小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説31ブログ版









わたしを描く女

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Διόνυσο, Ζαγρεύς

デュオニソス、ザグレウス














いつもの、朝。

人々はその眼差しをそらしたわけではなく、その眼に映った明らかに破綻した女の、破綻した風景を、見留め続けていた。だれも、だれかと連れ立って歩いていたものはいなかったので、噂話の声さえ立ちはしない。奇妙な、白濁した空気感さえあって、そして、だれも愛に近づこうとはしない。あまりのことに思考停止したわけでもなく、あるいは、どこからどうみても深刻な暴力の被害者に他ならない愛の深刻すぎる姿は、私たちの眼差しの先に、むしろ治安をかき乱す不埒を極めたならず者でしかなかったのかも知れない。単に、だれもなにが起こっているのか、眼差しが捕らえる風景の正統な回答は一体何なのか、その答えが見出せないままに、ただ、一瞬で白濁した意識の中で、眼差しが捉えるものそれ自体を、ただの他人の、自分ではふれ獲ない容赦もない他人の断絶された風景としてながめるやるしか、そのすべを持たなかったのかもしれない。…なに、あれ。

葉が、背後につぶやいた。

ヘルメットさえかぶらなかった、私たちの裸眼は、死にかけの愛の最期の数分を、見つめる。

「…なに?」

葉の声。

聴く。…あいつ、まだ生きてたんだね。

そう言った自分の声を耳にしたとき、私がそう言ったことに気付いた。公開処刑のようなもの。だれも警察に通報さえしなかったに違いない。確かに、そうに違いなかった。だれもが、だれかがどこかに正当に通報するものだと、何もわからない無関係な部外者の黙視を決め込んで仕舞っていれば、どこへも通報などされる必然などないのだった。そして、当然のことだった。だれもが、部外者だった。愛にかかわることなどできはしなかった。私たちはみんな、彼女から眼をそらしさえせずに、愛を見殺しにして、そして見棄てて仕舞っていた。そこに、倫理などなかった。芽生える余地さえも。だから、だれも倫理を犯しさえしていなかった。倫理は、ふれられることなく、通り過ぎられるしかなかった。…光が。

そして、私たち、そこに存在するものすべて、あるいはそこに存在しないものすべて、存在し獲なかったすべてをさえ、貫き通して氾濫していた。

救済の光が。

ひかりさえしない光、救いの、神々の、差し伸べられた光。

それはふれつづけ、それらは刺しぬかれつづけ、私たちはすべて存在する。

私たち。

愛さえもが。

ふらつく。愛は。はなれた向こうの交番から、目視によって発見したに違いない警官が、それでもゆっくりと警戒を曝しながら愛に接近した。うかつに、愛には接近など出来ない。裸の、死にかけた女。あるいは、正面に見れば、涙さえ流していたかも知れない女。

恍惚の、狂気した涙だったのか、単に悲しかっただけなのか。

あるいは、微笑みさえしていたのか。

それともただ、驚愕していたのか。

痛みにゆがめられた最期の表情か、それとも、もはや表情などなにも獲得することさえ叶わなかったのか。その愛の周辺に、警官が三人群がって、一定距離のなかに愛を諌めようとしていた。意図的なやさしい、そして明らかに不審に戸惑った声で。ひとりが甲高いホイッスルをさえなんども鳴らしながら。愛は、いま、明らかに加害者だった。だれをも、なにをも傷つけもできないままに、愛は異界から紛れ込んだ、破綻した暴力的な異物以外のなにものでもありえなかった。

やがて後ろから回り込んだ警官感が、後ろから終に飛び掛ろうとした瞬間に、愛は前のめりに倒れた。アスファルトに打ち付けた頭蓋骨が、その罅割れる音さえ立てたに違いなかった。私は眼をそらした。

