小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説27ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
夜も明けてはいないまだ早い時間帯に、裸の男女が街を徘徊したところで、眠り込んだままの千駄ヶ谷の町の、だれの目線にもふれるはずはなかった。
いま、世界を…そう、でたらめにときにそう呼ばれるしかない眼差しが映し出したそれら知覚された集合を、見つめるのは私たちの眼差し以外にはなかった。エレベーターを使わずに、
なかなか来ないんだよ。
階段をそのまま降りるのは、愛の
これ。
いつもの癖だったに違いない。愛がなじった。この部屋に私を連れ込んだ二十数時間前に、昇りのエレベーターを待ちながら。…足。
なかなか
愛の
来ないんだよ。
足が一歩一歩段差を確認し、
いらつくの。
痛みを感じない最善の一歩を選択しようとする。
赤裸々な逡巡をさえ曝しながら。結局は、かすかにでも痛みにさらわれて仕舞わずにはおかないに違いないのに。
階段は暗くはない。夜間つけっぱなしの非常口照明が緑色に照らし出す。愛の皮膚を鮮明に、惨めな疲れ果てた緑色にいっそう染めて仕舞いながら。私も同じはずだった。私の、同じように白い皮膚も。いま何階の階段を降りているのかも意識されないままに、いつか一階に辿り着けば、エントランスに向っていく。自動ロックのそれ。ガラス張りの自動ドアが勝手に開いていくこすれあった雑音が、足元にだけ鳴った。外気。
かすかに冷やむ。
ふれた皮膚の、そのすべてに涼気を与えて、かさついた触感さえ感じさせながら、空はまだ暗い。
地上の街頭の照明が、おぼろげな逆光に眩ませたせいで、空はそれ本来の気の抜けた死に体をではなくて、むしろあざやかな夜の鮮度を保っていた。路上にはだれもいなかった。
狭くはない、むしろ広い前面道路を斜めに渡った。
愛は。
私は愛を追った。
逃げ去るわけでもなく、私を誘い込むわけでもなくて、そして愛は私が、自分の後を追っていることをは十分知っている。愛は振り返りもしなかった。
行き場所の、その目的が在るわけでもなく、逡巡を曝すわけでもなく、でたらめに愛は彷徨したのに違いない。その歩みには迷いはない。
歩く。だれにすれ違わず、だれの眼差しもない。
いくつかの個人住宅と、小さな商業ビルと、オフィス、それら。
照明さえともされない、朝の…夜の、…夜の朽ちかけの?その、曖昧な時間に曝される単なる滅びないままの廃墟。
もうすぐ、すぐさまその廃墟が姿を消して仕舞うことくらい知っている。自分がそれを容赦も留保もなく破壊してして仕舞ったことに気付きもしない朝焼けの、あるいは鮮烈で瑞々しい朝の光、そして人々の息遣いによって。
取り返しもつかなく無残に。
残骸。…廃墟はもうすぐ、廃墟そのものの残骸の姿を曝す、生き生きとしたその本来の姿として。
明治通りに出た。そこには明らかに別の気配があった。車が、数十秒に一台か、ときに二台、不意に通り過ぎていくだけの主幹道路。そこの気配に、ある種の廃墟の神聖さは存在しない。たんなる、何かの不在が曝されていたにすぎない。
車、あるいはその内部の人間たちの眼差し。それらは、あるいは捉えたに違いないのだった。私と愛の肌を曝した姿を。犯罪者を見る眼差しのうちに。それとも単なる、在り獲ない夢のように見たのだろうか。あるいはむしろ、一瞬の、どうでもいい軽い軽蔑とともに通り過ぎて仕舞ったのだろうか。
ヘッドライトが路上を照らし、疾走して消えうせた。
立ち止まるものは何もない。原宿方面に、愛は歩いた。表参道には遠い。いまだに、地上に足をつけた人間の姿は見出せはしない。確かに、表参道は奇妙な町だった。日本中で知らないもののいない都市でありながら、それは昼間にしか存在せず、夜になるなれば完全に、生き物のいない廃墟じみた姿をしか曝さなくなる。日付をまたいで仕舞えば、そこは留保なき世界の終ったあとの無人の壊滅された風景であるにすぎない。
歩道橋の手前で、愛は一瞬、立ち止まった。振り向いた眼差しが私を捉えた。微笑みかけるわけでもなかった。
私は愛に、微笑みかけたままだった。その表情は、引き下げるきっかけさえ失って、私の口元に、そして眼差しに、張り付いたままもはや、すでに忘れ去られていた。
一瞬、愛が、私がだれなのか、わからずにいたのは明らかだった。想い出す。すぐに。いる。
想った。
おそらくは、愛は。
あなたはそこにいたのね?
