小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑲ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
葉が、私たちを見ている事は知っていた。背後で。壁に背をもたれて。愛は気付いていたのだろうか。その、刺すような葉の眼差しに。不愉快なほどに、異常な発汗が愛の身体を濡らしていた。自分のふれているものが、自分に直接ふれながら壊れていく容赦もない実感が、むしろ私をいじきたないほどに恐怖させ、その自己憐憫さえ含んでる気がした恐れを私は自分で軽蔑して仕舞いながら、愛のなかで、自分のそれが機能を失っていることに、後れて気付く。
それはまだそこに抜け落ちずに在るというだけで、とっくに何をしているわけでもない。私の筋肉と筋ははすかな発熱を帯びて、そこに巣食っているはずの、傷めた苦痛など忘れさせられていた。愛の肌のかき棄てた大量の汗が、私の肌をべとつかせた。不快だった。愛は引き攣けをとめられないだけで、私を見つめた眼差しに意識など感じられなかった。見つめたまま、あるいは、まぶたが閉じられるべききっかけを失って仕舞ったまま、愛はすでに失心していたに違いなかった。見ていたとしても、例えば夢を。私の体中に、容赦ない疲労が意識された。私はただその疲労にだけ尽き果てて、わななく愛に身を預けた。
息遣った。
愛の身体は、もはやその引き攣けそのものをむさぼっているとしか想えなかった。痛みなど、すでに麻痺して存在しないのかも知れなかった。もはや、その内部のどこにも。感覚器が感じたそれが、それとして感覚されないのならば、感覚された感覚など一切存在していないに異ならない。
私は、私に留保なく実感された私自身の無様さにただ、苛まれていた。
結局のところ、私にできたことは何もなかった。あるいは、したことさえ何もなかった。愛はむしろ勝手に壊れて仕舞ったに他ならなかった。そして、それは未だに壊されきりもしないままに、そこにかたちをとどめ続け、間歇的に荒れる息遣いを曝しているのだった。
痙攣するたびに、愛の爪さきが引っ掻く背中の皮膚の苦痛に、私はときに背すじを緊張させる。眼差しに映る何もかもが、私にただ敗北だけを曝していた。横目に見獲た葉さえもが無残に、敗残者としてそこにたっていた。葉に、存在価値などあるべくもなかった。
私が身を起こそうとすると、私のからだを抱きしめた愛の腕はすぐさま、力なくほどけた。ただ、筋肉自体が無意味な硬直と弛緩を繰り返しているに過ぎなかった。私の体は抱きしめられてさえいなかった。一瞬、嘲笑うように微笑んで仕舞った私のたるんだ頬を、そして振り向き見た先にたたずむ葉は見ていた。
刺すような、と、その眼差しは、そうとも言えればただ、眼を凝らしているだけだ、とも言えた。彼女が屈辱に塗れているのは事実だった。
私は眼をそらした。
葉の傍らをそのまま通り抜け、廊下を歩いた。葉は、何も言わずに私のあとに従った。足の裏に絨毯の絨毛がふれた。開かれっぱなしのドアのひとつひとつが私の腕に一瞬だけこすれて、腕に触感の痕跡を残した。リビングの中に、何の変わりなどあろうはずもなかった。かすかに残存した人間の体臭の、異臭じみた臭気がうすく張っている気がした。…ねぇ。
葉が言った。
背後のすぐ近くに立った彼女の気配があざやかに感じられ、私は彼女の声を聴く。「…どう想う?」
なにを?
言った私は振り向きもせずに窓の向こうの風景を見るが、そこに見えているはずの明治神宮の森も、ただ暗く翳るばかりでその存在の息吹きさえ曝さない。
「あなたへの想い。」
「なに?」
「どう想う?」
「なにを?」
「わたしの気持ち。」…憎んでる?
葉は、
…恨んでる?
つぶやく。
…軽蔑してる?
それら、
…バカにしてる?
言葉を
…忌み嫌ってる?
