小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑰ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
自分の体が匂った。何の匂いかは知らない。獣くさい匂いがする。むせかえるほどに。そんな匂いなどありもしないのかもしれない。「…知ってる?」
愛はつぶやく。
「わたし、死んだことあるの。小さい頃。10歳くらい。…なんかよく知らない。なんかの病気。…パパは、そのこと絶対言わなかったから。病名とか。大人の秘密。ずうっと。…ずうっと、目に映る風景の全部が熱だしてるの。出してるのは、自分なんだけど。だけど、あきらかにもう、みんな、ぜんぶ。ぜぇーんぶの向こう側が発熱して、ゆがんでるの。…ゆがんでないんだけど。なんにも。綺麗なまんまなんだけど。そんな事知ってるんだけど。ゆがんで見えてたり、そんなこと絶対にないんだけど、ゆがんでて、とけてるの。とろー…てか、なんか、どろー…っとか。チーズなの。むしろ。みんな。とろけるチーズになっちゃってるの。みんながわたしの体いじってるの。なんにも感覚ないんだけど、無茶ばっかしてるの。からだ中、のこぎりできざまれてる音がするの。あたまの中で。…そんなもの、もうどこにもないんだけど。体なんて。もうどこにも残ってなくて。けど、頭の中…的な?そのなかで無茶な轟音が鳴ってるの。それ、遠くに、とおーくに聴こえるの。…無理だ…って。もう無理だなって。想うの。…てか、もうずっと前から想ってたの。たぶん、からだなんか全部解体されちゃってるの。でたらめなの。ぐちゃぐちゃなの。ぼろぼろで、もう駄目なの。取り返しつかないの。手の施しようもないの。で、ずっと、光が見えてたことに気付いたの。あたたかいって想ったけど、そんなの自分が勝手についた嘘。…ただの嘘。…なんにも。…なーんにも温度がない光が、わたしをぜんぶつつんじゃってるの。はじめて、気付いたの。ずうっと、そうだったことに。ずうっとまえから、もう、そうだったことに、気付いたの。…嘘だったの。全部。わたし、もう、最初から死んでたの。わたし、生きたことさえないの。生まれたけど。でも、てか、あたたかいの。光。温度も何もないのに。嘘に染まってあげた。許してあげた。あたたかいって想ってあげた。そうするしかなかったから。事実、あったかかったしね。それだけ。光の中に、どこまでも拡がる地平線が拡がるの。それだけ。色なんか、なにもないのに、あざやかなの。…なんか、もう、ぜんぶ、無残なの。…なんて、残酷なの?って。なんて凄惨なんだろうって。…想った。…そう。想った。飲まれそうになった。すうっって、失神してく感じ。聴こえるの。光に、声が聞こえるの。異質な声。誰かが私を呼んでるの。遠いの。聴こえないくらい遠いの。でも、耳のすぐそばでささやかれてる声なの。パパだって…気付いてた。パパしかいないから。私が死んだこと、悲しんでくれるの。パパしかいないから。だから、パパなの。パパが呼んでるの。気付いたの。その時に。わたし、もう死んじゃったんだって。…気付いちゃった。あ、って。…ね?ただ、ちいさく…あ、って。そうつぶやいた瞬間、視界が戻った。逆光の中に見たこともない人が泣き叫んでるの。わたしを屈みこんで。そのむこうに見たことない人たちが見てるの。私のこと。泣いてる人、パパなの。…想った。パパって、こんなに見たこともない人なのかって。あれがパパなんだって。…想った。気付いた。生き返っちゃったんだって。もういちど。理由もなく。意志もなく。もういちど、生き返っちゃったんだって。…なんで?」
愛は言う。
「なんで、…ね?」
まばたき、
「わたしを見つめてるの?」…なんで、…と、皮膚の内側に温度がある。筋肉の内部がかすかな発熱を帯びて仕舞ったような。嗅いだこともない花の匂いがした。
それが花の匂いであることには気付いている。目の前に存在した指先がすぐそばのどこかを指差して、私は眼をそらした。
真っ白い、白濁した空に悲しみがあった。それは私の悲しみにすぎない。眼差しが捉えたその白濁は、決してわずかな、いかなる悲しみをさえも曝したことなどなかったのだった。それは単に不可能だった。
途切れ途切れに息遣いながら、私は後ろ向きに倒れこもうとしてるそのながいながい、時間の経過を嘲笑ったような時間に遅延に、そして眼差しが捉えたのは私を見つめる目のない女だった。それら、無数の女たちが私を喰い散らそうとしていた。
音響が聴こえた。背後に山が燃えているに違いなかった。私はそれを見ようとはしなかった。
耳を澄ました。澄ましていた。女たちの噛み付こうとする歯に指先をさえ伸ばして、ふれて仕舞おうとし、私は憩う。遅延し続ける時間の中に。倒れこみ、私の肉体が喰い荒らされて仕舞うそのときの到来までの、逆向きの、遅れ続けるしかない時間の中に、疑う。私が倒れきって仕舞う時など来るのだろうか?
