小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説25ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「日本人なの?」
不意に言った私に、ハオが動じる事はなかった。
「私?」…そう、と、唇だけが動いた私の無音を、ハオは見つめる。「…でも、それは…」
ん?
んー。
…ね、
いやぁ…
ん。
ん?
んー…
ややあって、
「…難しいね。」
ようやく言ったハオは、声を立てて笑った。邪気もなく。「何が?」素直に。「…なにが難しいんだよ。」
「難しいよ」
「なにが?」
「僕は日本国籍。ふつうに。けど、僕が日本人ですっていうのを、一番認めないのは日本人自身でしょ?」…ね?
とりたてて、ハオは興奮も何も曝さない。女の足首の太さの好みを聴かれただけであるかのように、そしてハオの指先はグラスの濡れた肌の装飾彫りにざらついた表面をなぜてみせながら、「別に、それを悪いなんて言ってない」
「…うそ。」
「東アジアの人間って、みんなそうだよ。中国人もね。」…同んなじ。「…同じ猿を馬鹿みたいにのんきにしたら中国人だよ。ちょっと被害者妄想与えたら韓国人だよ。思いっきり短気にした日本人だよ。」
「短気?」
「そう。…すぐ怒るでしょ。日本人。瞬間沸騰機の集団だから、みんなあんなに優しくないと生きて行けないの。礼儀正しく品行方正で過剰にサービスされないとご飯さえ食べられないの。」…違う?
「差別とかされたの?」
「いじめとか?」
「...人種問題で。」私を見つめ、沈黙し、そして、ハオがやがて声を立てて笑ったその笑い声に、屈託もなければ私への侮蔑もなにも存在しない。ハオは、ただ、笑っていた。「…ないよ。」
「うそ。」
「差別ってなに?」
私は微笑む。
「いじめって?」
私は見つめる。
「負ける奴が喰らうのが差別とか、いじめだよ。」
快活なハオを。
「…違う?僕、殴ったからね。すぐ、やっちゃったから。なにかされたら。それって、僕がそいつに制裁喰らわせて、そいつをぼこぼこにした加害者だって事実が残るだけで、どこにも差別問題なんて存在しないよ。だいいち、…好きじゃない。」
「差別主義者が?」
「その犠牲者が。…くだらない。…やられたらやりかえせばいいんだよ。…違う?」声を立てて笑った私の声に、明らかに浮んでいたはずの、ハオへのある種の軽蔑の鮮明さに、ハオは気付きながらも咎めはしない。「…ね?違う?おかしいでしょ。勝手に負けたのは自分でしょ?殺してやればいいじゃない?せめて半殺しとか、半身不随とか、ま、生殺し、とか、…ね。」
「差別根絶の最高の方法は暴力だ…って?」
「まさに。」…頭おかしいよ。笑う私にハオは笑いかけて、「でも、愉しいよ。」
「あなただけだよ。」
「で、なに?」
不意に、ハオが言った。「僕に用があるんでしょ?」
ハオを呼んだわけではなかった。そもそも、彼の電話番号もなにも知らなかった。だれかに、例えば零一や慶輔、あるいは静華に、ハオに会いたいなどと言ったこともない。零一とも、静華とも、あれから顔を合わせていないどころか、声を聴いてさえいなかった。「…ないよ。」
私は声をひそめながら、ようやくそれだけ言った。その声が、はたしてハオの耳に届いたのかさえ、私には疑われた。私は、いまここにいる自分自身をむしろ辱じていた。
「…うそ。教えてあげる。知りたいんでしょ?」
「なにを?」
「く姫と僕が愛し合ってるのは事実。みんな、言うけどね。僕が金目当てで日本人女たぶらかしてるって。それ、うそ。僕はちゃんと彼女を愛してる。で、彼女も僕を尊敬してる。彼女に、…」
「尊敬?」…ん?と、言って、不意に腰を折られた話の断片を唇にぶら下げて見せながら、ハオはかすかな驚きを素直に曝した。その、ふるえもしない眼差しに。「愛されてはいない?…尊敬だけで?」
「愛されてるよ。しっかり。そして、尊敬されてる。僕が彼女に捧げるのと同じように…」…日本人へタだよね?
