小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑯ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
零一は疲れ果てていた。そして、眼差しには明らかな、行き止まりの絶望があった。「ちゅうちゅうちゅうちゅう…さ。」…あいつ、…「変態?」想いを終に果たした、ただそれだけに起因する為すすべもない疲労と未来も過去ももはやない絶望が、わずかな装いもまとわずにただ曝されて、私の眼の前にあった。
「…まじ、くず。」
零一の存在、剝き出されたそれ自体として。
私の眼差しが見つめ、絡めとり、好きなだけ視姦して仕舞う、その留保ない目線に、あえて気付きもせずに無防備に零一はその体を曝して、息遣い、そこに生きている。「…いつ?」
「さっき。」…やって、…で「帰ってきた。」
「まじだ。」
「まじ。」…ね?
零一が想い出したように言った。「将来、…ね?」
「なに?」
「店、やんない?」…どんな?言った私は笑ってさえいた。笑うべき滑稽なものに対する軽蔑も、哀れみも、そうではない自分に対する優越感も、あるいは自虐もなにもなく、私の唇にあったのはただ赤裸々なばかりの笑い声にすぎなかった。「なんか…」
…ね?
「なんか、店。」
零一は笑って、初めて私を見つめた。その、自分を見つめる眼差しだけを。「店、やんない?…ふたりで…ふたりだけ。あいつに、…おばさんに金、出させればいいから。…持ってるよ。静華。…あいつに、出させりゃいいから。」
「本気?」
口籠りもせずに、零一は沈黙し、ただ、言葉を発さない静かな眼差しの、見つめあうだけの時間の停滞のあとで、不意に、「…嘘。」言った。
「1000%嘘。」
自分が眼を開けていることに気が付いた瞬間に眼差しに、一気に暗やみがふれた。ありふれた暗さ。持続する記憶にすでに存在していた暗さ。
夜。その、当たり前の。私がいつか、眠りにかあるいは軽度の失心にか堕ちていたことに気付いた。
火事騒ぎは沈静化したに違いなかった。眼差しが捉えた部屋の隅の空間に、もはやその名残りさえなにもなく、背中には絨毯の、その白く長い絨毛の触感があった。そして、自分がかいたにひかならない汗の触感が、あくまでもその湿った絨毛の与えた他者の触感として、不快に、あざやかに感じられずにおかない。
体を起こそうとすると、最初のときと同じような痛みに筋肉がむせ返り、その痛みの無残さは同じ、あるいはむしろそれ以上であるにかかわらず、もはや滑稽な茶番にすぎなくさえ感じられた。私は筋肉と筋と、骨格に巣食ったそれら好き放題に散らばった痛みを軽蔑し、私にとって、それは単なる屈辱以外のなにものでもない。
リビングにはだれもいなかった。愛さえも。
あの、私が壊して、肉体の残骸にして仕舞った、そんな愛、その彼女、いつか、私は彼女の肉体を打ちのめした自分の拳と脛に、その破壊の触感を想起させていた。想起されたそれが現実よりもなまなましく、とは言え、想い出されたにすぎないそれに、触感としての正当さなどなにもありはしなかった。背中をのけぞらせながらようやくにして立ち上がり、立ち上がったときには右の足首に、鮮烈な苦痛が芽生え、巣食い、空は燃え上がっていた。
見あげられた空はただ、まだらに、その色彩の向こうが本当に燃えているに違いないと錯覚させずに置かない色彩を、網膜にさらす。
すくなくとも、獲得された網膜組織が描き出し獲る色彩はそれ、紅彩から黄彩にまでいたるグラデーションの、無様な混交。美しいと、その言葉の定義など留保にかけた上で、あえて絶望的な吐き棄てる言葉として選択するなら、それは美しい。
色彩がもはや自分自身にさえむせかえっている、そんな気がした。音響が戯れた。その音響に対してむけられるべき知性などもちあわせていないそれに取っては音響は単なる音響に過ぎない。
熱気に煽られる。外皮が熱に煽られて温度を知覚するものの、叫び声。それのなかで無際限なほどの叫び声が連鎖して、なにものをも語りはしないままに、聴き取られた音響に同調さえもしない。
無数の知覚が夢になる。あるいは、夢が無数の知覚になる。
それはすべてを知覚していた。知性など何もないままに、直感などという言葉では不当な、灼けつく温度それ自体としての知覚があるいは叫び声なのだろうか?…叫ぶ。
同時に、無際限なまでの叫び声にもはや発熱し、情熱。限度を超えた情熱がたんなる日常に過ぎないとき、そこに最早情熱などはない。
