小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説29ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
ハオは、数秒間片山の痙攣する身体を見下ろした。顔をあげて、静華を見、慶輔を見、私を見て、檜山を見る。私は、発砲の瞬間、零一が身を固めたのを感じたのだった。そんな記憶が今更のように、頭の中に蘇った。…そういえば、
ハオが言った。
「水、来ないね。」不意に慶輔を見て、ハオは言った。
慶輔は、悲しみとともに哀れんだような、ただやさしい眼差しをハオにくれた。「死んだ?」
檜山のその声に反応したハオは、しかし、なにも答えない。ややあって、ハオは笑う。
照れたように。あるいは、自分のどうでもいい失敗を、だれかに不意に見つけられて仕舞ったかのように。「…たぶん。」
「死んでるよ。」言ったのは私だった。笑い声に声を見出し、顔を、容赦なくニヤつかせて。…なんで。
蘇る。
記憶に、…なんで、ニヤついてるの?零一の声。…光。
私は想わず、瞬く。
救済をだけ志向した、その神々の温度のない光。
光さえ発しはしない光が、充溢し続けた。いつでも。常に。眼を閉じてさえ、まばたかれた一瞬の暗やみの中にさえ。
容赦もない救済。もはや、遁れ獲る場所さえ、時さえもない。「…終ったの?」静華はささやいた。自分で、「もう、」自分の声を聴く。「終った…?」…ね、ね、ね、ね、「ねねねねね」死んだの?
「死んだ?」
言った静華に檜山が振り向きざまの眼差しをくれて、やがて、檜山はうなづいた。その眼差しが捉えた対象に対する、限りもないいつくしみをしか知らない表情を、その眼差しに曝したままに。「…終ったんだ。」静華。…光。
つつまれる。
「…ぜんぶ?…ね?」…終った?
光に。…容赦もなく、
死んだの?…「もう?…」
救済の光。
「終わり?…」
つつまれた。静華は、ただ、その無限の幸福感の充溢に、眼差しをすべて充溢させる。幸福。
静華はただ、そのときはもはや幸せそれ自体だった。声を立てて、笑うことさえなく静華の顔の、その表情のすべてが笑みの気配をこぼす。…よかった。
静華は、そう言った。
前触れもないハオの発砲が、檜山をあお向けに吹っ飛ばした。吹き飛ぶ脳漿、そして痙攣する身体。一度のけぞった両足がデスクを蹴り呼ばす。私の足の先の床に檜山の、額を欠損させた頭がある。眼は閉じてさえいなかった。驚きの表情を、浮かべる暇すらも檜山にはなかった。
眼差しにはいまだに、無際限な慈しみがただ、張り付いていた。
飛び散った血と脳漿は、私のスーツの腹部のシャツをまで穢していた。眼差しが捉えた風景に、ただ、為すすべもない痛さだけが拡がった。痛ましさという言葉が、単に余裕づらをさげた同情も共感もない言葉にすぎなかった事実を、私は知った。
曝された単純な痛さに、そして、眼をそらすべき場所さえもない。私はハオを見ていた。ハオは微笑んでいた。あるいは彼の向けた銃口は、そのまま私をまで撃ち果たしてもおかしくはなかった。私は彼に微笑み返すしかなかった。…光。
あふれかえるしかない神々の光。
差し伸べられ続ける救いの手。
光。…見つめる。微笑んだままに、私は。ハオを。ハオが、声を立てて笑った。「…ね?」言った。
「見た?」
慶輔さえ、釣られたように声を立てて笑って仕舞い、「見た。」言ったのは私だった。
「ちゃんと、見た?」
「見たよ。」
私の唇は、そう答える。
唐突に、ハオが自分のこめかみに銃口を押し付けたのに、迷いなど一切なかった。すべて、彼は計算し尽くしていた気さえした。静華は、ただ、やさしい微笑みにつつまれるばかりで、後ろから零一を抱きしめた。…終ったんだね?しがみついて、その背に顔をうずめ、幸福。確かに、彼女の幸福を疎外し獲るものなど存在し獲さえしない。
「殺す気なの?」
ハオは、零一に言った。
零一は、恥らう顔つきを崩せないままだった。鮮明な喪失感さえ、あらたにその表情に添わせて。ハオは、「檜山、殺す気なの?」…もう、と。
もう、大丈夫。
静華が言った。
「なんで?」
ハオはささやく。不意に零一に向けらた銃口が発砲される。仰向けに、静華ごと吹っ飛ばされた零一の身体の、背後の惨状をは、私は見なかった。「…こうするんだよ。」ややあって、立て続けの銃声の反響を、私の耳がでたらめに反芻し続ける中に、ハオは言った。「こうやって、ぶっ殺すんだ。」
言ったハオがふたたびこめかみに銃口を当てたとき、慶輔が言う。「死ぬの?」
「…まさか」
ハオが答える。笑う。
笑む。
「殺すんだよ。」
引いた引き金は、銃弾を発砲させたりはしなかった。ハオは、あっけに取られていた。…なに?
