小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説30ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
事務室のドアを開けた。店の薄暗い通路、そこに、女が立っていた。明らかに風俗嬢の営業用の、短くすけるキャミソールだけ身に着けて、一瞬、私たちにいじましい作った微笑をくれ、あわてて隣の控え室に入っていけば、その中にほんの数人の嬌声が立った。売れ残っていた女たちは手当たり次第にざわめく。事務室の中の様子を、代表してその女が伺っていたに違いなかった。低い、ほんの微弱音のBGMが、そこ、ファンション・ヘルスの薄暗い通路の中には流れたままだった。いまだに、人が死んだことなどだれも知らない。通常営業はつづき、客がその閉じられたドアの向こうに、お楽しみの最中なのに違いなかった。…銃声。
たしかに鳴り響いた四発もの銃声が、広くはない店内の至近距離に、仕切られているとは言え聴こえないわけはなかった。日常空間の中で、聴こえるはずもない銃声を、聴こえたはずもない音として、彼らは当然に処理して仕舞ったとしか想えなかった。彼らはそれをはっきりと聴いたにもかかわらず。
…あれ?
あるいは、
銃声?
そんな嬌声をさえあげて見せながら、そしてまさか
いま、バーンって。
ありえないその音響を、ありえないものとして当然に
死んだ?
処理されて仕舞えば、もはや後に残るものは
…だれか。
なにもなかった。あるいは、だれも死ななかった。すくなくとも、いまは。この空間の中では。いまだ、私たち以外のだれにも確認されていないのならば。静華は鮮明な意識のままで呆然としていた。そうとしか言獲なかった。零一を、慶輔が静華のからだの上からどかしてやったとき、「…やばいな、」…死んだの?そう静華は言い、「これ、…」瞬き、「さすがにやばいよ。」慶輔は言ったのだった。吹き飛んだ、かつて後頭部があった辺りの、その欠損した残骸さえものこさない単なる空虚に。
「死んだよ。」言った慶輔の声を、静華は聴いた。一瞬慶輔を、それがだれであるのか想い出そうと努力したことの明らかな眼差しに、それでもけなげに見つめ返してやりながら、静華は息を飲んだ。「…まじだ。」
ささやく。
早口に。
「まじ。」
言って、差し出された慶輔の手に縋ることなく静華が自分で立つのを、ハオは見つめた。「穢れちゃったね。」つぶやく。
…匂う。
静華の声。
「なんか、すごーい、…」ね、すごーい、…
聴く。
「匂うの。」
慶輔は鼻にかかった、かすかな笑い声を漏らした。…シャワー浴びろよ。言った。「うちに、帰って…」眼差しに、その額から頬をまでいっぱいに、他人の血に穢させた静華を捉えながら、そして、静華の指先が、自分の額をなぜた。
他人の血と肉片にふれながら。
「…やばい。」つぶやく。
ハオは、自分のハンカチを静華に投げた。静華はただ曝しているだけだった。そこに存在する静華の身体それ自体を。その眼差しに、意識はもはや完全に冴えていた。澄んで、そして、呆然としたままに、目に映るものなどなにもないがばかりに、彼女の意識は白濁していたに違いなかった。
すれ違う従業員は、私たちに眼を合わせない。ただ、私たちが立ち去るのをだけ彼らは待っている。私は彼らの要求に従う。何も言わない。さようならさえも。客用の控え室で、めがねを掛けた端整な客の男とすれ違った。およそ、風俗と聴いてイメージするような、そんなふうではなかった。大学の若い理数系の準教授か何かのようにさえ見えた。
かすかな整髪料の匂いがした。
死んでいくものたち。…光。
救済の光。
氾濫するしかない光の、…
それら。
氾濫。
死んでいくしかないものたち。
かれら。
私たちが殺して仕舞うものたち。こともなげに、立ち止まったハオが振り返って従業員に言った。それは片山ゆずりの、いかにもやんちゃそうな中年の男だった。「客、何人いるの。」
「十人ぐらい…じゃないすか?」
「女は?」
「今日、暇ですよ。…四、五人あまってますよ。」…抜いていきます?男は言って、当たり障りもなく笑った。
日焼けした、鍛えた肌に、地味な侍従じみた店の紺色の制服を無理やり被せた男。三十半ば。背は低い。…やばっ
エレベーターの中で、ハオが言った「銃、忘れちゃった。…」
…いいや。
