小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑳ブログ版









わたしを描く女

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Διόνυσο, Ζαγρεύς

デュオニソス、ザグレウス













「嘘だろ。」…それ、と言った私を「完璧に嘘じゃん。」零一が見つめ、「…絶対的に。」眼をそらし、そして。

鼻でだけでちいさく笑う。「本気だって。」言って、その自分の吐いた言葉の音響を、たぶん耳の中で咀嚼した数秒のあとに、不意に零一は声を立てて笑った。

ソファに大股をひらいて、下着まで見せ付けて巻き上がらせた太ももの肉付きを、弛緩したままにゆらゆらばたつかせながら、静華の眼差しがルーフ・バルコニーのほうをあてもなく彷徨って、逆光の光。

その位置から、見あげた静華の眼差しが捉えたのは逆光にかすかに昏んで仕舞った空の風景のはずだった。

窓枠に、綺麗に切り取られて仕舞ったちいさな人間サイズの空。その、窓枠を取っ払って仕舞ったところで、結局は人間の眼球と頭脳の限界をそのまま曝して、人間が許容できる大きさに過ぎない湾曲した青い形態を曝すしかないちいさな空。

だれが、大いなる空などという見獲もしない戯言を言って仕舞ったのか。それは自分の存在のすべてなど曝しきったことがないままに、だれのためにでもなくただそこに、なにも曝しきれもしないままに停滞し続けるに過ぎなかった。…穢らしいだけだ。

静華の口が、適当に感嘆句をならべて見せた。やべぇ。…すっげー。…まじなのぉ?…それらの想いつく限りのヴァリエーション。よくもそこまで想い付けるものだと私は意識のどこかでそれらのただ吐き棄てられるだけの言葉を聴いたが、乱れた息遣い。吐かれる息のすべてが酒気に酔う。

「…笑ってた。」

零一が言った。「おばさん、笑ってたよ。」

「…お母さん?」…そ。ハオを…

「中国人に外車運転させてさ。…要人気取りだよ。旦那から巻き上げたあぶく銭しか持ってないくせに。…中国人に食わせてもらってるだけの癖して…」…穢ったねぇの。…「人殺しの金だぜ。…」…お願いね。「って、…さ。」…陽菜子のこと、よろしくねぇえ…

その、翔子の口真似が私の耳につき、私は源氏名静華の本名を知った。「…おしあわせにねぇえ…」…笑う。まじ、…「まじ、うけるんだけど。」

零一の眼差しに笑みは跡形もなく崩壊し、静華がときに想いだしたようにたてる気の立った笑い声以外には、笑い声などなにも響きはしない空間の中に、しずかに零一の眼差しは黒眼にしろい光の反射を散らす。

きらめき、…とは、言い切りたくないかすかな息遣いのようなきらめき。の、ようなもの。

私は瞬いた。

「…逃げたら?」

私は言った。

「…逃げるって?」

「どっか。静華連れて、逃げたら?…ハオだったら何とかしてくれるんじゃない?」

「中国とか?」

「知らない。ハオなんかさ、…信用なんか一切できないけど、信用できないやつだってことは信用できる。裏切らないよ。…あいつのぜんぶが最初から単なる裏切り以外のものじゃないんだから。そういう意味じゃ、信用できる。」

「わかんねぇよ」零一の唇が笑い声を不意に「…むずかしーね。」漏らして、その「ハナちゃん、…」唇は一瞬「むずかしーよ。」停滞し、なにか言葉を探した。…馬鹿にしてるの?

「…なに?」

そう言った、私の眼差しの先には零一がいる。しずかに、「俺のこと、…ハナちゃん、ひょっとして、」私を見つめて。「馬鹿にしてるのかな?」

「なんで?」

「俺、本気だから。本気で、」…指先。「こいつ、…さ、」静華の鼻をつまんで、「本気で本気だから。」戯れてみせる。

ぶうっ、…と。わざと静華はつままれた鼻をならして、声を立てて笑った。

「なんで好きなの?」

私は葉を見つめていた。

「…俺のこと。」

葉は私を見つめ、かならずしも私たちがお互いを見つめているわけではないことには気付いていた。

私たちは見詰め合っていた、お互いに、お互いに対してその眼差しを、投げつけてみるしか為すすべもないのがった。私の眼差しが何の表情をも語りかけはしないことには気付いていた。見つめられる、葉の眼差しもすでに。