ふれるものすべてが燃え上がっていた。すべてはすでに認識され、それは全能だった。それは崩壊しようとしていた。当たり前のことだった。ほんのわずかの瞬間にしかとりあえずの組成が維持できないというのなら、でたらめになんどもあるいはもはや同時に破滅し生成する以外にすべはなく、そうなるしかなければそうなるしかない。それは無慈悲なまでに存在し、棲息し、生き、見つめられた空が燃えた。
そこに炎など存在しないことなど知っている。炎が燃やし獲るものなどなにも在りはしない。空間が芳香そのものとなって、色彩の鮮度をきらめかせた。
それは全能のままに滅び、すでに蘇生さえ果たしていた。
まばたく。夢見られた風景の鮮烈さを、ただ追い払おうとして。
汗を洗い流すために入ったバスルームに、愛がいた。あるいは、だれかがそこにいることなど、すくなくともいたことなど、入る前から知っていたに違いないことを想いだす。
リビングを出た通路に、無造作にひらかれたさまざまのドアのうちで、光源を投げかけていたのはその部屋だけだった。それは一番近い、誰にも使われていないバスルームだった。入った瞬間に鼻に、新鮮な水と、流れ込んだそれによって鮮度を取り戻した配管の臭気の、これみよがしの、けばけばしいほどの臭気がふれた。
明かりがともされていたのは、その脱衣所だけだったにすぎない。バスルームはそのままに夜の暗さを、半ば維持して脱衣所の投げた、人工的な明るさのいびつさに、無残に暗さを破壊されて沈黙していた。
物音はなかった。バスタブの中に愛がうずくまっていた。膝を抱えて座り込み、丸めた子供じみた背を曝し、かすかに痙攣させながら。
寒いのかも知れなかった。肌が濡れてそのままに、水滴を無数に浮かび上がらせていた。一度、シャワーだけ浴びたに違いない。バスタブの周囲に水滴が無造作に散乱して、淡い光を鋭く反射した。
ノズルが投げ棄てられて、バスタブの縁に垂れ下がっていた。眼差しが捉えた風景に、私はただ歎かわしさだけを感じた。
背を向けていた愛の肩に、私の指先がひそやかにふれたとき、息を詰まらせた愛は全身をこわばらせた。…痛いの。
言った。早口に、
「痛いの。…たすけて。」
その、声が耳にじかにふれる。
私の指先がその肩をなぜるたびに、愛の身体を引き攣けが襲った。…い、と、濁点つきのい、と、き、と、それらの咀嚼されたいかにも穢らしい音声が喉から立ち続け、愛はすでに壊れていた。
「からだ中、痛いの。…ね」もう、…「やばい。」
ささやき声がしゃくれ、それ。…痛み。
「たすけて。」ん、…「…怖い。」…んん。
苦痛。その全身の、筋肉の、あるいは
「壊れちゃいそう…いや。」…たすけて。…ね?
骨格の、むしろそれらの内部に巣食った
「いやなの…」怖い。「んんー」…死んじゃうよ、…
冴えた痛みにむせ返る。愛。
もう、…「痛い。…」…たすけて。
壊れた女。
お願い。…
だれが?…私が壊した女。
「穢いの…」愛は言った。「なんか、からだ、耐えられないくらい穢いの。かつ痛いの。どうしようもないの。シャワー浴びようと想ったの。歩けないの。頑張ったの。あびたの。痛いの。」愛が声を立てて泣き、「痛くて、痛くて、…」涙はない。なにも「浴びれないじゃん。」液体は。しゃくりあげる「死んじゃうの?」声だけが、「…いや。」泣く。全身で「それ、…」痙攣し、愛は「…いやなの。」引き攣けに塗れて「…ねぇえ。」絶対、…と、
「いや」愛がわめいた。
泣きじゃくる。
それしか出来ないのだった。だから、愛は泣きじゃくった。私は愛の頭をなぜた。いつくしむように。あるいは、ほんとうに留保なくいつくしんでやりさえしながら。
その、ただいつくしむしか知らない指先が、愛の身体をいよいよ無残に引き攣らせ、痙攣させ、わななかせている事は知っている。私の指先が何をしたところで、いま、愛にとっては曝された暴力にぶちのめされていることをしか意味しない。
その神経も、頭脳も、もはやふれるもの、知覚されるものすべてを苦痛としてのみ知覚していた。おそらくはその視界でさえも。愛は、痛みの完璧な女王様だった。容赦のない痛みだけが無尽蔵に、彼女の存在そのものを彩って、装い、彼女の永遠の忠実な下僕として無私の奉仕をささげた。ただ、彼女に苦痛を与え、彼女を破壊しこなごなに、砕き散らして仕舞うためだけに。
時間を、私たちは濫費した。愛は泣いた。私は彼女の頭をなぜた。
不意に無理やり私を振り向き見た瞬間に、愛は内部に襲いかかった苦痛に声もなく叫び、一瞬白眼をむいた。
んんー…と、歎いたのかおののいたのか、苛立ったのか耐えていたのか、あるいはそれらすべてをあわせて仕舞ったのかも知れないその音声をながく、鼻にたてた後で愛は「…くさくない?」言った。
「わたし、くさくない?」
…大丈夫?