「大丈夫。別に。…あれ、マエないから。」
ひとりで言うハオを、慶輔は笑う。私に微笑みかけたハオは、すこしの明らかな誘惑を匂わせながら、言った。ささやくように。…でも、
「びっくりした。…根性あるね。」
早口に。
「だって、ハナさん、ずうっとにやついてんだもん。ずうっと。…普通、一瞬でもなんか、やばって顔するのに。ひとりだけだよ。ただ単に余裕でニヤついてるやつ。…あるの?」
声を潜めた、
「ひょっとして、…さ。」
そのハオの
「人、殺っちゃったこと。」
声を聴く。ハオはその、ひたすら透明感にだけは不足しない冴えた微笑に、時に黒眼を揺らめかせて、それは私への明らかな媚惑を曝す。性欲さえともった、その。
気付いていた。私がずっと微笑みつづけていたことには。もう、なんども。私は、私自身を恥じた。ハオいわくニヤついた、微笑を崩せもしないままに。ハオは、3階にエレベーターを止めた。…付き合って。ね?ごめん。「五分だけ、」…ね。笑う。いたずらじみた微笑を、唇に、頬に、眼差しに、自在に躍らせて見せながら、「ちょっとだけだから、」…さ。
三階の喫茶店には入らない。そこはロシア系のマフィアがたまり場にしている店のはずだった。その前を素通りし、エレベーターのすぐ横の館内階段を下りる。その踊り場に、ふところから取り出したジッポーライターをつけた。かすかな息遣いの密集がもてあそぶ、空気の揺らめきにその火はときに、無造作にはためく。
床に置いたそれをそのまま放置し、二階のマージャン屋の前を通り過ぎた。突き当たりには剝き出しの炊事場があった。…分かる?
振り向いて、ハオは言った。だれに、というわけでもなく。「それって、…」と、慶輔が口を開きかけたとき、ハオはちいさく、声を立てて笑った。「あたり。」つぶやく。
「どうせなら、派手にやってやろうかなって。…立ち退き。…ぜんぶ、一気に、さ。」…仕事だからね。
ハオはただ、愉しそうだった。ビルオーナーが言ったのは、6階の片山の店の立ち退きに過ぎなかった。オーダーに、倍以上のサービスをつけて提供すことをハオは選んだ。銃弾が、ちゃんと発砲されれば、こんなことにはならなかった、その悔恨を一瞬、私は感じた。「…ね?」
ハオは、私の脇を小突いた。「…わかる?」
微笑む。
いたずらじみて。「分かるでしょ?」
目の前に、炊事場の古びたガスコンロが設置されていた。流し台に置かれた簡易的なものに過ぎない。…知ってるよ。
「分かってるよ。」言って、不意に静華はガスを開いた。火をつけずに。しずかで繊細なガス漏れの音を、その至近距離にだけ立てて、ガスは大気中に舞いあがった。
臭気がたつ。…でしょ?
違う?…静華が言った。「…やばいよ。」私に、静華はもたれかかった。彼女は疲れ果てていた。「…行こう。」私は言った。
葉が、声を立てて笑った。
バイクの鍵を私の鼻先に、わざと音を立てて揺らし続けながら。... go.
耳元につぶやく。
体臭が匂う。ややあって、「…ね?」葉はそう言った。ビルの外に出ると、空はすでに朝焼けを無残に曝していた。
ビルの狭間に垣間見られる、見上げられた空。確かにそれはもはや、夜の空とは言えずに、「…できる?」葉がしなだれかかって言った。
バイクにまたがろうとする私にしがみつきさえして、「ほんとに、バイクの運転なんてさ。…」笑った。
眼に映るものすべてが、いまや葉を微笑ませずにはおかずに、「…朝だね。」言った静華の声を背後に聴いて、見あげれば空。
紅蓮の。…あるいは、そう言い切って仕舞ったあとで必ず後悔にだけさらわれる。…そんなわけがない。
黄色、かすかな、ほんのかすかな青、成分としての紫彩、そして、主体となる赤と朱の、でたらめにグラデーションを無造作に曝した空、紅蓮の破滅。「…眠いよ。」もたれかかるように、静華はハオにもたれるが、慶輔がその尻を引っぱたく。…人通り。ビルの表に出れば歌舞伎町には、未だに人通りが、まばらにでも存在して、染まっていた。
空は。
その一部にだけ穿たれて仕舞った留保もない崩壊に、その見事だったすべられた黒の気品を、いっきに壊滅させて色褪せていく。…しずかに、青く。
黒がなしくずしに、青みに内側から侵食されて、やがて破滅して崩壊したいわば死に体の色彩こそが、あの青空の青の色彩に過ぎないことを、朝焼けに触れ獲ない反対の空の縁の、暗んだままの夜の惨殺体は明示して仕舞う。「…ヘルメットないんだけど」