「なに?」
女の子、尊敬してあげるのが。言って、ハオは声を立てて笑った。「いっつも、一緒に何かするとき、僕、く姫にお金なんか払わせたことない。…お金ないしね。もう。く姫は。でも、僕があるから。全然問題ない。…」
「金目当てだって言ってるよ。みんな。」
「僕が?」
「く姫が。…静華が、お母さん、ハオさんの金目当てだって。」私は言って、私の表情がいっぱいに微笑を浮かべていることには気付いていたが、その、微笑みの理由が私にはわからない。とはいえ、私とハオの眼差しは、お互いが微笑みあいながら見詰め合わなければならない容赦もない必然を、ただ、お互いに知っていた。
「姫は妬いてる。静華さんは、ね。姫は愛されてないから。だから、そう言うふうにしか見えない。姫たちには、ね。僕たちをは、ね。…ほら、」…知ってるでしょう?「零一くん。彼だって、そう。僕のように誰かに捧げる感情を愛と言うなら、零一くんが姫に捧げてるのは愛じゃない。」
「なに?」
「とぼけないで。知ってるくせに。たんなる、…なに?」
「自殺願望?」
「破滅願望、みたいな?燃えるんでしょ。檜山さんなんかの存在が。…ガキだね。…何歳?彼。」…なんで、と、私が言ったその声に、ハオは耳を澄ます。
「なんで、あいつを、そそのかしたの?」
「そそのかす?」
「檜山にもぜんぶ、密告しちゃったんじゃない?」ハオのやさしい眼差しは、曇ろうともしない。「あらいざらい、全部、…」
「だって、檜山さんだってもう気付いてるし、姫だってかならずしも隠してるわけじゃない。零一くんだって、ひけらかしたくてしかたないんだから。僕はそういう停滞して、接続不良なものを、ちゃんとつないであげただけ。」
「あいつらのために?」
「…それは違うかな。」
「なにが?」…なんだろう?…と、ハオは背もたれにもたれて、深く、そしてかすかに背中を曲げていたが、テーブルに投げ出されたままだった左の指先が、無意味な円形を、そのテーブルの表面に書いてみる。手首さえ持ち上げはしないままに。「ちょっと違うんだよね…」…俺、想うの。
「なに?」
「だれかのためにって、その感情って、なんか、…ね?そのだれを見下してるなって。どんなこれみよがしの善意だってね。…だから、チャリティとかあるじゃん。ボランティアとか。ああいうの嫌い。僕。だれかのためにって、なんか、お前は俺なしじゃ生きてもいけない家畜だよって頭ごなしに言ってるのと同じ。そんな気、しない?」
「けど、そうしないと死じゃうんでしょ?例えば、飢えて。例えば、不治の病で。」
「だったら死んじゃえよって想う。尊厳ってあるじゃん?尊厳とともに死ぬべきじゃない?なにが人間の尊厳だよって想うよね。そういう家畜根性。」
「自分がそうだったらどうするの?例えば戦災孤児だったら。」
「生き延びるね。他人の家畜根性に縋って。」
「どうして?」
「生きたいから。」
「家畜根性を軽蔑するんでしょ?」
「でも、生きてるから根性ってあるんだよ。尊厳も、なにも。死んだら無意味だよ。生きないといけない。だから、なにがなんでも生き残るよね。僕は。」
「矛盾してない?」…だからさぁ…と、私をではなく明らかに自分自身を歎きながら、ハオは言った。「…難しいんだよ。だからこそ、…ね?」真面目腐った眼差しが私を見つめる。睨みつけるように。そして、やがては、なにもかも崩れ去るようになしくずしの、微笑みにやがては眼差しさえもが征服されて仕舞うのだった。
「こんな話しがある。」
身を乗り出しもせずに、ハオは言った。
