小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説26ブログ版









わたしを描く女

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Διόνυσο, Ζαγρεύς

デュオニソス、ザグレウス













「目の前の涙より重いものはない。」

笑い声。

「そう想った。」

どこか、明らかに

「いきなり、」

軽蔑的な。微笑む。

「振り向いて、」

ハオが、ただ

「俺、親父ぶちのめしたね。」

私に同調するように。そう、…

「担任、あわてて止めに入ったけど。」

…その通り。…そう、

「親父、小便ちびりそうだったよ。」

そうなんだよ。ハオの眼差しが

「親に手、あげるタイプじゃなかったからね。」

ふるえる。かすかに。彼が

「むしろおとなしい…」

表情を眼差しに、感じ取れないほどに

「本ばっかり読んでる、…ね?」

繊細に、あざやかな鮮度を持って

「親父それから、何も」

曝すときに。それら、

「言わなくなったけどね。」

なにを想っているのか、

「でも、笑うんだ。」

かならずしもはっきりとは、

「その女の子、まじで、…」

あるいはかすかにでも

「笑っちゃうんだけど、その子、」

決して私には語りかけはしない、

「もう頭おかしな猛獣見てるみたいな」

表情。…眼差しの。

「そんなふうに、見てるの。」

ハオの。微笑む。

「俺のこと。…おびえちゃってさ。」

私は。ただ、そして

「もし、一歩でも」

見つめた。彼を。

「そいつの方に足踏み出したらその子、」

ハオ。…私は彼を

「あきらかに気絶してたね。おしっこ」

眼差しに

「漏らしながら。」

捉える。

「派手に。ど派手に、…」…さ。…と、ハオが派手な笑い声を立てて。それは喫茶店の館内に響く。だれもがハオのことを知っている。たいていの人間は、ハオに気を使って、その、空間にいかにしてもそぐわない笑い声を棄て置いた。「…今日、来なよ。」何の未練もなく自分の話を勝手に断ち切って、ハオが言った。

「どこに?」

立ち上がりかけたハオに、私は言った。

「決まってる。《きらきらパラダイス》。」

ハオは、当たり前のことを聴かれて、明らかに戸惑ったような顔を曝した。「零一さんも連れてきてあげればいい。どうせ自分でかたをつけられないんだから。深夜の…んー午前の5時くらい。店、知ってるでしょ?ジャンキー風俗。あそこの、事務所にいます。」邪気もなくハオは微笑む。

眼差しは捉える。

そっと。

窓越しに、次第に空が崩壊の色彩に染まっていこうとする。夜の崩壊。朝焼けの無残なあざやかさを空が曝そうとし始める時間、その寸前。

その色彩を、昏いままに未だに微動だにさせようとはしない空が、あきらかにその破滅の予兆を漂わせて、そこに無防備で、知性のかけらさえも感じさせない沈黙をだけ曝した。

疲れ果てた葉は、そのままソファに身をうずめるようにすわり、猫背に丸まって、膝を抱えるだけだった。かけるべき言葉もなく、私はただ彼女を見つめた。「見ないで。」

葉が、想いだしたようにいい、私はあえてなにも言わない。

「わたし、見ないで。」…なんで?

つぶやく。

なんで…「見るの?」

…見たいから、と、そう言おうとしたものの、その言葉を想い付いた瞬間には、私はその言葉自体にすでに飽きていた。光が停滞し続けた。

救済の光が。

ずっと、すべてを満たし続ける神々の光が、眼差しの中に、瞬きさえしない。

持て余された時間の中で、私は葉を見つめる。葉は抱きかかえた膝に顔をうずめるばかりで身動きさえもせずに、はや彼女が死んでいるのか、生きているのかさえ、確認するすべはなかった。私は息遣った。

自分の息遣う、かならずしも聴こえるわけでもない音響を確信しようとした。

時間の、停滞した経過の果てのある一瞬に、明らかに空の決壊を告げる気配が、暗いままの空間に光もなく兆した。

…ふっと。

ただ、そっと皮膚にふれるように。

私はそっち、斜め横のその唐突に息吹かれた兆しをは見ようともしなかった。私は知っていた。空に、明らかな革命が、…あるいは見事なまでの破滅が拡がろうとしていた。人間の卑小な眼差しの中に、あからさまに矮小化されたちいさなドームにすぎなく見えたその大空と呼ばれる惨めなちいさいものに、息吹く。

太陽の、その日照の光。野生の灼熱。遠く、ちいさくしか眼に映らないそれ、身もふたもなく巨大な自己燃焼…自らを破壊し、融合させ、その光を自分の内側から解放してやるにも数千万年をかけなければならない哀れむべき重力の肥満体が、その太古の光をようやく届けおおせる。笑うしかない気の遠くなる時差の中に、空は瑞々しい光に染まろうとし、不意に生まれたての朝の時間を生起させていくのだった。

昇日の光。

それのか細い唐突な決壊が、すべてをなしくずしになぎ倒すように、その深刻で統一された夜のやさしい昏さの一切をかすかに台無しにし始めて、夜がもはや死にかけた残骸としての記憶のような暗さをだけかろうじて曝した。あまりにも無残な風景。

血に染まらないながらも、あきらかに凄惨な、殺戮と破壊が曝されていた気がする。かすかに明るんでいくのが感じられる沈滞した光の気配の中に、私はそのなんども見出した風景をすでに知っている。

眼差しはあえて、その空の惨殺体をなど見ようとはしない。…美しいもの。にもかかわらず、ただ、美しいもの。

もうすぐに、空は朝焼けの、紅蓮の、とでもでたらめに言って仕舞うしかない色彩のグラデーションの無造作な爆発体を、眼差しは否応なく見出さなければならない。「見てきて。」

葉が言った。

「お姉ちゃん、まだ生きてる?」…死んでないよ。

…馬鹿。

「…まだ、お姉ちゃん。」…知ってるんだろ?