警官たちが束なって愛の身柄を確保した。まだ、抵抗の危険さえあるかのように。

葉はバイクを降りて、ガードレールに座っていた。うなだれて。

私はエンジンを止めた。傍らに車が、スピードを落として走りすぎた。愛の周囲に、追加された警官が交通誘導した。整然としたオペレーション。人だかりはできはしない。車道の真ん中だし、それに、それは危険な風景なのだ。他人の、ふれ獲はしない他人が垣間見て仕舞った、関わりようのない他人の風景に過ぎない。自分が近づけもしない他人が見出した風景には、人は沈黙するしかそのすべをもたない。

私はバイクを降りた。葉の前に立つ。

音響。

朝の早い時間にあふれた、微弱音の物音の群れが、車道を通過する車の一瞬の、至近のフォルテをもふくめて赤裸々に耳にふれ、鼓膜をふるわせ続けていたのに気付く。…あふれる。

無際限に。

光が。…ねぇ。葉は言う。「死んだ?」

「…死んだ。」…本当?言って、私に上目遣いの眼差しをくれた葉の眼差しは、確かに愛のそれに似ていなくもない。血のつながりなどないくせに。自分の、血統的な人種さえ知らない他のどこかの人種のだれかにすぎないくせに、それでも姉妹育ちの事実が、鮮明な相似をいつか与えていたのかも知れなかった。

たんなる、家族なす生物の習性あるいは生得的な擬態として。「本当?」つぶやく。その、

ほおー…ん、…とう…?

限界まで間延びされた声に、私がすでに微笑んでいたことには気付いていた。葉を、その、目の前の美しい女を眼差しにおさめながら。いつのまにか。ただただいつくしんで。

「本当に死ねたの?」

言った葉が、微笑さえもくれずにバイクにまたがった。差込みっぱなしのキーを回して、エンジンを吹かすと、知っている。

私は。私はすべてを、すでに想いだす。

知っていた。「見てくるね。…わたし。」生まれてはじめてバイクをふかした葉は、「…お姉ちゃん。」不意に嬌声を立てた。…じゃ。そう言って振り返り、声を立てて笑い、馴れない運転に、ようやく走り始めたバイクは、極端な低速にふらついた数秒の後で、一気に加速する。葉をうしろに吹き飛ばしそうになりながら。響いた。だれにというわけでもなく、葉がただ立てて仕舞った喚声じみた笑い声が。

表参道の方に、警官の制止を振り切って超過速度で疾走し、表参道を無理やり曲がる。昼間ならすでに誰かを轢き飛ばして転んで仕舞っていたに違いない。知っている。光。まばたく。

救済の、そして、光。走る。

知っていた。

風景。その、眼差しが捉える風景。風景は疾走すた、おもしろいように。でたらめに吹かし続けられるエンジンが、ただ回転速度だけを上げ、並木。いまだかつて見たこともない速度の中に、一気に通り過ぎられる風景はもはや、速度が与えた単なる視覚の残像に過ぎない。見えたものを、意識した瞬間にはすでにそれははるかに通り過ぎられて仕舞っていた。聴く。

風の音。騒音。耳もとで声もなく怒鳴り散らすような、その止みようもない轟音の群れ。わななく音響。もはや完全に制御を失ったハンドルが、そのまま青山通り近くの並木にまっすぐ突っ込んだとき、葉の眼差しはその数秒前の風景をようやく見取っていたに過ぎない。葉は見なかった。

おそらくは。

バイクごと自分の身体が破壊されて仕舞うその最期の風景をは。

顔を上げた静華が私を見つめて、沈黙し、唇は動きそうになる。

探す。何か、言葉を。…光。

氾濫の中で。その、でたらめにありふれたすでに、さし伸ばされている救済。

光。みつからない言葉を、静華はそれで探そうとするしかない。なにかが言いいたいわけではなかった。明らかに。

眼差しが、そして気まぐれにふるえる静華の黒眼を捕らえ続け、…なに?と、そう言おうと瞬間に、背後のビルはガス爆発を起こした。派手な轟音が鳴り響いて、ややあって、耳はそれをリアルに反芻する。それが、記憶されたものの意識されない想起に他ならないことを、聴覚にはいまだ隠し通したままに。

振り返った眼差しに、特に異変はなかった。その、私たちが引導をわたして仕舞った雑居ビルには。悲鳴が連なって、騒然としているのかも知れなかった。その内部は。私の耳はそれらの鳴り響いているべき騒然の声の群れをは捉えなかった。ただ反芻されたのは、飽きもしないさっきの轟音にすぎない。…見たか!