「…好きだから。」

葉の声のその語尾が、彼女自身の笑い声にかすかに震えた。ややあって、後れて投げやりな笑い声が口から立って、私は彼女のために微笑んでやった。…ね。

葉は言う。

「宿命って信じる?」

「…宿命?」

「とか。…ね?前世の約束とか。…運命。…使命。…さだめ。…」

「なに?」

「とりあえず、ぜんぶ宿命のせいにしちゃおうよ。」…ね?「ぜんぶ。…いい?」

葉の、媚もなく綺麗に笑んだ眼差しが私に、じかにふれた。蹂躙するように、容赦もなく。「いいよ。…好きにして。」私は言った。

「宿命。…前世の、前世の、前世の、…ずうっと。…ずうっずうっとずうっと前から、約束されてたの。私たち、出会うこと。愛し合うこと。で、生まれたの。…笑う。私たちが愛し合うために、この世界は。…まじで笑う。地球の歴史も、生命の歴史も、なにもかにも。アウシュビッツの犠牲者もヒロシマの死者たちも、どこかの国の虐殺も、軍部の蜂起も日本人が殺したアジア人の大量の群れも。地震も津波も火山灰も。マチュピチュの絶滅も月の荒野も乾いた海も、海王星のダイヤモンドの海もなにもかもぜんぶ。…昨日、蝶ちょがバルコニーのスイートピーに止まったのも全部、いま、わたしとあなたがここで見つめあうためにだけ。…愛し合うためにだけ。…すべては、わたしとあなたの宿命。それ以外になにもない。」

「…いいね。」

「そうしちゃう?…そうしちゃおっか。」笑む葉の眼差しに邪気はない。「…ね?」なにも。「…そうしよう。」そして、私の眼差しの先に立ちつくしたまま葉は、もはや自分の吐くべき言葉の不在を、あるいはもとからのからっぽな空虚を、ただ嫌悪して無理やり埋めようとするままに、彼女は彼女の言葉を探した。「…好きだよ。」

葉の声。

「あなたのこと、」

聴く。

「好きだよ。」

葉の声を、私は。

「…想像していい?」

不意に、想いつかれた瞬間に葉の眼差しが企みをもった。

「なにを?」

「キス。」…ん?

「キス?」

「ふたりのキス。」…あつーい。

あつーい、…ふたりのキス。「いい?…想像しちゃって。」

…音響。耳にふれ、

「だめって言っても、」…ね?

聴こえる音響は、もはや

「…しちゃうけど。」

むしろ葉の声のその

「想いっきり、…」…んー。

音響それだけだった気がする。

「あっつー…いの。」

そんなはずもない。事実、無残で、凄惨なまでに空間はさまざまな、かすかな、微細な、雑音に塗れながら、停滞することないのない存在を曝し続けて、留保なく無慈悲なまでのそれらの停滞を曝していた。無数の雑音に塗れた。息をひそめた微弱音として。私は葉の言葉にだけ、そしてその不意の空隙にだけ、まったき沈黙と静寂を感じた。私は私自身をすでに裏切っていた。私は世界そのものを裏切っていた。あるいは、世界そのものは私を。…てか。

不意に、葉が言った。「てか、ね。…ん。…ね。…んー、…」

戸惑いを無造作にその眼差しに曝し、恥じた色さえ浮かべて、困惑の数秒のあとに、声を立てて笑った葉が言った。「名前、…なに?」

たしかに、私は葉にいちども名乗らなかった。彼女が私の名前など知っているはずもなかった。「ハナちゃんなの?…ひょっとして花雄くん?…笑うね。なんか。」

…想像してよ。

そう、葉は言った。「…ね。花雄くんが想像して。…私のこと。むしろ。…花ちゃんが、私とのこと、…ぜんぶ。百億回繰り返すキスも、一億くりかえすえっちも、しあわせなデートと、最高の結婚生活と、じゃっかん梃子摺る子育てと、老後と。…想像して。わたしの幸せな死。…花吉くんがやさしいことばをかけてくれながら、いっぱいめに涙をためて見送ってくれるの。必死になって泣き崩れるの我慢して。…強くならなきゃ駄目だって。…でも、ね。私が死んだあと、花ちゃんはもう朽ちた花。…からっぽなの。…なんにもないの。すかすかなの。からっからなの。…私がすべてだったから。…葉っぱのない花なんて想像できる?…ね。…想像して。」…ぜんぶ、「想像して。永遠の先まで。…私を見つめながら。」

…ね?

零一は言った。

「…俺があいつ、ぶっ殺すところ。」…想像してみて。「どんなだろ?檜山の死ぬところ。…」…奪うから。

「…俺。まじで。」…こいつのこと。

「…まじ。」

眼差し。

「本気だよ。…ただ、愉しんでるの。」

確かに、零一は本気でそれを言っているのだった。

「猶予って言うか、その、俺の手のひらの上に転がってる時間を。」

眼差しに、媚も気づかいもなにもない。ただ、彼は、彼の眼差しが見ているに違いない風景を見ているに過ぎない。

零一は声を立てて、かすかに笑った。笑い声は、喉にすこしだけかすれた。…ほら。

零一が手のひらを差し出して見せる。もちろんそこにはなにもない。「ほら、…」私は零一の見るものをは見ない。零一は、

「ここに、ぜんぶある。」

つぶやく。舌に嘗め回すように、その音を口の中に転がして。

「あいつら、ぜんぶぶっ殺す。」…殺されるよ。

私は「殺されちゃうぜ。…」言った。「そのうち、檜山に。」

「知ってる。」声を立てて笑った零一の眼差しに、一瞬だけ明らかな私への、あるいは彼が眼差しに捉える自分以外の私たちすべてへの軽蔑が浮ぶ。そして、その色彩は自体はすぐさま消えうせて仕舞うものの、結局は消え残った名残りの痕跡の執拗さが、私に彼の蔑意の鮮烈さを感じさせてやまない。私は彼の投げつけた軽蔑にまみれてやった。