たぶん。
愛が微笑みかけたその瞬間には、私をいざないさえせずに、ひとりで車道に飛び出して、愛は疾走する。一瞬に過ぎない。すぐさま疾走するワゴンが愛を轢き飛ばして仕舞ったから。
急ブレーキの音が、愛の身体が、その不意の疾走の反対に向ってはじき飛んで、空中を駆けていったときに、後れて立った。
愛の身体が空中にもがいた気がした。そんなもの見えたはずなどなかった。一瞬だった。あまりにも急速度の跳躍。
もっとも低空に曝された飛翔。
血を噴き出しもせずに。私の眼差しのなかに、それは間延びした、時間が止まったような、ながいながい空中遊泳に見えていた。眼差しが意図もなくついた嘘が、私の眼差しにもはや離れない。
ワゴンは一瞬留まろうとして、スピードを落しかけるがすぐさま、踏み込まれたアクセルが一度だけエンジンを噴かす。
一瞬車道の真ん中にまでよろめき出しただけで、やがては間延びした、迷いのある低速で立ち去っていくワゴンの後部を見送った。愛の身体は、愛が飛び出した車道の背の、大手のアパレル企業ビルの植林の、茂みの中にたたきつけられ、傷だらけの身体を枝と葉の群れが包みこんでいた。
死んだに違いない。私は確認するべきだった。瀬の低い植栽の樹木の細い枝の群れの茂みが、確認に困難を伴うに違いないことを私の眼差しに、見る前からすでに教えていた。
私の眼差しは、その、小さな葉の夥しい密集に付着した血痕を見出す。もう十分だった。私は立ち去った。
愛たちのビルの前の、外からは開けようのないオートロック・ドアの前に座り込んだ。コンクリートの、ざらついて砂利だった触感のこまやかな痛みの集積に、曝された尻の皮膚は倦む。肌寒い。私は膝をかかえ、うずくまり、ドアを開けるすべは無い。
夜はまだ明け切らない。明けの時間を間近に、その背後に突きつけられて、瀕死を曝しながら。その、瀕死の気の抜けた残骸さえ街頭の照明の逆光が、眼差しから奪って仕舞い、見出されたのは結局はあざやかにすべられた、ただ暗い明けようのない夜の色彩にほかならない。裏切られた眼差しが捉え獲るものなどなにもない。
為すすべもなかった。
開かないドアが、ただ、そのガラス面を曝す。…光。
死んだ愛の、その名残りに付着させた葉の上の血痕にさえきらめいた、光のないそれ。
救済の光。
神々は目論む。留保ないすべてのものの救済を。私は見る。それら、光のむき出しの充溢。目の前に血が流れていた。顔を上げなくとも、そんなことは知っていた。
匂った。花々の匂い。…嗅いだこともない花々の、無数の、無際限な集積。
匂う…光。
救済の、その。
光の密集。口から、あるいは口には違いないたんなる昏いあなぼこから吐き出される、ゆっくりとした鮮血の、水平の移動。
流れる。われもしない気泡さえまばらに曝しながら、その女。
見たこともない女の眼差しが私が捉えて離さない。なにも、眼にふれさえることなどできもしないままに。あるいは、見る、という行為の概念自体、すでに意識さえされてはいないことなど明らかなままに。流れていた。その鮮血は、彼女のただ昏いあなぼこの眼の二つの翳りから、いっぱいに。
翳る。見たこともない彼女が色彩を、完璧に喪失して翳ってただ、そこにいた。
…葉。
電子音が鳴った。
私は顔を上げた。
自動ドアの、上方のセンサーが、小さく緑色に光っていた。その気もなく、立ち上がった私がドアの前に立つと、それはただ当然のように開き、かすかな耳障りさえないやさしい音を立てて、私を館内に迎えた。
「…馬鹿みたい」
慶輔が不意に声を立てて笑った。
ただ、本当に、単純に、そういうしかないくらいにあっけなく、慶輔は唐突にそう言ったので、…なに?と。
そう言い返す隙もなく、私は慶輔を振り返って、そして、慶輔を見た。
見つめた、とさえ言獲ない私の眼差しは、単に慶輔のすがたにふれるばかりで、結局はなにも見出さなかった。「俺たち、馬鹿だぜ。」慶輔は言う。
ハオが言った《きらきらパラダイス》のビルの蓮向かい、自販機で慶輔は缶コーヒーを買った。たたき出された缶コーヒーの、たてた不自然に大きい騒音さえいまだ、耳に残っていた。午前五時半。ハオの言った時間には遅れていた。夜はまだ朝焼けさえ曝さない。一気に缶コーヒーを飲み干すと、慶輔は空き缶を投げ捨てる。
アスファルトに撥ねる音を聴く。
歌舞伎町は、まだその時間を終らせてはいない。まばらにも人々が街を行きかって、どこかに入ろうとする。女を抱くためにか、男に抱かれるためにか。街が匂う。どぶの匂いに香水をぶちまけたような、甘く腐った匂いが、単に物理的に鼻に匂って、いずれにしても慶輔はアスファルトを斜めに突っ切った。「…行こう。」独り語散るようにその背後につぶやいて、私たちはその雑居ビルに入っていく。風俗店の客引きの数人に無視されながら。