お前だって…

私は、そう言おうとする。口元だけが、その吐かれるべき言葉のために、崩れた微笑にゆがむ。私はなにも言わなかった。「…ねぇ。」

つぶやく。葉の声。

…なに?

「見てきて。」

聴く。沈黙したままに、

なにを?

私は。

「…ね。」言って、葉は顔を上げた。泣いてもいないのに、そして、泣いていた事実などありはしないくせに、まるで泣きつかれて転寝を曝してでもいたかのような、呆然とした表情をその眼差しに見せて。

私は葉に、微笑んだ。うなづきもせずに、立ちあがる私を葉の眼が追う。…見ろよ。

私は想った。好きなだけ、見ろよ。

眼差しの先に、じかに曝された私の裸体を。自分が愛し、焦がれてやまないそれを。

見ろよ。…その言葉を、私は葉につぶやき棄てた気さえした。私の言葉が私の唇を咬んでいた。私が葉に眼差しを落とした瞬間に、葉は眼を伏せた。剝き出しの凄んだ痛ましさが、私の眼差しが捉えたその疲れ果てた姿にあった。むしろあざやかに。

葉の唇も、まぶたも、もはやふるえさえしない。

ベッドルームの中で、愛は眼を醒ましていた。あるいは、眠りさえしなかったのかもしれなかった。意識を失いはしても、あるいは、眠り、をは。…決して。

あお向けて、眼を開いたままの愛を、私はその足元に立って見つめた。愛の呼吸は、乱れもせずに、しずかにただ腹部を上下させ、顔はいよいよその姿を顕した内出血のせいで、原型をゆがめはじめていた。原型をとどめない、というべきだったのだろうか?とはいえ、私の眼差しは、それが愛に違いないことを、明らかに疑うことなく認識して仕舞うのだった。

愛が、腕を上げた。腕をあげ、空中をまさぐる手付きを見せた、その腕が実はその着地点を探している事は知っている。ただただ時間を引き伸ばして緩慢なだけの動作。

やがて、あてどなく墜落するようにベッドのシーツにふたたび触れて、愛の両手のひらがシーツの白さの上をまさぐる。あるいは、その、着地された生地の、触感をただむさぼろうとしただけだったかのように。

起き上がろうとする身体が、苦痛にうめきながら身をのけぞらせ、…骨折。あるいは、罅くらい、その骨格のどこか、無数の部位で起こされているに違いなかった。

断ちきれた筋肉と、破壊された筋がうめく。その内側で。愛の身体が痙攣する。かすかに。その、負傷に穢れた真っ白い皮膚の下に。

私は眼をそらした。

愛は身を起こそうとする苦闘に数分間費やして、ようやくベッドの端に座りおおせた瞬間に、彼女が自分で息を整える。傷付いた肋骨に、痛みをふたたび目醒めさせないように慎重に。

背筋をせめても保護するためにか、一直線に逆の湾曲を描いて延ばされた背筋の線に、その凛とするしかない華奢な気配に私は見惚れる。想わず、一瞬。

私は声を立てて笑った。

愛には、言葉を吐く余力などなかった。にもかかわらず、光。

光が私たちを満たす。

光。

救済の、その光。

神々は私たちのすべてを一気に救済し続けるのだった。永遠ともいうべき無際限な時間の拡がりのなかで。

もはや輝きさえしないままに。

息遣った。…愛は。その息遣う音響など聴こえないままに、私の眼差しは鮮明にその、そして鼓動をさえも認識していた。夜はまだ明けたとは言獲ない。言獲ないままに、朝焼けさえ始まる前の、窓のガラスのむこうに、あからさまに夜の色彩的な、気配を帯びた完全な統一が、すべられたままにその色彩の息吹きを破綻させているのには気付いている。もはやそこには夜は存在しなかった。いかにしても。

立ち上がって、一瞬よろめき、バランスを取った身体がこめてしまった筋肉の、不意の硬直に痙攣的な痛みを感じて、愛は瞬間だけ顔をゆがめたものの、息をつき、ややあって振り返れば私に微笑む。私は微笑んでいる。愛に。あるいは、いつくしむように?

私はまばたく。微笑みは崩れはしない。部屋を出て行こうとする愛を追った。そのまま暗いままの廊下を通り、開け放たれたそれぞれのドアを通り過ぎた。それらの存在をすれ違いの至近距離に感じ取りながら。玄関口に素足で下りて、愛は半ば開いたドアを押し開けた。そのままの姿で、足を踏み出すのに、愛に、もはや躊躇はない。

私は戸惑った。あまりにも不道徳な気がして、そしてすぐに私は自分の一瞬の逡巡を嘲笑う。

夜も明けてはいないまだ早い時間帯に、裸の男女が街を徘徊したところで、眠り込んだままの千駄ヶ谷の町の、だれの目線にもふれるはずはなかった。

いま、世界を…そう、でたらめにときにそう呼ばれるしかない眼差しが映し出したそれら知覚された集合を、見つめるのは私たちの眼差し以外にはなかった。エレベーターを使わずに、

なかなか来ないんだよ。

階段をそのまま降りるのは、愛の

これ。

いつもの癖だったに違いない。愛がなじった。この部屋に私を連れ込んだ二十数時間前に、昇りのエレベーターを待ちながら。…足。

なかなか

愛の

来ないんだよ。

足が一歩一歩段差を確認し、

いらつくの。

痛みを感じない最善の一歩を選択しようとする。

赤裸々な逡巡をさえ曝しながら。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000