小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説28ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
ハオの指先が、そのまま下に下ろされたままの管理者の腕を取った。その、腕まくりされた筋肉質の褐色の腕。獣じみて太く、綺麗に脱毛処理されてつるつるし、それには確かに美しく、色づいた息吹きがあったことは否定できない。荒くれた、いびつな綺麗さ。ハオのそれのほうがむしろ、もっと素直に端整で、華奢にさえ見えた。デスクの上に、ハオはつかんだその腕を誘って、腕はやさしくいざなわれるままに、やがて男の指先を拡げさせられれば、その指先はかすかに戯れるような戸惑いを一瞬だけ曝してみせながら、力もなく為すがままに任すことを、いつか一瞬のうちに承認して、ときほぐされるようにデスクの灰色の上に拡がっていく。
私はまばたく。
ハオが叩き下ろした銃尻が、その小指を打ち砕いた。
血は流れない。なにも。男はデスクが銃尻に震えた瞬間に息を詰め、止められた息はややあって吐かれて、見あげる。後れて、噴き出された汗が匂った気がした。管理者は、上目にハオを見つめた。憎しみは感じられない。むしろ、問いかけるような色彩をしか曝さない。
確かに、ハオはそうするほかなかったのだった。侮辱されれば、やり返すしかない。そうされるしかない。確かに、ハオは必然的に、理路整然と振舞ったにすぎない。
管理者は、鼻で笑っていた。…わかる。
わかるよ。…同意。…確かに、ね。男はハオに同意する。いまだ麻痺しない痛みに、その手首と腕をだけこまかく痙攣させながら。
檜山が振り向いた。私に言った。「零一は?」
…来ないの?
その言葉には明らかに、かすかに酒気に潤んだ眼差しを曝した彼自身が、目の間で進行している時間を持て余していたのが見て取れた。私は檜山を軽蔑した。「どうするの?」
ハオが言う。
それは檜山に向けられた言葉だったが、その檜山の眼差しに沿って、自然にハオの眼差しは私を捉えていた。私に錯覚が目覚めた。すべてが、自分を中心に回っているような。その、在り獲ない、しかに必然的に彼らにもたらされてしまった倒錯を、私は不意に笑って仕舞った。ちいさく、鼻の先でだけ。管理者は、私が彼を軽蔑したと想ったに違いなかった。
聴く。
「片山さん、どうするの?」
ハオの、ささやくようなやさしいその声を、むしろ、ふれるものすべてを微笑まさずにはおかないような。
内出血なのか、砕けた骨のせいなのか、片山、という名に違いない男の小指はゆっくりと膨らんでいった。褐色の皮膚の上に、かすかに、その色をいよいよ暗く沈濁させながら。檜山は、ハオの問いかけには気付かない。いつのまにかそのまま、降ろされて仕舞っていたハオの銃口が、なしくずしに自分の太ももに添えられて、あてどなくその太ももをなんどか叩いてみせる。おもちゃのようにさえ見えて、同時に、いつ暴発するかも知れない危険性を、私はハオの太もものために恐れた。
慶輔が背後の壁に身をもたれる。「あいつ、来ないんじゃないんですか?」言った。不意に、慶輔は微笑んで、「…忙しいから。」
「客?」
言った檜山の眼差しは、いまだに私に棄て置かれたまま慶輔をさえ捉えない。「…だれ?」
「客じゃないですよ。…客だけど。」
「静華?」自分でそう言って、檜山はいまさらに、一瞬口ごもって仕舞ったあとでみずから、嘲笑をでも浮かべるしかなかった。「…今日も?」檜山は言った。
「ハナが誘ってたけど…ここ、来いって。…そもそも誰?誰が、俺ら、呼んだの?ハオさんなの?零に用があったの。」
「僕は、誘わない。言っただけ。ハナさんに。ハナさん、誘ったの?」言って、ハオは笑った。「零一さん、来る?」
来るよ、と、言おうとした瞬間に、背後のドアが開いた。その瞬間に匂ったのは、静華の香水だった。振り掛けるべき分量を失敗したとしか思えない。皮膚の匂いと混ざって、単に品のない煽情的な匂いしかしない。いかにも絵に描いた下層階級じみた匂いだった。そして、煽情されるべき限度を超えたそれは、当たり前のこととして単なる過剰な異臭にすぎない自分を曝す。静華が声をかけようとして、見回した挙句に息を飲む。
言葉を飲み込み、その瞬間に、間違いなく彼女は自分が吐こうとした言葉さえ、忘れて仕舞っていた。
ドアを開けた、さっきとは違う店員の後ろに、静香と零一がいた。零一は一瞬、見つかったいたずらに照れたような表情を曝した。それはただ、彼を幼く見せた。
…なに、これ。と、言った静華の声に、私が感じたのは単なる違和感に過ぎない。「なに?」と言われたところで、実際にはまだなにもはじまってはいない。始まりかけたまま、時間は停滞しつづけるばかりなのだった。静華が、そして零一が狭い部屋に入ってきて、息苦しさが限界を超えたような気さえした瞬間、ドアを閉めて立ち去ろうとしたその長身痩躯の四十代の店員に、片山が言った。…水。
「水、持って来て遣って。…客だろ?」
店員が、何も言わずに頭を下げて下がるのを、ドアが閉まりきる前に片山は、耐えられないようになじった。「あいつら、ほんとに気がきかねぇ…」だれにかけるというわけでもなかったその言葉が、空間に投げ棄てられて、ハオは零一に微笑みかける。
「どう?」
零一は答えない。
「拳銃、どう?…手入してる?」零一が眼を伏せた、その気配を私の首筋が感じた。恥らっているに違いなかった。…大丈夫。と、そう答えたのは慶輔だった。
邪気もなく、微笑んで、そしてハオの眼差しはその慶輔をは捉えない。「ちゃんとしてるよ」…ね?
