかなかった。高熱が、もはや私の自由を奪った。私は留保なき犯罪者だった。あの少女を殺して仕舞ったのだから。あるいは、世界をさえも。人々は、決して私を許しはしないはずだった。いつか巣食った新手の出血熱さえも、もはや私の身体を破壊することにだけ、その営みの、自分にもたらされた時間のすべてを費やしていた。宿り主が死んで仕舞えば、それら小さな生命体など、為すすべもなく雪の中に自壊していくしかないというのに。

なぜ、だれもが、そしてなにもかにもが私を殺そうとしているのだろう?雪は昨日の朝から降り止まなかった。体中が冷えていた。寒さによるふるえなのか、出血熱の発熱によるふるえなのか、もはや私には判断さえ出来なかった。不意に、想った。…見ろよ。

フエに。

Nhình đi

傍らには、もはやいないフエに。…見なよ。

Tuyết

これが雪だよ。

rơi

翳る。

見たがってたろ?

đây

眼差しのわずかな先に。

Tuyết

これが、…

em

その少女。

muốn

雪だよ。

nhình

色彩をなくした少女の残骸が。あった。そのとき、私の眼差しの中に。雪が覆った砂浜に横たわった、疲れ果てた私に覆い被さるように、その身体を左側に奇妙にゆがめて、捩るように、そして、彼女によって流されるもの。左側に、水平に、どこまでもながされていく彼女の血。

タオthảo、彼女は確かに、美しかった。私が殺して仕舞った少女。空は白かった。さまざまなありようのうちに白濁して、いくつもかさなりあった雲の群れがたがいにときに雪崩れさえおこしてその崩壊を曝しながら、あざやかに、そして上空に存在したいくつもの気流の層が無造作に、それら層を成す雲のそれぞれに固有の速度を与えて、自らの速度のままに、動き、ゆがみ、崩れ、結ばれ、流れ、掻き消え、色彩。

眼差しを染めた白いというほかにすべのない色彩の中に、目醒めた翳りの色彩の喪失と、相反した鮮血のあざやかさに眼さえも眩んだ気がした。…悲しい。

Em buồn

フエは言った。

Anh...

…ねぇ。

Tai sao em

どうして?

buồn ?

わたし、どうして

Tai sao ?

悲しいの?…と、「悲しいです。」…と。言った

かなしじぇっ

フエの眼差しはむしろ、悲しげないかなる色彩をさえ帯びることなく私を見つめていた。媚を含んで微笑まれたかのように。その祖父の死を私に告げた瞬間に。彼女は、あまりにも悲しいのだった。私の眼差しが彼女の眼差しにふれていた。その黒眼は、かすかにふるえ続けていた。過剰な潤み、涙に近い、そんな潤みなど一切うかべさえせずに、それでもフエは泣いているのだろうか、と、私は想った。不意に。間歇的な、ときに想い出したように顕れた黒眼のふるえ。私はまばたき、私の眼差しは彼女を慰める。私が彼女を慰めている事は、彼女だって知っている。…ね?

と、ただ、そんな、意味を結ばない音声の断片が、その眼差しに浮んでいた。

…ね。

そのとき、

でしょ?

雪が降る朝の、タオ。私に首を絞められながら。その最期のときに。

葉を、理沙を、彼女たちをさえ殺しはしなかったのに。いかに感情がもつれようとも。あるいは、理沙はいっそのこと殺されてしまうことさえ願っていたかも知れなかったにもかかわらず、なぜ、君を

…ねぇ

殺して仕舞うのだろう、と、

空が

むしろおびえていた私を

晴れています

慰めていたに違いなかった。タオは。その

今日も

眼差しに

こんなにも

浮んだだけの色彩で。…ね?

あざやかに

フエが瞬く。その瞬間に、潤った気配さえも曝していなかったまぶたから、一気に涙は零れ堕ちた。想い残すことなくもはや、滂沱の涙、と、そう呼んでやるべき容赦もない大量の涙が。その温度さえも、それは私の眼差しの中に感じさせて、慰める。私は、眼をそらせもしない眼差しのうちに、そして、私はかけてやるべき言葉を探そうとはするものの、見つかりはしないことなどすでに知っている。

寝室のドアを開けると、右手のほう、ふたつめの居間のほうから漏れ込んだ朝の光が差し込んで、薄い明るさの中に空間はおぼろげに、その形態を曝していた。朝の光。違和感があった。フエは未だに寝ていて、私が起きたばかりなのなら、空間は暗くてあるべきだった。シャッターを開けるものなど、私とフエ以外にはだれもいないはずなのだから。居間のシャッターを開けたものは誰なのか。息を忍ばせるほどでもない。

そのまま居間の方に行くと、なんの気もなくソファに座り込んでいた彼は、自分の部屋から引っ張り出してきたスーツを着こんで、履きなれないソックスに足を通していた。アンAnh、と、後れてその名を想い出した私に、彼は一度だけ視線を投げてみせ、かすかに微笑み、なにか、ベトナム語で言った。私には聴き取れもせず、彼が何を言ったかは分かっている。服くらい着ろよ、と、そう言ったに違いなかった。私はいつものように、素肌を曝したままだった。