「みんな、そう想ってるでしょ。…知ってる。ぜんぶ、知ってる。それならそれでいい。殺されたならそれでも同じ。俺は俺をぶっ殺したんだよ。それだけ。…違う?」

「いつ?」

「知らない。…ここにある。」零一の手のひら。

実際には、労働らしい労働などいまだかつて、一度たりともすることのなかった彼の手は、「ぜんぶ、…」ただ、「ここにある。」真っ白く、やわらかく、「ここに、…ここで。」お姫様じみた華奢な気配を持つ。「それを、」…ね?「愉しんでるの。」…俺。…いま。

零一が瞬いて仕舞った瞬間に、私は自分の心さえ一気に跡形もなく自壊した錯覚に駆られた。指先で、私は自分の眉間の、いつの間にかしかめられていた醜い、あるいはかならずしも美しくはないはずの皺みを、伸ばした。なぜ、いまさらそんな事をするのか、自分でも分からなかった。「何で笑ってるの?」

かすかなおびえを、あからさまに曝しながら零一は私をのぞき見た。「…なんで?」

私は微笑んでいた。あるいは、より正確に言うなら、失笑。苦笑。私の頬のゆがみと眼差しの色彩が曝していたのは、そういったもの。…なんでもない。

「うそ。」

「なんでもないよ。」

「本当のこと、言ってよ。」早口に食い下がる零一の頬を、酔いつぶれた静華の指先がなんの遠慮もなく戯れた。単なる古びたぬいぐるみを今更破壊して仕舞おうと、その気もなく目論んだかのように、その無造作な手つきが零一の、鼻をいじり、鼻の穴にさえ突っ込まれて、頬をなぶり、唇をもてあそび、口の中に突っ込まれようとした指が歯にぶつかって行き場を失い、そして零一は取り立ててそれに抗おうともしない。

感覚器さえ失った、でくの坊が私を見ている錯覚に捉われた。…なんで?

「なんでうそつくの?…なんで本当のこと、言ってくれないの?」

ややあって、私は零一の眼差しに赤裸々な絶望が無造作に、そして素直に?そこにただ曝されていることに気付いた。私の微笑みにはいつくしむやさしさが浮んでいたはずだった。零一がそれを見失っているに違いないことが、私を猶予もなくおびえさせ、零一の左の眉だけがかすかに一度だけふるえた。

私たちは数秒の間、見つめあうしかない沈黙だけをむさぼった。空間の下方に、意味の分からない、もはや私たちのどちらにも聴き取られてさえいない静華の戯言がでたらめに散乱して停滞していた。零一が前触れもなく立ち上がった。

零一は微笑んでいた。その微笑は私を素手で安らがせるばかりで、なんの屈託も在りはしない。彼が、微笑んでいる事実をさえ、一瞬で私から忘れ去らせて仕舞ったほどに。

立ち上がった零一の眼差しが、私を見つめたのはただの一瞬に過ぎなかった。背を向けると、雪。

私は静かに降りしきる雪を見ていた。…知っている。私の最期の瞬間に、私の眼差しが捉えるしかない、その風景。

海に雪が降っていた。空は白い。

雪は白く、海はその塩漬けの有機物を腐敗させたような潮の匂いを撒き散らしながら、にもかかわらず白い。

空の白さへのなんの拘りもない擬態と擬色を素直に曝し果てて、結局はその色彩を打つ浪のこまかな破断面の群れの翳りが裏切って仕舞う。いともたやすく。かつ、容赦なく。むしろ、それはこれ以上考えられないほどに凄惨な営みだったのかも知れなかった。

海は、その色彩をさえ無造作に自ら破壊し、自己破壊の色彩さえ自ら破壊して仕舞わざるを獲ないのだった。それは、海それ自体が曝したそれ自身の不可能性などではなくて、単に海のありふれた可能性が濫費する現実にすぎなかった。海に、破壊的でない要素など何もなかった。雪が降っていた。

白濁した色彩の中に、麻痺し果てた皮膚はもはや温度をなど感じ取りはしない。すべてのものが、光り輝きもしないままにその微粒子の単位に至るまでのその内側から、光のない光を放っていたのには気付いていた。

神々の光。…そうとでも、名付けざるを獲ないもの。満たされていた。すべては光に。

容赦もなく。

雪が降り続け、私の眼差しはいつ私が死んで仕舞ったのかの、その瞬間の到来にさえ気付かないままに、ただ、見つめた。雪。

戯れ、舞い、散り、まっすぐに墜落し、あるいは乱れた。

雪。その色彩。

私はすでに死んでいた。

…光。

零一はさようならも言わずに部屋を出て行った。静華を、自分勝手に私の部屋に置き去りにして。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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