眼差し。
「毎日、…」
傍らに、投げられた慶輔の、やさしい眼差しが私の唇にふれた。
「檜山さん殺しちゃう用の、あれでしょ?」慶輔は邪気もない声を立てて笑った。それらの声は、檜山にはむしろいささかの嘲笑にさえ含まれもしないように感じられていたようだった。檜山は毅然とするでもなく、ただ、どこかふしだらにさえ見えた明らかな共感の眼差しを、零一に曝していた。まるで、生き別れた弟かなにかのように。不意に私は、彼らが兄弟である明らかな痕跡を感じたが、そんなものが妄想と呼ぶにも値しない単に瞬間的な錯覚であることになど気付いている。四十代後半の檜山と、二十代前半の零一が、兄弟であり獲るはずもない。異母兄弟でもない限りは。そして、そのとき檜山の眼差しに感じられたのは、あきらかに同じ子宮の温度を共有した、同母兄弟の感触だったのだから。
静華が、あるいは零一が、そしてときにハオがなんと言おうとも、檜山に零一を敵視する意向など元からなかったに違いなかった。同じ女を愛している共感?…あるいは、もっと言えば、自分をは決して愛そうとはしない同じ女を同じように愛して仕舞った不意の、執拗な共感?そんな、あきらかに倒錯的にすぎないものの、とはいえ、それを倒錯的であると断言して仕舞うには、女が必ずだれかひとりのものでなければならないという絶対的な立法か、必然かでも存在しなければならなかった。太陽が東からしか昇り獲ないような。そんな、必然は、たしかに女を愛することの原理には、結局は存在し獲ないに違いない。
いずれにしても、ただ親しいだけの共感を赤裸々に曝すしかない檜山が、かすかに眼差しを笑ませて、「…なに?」
言った。
「持ってる?…いまも。…ひょっとして。」
檜山の眼差しは零一をただ、やさしく容赦のないいつくしみの中に捉えたが、零一の伏せられた眼差しはその恥らう失墜をやめない。ややあって、為すすべもなく零一がふところからその小さな自動小銃を出して、肩の上に上げて見せたとき、静華は泣き崩れそうな一瞬の表情を曝して息を飲み、張り付かせ、一歩だけあとずさりして、檜山は笑った。「…やばいな、こいつ。」
むしろ、誇らしげに。
「本気で、俺のこと、殺す気なの。」
もはや零一に、完全に向けて仕舞った背を丸めて、デスクにひじを突き、見あげた眼差しはハオを捉える。「…お前、煽ってるだろ?」
ハオは微笑む。檜山の眼差しに、あきらかな一種の、満たされた不意の幸福感が浮んだ。いわば前触れのない恩寵のようなそれに、抗うことは檜山にはできない。「…この、似非中国人。」
檜山が幸せそうに、声を立てて笑った。「最悪だよ、お前。…」事実、「バッタもんの、…」檜山は「バッタもんの中国人なんて、…」幸せだったに違いない。「馬鹿?お前。」彼が、まさに幸福感に苛まれている限りにおいて。遁れるすべもなく。
「わたし、煽ってない。」ハオは、…なんにも。あおってないよ。…あくまで、「ぜんぜん。ただ、…ね。」檜山に似非と呼び棄てられてもなお、その片言の、絵に描いたようなチャイニーズの日本語発音を崩さずに「ただ、励ましてるだけ。」言った。
「お前も死んで欲しいの?俺に。」
んー、…と、不意にハオは深刻な葛藤をその眼差しに曝して、言う。
「…ちょっと。…だけ。ね。面倒くさいから。檜山さん。」
慶輔は声を立てて笑った。
「ぶっ殺すぞ、お前…」檜山は噴き出して笑いながら、「この、ばったもんのチャイニーズ…」…こいつ、俺と一緒に飲んでも、ずっと、言うんだよ。そう言った、檜山は屈託もなく、「零一。…こいつ。ずっと、…」…知ってる?「…ね。」…なんて言うか?「檜山さん。俺にどんなふうにぶっ殺されたっすかぁ…」口ぶりを真似られた、零一さえ、いつか、微笑んでいた。
「ふってくされたこの糞餓鬼がだよ。えらそうに。人の金で飲んでるくせしくさってさ、しかも。ふんぞりかえって、ヒヤさん、まじ、どんなふうに死にたいんすかぁ…笑わせるんだよ。」…こんなじゃないからね…「いっつも、俺とさ、」…違うからね「俺とサシで飲むとき?…な?」もう、…な。「全然違うからね。こんな、借りてきた猫状態のね。そういうんじゃないからね。」…な。
零一は檜山に眼差しをは投げない。ハオもいつか、ただ、その、眼にふれるものすべてをいつくしむしか知らない眼差しに零一を捉えるのだった。