想いつくままに。
「…なに?」言った私の声を無視して、「…好き。」つぶやく。「大好き。」葉は笑った。邪気もなく。
葉が言い終わらないうちに、私は振り向きざまに葉をひっぱた。そのとき、葉は息を詰めるしかない。
堕とされた葉の眼差しはむしろ何をも語らない。怒りも、軽蔑も、悲しみも、なにも。てか、…ね。…と、ややあって葉がささやき始めたときに、私はソファに身を投げ出していた。「…たまらない。」のけぞってもたれ、「好きで、好きで、大好きで。」閉じられもしない眼差しは、「…我慢できない。」窓のガラスに映った室内の「あなたのことしか考えられないの。」白濁した反射に「…好き。」邪魔されて、「いま、」空の黒さをさえ「死んじゃいたいくらい」満足には、「…好き。」見出せはしない。…知ってた?
葉が言った。
「知らなかったでしょ?…どう、想ってた?」…私のこと。
私が身を起こしかけたとき、葉は私がふたたび彼女を殴りつけて仕舞うと想ったに違いなかった。葉は一瞬身を固め、明らかなおびえを眼差しに曝した。…いいよ。
「別に。」葉は言う。「何されてもいい。」…する?
「お姉ちゃんみたいに。…」…ぼろぼろに。「ぼっ、…ろぼろ、に。」したい?…「する?」…ね?「なにしたい?」…キス?「…殴っちゃう?」…あいつみたいに。…「あんなふうに。…お姉ちゃん、…」…どう?「何をしたい?…」…わたしに。
「お前はなに、したいの?」私が「され、…」言ったとき、「…たいの?」葉は言葉を詰まらせ、そして、声を立てて笑しかない。明らかな軽蔑が、その音色に在った。「…なんにも。」…なあーん、…
「にも。…ただ、」…ね?
「好きなだけ。」私が声を立てて笑う。私たちは零一がすぐに殺されて仕舞うものだと想っていた。そうではなかった。
むしろ、ハオが私たちにハオの告白を告げてから、零一は1週間以上、何事もない日々を送った。相変わらず静華は店には顔を出さず、零一は店が終れば静華と待ち合わせした飲食店で時間を潰し、そして、歌舞伎町のホテルに行った。そして時に、静華を連れ込みさえして私と慶輔の渋谷の部屋に顔を出し、ときに一度も発砲されないままの拳銃と戯れた。
静華さえ、その拳銃との戯れを笑った。諌めさえせずに。いつか始まるはずの、そこにまで迫った事件はすでに終って仕舞っていた気さえした。そして、いまだに静華は檜山の女であるままだった。唐突に鳴らされた自分の携帯電話に静華は、ぐずる零一に「…誰だよ。」長い時間の「…ね?」慰めをくれて、「誰?…」そして「客?…」部屋を出て行った。
檜山は静華をつめることさえなかったようだった。ハオの話しを聞いたあと、渋谷の部屋に寝に帰ったときに、部屋の鍵さえ閉めずに勝手に上がりこんだ部屋の中の、慶輔のベッドの上で零一が寝ているのを、私たちは在り獲ないものを見る眼差しで見つめ、そのまま放置し、その話はなにもなかったことにして仕舞った。ハオが零一と静華のことを、檜山に全部言って仕舞ったことさえ、私たちは零一にも、静華にも言わないままだった。口を閉ざしたのではなくて、単にそのきっかけをさえ失って仕舞っていたのだった。その、いつのまにか、起こるべきだった危機的な事件がもはや消滅した気の抜けた倦怠感に引き摺られたままに、私たちは零一と戯れるしかなかった。
その日、ベッドの中で寄り添いながら、私は慶輔が寝息を立て始めたのには気付いていた。やがてまどろみ始め、意識が白濁していくことを意識は気付きもしないままに、不意に叩きならされた呼び出しベルに眼を醒まさせられる。古いマンションの、建築当時から取り替えられていないに違い旧式のそれが、いかにも旧式な、甲高くあざとい破裂音をなんども立て続けに鳴らされる。そんな事をするのは零一しかいなかった。慶輔はなじるようなうめき声を立てて、寝返りを打ち、目覚めもしない。ドアを開けると、零一と静華が笑っていた。「…鍵、もってるだろ?お前。」
適当にバスタオルを腰に捲いただけの私を見ても、崩れそうに零一に身を預けてやっと立ち、あきらかに泥酔した静華は表情さえ変えはしない。