静華が、正気づきかけながらつぶやいた。零一の体の下、すでに破綻した零一の、痙攣さえしない身体の、穴が開いた頭部が垂れ流すあらゆる体液に塗れながら、「どうしたの?」言う。
「なんで?」
ハオは言った。…なんで、…だ?
「あれ?…」不審そうに、あきらかに赤裸々な戸惑いと、どこかに羞恥心をさえ無邪気に曝して、ハオは両手にその自動拳銃をいじった。「…やべっ。…なんか、やばくない?」
あわてるしかないハオを、慶輔が声を立てて笑う。哄笑でもなんでもなく、それは笑うしかない風景だった。笑ってください、と、だれにも乞われはしないままに、私たちはただ、命じられるままに笑った。…まばたく。
私たちは光、その、光。
差し伸べられ続けた救済の光。
その氾濫に。私は笑っていた。「…ハオさん、…ねぇ、ハオさん。」笑う。ハオ自身も。照れくさそうに、そして、あくまでも自分の戸惑いと羞恥を隠し通そうとして、むしろ逆にあからさまに曝け出してしまいながらも。「…違う。…違うから。」ハオがひとりでわめく。
いじり倒された果てに、不意に暴発した銃弾が壁にめり込んで、不用意な暴発は銃を反対に吹っ飛ばす。すでに素に戻っていたハオが、ややあって、肩をすくめて見せて、「…不発弾。…的な。」言った。もはや屈託もなく笑いながら。私は入る。
不意に開いた自動ドアから、愛と、葉のビルのエントランスに。
誰もいない空間に、私は忍び込んで仕舞った気がした。あるいは、私は本当に侵入者なのかも知れなかった。素足は足音さえ立てなかった。私は息をひそめた。
私は葉を殺して仕舞うに違いなかった。私は、気付かれないように、そして防犯カメラを避けた。機能しているのか、それとも単に防犯用のフェイクに過ぎないのか、それさえも定かではないエレベーター前のちいさなカメラは、むしろ華奢な煙探知機にしか見えない。それが、ただ、緑色のちいさなライトを明滅させた。階段を上った。
足音を立てないように。そっと、そして息をひそめ続けて、走りかけ、停滞し、立ち止まって気配を探り、探り出されるのは自分の気配にすぎない。聴く。
耳を澄ます。
物音。かすかな、コンクリート壁の外の物音なのか、内部の配管の?あるいは電気機器の。
完全な無音ではいられない空間が、何らかのこまかな音響の息吹きに染まる。息が上がった。
階段を這うように上がって、顔を挙げ、見る。気配を。目に映るのは暗い、疎らに非常口の緑色にだけ照らされた空間。
辿り着いたペント・ハウスの、明け放たれたドアに指を伸ばす。
そっと。
ふれる。
開ける。
眼差しを差し込んだその内部、廊下にはだれもいなかった。突き当たりの窓の光線に、夜がすでに明け始めていたのをふたたび知る。憩う。心に、容赦もない安堵が失墜したように拡がった。居宅内は、より暗い。
それでも、葉はそこにいるに違いなかった。どこかしらに。
あるいは、膝を抱えて、うずくまって。忍び込んだ私は、奥の部屋から彼女を探して行った。いくつもの部屋。半ば、あるいは完全に開けっ放しのドア。すり抜けて、中に入り、中を確認し、その不在を確認する。アトリエ。
観葉植物の鮮明な澄んだ匂いが、そして油彩絵の具の淀んだ匂いが、層をなしてあくまでも混ざり合わないままに、そこに何の意味もなく停滞する。キャンバス、描かれた身体、ゆがんだそれ。
彼女が描いた私の、ねじくれた身体。不意に、声を立てて笑いそうになった。背を丸めて、中腰になって、床を斜めに駆けた。物音をたてないように。
どこも彼処も絨毯張りだった。昔の高級マンションを模倣した作り。亡き父親の古臭い趣味だったに違いない。あるいは、当時の流行の?不意に、想いだす。あの風景。
葉が描いたあの、純白の風景は、確かに私の最期のときに、私の眼差しに映ったその、失心しかけた風景の途切れ途切れの断片のそのままだったに違いない。
その時、雪に染まる海。
色彩は白。
リビングのドアをくぐると、愛は窓際に立っていた。「私が開けたの。」
言った。
「表の自動ドア…困るでしょ?」
振り向きもせずに。…死んだ?
