小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説23ブログ版









わたしを描く女

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Διόνυσο, Ζαγρεύς

デュオニソス、ザグレウス













「…ね。」

静華は不意に声を弾ませた。

「零一、待ってるかな。」

むしろ意図的に少女じみた気配を含まされたそれが、私には痛いたしいだけだった。目に映るのは

「…私のこと。」

明らかに女じみた肉体を半分曝した、三十過ぎの女にすぎない。

「どこにいるの?…あいつ。」

「私の部屋。…神泉の。」

「檜山さんは?」…ん?

そして、静華は声を立てて笑い、ちいさく、「来るよ。」口元にだけその笑い声をこぼす。「…もちろん。男じゃん。わたしの。」

「かちあうじゃん。」

「かちあった。何回も。」

「殴りあった?」…まさか。静華は上半身を起こして、首を突き出して私に媚びた眼差しをくれたが、「ぜんぜん。…わたし、言うもん。」私は眼をそらす。

「私の弟的存在なのぉ…って。」…ね?

明らかに成熟した、豊満で美しく、色づいて、そして男たちの羨望を集めてやまない、いわば女として選ばれた存在であることを誇示しようとする意志と、いたずらに少女じみたなにも知らない危うさをあえてひけらかせようとする意志の、いかなる葛藤も孕まないでたらめで、ふしだらな共存が、いつか私に留保ない軽蔑だけを与える。…あいつら、

「仲いいよ。本当は悪いんだろうけど。けど、なんか、仲いい。一緒に飲んだこともあるんじゃん?」

「見られないの?」

「なにを?」

「やってるとこ。」邪気もなく声を立てて笑った静華は胡坐をかいて、…ね。

言う。…きいてきいて。

「聴いて聴いて。」…笑うの。…ね?「きいてきいてきいて」まじ、…「笑うんだけどさ。」

はしゃぐ静華にも夕焼けの日差しは容赦なく、その肩にだけふれ、「あわてた。昼間。帰ってきたの。檜山。一回出て行ったあと。いきなり。あいつ。あわてるじゃん。うちら。…で、どうしようもないじゃん。」

「どうしたの。」

「寝たふりした。…零くんは寝てたから。本当に。だから、知らないと想うけど。」…そう。と、私が相槌を打ちかけたことにさえ気付かずに、「…騙されてると想ってるでしょ?」

不意に、静華は言った。

「だれ?お前?檜山?」

「お母さん。…」ふたたび見あげられた眼差しが、私を見つめ、そして、意味もなく曝された体を見下ろして行った。とりたてて色づいた眼差しを曝すわけでもなく。

「勘違いしてない?たぶん。みんな…あのふたり、さ。実は、中国人のほうが本気なのね。…」

「…ハオ?」

「知ってた?あいつ、ほとんど中国なんか言ったことないらしいよ。あいつ、日本人だから。」

「そうなの?」

「…そ。日本生まれ。戦争のときに捕虜か何かで連れてこられて、そのまま日本にいついちゃった、…残留、…なんて言うの?そういう人の子供。…の、子供、か。」…嘘だろ。

言った私に静華は戯れる眼差しをくれて、声にかすかな歓喜の色彩さえ添わせる。…それ、…ね?「あの片言の日本語でしょ?ハオが嘘ついてんだよ。あいつ。お母さんとだけ話してるとき、ぺらぺらだもん。」

「なんで?」

「中国人になりたいんじゃない?」

「中国人なんだろ?」

「だから中国人になりたいんじゃん?」…馬鹿みたい。私はソファにもたれかかって、慶輔はまだ寝ているに違いない。

「…騙されてんの。あいつ。」

まだ、彼が起き出す時間ではなかった。…なに?

なにに?