関係ないよ。…
葉は言い、後部座席、後ろから私にしがみつく。「ふっ飛ばしちゃえ。」瞬く。
光。
神々は救済し続けていた。
あきらかな、それら固有の意志を持って。それらにふれ獲もしないままに、手を差し伸べた。
救済の光。
見あげられる空さえもが。
救われようとしていた。ずっと。
光。朝焼け、その留保なき破滅をさえも、「てかさ。」思い出したように、慶輔は言った。「あのビル、ガス探知とか、ないもん?」警官とすれ違う。
私たちには目もくれない。酔客がどこかでトラブッていたに違いない。彼らは忙しかった。私のシャツは血にそまったままだった。
「あたりまえじゃん。あんなビルにあるわけないじゃん。…ぶっ壊れてるか、切っちゃってるか知らないけどさ。」…ハオは言った。「ここ、どこだと想ってるの?」…歌舞伎町だぜ。
声を立てて笑う。
「俺たちの、歌舞伎町だぜ。」走った。葉を後ろにのせ、立てる。
葉は。
嬌声を。
わざと。
その唇、その喉に、
…光。
救済の、そして。
見あげれば朝焼け。空はすでに破壊された。あざやかな、空の一隅をだけ壊滅させたにすぎない朝焼けがもはや、空の全面から夜の色彩の高貴さを失墜させていた。穢された空はすでに、無残な、気の抜けたその残骸をしか曝していない。留保もない凄惨さにおののく隙もなく、低速度で走らされたバイクが、眼差しの捉える風景に、それでもかろうじて速度らしきものをを与えていた。市街地の中の路上にはほとんど人翳もない。明治通りに出るまで、わずかに四人の人間を見かけたに過ぎず、そのうちの二人は早朝の代々木公園に向う市民ランナーに過ぎなかった。
明治通りに出れば、まだしも人の、そして車の気配がする。表参道の方に曲がる。何台かの車が追い抜いていき、すぐさま、眼差しは人翳を捉えた。その女。全裸で、明治通りの車道の真ん中をふらついて歩く女。
愛。
奇妙な、在り獲ない風景だった。まるで、前衛的ななにかのイベントを眼にしているような気さえした。剝き出しの皮膚のいたるところに傷を曝し、自分が流した血に、まるで他人のそれに穢されたかのように穢された愛は、表参道を目指した。
目指しているわけでさえなかったに違いない。ただ、そっちのほうに歩いていたに過ぎないに違いない。とりあえずは歩き出した足が赴いたままに。
いくつかの、疎らな車がときに、ためらいがちにクラクションを鳴らして大きく迂回し、通り過ぎていく。歩道にだれもいないわけではない。むしろ、どこかの早出の社員やランナーが疎らに両方の歩道を行き来する。彼らの眼に触れていないわけでもない。目線を合わせないように、伺いながら見つめてさえいる。だれも声をかけるものはいない。
私は、車道の脇にバイクを止めた。愛のわずか後方に。愛は私たちにさえ気付かない。穢れた、虚弱な肉体。ほんの数百メートル先には表参道の並木の端が垣間見える。商業ビルが、派手な照明をすでにともしはじめていた。朝。
いつもの、朝。
人々はその眼差しをそらしたわけではなく、その眼に映った明らかに破綻した女の、破綻した風景を、見留め続けていた。だれも、だれかと連れ立って歩いていたものはいなかったので、噂話の声さえ立ちはしない。奇妙な、白濁した空気感さえあって、そして、だれも愛に近づこうとはしない。あまりのことに思考停止したわけでもなく、あるいは、どこからどうみても深刻な暴力の被害者に他ならない愛の深刻すぎる姿は、私たちの眼差しの先に、むしろ治安をかき乱す不埒を極めたならず者でしかなかったのかも知れない。単に、だれもなにが起こっているのか、眼差しが捕らえる風景の正統な回答は一体何なのか、その答えが見出せないままに、ただ、一瞬で白濁した意識の中で、眼差しが捉えるものそれ自体を、ただの他人の、自分ではふれ獲ない容赦もない他人の断絶された風景としてながめるやるしか、そのすべを持たなかったのかもしれない。…なに、あれ。
葉が、背後につぶやいた。
ヘルメットさえかぶらなかった、私たちの裸眼は、死にかけの愛の最期の数分を、見つめる。
「…なに?」
葉の声。
聴く。…あいつ、まだ生きてたんだね。
そう言った自分の声を耳にしたとき、私がそう言ったことに気付いた。
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