彼女たちが、私を喰い散らして仕舞うときなど?
停滞。あるいはその、永遠の時間の先のどこかで、すでに私は喰い散らされて仕舞っていたに違いなかった。もはや肉体は、その牙の突き刺さるときの到来を待望し、私は倒れていく。
後ろ向きに。
倒れても、倒れても、遅延する時間の中で、むしろその動きは裏切られ続けながら、憩う。
私は憩う。ただ、私は、そして私を、「…見つめてるの?」と、言った愛の言葉を聴いた。「…ねぇ。」瞬き、「…なんで?」眼差しはふたたび愛を捉える。私を見つめて、その正確な表情をやさしい暗やみが包み込んでいて、傷付いた顔の変形を丁寧にその凄惨さから隠して、曝しきって仕舞うことを拒否してやりながら、「…俺が?」
私は言った。
「なんで?」
言葉に詰まった私に、愛が瞬いて、…言って。言う。
…ね?「好きって言って。」
お願い。…ね。「ね?」ね、…
「…言って。」
「好き。」
「うそ。」眼差しが笑った。愛の、見開かれて、泣いているわけでもないのに潤った、その眼差しだけが、ひとりで。
零一は、そして私の肌に口付けた。かならずしも、彼が性欲など感じているわけでは無い事は、私は最初から気付いていた。彼は私に飢えていた。
いずれにしても、零一は私に静華を抱いたことを告白した後で、そして私は確信していた。やがて檜山の顔に、これみよがしに泥を塗りたくって、零一は自分の周囲のすべてを破綻させてやろうとするに違いないことを。静華を愛しているはずもなかった。零一はすでに私で手一杯だった。静華には私には無い要素がひとつだけ決定的に在った。それは、彼自身を滅ぼして仕舞い獲る留保ない可能性だった。おそらくは、檜山自身さえ、すでに静華が零一に入れ込んでいることくらい知っているはずだった。慶輔と檜山と、サパークラブで飲んでいたときに、顔を出した零一を、檜山は紹介される前にすでに知っていた。彼を捉えた眼差しが、一瞬でかすかな侮蔑の色に染まった。慶輔が改めて零一を紹介したとき、ああ、とだけ、口を開かずにつぶやき、そして、零一から眼をそらしもしなかった。零一は十分足らずしかいなかったが、その間、檜山は事あるごとに零一に眼差しをくれた。ぶしつけな眼差しに一瞬戸惑ったあと、いつか、零一の彼を見つめ返す微笑む眼差しには、明らかに優越者めいた、そのくせ挑戦的な色が浮かんだ。その色は、零一自身による、自身の上位者認定と下位者認定を倒錯的に、同時に曝していた。零一を同席させ続ける事は危険だった。私は適当な理由をつけて、彼を帰らせた。
零一が静華を抱いた次の夜にも、静華は当然のように店に来た。態度に変化があった。騒ぎも何もせずに、ただ、数少ない自分の取り巻きの女たちの話を聴いてやり、ホストたちを接待させるばかりだった。敵ばかり多く、まともな女友達など歌舞伎町の中にさえ、ひとりかふたりかしかいない。同席した、あきらかに静華に劣る地味な三人の女たちは、単に静華に逆らえない家禽のような女たちだったにすぎない。そして、彼女たちはすでに、静華に告白されるまでもなく、静華と零一がどうなったのか、気付いて仕舞っていた。その、色づいた気配など一切ない適度な姉弟のような希薄な距離感に、それは、もはやだれの眼にも隠せない、肌をあわせ、粘膜をふれあった親密さをだけ曝していた。
檜山をだれもが想いうかべた。零一はすでに終った人間だった。静華に固執していた檜山が放っておくはずもなかった。
そもそもが、この狭い街でしか存在価値がない以上、檜山はここにしがみついて生きていくしかなく、此処でしか生きていけない以上、此処での地位の確保は彼にとって絶対のはずだった。たとえ檜山が実は静華に飽き果てていたとしても、彼に零一に制裁を加えないですまし獲る余地は無く、そして、檜山は静華に飽き果ててなどいなかった。みもふたもなく恋焦がれていた。
むしろ醒め切った色を曝す静華の冷静な浪立たない眼差しに比べて、明らかに零一は静華に焦がれていた。すくなくとも、その、あてどもなくわなないて乱れる性急な眼差しは、静華への渇望をだけ、垂れ流すように周囲にに曝した。無様にさえ見えた。もはや、静華は零一にとって、命よりも大事ななにかとして、零一を支配し果てていた。まともな愛情など、一切欠いて仕舞ったままに。彼らを適当に放っておいて、冷たい観察をくれて、ややあって、ようやく静香たちの席に就いた慶輔が、いかにもだらしなく笑いながら、いきなり静華に言った。…で、さ。
「やっちゃったの?」
結局のところ、ふたりのせいで不当な緊張をばかり強いられていたその席は、その瞬間に一気に嬌声を立てて、戯れに女たちはこの町では、稀に好きものにしか好まれないはずの癖ばかりが強い無残に個性的な顔を好き放題に崩し、縋るように笑い転げて慶輔を非難し、ののしり、色づいて騒ぎ立てる。
