《浜松中納言物語》⑫ 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃三









浜松中納言物語









平安時代の夢と転生の物語

原文、および、現代語訳 ⑫









巻乃三









平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。

三島由紀夫《豊饒の海》の原案。

現代語訳。









《現代語訳》

現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、行かえ等はほぼない。

原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。





濱松中納言物語

巻之三


十二、御君、行く末に想い遣られること、佛供養のこと。


尼の姫君も、我が身はこうして、あるがままに過ぎ去っていくのでしょう、なんということもないことですよ。

人も必ずそう想うことでしょうとおっしゃっていらっしゃれば、いかなる出来事の出来にも、御方の動じる気配などもはやあらせられなく想われるのだが、中納言の御君は、實にまたこうして、浅からず人に見知られるふしぶしのあるなかにおすごしになられれば、またなにごとかの御心煩いごとの出で来ることもあらせられように、もとよりその娘の君の、尼の姫君のお生まれお育ちになられられたご出生にはお劣りしていらっしゃるのを、尼の姫君はいつかはしたなく覚え、人々も並ばせられていらっしゃられるのを心苦しく見い出して、終には御身互いにも歎かわしくお感ぜられなさることもあろう。

かくてのちにはすでに手のほどこしようもなくなって、であればそうはならぬその先に、のどかなる住まいにかけ離れていらっしゃることことこそ終の心安い始末のつけ方であろうか。

とてもかくても我が心にはどうしたものかという思案のほどもあるにはあらせられるけれども、尼の姫君をふさわしい佛門に遠ざけさせていただいて、大将殿の御父君に、ふたたびその御胸塞がる心地して想われることも罪深く、いずれにしてもかの親に、よからぬことを想わせ、案じさせ、惑わせるのは如何なものかとお想いになられながら、尼の姫君の打ち解けられて、そうおっしゃられるついでにでも、そのような分け隔てをほのめかしてみれば、その御心憂く想われておいでであらせられるご様子を御君はお伺いさせていただかれるのだった。

ならば、当座はこう忍んで御覧じさせていただくしかあるまいと想われられる。

思案の憂いの、よしこの世に顕れたならば、それはそれ、受け入るしかあるまいと、御心にものしずかにお誓いになられられる、御君、いずれにせよ、事の次第の流れるように流れ、なるようになるしかあるまいが、稚児の姫君は、大将殿においてさえも、世に例もなくかなしきものに想われられていらっしゃられて、だれにも片時もご拝見させていただかなくてはあらせられないがほどのご寵愛いただいておられれば、その行く末に案じるところはない。

中納言の御君のおかけになられる御想いも世の常のものではあらせられない。

尼の姫君の、我が身はともかくどうでもよい、人聞きのことなど棄ておいていらっしゃいませなとおっしゃられるのも、こうも裏もないうららかなまでの日の暮らしは、おのづから自然に乱れるべきことらも、もはや顕れる前に立ち消えてしまったものかと佛を念じられて、尼の姫君、浄土来迎を祈念なさられるのも限りなくあわれであらせられる。

釣殿に御堂おつくり終っていらっしゃれば、佛みなお遷しさせていただかれて、蓮の花盛りに御供養させていただかれ、尼の姫君の、これより御八講行わせていただこうかという御心もおうけられなさって、その様、世の常ならず。

塔の作られたるさま、佛の御飾り、この世のものとは終に覚えられず、目も及ばずに、目舞うがばかりの荘厳であった。

心をこめて御供養差し上げさせていただく日の暁に、御堂にお渡りになられなさって、御局を見渡されられて、大将殿の上、式部卿の宮の上などおわたりなさられるに、おのおののいらっしゃられる御所、さまざまに愛でたくもおしつらえて差し上げられる。底までも清く澄まされた池のおもて、緑もふかく霞みわたったところに、蓮の花のいろいろに開け渡ったあたり、誠に極楽の八功徳、血の池もこうとこそあるのだろうかと想い遣られなさられて、すずしやかに心も澄まされれば、御主の中納言の御君の御かたち有様、まさに気高く愛敬もこぼれるばかりにあらせられて、あたりの隅々にまで匂いわたる心地さえするが、尼の姫君の、親しくもお手ずから、御心をお込められなさって、経佛のかざり、世の常にもなかるまいと想われるほどに営まれていらっしゃられる御さま、尊き御后の位など、まこと、この御方にはなにほどのものであらせられようか。

中納言の御君もこうしてその御姿のあまりの尊さに、感に堪えずばかり想われておいでであらせられたが、御方を限りもなく愛でたくお想い申し上げさせていただかれるのを、大将の御父君も過ぎたかつての恨みももはや残りなく、あわれに涙ぐましく、かつては御君の、我を歯牙にもかけられずにあらせられたことを、あるまじき事としてお恨み差し上げて、その御母上の御許にはあらせられながらも、我が身に逢い向われることさえもなくて、どうしたことであろうかと口惜しく想われたことも多かったのを、いざ唐土からお還りになられられてのちには、これらのかつての御事どもをいかがお想いであらせられるかと心に憂くお想い差し上げていたものの、我をもかたじけなきものとお想い畏まっていただいて、心良くお打ち解けいただいたことなども、あわれにも嬉しく感ぜられさせていただいているところに、娘の君、いまや尼になられた御方の、御すがた変わり果てられたことさえも、うち忍び、ときどきのお通いいただかれているらしい有様、もはや片身に想いつめられて、尼になどなってしまわれた御心のわがままであらせられたろうかとの気さえなさられる。