葉はささやき、私は知っている。葉も、知らないわけがなかった。「死んだよ。」愛が、まだ死んではいないことなど。「跳ね飛ばされた。」
私は、言った。
「どうだった?」
「…どうって?」
「どうだった?お姉ちゃん。」…見えないよ。私の声に、「一瞬だもん。」嘲笑がある。「ワゴン。…白、かな?…一瞬、」かすかに。「一瞬で、…」あきらかに。…光。
望んだそのままに、すべてを救済し尽くす光。
神々の、その。
「吹っ飛んだ。」
…光。氾濫する。
私は鼻にだけ笑い声を立てて、ソファに座り込んだ私を葉は見つめた。首をかすかに傾けて。…ねぇ。
「バイク乗りたい。」
「乗れるの?」
「あんた、乗れるじゃん。」…あるの?
言った私に、微笑をくれながら葉は、「あるよ、…」言うのだった。「真鍋くんの、…鍵、あいつの机の中に在るよ。」
「従業員の?」
私は笑う。「見たでしょ。…カワサキのやつ。此処に来るとき…」…ああ、と、あの、エントランス・ホールの突き当たりに見えた、駐輪場の、その。「かっこいいよ。…結構。」
どっちが?…と、「バイクが?男が?」言おうとして私はやめた。口にする前に、その会話にすでに、私は飽きた。その、やがて破滅した葉をひとりで看取りつづける可憐な男。
「どこ行くの?」んー…と、鼻でだけ言う葉の、やわらかい声を聴く。…だ、ね。
つぶやき、いきなり振り向いて、葉は言った。
「…世界の果てに、でも?」
声を立てて笑う。…行こう。
ハオが、言った。ややあって、そして、「もう、終わり。ここは、終わり。」ふたたび「行きましょう。」その中国語なまりを無理やり取り戻そうとして、そして、終にはそれにも飽きて仕舞う。「…行こう。」
鼓膜とその周辺に、あきらかに鈍い痛みが巣食っていた。「ほら。」
葉がはしゃぐ。「…これ。」
勝手にかき乱して探し出したデスクの引き出しの奥の鍵を、指先にぶら下げて笑った。
私の鼻の先に突きつけて、揺らし、「…ね、ほら。」…これ、
「…鍵。」
なにもおかしいもののない空間に、葉の笑い声だけが邪気もなく響いた。
事務室のドアを開けた。見せの薄暗い通路、そこに、女が立っていた。明らかに風俗嬢の営業用の、短くすけるキャミソールだけ身に着けて、一瞬、私たちにいじましい作った微笑をくれ、あわてて隣の控え室に入っていけば、その中にほんの数人の嬌声が立った。売れ残っていた女たちは手当たり次第にざわめく。事務室の中の様子を、代表してその女が伺っていたに違いなかった。低い、ほんの微弱音のBGMが、そこ、ファンション・ヘルスの薄暗い通路の中には流れたままだった。いまだに、人が死んだことなどだれも知らない。通常営業はつづき、客がその閉じられたドアの向こうに、お楽しみの最中なのに違いなかった。…銃声。
たしかに鳴り響いた四発もの銃声が、広くはない店内の至近距離に、仕切られているとは言え聴こえないわけはなかった。日常空間の中で、聴こえるはずもない銃声を、聴こえたはずもない音として、彼らは当然に処理して仕舞ったとしか想えなかった。彼らはそれをはっきりと聴いたにもかかわらず。
…あれ?
あるいは、
銃声?
そんな嬌声をさえあげて見せながら、そしてまさか
いま、バーンって。
ありえないその音響を、ありえないものとして当然に
死んだ?
処理されて仕舞えば、もはや後に残るものは
…だれか。
なにもなかった。あるいは、だれも死ななかった。すくなくとも、いまは。この空間の中では。いまだ、私たち以外のだれにも確認されていないのならば。静華は鮮明な意識のままで呆然としていた。そうとしか言獲なかった。零一を、慶輔が静華のからだの上からどかしてやったとき、「…やばいな、」…死んだの?そう静華は言い、「これ、…」瞬き、「さすがにやばいよ。」慶輔は言ったのだった。
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