いつもそうなのか、その日に限ってそうだったのか、ただ無性に不貞腐れて、目に映るすべての他者にたいしてただただ拒否的な眼差しをくれるしかない背の高い従業員に、連れられて通されたその、薄暗い店の中の狭い通路の突き当たり、事務所スペースですでにハオのイベントは始まっていた。狭い室内だった。もともと単なる個室のひとつだったに違いない、細長い部屋の二十畳もない空間の中に、向かい合わせにデスクが設置され、壁中の棚に書類の群れが雑多に詰まれて、そして、正面の壁を背にして、そのファッション・ヘルス店の管理者が座らされていた。向かいのデスクに檜山が背を向けて座り、ハオは管理者のデスクに腰掛けて、そのこめかみに銃口をあてがってやっていた。
店員は、その風景を見ても、表情さえ変えなかった。中で、何が行われているのかくらい、彼だって知っていたには違いなかった。隣は女たちの控え室だか、更衣室だか、そんな部屋になっているようだった。女たちの地味な、かならずしもその気があるわけでもない嬌声が、ときに、だらしない騒音としてだけ壁越しに聞こえた。慶輔が小さく声を立てて笑った。「この店、俺の客いるんだよね。」耳元に「…女。」ささやく。
ハオが振り向いて、私たちに微笑む。…申し訳ない。今、手が込んでて…。と、眼差しが、そしてハオは何も言わない。ただ、
好きなところ、座って。…あ、
その嬉しそうな眼差しが私たちに
でも、椅子なんかないね。…そう言えば。
彼の言葉をじかに語った、その
ごめん。ほんと、ごめんね…
ただただ人懐っこい響きとともに。
私たちに親しく寄り添うように。
仕事中のハオは、あえて微笑みをくれない。後れて檜山は振り返って、私たちを手招いたが、その手が握った携帯電話で、檜山はだれかに暇つぶしのメールでも送っているに違いなかった。
店舗管理者…役職として店長なのか、なんなのか、私はそのとき知らなかった。後で、ニュースで店長と言っていた記憶が在るから、そうだったのかも知れない。その、サロン焼けした黒肌の男は、見ようによっては慶輔よりも派手に見えた。地方のホストじみた男で、風俗店の管理者としては、たしかに珍しいタイプだったに違いない。管理者は、私たちに一瞥をくれて、そらし、そして想いついたように、訝った眼差しを投げた。
あるいは、彼もどこかで見知っているに違いない私と慶輔が、ハオとつるんでいるらしい目の前の事実に、かるく驚いたには違いなかった。
「…どうするの?」
あからさまな中国語なまりの日本語を、ハオが曝して微笑む。檜山に。
「彼、どうするの?」
檜山は答えない。
ハオがふたたび管理者に眼差しを落とし、その眼差しにはやさしく、むしろ無限にいつくしもうとする気配をさえ見せていた。「…殺す?」ハオは言った。とりたてて凄んでみせるわけでもない。「…まだ?」
檜山は答えない。若者最新流行の携帯メール。伏せられた眼差しが、指先が打ち込むフォントの群れに、その気もないままにそそがれていた。
管理者が、不意に声を立てて笑った。その、ゆれるこめかみに、ふれたままの銃口が揺れる。「お前ら、馬鹿なの?」言った。叫ぶでもなく、罵るでもなく。ただ、白い花に、白いと言い棄てたように。
「やる気ないんじゃない?お前ら。…時間の無駄だからね。単なる。」
私は、ハオの眼差しさえかるく笑みを含んで仕舞ったのを、見逃しはしなかった。ハオが、あきらかに曝した彼への同意が、その管理者にも一瞬で伝わったはずだった。その瞬間、私の眼差しには、檜山はただただ孤独で、孤立した無能な男にしか見えなかった。
ハオの指先が、そのまま下に下ろされたままの管理者の腕を取った。その、腕まくりされた筋肉質の褐色の腕。獣じみて太く、綺麗に脱毛処理されてつるつるし、それには確かに美しく、色づいた息吹きがあったことは否定できない。荒くれた、いびつな綺麗さ。ハオのそれのほうがむしろ、もっと素直に端整で、華奢にさえ見えた。デスクの上に、ハオはつかんだその腕を誘って、腕はやさしくいざなわれるままに、やがて男の指先を拡げさせられれば、その指先はかすかに戯れるような戸惑いを一瞬だけ曝してみせながら、力もなく為すがままに任すことを、いつか一瞬のうちに承認して、ときほぐされるようにデスクの灰色の上に拡がっていく。
私はまばたく。
ハオが叩き下ろした銃尻が、その小指を打ち砕いた。
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