何の変化も見せない、ただたるんでにやつくだけの赤ら顔をほころばせて、静華は声を立てて笑った。いま、目に映るものすべてが、自分を笑わせないではおかないのだと、留保なくだれにも公表しないではいられない、ふしだらな自分勝手さに、想わず私は眼をそらす。
「いいじゃん。」笑いやんで、ややあって言った零一は、たいして飲んでいるわけでもない。「たまには、あけてよ。」…ハナちゃんが。…入れよ。
「…さっさと。」言った私に、零一は微笑みかけて、ひとりでは立てもしない静華を抱きかかえるようにリビングに運ぶ。「珍しいじゃん。…」携帯電話で確認すれば午後三時。「静華が、…」一体どこで「…こんなに。」飲んでいたのか、いずれにしてもいま、静華に付き合わされてぼろクズのように酔いつぶれたサパーのだれかが、歌舞伎町のどこかのその店で、自分が吐いた寝げろにでも塗れながら、病的ないびきでもかいているに違いなかった。
過剰に酔いつぶれた静華は、その皮膚に、皮下脂肪から直接発されたような、不愉快で湿気た発熱を撒き散らしていた。零一は放り投げるようにソファに彼女を投げつけ、静華の身体はクッションに撥ねる。息を詰まらせて、顔をしかめた一瞬の後、零華は声を立ててひとりで笑った。「…どうしたの?」
問いかける私に、零一が一瞬沈黙し、噴き出して笑い、
「…飲んでた。」
「見ればわかる。」…水。
言う。「水、飲みたい。」そのくせ、私に水を求めるでもなく、自分で取りに行くでもなく、片足を背もたれに持ちあげて仕舞って、ソファに寝転がった静華の傍らに座り込む。…疲れた。
言った。「まじ、つかれた。」
「なんかあったの?」…なんにも。
「なんにも。」と、見あげた眼差しがいつくしむ色彩をいっぱいに曝す。「ふたりで飲んでたの?」
「中国人と。」
「ハオ?」
「すげぇいいやつ。…」…知ってた?
「ハオの女…いるじゃん。でぶのおばさん。」…ああ、と、相槌をうった私から、不意に零一は眼をそらす。「あの人、…さ。」…まじ笑う。…「こいつのお母ちゃんだって。」
私は声を立てて笑った。「それ、まじ?」
「まじ。」
「笑う。…」こいつら、まじ馬鹿。零一は言った。
「こいつら、ふたりそろってまじ、馬鹿。」容赦のない嘲りが、零一の眼差しに浮んでいた。その、自分勝手に零一の胸倉をつかんでもてあそび、ひとりで戯れる静華を見ていた、伏せられた眼差しに。「…お母さんと一緒に飲んだの?」…そう。
「お袋さん、ハオ、俺と、こいつ。…あと、…」
「だれ?」
「檜山。」零一が声を立てて笑う。…すっげぇ、…つぶやく。…すっげぇ、…繰り返し、…まじ、なんども笑い声に声を乱して潰して仕舞いながら、「すっげぇ、燃えた。」
「まじ?」
「あいつ、たぶん気付いてるね。…一応まだ秘密じゃん?だから、秘密でいちゃつくの。俺ら。…すっげぇ燃えるの。全部ぶっ壊してやりたいんだけど、我慢するじゃん。…すっげぇ燃えるの。…まじだよ。まじ、たまんない。」
「頭おかしいの?」…そう。独り語散るそうにそう言い、「…まじ、そう…」…俺、
「たぶん快調に。」笑った。笑い声を張り上げて、笑い転げ、ときに呼吸困難さえ引き起こして仕舞いながら、零一は笑った。私は不意に気付いた。いま、眼の前に零一がいるということは、零一がまだ生きているということだという、どうしようもない事実に。
私は微笑み、そして零一に同調しながらときに笑っていた。かならずしも彼につられたわけでもなくて。むしろ、零一の無邪気さが私を彼に共感させていたのかもしれなかった。
何の留保もなく。笑い声がやがて不意に落ち着いて、んー…零一が鼻に言う。
「何回もキスした。投げキス。…ハオにも、誰にもばれたね。…あれは。もう、露骨に。全部。露骨、あけすけ。俺、いっぱい投げたよ。檜山がこいつに話しかけてる隙とか。こいつも。…ぜったい、ばれたから。あれ。マジで。やばいよ。…まじ、」てか、…ね?…まじうけるんだけど。
零一が、ややあって想いだして笑う。ふたたび。
「なんで、静華、ここにいるの?」…檜山いたんだろ?
