小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑱ブログ版









わたしを描く女

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Διόνυσο, Ζαγρεύς

デュオニソス、ザグレウス













…ね。

ね…

…ねぇ、と。

聴く。私は、私に話しかけた愛の音声の、その、同じ音の単なる繰り返しを。…なに?

「生きてる?」

言った。

「…わたし。」…まだ。

声を立てて、私は笑った。笑うしかなかった気がした。その額にふれようと、伸ばされた私の指先が戸惑った。「…ねぇ。」ふたたび、「…ね?」ふれた指先は苦痛をしか感じさせないはずだった。「しようよ。」

「なに?」

「して。」…できる?

愛のささやく声を聴き、愛の顔に明らかな腫れが、もはやどこに口付けて遣ればいいのかさえ、私にはわからなかった。…お前、と、私は言いかけて結局は、自分のちいさな笑い声に言葉を詰まらせ、「無理でしょ。」

「なんで?」…できない?

「お前が、無理でしょ。」…欲しいから。

愛の眼差し。

「…いっぱい。」愛の言葉を聴き、私は彼女の見ている風景がもはや、完全に私とは一致しなくなっていることに気付いた。もとから、違う風景を見ていたには違いなかった。とはいえ、その差異と、この差異とは明らかに差異し、完全に断絶されていた。手の施しようもなかった。「…馬鹿?」

私は笑う。愛を傷付けて仕舞わないようにただ、気遣いながら。「お前、…」

馬鹿なの?「…ひどっ。」愛は抗った。

「ひどいから。…ね?…言ったじゃん。」…なに?

「好きって。あれ、…」…うそ?

私が、そして彼女の体の上に身を被せたとき、一瞬でその表情を愛は苦痛にゆがめ、かさねられた唇の、ふれあった唇はうめき声をだけ吐く。泣きじゃくるようなうめき声を、あるいは押しつぶされた悲鳴を、それをあげる自由さえ奪って唇が、あばれ乱れる唇をむさぼった。愛の肉体がわなないて、そのわななく筋肉の緊張さえもが彼女に苦痛をしか与えない。「見る?」

零一が言った。

零一が静華を抱いてから、三日たっていた。…ほら。ふれあいそうな耳元に声を立てて笑い、「チャカ。」

更衣室の中だった。ホストたちの何人かが、私たちを見て、そして、眼をそらした。あるいは、二三人のホストたちが嬌声を上げて近づいて、…まじ?

「これ、本物?」

零一は、たぶん中国経由の改造拳銃を握っていた。「…中国人に売らせたの。」

「…まじだ。」龍一という名のホストが言って、声を立てて笑い、やばっ、…零さん、撃たせて、俺に。

「警察来るだろ、馬鹿」声。戯れるホストたちの声の疎らな群れの中で、零一は私を見つめて、「…どう?」言った。

私に。不意に、私は、「チャカっていうの?」

言った。

「なに?スラング…的な?いまだにこれ、チャカなんだ。」笑う。想わず声を立てて笑った私は、なにがおもしろいわけでもなくて、かつ、不安もなければ悲しみもない。零一はたしかに、改造拳銃でも片手にぶら下げているのが似合うのだった。そうとしか想えない。

愛がのた打ち回る。かさねつづけられた唇から苦痛だけが表明され、荒ららいだ乱れた息が私の唇にじかにふれる。愛し合う行為のすべてが愛にとって苦痛でしかなく、そしてそれは明らかな愛の行為であるにほかならない。肉体が愛し合って、私は彼女を愛しているとは言獲ない。私はただ彼女をいつくしみ、いとおしみ、にも拘らずそれによって、彼女を愛しているとは言い切れない。私はそれを知っている。なら、…愛。

それは何だったのだろう?愛がその内側に抱え込んでいたものは。私が抱え込むものとの差異は。私が葉に、あるいは理沙に、慶輔に、零一に、あるいは老いさらばえた先のベトナム女、終には滅びのときに私を抱きしめたあの男に、どうしようもなく駆られずにいられなかった、あの感情は。