「くっそ…ほんとうに、な。くっそ。くっそ生意気なくっそ餓鬼でさ。…もう、始末におけねぇ…な?まじ。殺してやろうか?」
振り向いた檜山は零一笑いかけ、…いや。静華がその喉の奥に小さな声を耐えた。「…ぃや。」泣き出す一瞬前の、その停滞し続ける表情をかすかにわななかせながら。
微笑む。私たちは微笑むしかなく、片山は自分の手首をつかんで、ハオに砕かれた小指の痛みに耐えた。…殺さないで、と、つぶやいた静華の、ただ切迫した小声がいびつだった。
「檜山さん、零くん、かわいから…」言った、ハオの故意になまった言葉に、私は零一を可愛がっていると言ったのか、零一も檜山もかわいらしいと言ったのか、一瞬私は戸惑った。
つぶやかれた、聴こえたはずの静華の声には、檜山はなにも返さなかった。ただ、いつくむ一瞥を、無言のままに一瞬くれただけだった。…ねぇ。
静華が言った。そのまま、零一の背後に隠れるように立ちつくしたままに、「私が悪いの。…ぜんぶ、私が悪いの。」ハオはその微笑を、たんなる下卑た笑顔に崩して仕舞い、慶輔は声を立てて笑った。「ぜんぶ、悪いの私じゃん?…零くんも、だれも、みんな、悪くないから。」
檜山は静華を見遣りさえしなかった。ただ、無言のままに、片山を見ているのだった。片山の、自分を睨みつける眼差しを直視する。
「…ね。…そうなの。」…ぜんぶ、…ね?「ぜんぶ、私なの。」
「お前、ぶっ殺されたいんか?」檜山は、片山に言った。片山の眼差しには、明らかに
「ぜんぶ、悪いの私じゃん?…」
留保なき軽蔑に、ただニヤついていた。見下していた、殺意も、憎悪もなにもないままに、目に映るその、目の前の人物のむれ、それらすべてを、
「…違うから。レイレイじゃないから。」
見下しぬいた。片山が、不意にやさしく微笑んで、檜山に顎を突き出して、言う。…だれを?
「違うから。…ぜんぜん、」
だれを殺すんすか?…つぶやく。「笑わせんなよたこ。」
…なんで、
そう、零一は不意に言った。唐突に顔を上げ、私を見つめて。私を責める眼差しさえ浮かべずに、「なんで、ハナちゃん、ずっとニヤついてるの?」
片山がデスクの上に、唾を垂れた。これ見よがしに、軽蔑的に。お前は、糞だよ。ただ、それだけを表明しようとして。ひん剥かれた眼が、いらついて檜山を直視した。
ハオは、声を立てて笑った。
「なにが、おもしろいの?」零一がささやく。私に。…殺さないで。静華のすすり泣く声がした。
背後に。
涙など流してはいない。
「糞だな…」その声、片山の声を聴く。
泣き顔に、その表情を崩しさえせずに、静華はささやく、ふるえる泣き声で、「…違うから。」言った。
ハオが引き金を引いた。横向きに片山のこめかみが脳漿を吹き飛ばして壁にその色彩を撒き散らし、その瞬間に、やっと私は銃声を聞いた。あるいは、それが鳴り響いていたことを認識した。反対の壁を穢した血痕と、脳漿、あるいは何がなんだかわからない吹き飛んだ細胞の群れが、鮮やかな色彩を曝して、垂れた。貫通した銃弾が、砕け散って破壊した壁面の上に。片山の身体が、椅子に座ったまま一度痙攣すると、仰向けに反り返ってひっくり返る。椅子が、そしてその身体が立てたみじかく儚い、そして単に耳障りなだけの騒音を、私は聴いた。
匂った。血の匂いなどしない。まだ。
ただ、煙った硝煙の安物のお香じみた匂いだけが。
耳に痛みがあった。発砲するには、あきらかに狭すぎる空間だった。銃声に飽和して仕舞った空間が、ただ、耳鳴りの中にそのたった一度の銃声を反覆させ続けている気がした。慶輔は耳を押さえていた。
ハオは、数秒間片山の痙攣する身体を見下ろした。顔をあげて、静華を見、慶輔を見、私を見て、檜山を見る。私は、発砲の瞬間、零一が身を固めたのを感じたのだった。そんな記憶が今更のように、頭の中に蘇った。…そういえば、
ハオが言った。
「水、来ないね。」不意に慶輔を見て、ハオは言った。
慶輔は、悲しみとともに哀れんだような、ただやさしい眼差しをハオにくれた。「死んだ?」
檜山のその声に反応したハオは、しかし、なにも答えない。ややあって、ハオは笑う。
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