悪気があったわけでもなくて、不意に慶輔がつぶやいた。

「ふっ飛ばしてやったぜ。」ささやいて、慶輔は笑おうとした。その視界には、むしろ、代わり映えのしない風景しか映らなかった。そんなはずではなかった。なにも起こってはいない。むしろ、呆気にとらわれるしかないほどに。ややあって、十数秒の後で、一気に異臭が充満し、黒煙をビルは至るところから噴き出す。あきらかなガスの異臭と黒煙の、そして温度が感じられた。離れた眼差しの先の、見上げられたビルが発した巨大な発熱。

やがては炎。終に、ビルはようやくにして、その炎を曝した。二階のふさがれていた窓を叩き壊して、一人の男が飛び降りた。路上にのた打ち回ってうめく。素のアスファルトの硬度が彼の骨格のどこかを打ち壊したのに違いない。ざわめき声が連鎖する。ビルから逃げ出しただれの姿も、その男以外には確認できなかった。内部に爆発音と、破裂音が派手派手しく連鎖した。それが何の爆発であって、それが内部に何をもたらしたのか、私たちには伺い知ることなどできない。破滅。そのビルの先端の尽きた向こう、空は破滅の色彩をだけあざやかに曝し、火災通報された消防車が、狭い歌舞伎町に無理やり巨体を押し込める。

サイレンが鳴り響く。

ビルが燃える。

知ってる。その火災は結局は、6階風俗店の従業員と顧客計三十五人を筆頭に、総計七十八人の死者を生んだ。真犯人は逮捕されなかった。90年代、本格的なインターネット時代前夜にも関わらず、口伝においていくつもの都市伝説まがいの犯人説を歌舞伎町という限られた領域の中に生んだ。ビルに防災設備も何もなく、入居者に黒い噂が絶えないビルだったために、都の意向による歌舞伎町浄化作戦が開始され、歌舞伎町は一気にそのいかがわしさを失った。

ビルは燃え落ち、歌舞伎町自体も跡形もなく焼き尽くされた。あとには単なる、図体のでかいだけの恥ずべき風俗街だけが姿を曝すしかなかった。






わたしを描く女



目の前に老いさらばえた顔がある。

2014年、9月。あと数日で私は40代になり、そして、眼の前に老いさらばえた、と言って仕舞えば言い過ぎな、老いさらばえたとしか言いようがない精悍な、若々しく美しい顔があった。サロンで今更ながらに灼いた顔。高額スーツがつつんだ身体。太い張り詰めた腕。ジムとプロテイン剤で作り上げた趣味的な筋肉。慶輔。

Line で通知した時間には、慶輔は数分遅刻した。ひさしぶりの歌舞伎町であの喫茶店を探したとき、かつての原型をとどめない、リニューアルされて縮小された《パリジェンヌ》の、こぎれいな姿に戸惑った。慶輔のホストクラブは、直接の経営責任者を変えて存続していたし、ほかに建築デザイナーとつるんだドッグ・カフェを代々木と恵比寿に経営していた。悪びれることなく、慶輔は数分の遅刻を謝りもしなかった。…どう?

私は言う。「忙しい?」

漂泊されたような街。歌舞伎町はもはや他人の街にすぎなかったし、ビル火災の直後からわずかな期間に、一気に洗浄された、単に日本一大きい地方都市にすぎない歌舞伎町に、もはや興味はなにもなかった。

昼の歌舞伎町はただ、変わりようもなく人気のない、気の抜けた廃墟のたたずまいを曝して日に差された。

久しぶりに会うというわけでもない。何ヶ月か前にも会って、慶輔が武蔵小杉に作るらしい新しいカフェの打ち合わせをしたばかりだった。そのすでに開店しているはずの店が成功しているのかどうかは知らない。