愛に、私は突破しない。愛してはいない。愛に突破する事はできない。愛に対しては。…愛。

ばーん。…と、慶輔が見ている前で零一は私の額に銃口をあて、その口に、間延びした音響をあげた。…ど、

きゅーん。

日差しが零一の半身にだけふれる。午後三時。三人とも眠れなかった。まだ時間は早い。少しくらいなら、十分眠れる。一日中十時間眠らなければ気がすまない零一は、やがてぐずるに決まっている。ず、

きゅーん。

…と、そう言ったのは慶輔だった。零一の背後、ソファに身を投げて。肌を曝した慶輔は、屈辱的なまでに美しい。

振り返って、零一は笑った。

声さえもなく。

やがては。終には、その苦痛を訴えるうめき声さえもなく、愛は息だけを乱す。もう失心していたのかもしれなかった。しがみついて離さないつめが、私の背中を引っ掻くが、痛み。

ちいさく裂かれた肌が血をにじませているのかも知れない、その鮮明な痛み。

行為を、私は終わらせることが出来なかった。結局は、はじめて仕舞ったことの結果した、単なる惰性にすぎないだけの行為。もはやまともな意識さえ失っている愛に、こはや、かならずしも求められているわけでもなくて。愛を裏切る事はできないと、自分なりの根拠を見出すことは単にた易い。きっかけがなければ中断さえできないと言うならば、きっさけがないかぎりそれが中断されることなどない。

すべてが穢い。

「静華って、元気なの?」あの、号泣の日以来店に顔を出していない静華の事を、とりたてて興味があるわけでもないくせに、慶輔は聴いてみる。一瞬、零一が何を言っているのか分からない顔を曝した。

私はベッドに横たわったまますぐそばに、立って慶輔に、身を捩った零一の手につかまれた鉄のおもちゃを見る。

「あいつ?」ややあって零一は言い、拳銃。

中国人は銃弾を箱で渡したのだった。零一が街中で乱射でもし始めないかぎり、必要もないその銃弾の群れはテーブルの上に放置され、「元気だよ」こともなげに零一が言った。

「あいかわらず。」

「幸せそう?」

ご大層に、大袈裟すぎるおもちゃのようにしか見えないそれが、人体にたやすく深刻な破壊をもたらして仕舞うといういびつな事実が、私にはどうしようもなく滑稽に想われた。

「…で、」

あんなにも、

「お前は?」

唐突に人間ひとり死ぬことが、理由はどうであれ、

「…俺?」

のた打ち回り、苦痛にゆがみ、引き攣けを起こし、苦しみぬかなければ死に切れないあまりにも困難なものであるにもかかわらず、

「むしろあいつ以上に幸せ。」

零一にしか共有できない自分勝手なモチベーションを、どこか無様に曝してみせて、零一はそう言った。

ただただ快活に。

恥ずかしいほどに空が晴れていた。

正午の歌舞伎町を、私は慶輔と歩いていた。単純に、粘着質の女たちがその時間まで、私たちを引きとめたにすぐなかった。私たちのために、無駄な時間を濫費しなければ気がすまない、存在それ自体がもはや無意味な女たち。

直射する日差しにまばたき、晴れた昼間の歌舞伎町はまるで世界が終ったあとの、閑散とした楽園のように見える。いつでも。人などほとんどいない。区役所通りでさえ、だれにもすれ違わないときさえあるほどに。

いまも街が生きている事は知っている。とはいえ、なにも朽ち果てさせもしないままに、たんなる廃墟以外のなにものとしてでもなく、歌舞伎町はその躯体を、わずかに孕みこんだ人々の眼差しに曝す。

おだやかで隈もない日差しの中に。私はむしろ、昼間の歌舞伎町のほうをこそ、愛おしんだ。

風鈴会館の一階の、《パリジェンヌ》という喫茶店のいつもの席に座った。注文も聞かずに出されるいつものアイス・コーヒーが目の前に並んで、店員が慶輔になにか冗談を言って、…あ、と。

慶輔が不意に口走ったので、私は慶輔を見つめた。

店員は笑って、冗談めかして手を振って、自分でだけ話の続きをしながら、そして、私に微笑む慶輔の、その微笑の意味を私は探る。

…なに?