私は愛を見つめていた。内出血が、もはや原形をとどめないほどに、その顔に顕れていた。
立ち上がって私はノズルをつかみ、開ききった水流を頭から浴びせかけてやったとき、愛は屠殺されたかのような太い悲鳴を上げた。
男の上げた声のような。あるいは、動物のあげた声のような。獣じみた図太い声が容赦なく、突き刺さる。そんな事をしなければよかった。水を浴びせかけるなど。しかし、彼女が、彼女が感じ取る自分の穢さに救いようもなく苛まれているのは事実だった。彼女を救ってやるべき必然が、私にはあった。どうしようもなかった。私は留保なく加害者に他ならなかった。愛の体が全身にふれて乱れた水流に、痛みを無造作に氾濫させて、その治まりようもない反響の、無残な乱反射の中に愛はひとりで痙攣した。叫び声がやまなかった。
不意に、正気に戻った気がした。眼差しが見出す風景もなにも、何らかわりもしないそのままに。私はノズルを手離した。堕ちてゆくノズルを見る。既視感がおさまらない。なにもかも、滑稽であるにすぎない。目に映るものすべてが切実に、ただその声もないそれらの存在をだけ曝した。眼差しのそらされた向こうで、もはや言葉にならない声をあげ、うなり、生き生きと四肢を引き攣らせる愛だけがいびつだった。空中にノズルが水流を撒き散らす。匂う。愛と、同じ匂いが私の、息づかせ続けていた肉体にも漂っていた。狂っているのは私たちのほうだった。手の施しようもなかった。
手離されたノズルがバスタブの角に打ちつけ、音を立てて撥ね、床に転がって、水流。
撒き散らされる水流。乱れ、でたらめに、そして私の体をも水浸しにして、そんな事は知っていた。すでに、そうだったことに気付いたとき、私は自分がノズルを手離して仕舞ったことに気付いた。
清められたのだろうか?愛は。
洗い清められて、眼差しの中に、痙攣するしかない痩せた身体。彼女は。そして、聴く。撒き散らされる音、水の。乱雑な。息遣い。愛の。うめき声。
もう一度、愛が叫んだ。声を潰した男のような。
私は愛を抱きかかえた。守り持つように抱きしめる、その強引な手つきが腕の中の彼女の四肢に、今更の苦痛を与えていた。引き攣る。のけぞった。壁にぶつかりそうになり、なにも存在しない空間に、縋ろうとした愛のわなないた手はなにものをもつかまない。
濡れた体のまま、私は愛を連れ出して、彼女のベッドに放り投げた。のけぞって、息を止め、私は彼女が呼吸を放棄した秒数を数えた。苦痛に引き攣る。身体が眼差しの先、ベッドの上にわななき、窓は開け放たれていた。風が、カーテンをかすかに揺らしていた。やがて、堰を切って雪崩れた呼吸が、ふたたび彼女を叫ばせた。雄の獣のような。彼女は悲しいのだった。なにもかもが。
ひざまづくようにベッドの傍らにひざまづいて、私はシーツに顔をうずめた。ややあって、部屋の中に、朝のシャンパンの匂いが未だに漂っていたことに気付いた。
背後の気配に気付いた。葉に違いなかった。同じ空間のなかにいるのなら、あの悲鳴に、あるいは、無意味に立てられた獣の叫び声に気付かないものなどいるはずもなかった。葉は入り口にたたずんで、私たちを見ていた。彼女の眼差しが、私たちをひとつの塊りのようにして捉えているに違いないことに、私の背中は気付いていた。愛が声を立てて笑った。
かすかで、やさしいその笑い声を聴き、それがおさまったときに、愛自身がその場違いさに戸惑っていることが、その無言の気配で知れた。…笑っちゃう。
愛は言った。「…てか、…ね?」
もう、痛くないの。「んー…痛いけど。」なんか、…むしろ、…痛くない。
「麻痺しちゃったのかな?」…それとも、
声に、いかなるおびえも、おののきも、
「…死んじゃった?」
ふるえもない。
「…違う。」…生きてるよ。わたし。…ね?
ただ、しずかに、愛はもはや安らかでさえあって、
んー…まだ、
私はその声に残酷な、癒しをさえ与えられるのだった。
わたし…「生きてるよ。…」
自分の体が匂った。何の匂いかは知らない。獣くさい匂いがする。むせかえるほどに。そんな匂いなどありもしないのかもしれない。「…知ってる?」
愛はつぶやく。
「わたし、死んだことあるの。小さい頃。」
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