静華さえさすがに声を立てて笑っていたが、ひとり、零一だけはそれにむしろ驚いた表情を曝していた。何が起こったのかさえわからないとさえ言いたげに。あれほど、これ見よがしに静華への執着を曝して見せながら、それでもそれは自分だけが握っている秘密として、零一には認識されていたに違いなかった。零一はあきらかに戸惑っていた。
沸き立った嬌声をすべて無視して慶輔は、頭のなにもかにもが足りていないふうを装いながら、愚かしげに、唐突に言う。「檜山さんどうするの?」静華に。
零一は何も言わずに、慶輔を見ていた。ただ、その心のうちを透かし見ようとしたように。「棄てちゃうの?」…ねぇ、と。
「どうすれはいい?」
一瞬の沈黙の後に零一は、慶輔を振り向き見てむしろ、慶輔を哀れんだに違いない、やさしい、ただ、やさしいだけの眼差しをくれた。
「…棄てちゃえば?」
慶輔の眼差しからは、目に映るものすべてを哄笑した色が消えない。静華のやさしさは昏みもしない。ただ、零一だけがふたりに取り残されていた。「…できるかな?」
と、ややあって、静華が言った。
「やるしかないじゃん。」
「殺されちゃうよ。」
「どっちが?」言って、慶輔は声を立てて笑った。「お前が?…こいつが?…どっちが殺されるの?」…んー、と、その、静華が無意味に鼻にのばした音声を聴く。やがて、「…ね?」つぶやく。
檜山は、静華を殺すどころか、手をあげることさえも、できるはずもない。檜山は静華の単なる下僕に過ぎなかった。お手さえさせれば朝まで、だれも取ってはくれない着地点のない手を、みじめにあげ続けているに違いないのだった。
席の女たちはお互いに別の話に切り替えて仕舞っていた。それは、もはや自分たちが関わるべき、あるいは関わり獲る話しではなかった。彼女たちは綺麗に逃げおおせて、慶輔は零一を見た。微笑を浮かべたままに、その眼差しには表情さえなかった。眼にうつったその形態を、ただ、いつくしんだにすぎない。…ねぇ。…お前、…
慶輔は言った。
「知ってた?」
零一は何も答えない。慶輔を見つめた静かな眼差しが、一瞬、強烈な憎悪に染まった。…舐めるなよ、と、零一の口が動き出そうとした瞬間に、「…ごめん。」
静華が言った。「知ってた。」言って、静華は声を立てて泣き、背筋を伸ばして綺麗に座ったままで泣き崩れ、泣きじゃくり、零一は呆然とした。見たこともない見知らない女の痴態を見つけて、あっけに取られて仕舞ったように。女たちは、静華の唐突な号泣を介抱した。慶輔の眼差しは、表情さえ変えずに、ただ、零一をいつくしんでいた。…てかさ。…ね。
しゃくりあげながら、静華が言った。「仕方ないじゃん。…好きだからさ。…無理だからさ。…けど、ありえないからさ。…やばいのは知ってるけど、無理じゃん?…なにもできないじゃん。…ごめん。…やばくなるの、知ってた。…零くん、やばくなるの、…けど、…無理じゃん?…無理だからさ。」
「殺しちゃえよ。」
慶輔がつぶやいた。ただ、零一だけに。「…話し、おかしくね?。みんな、お前が死ぬことにしてるけど。…おかしくね?殺られるまえに殺っちゃえばいいだけじゃん。…ただの因業親父だろ?…違う?」…冴えてるね。
眼を細めた零一が言う。「ケイさん…」不意に、零一は声を立てて笑った。「ケイさん、結構、冴えてない?」
静華は耳さえ貸さない。静華はただ泣きじゃくって、泣きじゃくる自分をむさぼる余地さえ、もはや静華にはなかった。彼女がただ、純粋に泣いている事はだれの眼にも明らかだった。なにが悲しいわけでさえ、もはやないのかもしれなかった。まるで、他人の自慰を見せ付けられたような、どこかで禁忌にふれた穢らしさがあった。「…俺、好き。」
零一が早口にささやく。「俺、そういうケイさん、好き。」女たちが静華を化粧室に連れて行き、慶輔はただ、いつくしんだ眼差しだけを零一に与えた。…たきつけちゃった。
その朝、慶輔は言った。しがみついた私の頭をその膝の上になぜてくれながら。「…あいつ。…俺。」
日差しが私の背中の皮膚にふれる。頭に慶輔その、それがふれる。ソファに身を預けた慶輔の表情は、眼を閉じた私には見えない。…なに?
「零一。」ちいさく鼻でだけ笑って、慶輔がいちどだけ、鼻をすすった。「…やばいかな?」
なにも言わない私に、とはいえ慶輔がその返答をなど求めているとも想えなかった。
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