在り難くその御心さえ、世の常の人にはいささかも似通っていらっしゃられないまことに稀なる御方よと御心深くお想いしのばれられるままに、此の頃の日々のあわれさに、美しさも限りもなくて、御みずからが御子らにも勝ってこよなくも愛しあげ差し上げていらっしゃられる。

母上も、大将の夫の君の、御君の我をお受け入れになさられぬとの御物言いの、恨めしきその御気配を心に侘びてお苦しかがられた御事、またはご婚姻のふさわしからぬと無言のうちにご非難いただいていたような御気配、恥ずかしく侘しく御想いわずらわれていらっしゃられたものを、今はみなひとつに御想いお打ち解けになられられていらっしゃられるのを、うれしきことにのにお感ぜられなさられていらっしゃる御気色、あわれに限りもなくて、御八講の折、上達部、殿上人など日々にご参拝させていただいた。





《原文》

下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。

なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。





濱松中納言物語

巻之三


姫君も、我が身はかくて過ぐる、いと便なくあるまじきことなりかし。人も必ずさぞ聞き思ふらむとのみ仰せば、いかならむさまもわれくるしう心動くべうも思さねど、實にまたかうて、浅からず見しらるゝふしぶしあり過すに、さるべきやんごとなきよるべの出で来なば、素より我が住み離れたらましには劣りて、はしたなく覚え、人々もならび苦しう、歎かしう思されぬべき事ぞかし。かくてのみは人のおはすべき事にもあらず、さらぬさきに、長閑ならむ住居にかけ離れなむこそ、つひの心安き事なれ。とてもかくても我が心にはいさゝかいかにぞや、思ふべきふしならねども、唯大将殿の、又あいなう胸塞がりて思さむも罪深く、さのみおやによからぬものを思はせ、聞えさせすべき事かと思すも、かう宣ふつひでにも、さやうにほのめかし給ふも、いみじう心憂き御心なり。かく忍びてや、ともかくも御覧ぜられむ。うちあらはれてはよし見給へよと、すゞろに恐ろしげにのみ誓ひ給ふを、せめて疑ひそむくもうたてあれば、いかになりともあるに任せてあるべきにこそはあめれ、児姫君は、大将殿のうへも、世になくかなしきものに、片時も見給はではえあらず覚えたれば、いと後やすし。中納言の思ひも、露おろかなるべきにあらず。我が身はいかで、人ぎきもをこがまし。いみじう思ひますといふとも、かううらなきなからひは、おのづから乱るゝふしの、出で来ぬさきになくなりてしがなと、佛を念じて、迎へとり給へとおぼさるゝにつけても、いと哀れなり。釣殿(つりどの)に御堂作りはてたれば、佛皆遷し奉り給ひて、蓮(はちす)の花ざかりに供養ありて、これより八講行はせ奉り給ふ御心まうけ、尋常ならず。塔の作られたるさま、佛の御かざり、この世のものとも覚えず、目も及ばず。いみじう供養せらるゝ日の暁に、御堂に渡らせ給ひて、御局広うして、大将殿のうへ、式部卿の宮のうへなど渡り給ひたるに、おのおのおはします所、さまざまめでたくしつらはれたり。そこ清く払ひ流されたる池のおもて、緑深う霞み渡りたるに、蓮の花のいろいろ開けわたるほど、誠に極楽の八功徳、血の池もかうこそあらめとおもひやられて、すゞしくいみじきに、あるじの中納言の御容貌有様あてに、気高う愛敬(あいぎやう)こぼれるばかりに、あたりまで匂う心地して、おりたちいみじう心に入れて、経佛のかざり、尋常なるまじう思しいとなみたるさま、いみじからむ后の位も何にかはせむ。この人もかく用ゐられ思はれ給へるが、限りなうめでたう覚ゆるを、大将も過ぎにしかたの恨みも残なう、あはれに涙ぐましう、いにしへは我をばかけず、あるまじき事に思して、母上の御許にもおはしながら、あひむかふ事をさをさなくて、などかくと、うらめしう覚ゆるをり多かりしを、唐土よりかへり給ひて後は、この事をいかに思ひけむと、いとほしうおぼし知るまゝに、我をもかたじけなきものに思ひかしこまり、心やううちとけて思ひむつび給ふなど、あはれに嬉しきを、さまことに、かくなり給へりとても、うち忍び、時々のかよひばかりこそありとも、いとかうわくるかたなう思ひあつかはぬ人の身こそはあらましか。ありがたう心さへ、人に似ぬところの物し給ひけるよと、深う思ひ忍び給ふまゝにかたかたのあはれに、美しさも限りもなく、我が御子どもよりも、こよなう思ひまさり給ふ。母上も、大将の我をうけ給はぬと、言ひ恨みたまひしも苦しく、又ふさはしからぬ事に思ひすみ給へりしけしきも、恥ずかしう侘しかりしを、今は皆一つにおぼしとけにけるを、嬉しう思ふ事なうおぼえたる御けしきも、あはれにいみじく、御八講のほど、上達部殿上人など、日々におはします。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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