気ままな接客を自分勝手に終えた店員が、満足げに立ち去ったあとの慶輔は、微笑を崩さないままに、

「…あれ。中国人だよ。」言った。その眼差しの先を振りかえると、確かに、ふたつみっつテーブルを離れた背後のそこに、背の高い華奢な中華系の人間が、数人の同胞たちをはべらしていた。彼らの眼差しは、私たちには気付いてはいなかった。「零一。…あいつに銃、売りさばいたやつ。…あいつだよ。」

その髪の短い、まっ白な肌を曝した男には見覚えがあった。なんどか、店に女を連れてきたことがあった。彼は二十代の半ばで、連れていた日本人女は四十代をかるくこえていた。そして、彼はいかにも中国人風の癖のあるものの、流暢にこなれた日本語を使い、女が、彼が自分の男であることを隠しもしないのを、ただ嘲笑うように黙認していた。

《パリジェンヌ》の中で男は、堀の深い、いかにもやさしげな眼差しをしていた。

「…ハオ。…やばいよ。あいつ。…人間殺すの平気だからね。」言った。「ここが、戦場かなんかだと想ってるんじゃない?…あたまおかしいよ。」慶輔は笑う。

取り巻きたちは、ほんの数分で彼に頭を下げることもなく早足に出て行き、それは、日本のやくざと彼らとの流儀の違いを、不意に、あざやかに私に教えたのだった。

自分以外にだれもいなくなったハオのテーブルに、そしてハオはかすかにうつむいた眼差しを動かしもしないままに一度、テーブルの縁を指先に叩いて、とはいえ、だれを呼だでも何の意味を持つでもないその音響が聴こえるはずもない距離の中に、私の耳には聴き取れた気がした。

不意に立ち上がったハオが、まっすぐに私の席に向ってきて、私はむしろそれが当然であるかのように錯覚した。「…元気?」

こともなげに微笑むハオは声を立てて笑い、そう言った。

「元気。…ハオさんは?」慶輔が言って、だれの許可も指示もない椅子を勝手に自分でひいて、ハオは私の傍らに座った。「元気。…ひさしぶり。」振り返って目の前に高く、差し出されたハオの手を握手に取ってやる。

「レイくんは?」

ハオが、私に言った。それが零一のことである事には気付いている。違和感がある。

「…相変わらず。」…そう。つぶやく。

ハオが零一の名前を呼んだ、無意味な違和感が結局は、私にハオへの不当な不信感を生み出し、その不信感は眼差しに捉えた彼の姿の全体を、染め上げて仕舞うほかないのだが、私たちをそっちのけにしたわがままな沈黙の後で、「…ねぇ。」

ハオが言う。

「日本の女って、めんどくさい。」

慶輔が声を立てて笑った。…なんで?

「静華。…ひっぱたかれた。わたし。」

「どうして?」と、言った慶輔はおかしくてたまらない顔を素直に曝してしまうのだが、「ピストル、…ね?チャカ。あれ。」

「ハオさんが売ったやつ?レイに。」

「…そう。静華、檜山さんのところで会った。会社。事務所。私が入る。すぐ静華、来る。ひっぱたく。…駄目だよ。」顔をしかめたハオの表情に、幼げな自嘲が浮んだ。…俺もさ、ヤキがまわっちまったよ。…そんな。

薄く。

「許さないから、とか。言った。けど早いから。怒ってるからね、早いから。言葉。ぺらぺら。なに言ってるの?って。檜山びっくりだよ。私もびっくりだよ。」

「それ、いつ?」

「昨日…いや、今朝よ。一時だったから。朝、…ね。」

「で、どうしたの?」

「そのまま。出て行った。終わり。檜山に聞いた。…なに?って。あなたを許さないらしいよって。何したの?って。」

「どう言ったの?」

慶輔が笑い、私も笑う。ハオがわざと困り果てた顔を作っておどける。「静華の男にピストル売ったって。」

…え?