「昔の話。…僕の告白、聴きたくない?」
「聴きたくないよ」
「聴くしかないよ。僕が言うんだから。」激しもしない声でハオは笑い、しずかに、そしてささやいた。「十二歳とか?中学校のね、一年のとき。仲良くしてやってた友達がいるのね。金城さん。…ね。女の子だよ。在日の三世。可愛くはなかったけどね。ちゃっと、えっちくてね。」ハオの「…もててたけどね。」自分勝手な笑い声を、私は聴いた。「いきなり、唐突に中国人、って、俺のこと呼んだの。後ろから。全然関係ない話してたのにね。…べつに悪い子じゃないよ。目立つ子だったし。人気あるし。…人気ある子って、変にいじけないですむから、へんな癖ないじゃん?だから人気出るんだよね。まぁ、所詮在日だけどね…それなりに、彼女なりになんかあったのかな?…まぁいいや。いきなり。」…魔が刺すって感じ?「あかるーい、声。明るい声。おんにちわぁ…的雰囲気。普通に、ヘイ、メーンみたいな。わかる?ああ言うの。」…失敗したのかもね。「ほら、…なに?」…冗談言おうとして。「…まぁ、」…思春期だから。「で、」…複雑なお年頃じゃない?「振り返ってみたら、」…かつ若干センシティブなな、…ね?「あっ、…って。」ハオは声を立てて笑い、私に寄り添うように身を乗り出して、「ほんと、ただ、」テーブルに両のひじを突く。「あっ、…て。」…ね?「言った本人があっけに取られてる感じ?クラスの天使系アイドル、白昼に天使に通り抜けられたって感じで。…自分でびっくりしてる。どしようも、収拾つかない感まるだしでさ。なんとか、とりつくろうとしてんの。必死に。何にもできずに、結局ただ立ちつくしてるだけなのに。」…笑いかけてやったよ。「微笑んで、」…俺、彼女にね。「で、俺、ね、いきなり」…やさしく。「ぶん殴って遣った。」いきなりハオが笑いだしたので、私はまばたき、その私のかすかな困惑の表情にも気付かないままにハオは話し続けるのだが、「ばこーん…って。」
ウェイターが通り過ぎた。私たちの
「ぶったおれたよ。その子。」
傍らを、私にだけ
「派手に。…でも」
微笑み、彼はそして
「違う。ぶち切れたんじゃないよ。…俺。」
めずらしい私たちの組み合わせに一瞬
「勘違いしないで。むしろ」
戸惑って仕舞いながら、とはいえ、
「全然、普通に、」
いずれにせよ、
「…けどさ。」
ここは何が起こるかわからない店だった。
「違うから。」
一年に二回はかならず
「なんか、救ってやりたいじゃん?」
やくざか闇金融どうしの乱闘が始まって、
「ぜんぜん、そんなんじゃないからね。」
警察沙汰になり、
「救う…てか。」
街にまでその数十人の集団があふれて
「…まじで違うから。」
物見の私たちの大量の群れをも巻き込みながら、
「意識なんかしてないけど、なんか、」
そして、時には発砲事件が起こった。ここで
「その子立ち尽くしてんの、なんかね」
なんどか見たことが在った、その発砲。そして
「たすけてやんないと。…で、みんな、」
銃声。一度だけ、頭が飛び散った。
「シーン。…なにごと?みたいな。」
脳漿を散らして。弱小やくざの
「女子の子みんな俺にさ、」
その親分かなにか、…四十代の
「泣いてるその子の代わりに」
男の身体が後ろ向きに倒れこむ。悲鳴。
「縋ってくるのね。」
そんなもの、
「ごめんーみたいな?」
上げるものは吹き溜まった
「ごめんごめんごめんごめん」
キャバクラか風俗の女たちにすぎない。慶輔は笑った。
「悪気ないからまじないからほんとだから。」
その時に。そして、私の