容赦もなく慶輔が曝す加齢による劣化は、鏡に映した私に見出す劣化と同じようなものには違いなかった。《パリジェンヌ》の席を占めた女たちが、私たちに媚びた眼差しをくれた。私の目にふれる、歎かわしいばかりに醜い私たち自身とは一切のかかわりもなく、自分勝手に。私が不意に笑って仕舞ったのを、慶輔は訝りながらも咎めはしない。

「どこいくんだっけ?」慶輔が言った。「ベトナム?」

「そっちのほう」

「珍しいね。」笑った。…なにが?「戦争でも始めるの?」ベトナム、と言えば、その頃、確かにそんなアメリカ映画のイメージしかなかった。「…暇だったらね。」私は言った。

その日、慶輔と会う以外に予定はなかった。そして話すべき話など、すでに枯渇していた。窓際の、区役所通り沿いの席に座って、眼差しの上方、傾斜地の、立った胸元のあたりにときに行き来する人の足の歩みが為すすべもなく眼にふれた。それぞれにその固有性をそれらは曝していて、結局はそれら固有性がそれぞれに一体何を意味していたのか私にはわからない。「千葉から帰ってきたんだよ。」私は言った。

「…千葉?…昔の女とか?知り合いなんかいたっけ?」…いない。私はささやき、言葉に詰まる。

それは不意の失言だったかも知れなかった。それは慶輔が知らない話で、それを話すべき時間も、必然性もなかった。ただ、停滞する時間を埋めるために話すことを探して、とどのつまりは探しあぐねる単なる思考の濫費にむせかえりさえしながら、私は千葉詣での詳細を話す時間など持て余してはいなかった。

葉。…バイクで表参道の街路樹に突っ込んで、顎と脳と脊椎を失った彼女は、千葉の介護施設に引き取られていた。

それを知ったのは一年前だった。単に、インターネットで。私が完全に見棄てて棄て置いて仕舞った彼女の消息を、二十年近く前に探し始めたわけではない。何の契機だったのか、そのさえ忘れた。何かを検索していたその途中に、介護施設で余生を送る交通事故の犠牲者の追跡記事を見つけたのだった。

ひとりの男がインタビューに答えていた。その男はあるアパレル下請け業のちいさな会社の社長だった。その、かならずしも成功者とは言獲ない男は、交通事故で殆どまともな意識作用さえ失って、半身不随になった身寄りのない片想いの恋人を、二十年近くも介護し続けていた。《…でも、彼女には僕がいてあげないと、生きてさえいけないって、そう想ったとき、やさしくなれたんです。》ひたすら美しく、けなげで、悲劇的な純愛物語として、《みんな、びっくりするけど、これ、僕にとっては…》記者はその高度なデザインのウェブ・ページで《…普通のことなんです。》称揚していた。《いま、幸せとはいえないけど、》十数個のいいねとシェアを《不幸せじゃないから、》いただきながら。《やっぱり、幸せなのかなって。》それは、あきらかに葉に違いなかった。表参道の樹木に早朝突っ込む人間などわずかしかしない。記事は2013年。だったら、まだ生きているに違いなかった。

男の名前を検索すると、すぐにフェイス・ブックが見つかった。取り立ててセキュリティを立てているわけでもない、いかにもネット馴れしない世代の男の記事が並んだ。男の顔には見覚えがあった。相応に老け込んではいたものの、あの、バイクの所有者だった真鍋という男に違いなかった。フェイスブックのいくつかの記事で、顎を欠損させ、何らかの後遺症に違いない、やせほつれた両腕を胸元、首の付け根に萎縮させて折り曲げている、明らかに眼差しに知性を欠いて見える女に頬を寄せ、ピース・サインをくれる自撮り写真があった。微笑む、という高度すぎる顔面機能などとうに失っている女は、ただ、無様にびっくりした眼差しを見開くしかない。凍りついた無表情な顔の真ん中に。