「零くん。彼に。だからね。檜山にね。言った。わたし。…あなた、殺されるらしいよって。」

え?…と。その、え、という短い一音節を私がつぶやく間もなく、ハオは声を立てて笑うのだった。

例えば、私はその時に、ハオの胸倉をつかんで殴りつければよかったのだろうか。あるいは、せめて怒鳴りつけ罵倒するべきだったのだろうか。私も慶輔も、なにもあっけにとられているわけではなかった。むしろ単純に、私はすでにハオを許してさえいた。ハオに悪びれるふうもなかった。彼に何らかの企みがあるわけでもないことが察せられた。明らかに彼は、彼が見た風景をそのまま見たままに言っただけにすぎなかった。むしろ誰よりも素直なのはハオのほうだった。たとえば、空が青いです。…と。その嘘偽りのない表明に、悪意を認定できるすべなどなにもなかった。そのとき、空が雨を降らせてでもいない限りは。そして、雨はどこにも降ってはいなかった。

ハオは身辺の雑多な話を始めた。彼が自分の女にしている四十女が最近子供を欲しがっていること、追い出した元夫から慰謝料請求されたらしいこと、そっちの始末をつけてやらなければならないこと、近くの雑居ビルのオーナーがある風俗店を追い出したがっていること、そして、そのオーナーは檜山たちに相談したのだが、笑うべき事は、檜山たちはその風俗店のケツ持ちだったから、彼ら自身ではなにも出来ないこと、その話も片をつけて遣らなければならないこと。その風俗店の話は知っていた。《きらきらパラダイス》というその店のオーナーは、檜山たちの許可もなく客に薬物を売りさばいていた。軽度な錠剤から覚醒剤に至るまでの禁止薬物を。だれもが知る有名な話ではなかったが、知ってる人間なら知っている程度の話だった。薬物の出処は結局は檜山たちなのだから、彼、その風間という偽名の男がいくら高額をふっかけて売りさばこうが、檜山の知った事ではなかった。たぶん、そのオーナーのほうが、警察の手に自分の所有ビルに入られる前科をつくって仕舞うのを嫌がったに違いない。彼は赤坂に本拠を持った、在留中国人系のマフィアだった。そもそもがハオは個人的な雑多な仕事に忙しく、檜山の流してよこした外注仕事になど興味もないが、断るわけにもいかないのだと愚痴った。「…駄目だからね。」そして「わたし、いないと。」想い出したように「…檜山さんは。」静華に対する愚痴が始まった。

忙しいと言ったわりには数十分も、私たちのテーブルで時間をさんざん潰した挙句に、手を振りながらハオは立ち去って行った。私は、私と慶輔が話す話題などもはや何も想いつきはしなかった。仕事上の話でもする以外には。ほとんど何も話し合わないうちに、語られるべき言葉自体に、私たちはすでに飽きていた。今更曝すべき身の上話もない。いまだなにも語られないままに、すべて、語られつくしている実感があった。

私たちは沈黙するしかなっかった。あるいは、人目を気にもせずに口付けあうでもするよりほかには。そんな気にもなれなかった。…生きてるかな?

慶輔が言った。

「あいつ。…まだ?」

私のその言葉にうなづきもしない慶輔に私は微笑みかけて、そして、私の頬が笑みに崩れた瞬間に、私たちがむしろ零一を裏切って仕舞っている実感を、ただ、感じていた。





Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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