「ゆるしたげておねがいまじで」
眼差しのむこうで男たちは
「…的な。で、別に…」
言葉もなく失禁しそうな顔を
「ぶち切れてないじゃん。俺。」
曝しながらただ、息を
「…困る。なんか、適当に…」
ひそめて声もたてずに
「いいよもうけどにどというなよおれにそんなこと…」
猫背で走って逃げていく。
「…的な。あきらかに棒読み。」
慶輔がささやく…殺られちゃったね。
「笑うよ。」
あいつ。
「自分で。」
あのおっさん。
「それはそれなんだけど。」
…馬鹿…馬鹿なの?…まじ、
「その子いい子だったからね。」
笑うんだけど。
「…だから」
そう
「家に両親から侘びいれの電話入ってきたの。いきなり。」
つぶやいて不意に、
「いきなり?」と、唐突に言った私にハオは、一瞬戸惑って「…そ。」つぶやく。そして、ややあって、もう一度微笑みに顔を崩しながら私を見つめ、私と同じ男。
「で?」
同じように、同じような性別を愛しているはずの男。
私はそれを、ハオに確信した。
「電話出たの親父。親父馬鹿だから。いきなり激怒。怒鳴り散らしてんの。こいつ馬鹿なのかなって、想うしかないよね。俺はね。で、次の日俺と一緒に学校乗り込んできてね。…朝の通学のとき。職員室、俺連れて乗り込んで行った。いい見世物じゃん?恥ずかしく嫌なんだけど、そこまでくるとさ、むしろおもしろくなってきてたの。…俺。で、首根っこ親父につかまれたままかならずしも抵抗しなかったけどさ。やばかったな、先生みんなおびえてるぜ。あきらかに。やっぱ。怒鳴り込んできた異物じゃん。異分子。親父って。あきらかガイジン。お前誰?的な。先生たちって、そういう異物に対応できないんだよね。ああこいつら俺より世の中知らない、学校の中だけで奇形化しちゃった使えない人たちなんだなって、それ、偽らざる心情。…で、」その、ハオの背後の、
「はじまったわけ。」
出ることしか出来ないドアが開いて、ひとりの
「校長室で懺悔集会がさ。」
男が出て行く。しらないホスト。
「校長と教頭と担任と副担任と」
私のまだ知らない、名を
「その金城さんとかさ、」
たぶんまだだれにも
「呼びだされて」
知られていないホスト。
「女の子、もはや」
…十代?猫背で、彼が
「すでに泣いてるからね。」
数日で失敗するに違いない事は
「かわいそうじゃん」
見ただけで分かる。
「こいつら馬鹿?って」
入れ違いに入ってきたキャバクラの女が、
「想うよね?だれも、」
大袈裟に胸を押さえて階段に
「親父も含めてさ、」
足元を確認しながら降りてくる。私の
「だれも守らないもの?」
知らない女。そして
「…むかついた。」
たぶん、安い女。
「単純に。」
安価な
「だれもが」
時給しか稼ぎ取れない
「被害者づらさらして」
安い女。安っぽく
「その、女の子含めてね。」
だれも自分にはふれない仮想された人目を気にして
「だれもが加害者なの。」
歩く。真ん中の通路の
「むかつくじゃん?」
真ん中を、尻を振って
「泣いてるじゃん?」
見せながら。笑った。私は
「被害者づら下げた差別主義者の在日の子が。」
笑って仕舞った瞬間に、ハオは見逃さない。私の
「…想ったの。涙、だぜ。」
その
「目の前の涙より重いものはない。」
笑い声。
「そう想った。」
どこか、明らかに
「いきなり、」
軽蔑的な。微笑む。
「振り向いて、」
ハオが、ただ
「俺、親父ぶちのめしたね。」
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