まったく見覚えのない、そしてその顔の骨格にあきらかに面影を残す女は確かに葉だった。葉の入院先を調べるのに、造作はなかった。

日本を離れる前から、すでに日本に帰ってくる気などなかったのは事実だった。単純に、私はすでに飽きていた。目に映るものすべてに。だったら、最期にあの、私が見棄ててその街路樹に激突した、血まみれの姿さえ見なかった女に、会ってやってもいいと想ったのかも知れなかった。たんなる老いさらばえた感傷かも知れず、下世話な興味本位だったかも知れない。早朝、千葉に行った。

千葉中央でタクシーを拾って、あとは運転手に任せた。海沿い以外の千葉に、行ったことなどなかった。

内陸部の閑静な田舎道を通って、四十分以上費やして辿り着く。…待ってましょうか?

運転手は言った。「長いかも。」

「いいですよ。…ここだと、タクシー、捕まえるのも大変だから。」笑う。

受付を通れば、名前を記入させられるに決まっている。意味もなく、私にはそれに抵抗があった。平和な日本の田舎の介護施設のセキュリティにすぎない。そんなものは単純にそのまま素通りできて仕舞う。適当に病室をのぞいていると、ひとりの介護士に見咎められただけで、笑って、「トイレ、どこ?」やがてすぐに、葉の病室を見つけた。ドアは開け放たれていた。そのネームプレートは北浦葉。そのほかにふたり。四人部屋。病室の、ひとつだけいかにもふるびていたネームプレートが、葉がだれよりも古参であることを明示した。

葉は食事中だった。まだ早い時間。午前十一時。昼食にはいくらなんでもはやすぎる。すぐにその理由に気付く。腕を引き攣らせて胸元に凝固させ、筋肉と言う筋肉を失って、やせ衰えて、ちいさくなって仕舞った葉に、おかゆではあっても固形物を食べさせるのは驚くほどの長時間を必要としていた。

掬いあげた、半分しか満たされていないちいさなスプーンが、葉のわずかしか開かれない口元に、なにも垂らしてしまわないように慎重に運ばれて、あいた片手の指先が唇の縁をたたく。

ゆっくりと、あきれるほどに緩慢に、もう少しでも開こうとしている口に、スプーンがその、かすかな隙間に半液体を流し込む事を試みる。

ゆっくりと。気管に混入などさせて仕舞わないように。

ただ、ひたすら、ゆっくりと。

咀嚼はすぐに始まる。おかゆをこぼして仕舞いながら。条件反射以外のなにものでもない咀嚼。あるいは、咀嚼を真似た、かろうじて残った、あるいは人口的に埋め込まれた顎の最低限の骨格らしき人工物がでたらめに演じる、なにも噛み砕き獲はしない行為。

舌が上下してるだけだったのかも知れない。完全にこそげた顎部分の単なる無残な空虚さに、あの高度にねじれ曲がった骨格などがわずかでも残存しているとは想えない。

私はドアの外に、たたずんで見つめていた。

葉に寄り添って、食べさせているのは確かに、あの真鍋だった。あるいは、自分のバイクで、許可もなくとはいえ、こんなことになって仕舞った葉に対する悔恨でもあったのだろうか。

彼が悔恨など感じる隙などどこにも在りはしなかったのに。いずれにしても、その男の留保もないやさしい眼差しに、私は単純に、葉が男に愛されていることを疑う余地などない。

カーテン越しの日差しのやらわかい逆光の中に、男の眼差しは微笑み、ささやき声を立てながら、そして、とっくに冷めたおかゆを5分に一度、口元に運ぶ。

想い出したようにときに、葉に話しかけながら。なにも、答えなど返っては来ないことなど、本人だってすでによく知っているにもかかわらず。

私と同い年くらいの男。

…あら。どうぞ。

すれ違いざまに、女の介護士が言った。

「入ってあげて」

私に。

微笑む。私は。…ありがとうございます。笑いかけて、会釈し、返されたのはその、やさしいだけの微笑み。

私はちいさく手を振って、立ち去る。





 2018.09.26.-10.11.

Seno-Lê Ma







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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