言った私を零一はただ投げやりに見て、ややあって静華に目線を投げたが、眼差しはふれた瞬間に、その対象へのいつくしむような軽蔑に堕した。「…連れて帰った。」静華はわめき散らすように…なんで、「あいつ、…」お前ら馬鹿なの?言葉を無意味に吐く。
「檜山さん、これからなんか事務所行くらしいからさ。…馬鹿だろ?自分が連れまわしといて、それで持てあましちゃってんの。…笑う。」…だから、
「連れて帰ってきた。…俺が。」檜山の姿が想像できる気がした。たしかに、静華の奴隷にずぎない檜山には、酔いつぶれた静華を介抱にしてやる技量もなにもなかったはずだった。困り果てた檜山に、すうっと近づいて、あからさまな軽蔑を眼差しに微笑んだ零一が、「…俺が、送ってきますよ。」
そう言ったとき、檜山の眼差しにはどんな色彩が浮んだだろう?戸惑いを隠して強がった、弱弱しい家畜じみた眼差しだったのか、あるいは殺意を押し殺した冷たい憎悪の、冴えた眼差しだったのか。いずれにしても零一は静華を連れ出して、そして、檜山は改めて知った事になる。酔いつぶれた自分の女が還りつくべき場所がどこであるのか、それさえも目の前の男が知り尽くしていることを。
「…ハオさんが送ってくれた。」
「ハオ?」
「ハオの女と。」
ハオの女には会ったことがある。店の中でも。翔子という名のその女は、肥満しかかった豊満なからだを揺らしながら、いつでもワインばかりあけた。ホスト・クラブがでたらめに並べただけの、並行輸入の質の悪いワインの、劣悪な保存環境で死にかかっているワインの群れに、あまりにも正統すぎる罵詈雑言を浴びせてやりながら、それでも浴びるように飲んだ。
色気づいた顔立ちの中で、ただ切れ長の、引かれた濃いラインがいっそうその切れ長さだけを強調させて仕舞った眼差しを曝し、にこりともせずに、恥じらいながら媚びた笑みでも浮かべていなければ言獲ないような戯言を、真顔のままにその唇から垂れ流した。…いやになっちゃう。…ハナちゃん色っぽすぎて目舞いしちゃいそう。
「根掘り葉掘り聴いてくるの?」
やばいくらいかわいいの…みんな。
「なにを?」
…本気?…本気なの?
「こいつとの話し…」
わたしもうとろけちゃうからね
「もうやっちゃったの?…とか。」
やばいくらいめろめろ
「こんなののどこがいいの?…とか、」
とろけるちーずじょうたいでめちゃくちゃ
「本気?…遊んでるだけでしょ?」
まじでわたしゆうわくしてる?
「なんて言ったの?」
…ね?わたしのどこがすき?
「本気ですよって。…俺、」
ぜんぶ?やばいわあまじ
「こいつ、本気だからって。」
「嘘だろ。」…それ、と言った私を「完璧に嘘じゃん。」零一が見つめ、「…絶対的に。」眼をそらし、そして。
鼻でだけでちいさく笑う。「本気だって。」言って、その自分の吐いた言葉の音響を、たぶん耳の中で咀嚼した数秒のあとに、不意に零一は声を立てて笑った。
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