アン、…妹も母も父も亡くしたフエの、たったひとりの弟。彼はそのままにこりともせずに、ひとりで身支度を調えて、葬儀。確かに。フエと私も、これからあの老人のところに行かなければならないのだった。むしろ、時間は遅れていた。どうせ、フエの身支度は手間取るのだから。

私は自分の体を隠すこともなく立ったまま、アンの身支度を見遣り、アンはコロンを振りかければすぐに、シャッターを出て行く。その瞬間に、振り向いて、私に屈託もなく微笑み、一度だけ手を振った。表に止めていたバイクが噴かされて、アンは一足さきに祖父ヴーの許に行く。姉が連れ込んだ、素っ裸で自分の家のなかを好き勝手にぶらついている外国人のふしだらさを、アンがどう想ったかは知らない。私はひとりで鼻に、声を立てて笑った。


シャワーを浴びた後で、そのまま正面の木戸を引き開ける。晴れていた。雲さえない晴れた色彩の停滞する中に、風が作った翳のゆらぎだけが地面に揺らぐ。上方の風にふれたココナッツの葉の。

ゆらめく淡い翳り。

ブーゲンビリアは、咲き乱れていることしか知らない。

咲いていた。その樹木の下に埋められたミーの死んだ肉体を、あるいは養分のひとつとしてでも吸い上げながら?あるいは、一週間前の彼女の新鮮なそれが、自然の無数の生命体によって、そこまで解体されているものなのかどうか、私にはわからない。

せめてこんな日にでも、弔ってやることくらい、必要だった気がした。

どうやって?

想った。弔うとはいったい、なんなのか。むらさき色に近いあざやかな紅彩の、濃い咲き乱れた色彩の花々の下、その土の中で、身体が腐り堕ちようとも解体されようともなにをしようとも、もはやそれは単なる肉体の残骸に過ぎない。たんぱく質の集合体。魂は…それら、無際限に転生を繰り返すそれらはすでに不在だった。何を弔えばいいのだろう?仮に転生などなにもなく、ただ滅びるにすぎなかったとしても。あるいは神の許、天国に召されたとしても、因果の果てに地獄に堕ちたとしても、煉獄に留まって、ただ最期の審判の裁きのときを待っていたとしても。それでなければ仏の世界のどこかで、蓮の花の上に目醒めていたとしても、いわゆる霊体になって地上に留まり、暗い恨みの醒めやらない持続のなかに、その存在を焼かれながらたたずんでひたすらに、だれかを呪い憎しんでいたとしても、いずれにしてもなんにしても、魂、それがすでに、もはや、あの在りし日のミーと同一では在り獲ない変化を経験して、その差異においてしかもはや在り獲ないならば、だれも、あのミーを弔うことなどできはしないはずだった。いかにしても。不在のものを不在のもののために弔うことなどできない。なぜ、私たちは死者を弔うのか。その死者自身に対しては、弔いなど一切無効な、単なる弔うものの自己満足に他ならないなど、誰の目にも明らかであるにもかかわらず。人々は、なぜ、墓標を地に穿ち続けなければならないのか。無数に、死んだものの頭数の分だけ。その下の留保なき不在など、いかにしても論理的に当たり前であるにほかならないにもかかわらず。

私の未だに水滴を含んだままの素肌が、庭のかすかな風に、至近距離に吹きかけらたような涼気を感じていた。あの日、町の住人たちに買収された《盗賊たち》は、ミーをかわるがわるに強姦して、その肉体を殴打し、破壊したあとで、想うがままに、そして彼らは自分が痛めつけているミーがすでに死んで仕舞ったことにさえなかなか気付かないまま、その、もはやパーティの惰性に過ぎない暴力を加え続けてさえいた。いつ、ミーが事切れたのか、それを眼差しの元に見つめ続けていた私さえ、鮮明には気付きはしなかった。いつか、私の眼差しはすでに彼が、あるいは彼女が、すでにこの世には生存していないことに気付いていた。もはや、ぴくりとも、意識をもっては、あるいは意志のかすかな残存をでも曝しては、動こうとはしない単なる筋肉痙攣を激しく繰り返すだけのミーの四肢に。上に乗った男のひとりに、なぶられるがままに、その壊れて仕舞った体躯を揺らして、剃りあげられたミー髪の毛。まるで、何かの刑罰に処された徒刑囚の末路が曝されていたようにさえ、そして私の眼差しはミーの亡骸を見つめていた。

《盗賊たち》のだれかが、スマホから、ハウス系のダンスミュージックにアレンジされた、この国の伝統歌謡を垂れ流していた。踊って見せた。彼らが焦がれていたものが、いま、彼らの手の内にあったのは事実だった。彼らはそれを破壊した。命ぜられたままに。私は気付いていた。彼らは、終に、最後に、その焦がれていたものに手をふれたのだった。ミーはもはや留保なく、彼らのものだった。彼らは、ミーを我が物にした歓喜につつまれ、わなないた歓呼に全身を装われているに違いなかった。たとえ彼らが沈黙する一瞬にあってさえも。それは間違いではなかった。彼らの罵るような嬌声と、適当に流され続ける音楽と、ときにささやかれる声すら、それら、無数の音響が連なって、単なる轟音の喜びあふれた塊りにしか過ぎなかった。聴き取られた私の耳の中では。

私に、何度目かに気付いた背の低い肥満しかけた男が、ブーゲンビリアの木陰に立って笑いながら、私に手を振った。…どう?

元気かい?









Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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