「自分のアイデンティティ…的なものに?国籍、とか。出自、とか…」

「なにそれ?」不意に、静華が問いただす。「しゅっ、…しゅつ…」…日本語だよ。ただの。と、そう言った私を、静華は無視した。「まだ、あんだね。」ひとりだけ笑う。「わたしの知らない日本語。」自分勝手に。…お母さんに。

静華は言った。

「騙してるのは、お母さん。…騙してるわけじゃないけど。…みんなおばさんの金目当てみたいに想ってるじゃん。…違うからね。あれ。ハオのほうが惚れちゃってんの。…マザコンなん?…違うか?…とにかく、ね。いい?まじ惚れ。頭痛くなるよ。見てて。なんて呼んでると想う?ママのこと。」

「なんて?」

「くひめ」

「なに?」

「くー姫。」静かな立てた派手な笑い声が、空間の下部だけをふるわせる。「久美子ちゃんだから。ママ。それで、くー姫。…とか、くーちゃんとか。…あとね、くーとか。」

「馬鹿?」

「馬鹿。」…ママなんてお金ないからね。静華はつぶやく。独り語散るように。「だから、養ってるの、ハオくんのほうだからね。」…あ。

静華の唇は、唐突にその一音を吐いたあとに、形態をかたまらせた。…なに?

私はなにも言わなかった。心の中にだけ、その疑問符が一瞬だけ連鎖して、「出した?」静華は言った。

「なに?」

「中に。」…まさか。言った私に静華は崩れた笑みをくれ、…出されたと想ってた。言った。

「そんな気、した。べたって。」

「無理だよ。」

「なんで。」

「萎えた。すぐ。単純に。」声を立てて笑った私たちは、「気付いてたろ?」なすすべもなく「お前も。」空間をふるわせる。…ねぇ。

「知ってた?」ややあって静華が言ったとき、私はもはや疲れ果てていた。静華が目の前に存在していることそれ自体に。「なにを?」

「女になったの。わたし。」

静華が軽蔑を含んだ笑い声を、鼻にだけ立てる。その気配に、違和感を感じた私が静華を振り返った瞬間に、静華は噴き出して笑った。「いまさっき、失った。」

「なにを?」

「ヴァージン。」

「まさか。」

「ほんとだよ。」…企まれた静華の笑顔に、私が感じ取るのは生理的ないじきたなさらしさにすぎない。「…まじだから。」

「零一は?」…できないもん。静華の、独り語散たつぶやきがじかに耳にふれる。「あいつ、…知ってた?あんたのせい?…できないよ。こんなに、…」…ね?「セクシーで、色っぽくて、いい女で、…」むしろ、町のセックスシンボル的な?…「むしゃぶりつきたい女ナンバー・ワンというか、…さ。」…じゃない?「愛人にしたい女もといお嫁さんにしたい女てか、恋人にしたい憧れのお姉さんナンバー・ワン的わたしにさ…」…知ってるでしょ?

さまざまなかたちの笑みに戯れる静華が、彼女の表情の下の、かすかで執拗な葛藤を、容赦なく曝した。隠されたわけでもなく、単に秘められた感情。「だれだって、…怖いからさ。自分が傷付くのが。だからだれも、直接やらせろなんていわないけどさ。」…時々言う馬鹿いるけどね、「みんな欲しくってしかたなくて、…で」…ひっぱたくけど。「群がってくるのに。…あいつ、だめ。」

「お水やる前の男だっていたろ?」

「いないよ。」…馬鹿にしてる?…ひょっとして。「私のこと。」…お難いんだよ。「だれにもさわれない宝石みたいな女なの。」言って、「男なんて、」しばらくの沈黙の後、「指咥えてるしかないんだよ。」ただ装われない誘惑の鮮明な眼差しを送り、その色づきに自分勝手倦んだ瞬間、不意に、静華は声を立てて笑った。

「お前、馬鹿?」私は言った。私は笑っていた。…帰る。静華は言った。

「今日、忙しいんだよね。…わりと。」

いきなりつぶやくと、服を着なおして手を振り、化粧さえ直さずに出て行った。


「わたしたち、いつえっちしたの?」葉が振り向いて言い、私は微笑む。

「直後。」

「キスの?」

「終りかけのころ」

「まじ?」

「押し倒した。…我慢できなかったから。」…やばぁあー、と、葉の伸ばされたふしだらな語尾が耳にふれる。「でも一回目未遂。」

「なんでよ?」

「見つめただけで出しちゃったもん。俺。」…馬鹿?葉は声を立てて笑って、私はその笑う葉を見つめながら、猫が、空間の暗さの中にさえ、自分の体毛の白さをほのかに、あきらかに明示して斜めに床を歩いていった。絨毯の白と、同じ色彩の、まったく異なった色彩の差異に、私は笑って仕舞いそうになる。…覚えてる。

葉は言った。

「…雨が降ってるの。」

「いつ?」

「むかし…」と、もはやなんども繰り返して話しすぎて、それで話すこと自体に飽き果てたような倦怠感を露骨に眼差しに浮べ、葉は言った。「十歳くらい?…十一?…そんな、」蓮向かいのソファに座り込みながら。「庭先で。…昔住んでた、新宿区のはずれの田舎っぽいところ。…雨が降ってるの。ずっと。」…ね?「…で、見てるの。…ね?」雨って、…匂うよね。「わたし、ひとりで。…てか、」…知ってた?「ひとりじゃないかも。」…笑う。なんか、「だれか、…お姉ちゃんとか。それか、」くっさくない?…雨って。「パパとか?いたのかもしれないけどなんか、ひとりなの。わたし的にはね。紫陽花咲いてるんだよ。…あじさい。庭先に。月並みなんだけど。…違うか。なんか紫色っぽい、青の…」ね?…紫陽花って、「とにかく、ぬれてるの。…雨。」なんか、いっぱい、「雨、ずっと」…ね、「降ってる、その、」種類あったりする?「なんか生暖かいの。そういう雨。音、するじゃん。…雨って。雨、降る音。」

「…なに、話してんの。」

「わたしが言葉話さなくなった理由。…その雨見てた次の日の朝、起きたら言葉話さなくなっていた。いきなり。」

「なんで?」

問いかけた私を見つめ返し、ややあって葉は理由も告げずに失笑して仕舞うのだが、…だから、と、つぶやく声にかすかな哄笑が、隠しようもなく添う。「雨が降って、紫陽花かなんかの花が濡れてた、その次の朝の晴れた光があざやかだったんだよ。」…なんとなく。…ね?「なんとなく、ぼわって…そういう…けど、あざやかなんだよ。なんか…」儚いよね?朝の光って。…「わかるでしょ?…わかんなくても。」…なんで?「言葉なんかもう話さない。そう想ったら、話せなくなった。話さなかったから。言葉なんか。」

「なにそれ。」

葉が、声を立てて笑った。

「すっごい、切実な話なんだけど。」…わたし的には、…ね?「切実過ぎて、痛い。」…どうしようもないくらい、「痛いの。…痛い。」

握った拳が燃え上がってるのは知っている。

「…知ってる?」

私はその力まれきった拳を痙攣させるばかりで、

「花ってさ、…ほら」

もはや燃え上がった自分の身体に、

「雨に濡れた青系の…紫系の?」

抗うことさえできなかった。…なぜ?と

「花って見ると、なんか、」

生まれてきたことそれ自体を鮮明に

「…ね?」

後悔さえした気がしたがすでに、

「痛いんだよ。なんか、」

その想いは記憶にさえ残らずに、確かに

「頭の中が。…心って言うか、」

感じられているはずの炎の

「単に、」

灼熱と筋肉さえ燃えあがって

「頭の中。…そこだけ」

崩壊していくしかない容赦もない

「むしろリアルに痛い。」

苦痛はすでに意識されてさえいない。もう、

「だから…さ。」

わたしのすべては

「救いたいじゃん。…なんか。」

崩壊しているにも拘らず、なぜ

「人間だから。…わたし。」

私がいまだにたかが数十秒ではあったにしても

「人間的にやさしくってさ、…で」

生き残っているのかそのでたらめな

「…も。でもさ」

現実に戸惑うべきだったのだろうか?倦む。

「わかんないじゃん?」

もはや感じられはしなかった

「…ね?」

燃え上がる

「雨に、…」

全身の苦痛に、

「ぬれてる花の」

そして

「救い方。」

見上げらた空はただ青く、それは

「…笑う。」

私に対する絶対的な裏切りでさえあった。それだけは

「なんか、全部無理。」

違うとかろうじて滅びかけの

「なんにもできないの。」

眼球組織が捉えたその色彩に

「救いようさえない」

非議を叫ぶ。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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