小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑮ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
とっくに、痛み以外の感覚に神経が麻痺して仕舞っていることには気付いている。私そのものが廃棄物だった。残骸で、腐った肉と骨の塊りに過ぎない。私は滅びていた。壊滅、それだけが、私の身体にいきいきと、息吹いていた。
忍び笑う葉の、こまやかな笑い声が、ただ、私に留保もない癒しを与えた。
鮮明に。
あざやかに。
為すすべもなく。
その記憶された音響に、私は縋っていた。
ややあって、…ん、と、言って立ち上がった葉が窓際に行く。足音さえ立てずに。あるいは、彼女が立てた静かな足音を聴き取る余地など、もはや私の耳には存在しなかった。
満たされていた。ずっと。限界を越えた最強音で鳴り響き続けていた、私が立て続けながら一切、立てられないでいるんんんんんんん…と、その、絶叫が、私の耳のかに荒れ狂ってつんざいているだけだった。私の全身が、ただ葉だけを愛していた。
「…火事。」
つぶやく。
無償の愛。見返りなどもはや存在するべきでさえなかった。私は葉のなにをももはや求めなかった。ただ、葉を求めていた。そのすべてを。…ね。
窓の外を見ていた葉が、振り向いて言った。…初めて…
「ね?」
初めて見た…「…火事なんて…」わたし、…
「初めて、…」
独り語散るようにささやかれた声。葉はもう、私のことなど忘れて仕舞ってさえいた。そのだれに向けられたわけでもないささやきの儚さと孤独が、私の心を引き裂いた。私は泣こうとした。そんな余力などどこにもなかった。…てか、
…ね?
「きれー…」なんか、ね。ん?…
きれーなの。…「きれー…」
マンションの蓮向かいの低層ビルが、燃えているのだった。立ちつくした葉の姿を逆光にさえせずに、その上空に名残った炎の光の朱と紅が、美しい葉にかすかな色彩を与え、目の前の至近距離に、…息がかかるほどのすれすれのそこに顔があった。
色彩はなかった。
うすい暗やみのなかにあってさえそれはただ翳り、昏く、私を見つめた。見つめることさえ出来ないくせに。…流れた。
血が。
鮮明な、ただそのあざやかさをだけ鮮明に曝したそれ、血の色彩。かすかにときに気泡をさえ気まぐれに散らして。
見たこともないその肉体の残骸の一部から流れ出す、速度の消滅した血の流れ。
流れる。…れ、だす。
ながれ、…出す。
色彩。血の。
まっすぐ横に水平に流れて、ただまっすぐ、地平のかすかな湾曲をさえ裏切ってただまっすぐ、ミー。
美しいミー。
理沙。
いずれにしても、それはミー。死んで仕舞ったミー。仲間たちに廻された、そして惨殺された、それ、やがて庭先のブーゲンビリアの木の下に埋めてやったそれはミー。
終には死んで仕舞ういまだ、未生のミーの翳り。色彩はなく、性別の区別さえつけられないその、見たこともない形態の穴ぼこの、接近した目、あるいは単なる洞穴が血を流し続けていた。
永遠に、何も見出せないままただどうしようもなく、無慈悲なまでに醒めきったままに。
零一が、静華が単に檜山の女だからこそ手をだしたということは明らかだった。そして、零一はだれにも公言していた。自分の客の女たちに対してさえも。…俺、男になったの。
…え?
「なに?」
なになに?
ん?
自分を含めて、何かが、
「静華の男。」
壊れるところを見なければ
…は?
気がすまない零一。
てか、…さ、「あの子って、やくざの女じゃん?…」
「笑うでしょ?」
零一が声を立てて笑う。「俺、やくざの女の男になっちゃったの。」その女に対する、たんなる軽蔑だけをこれ以上ないほど露骨に曝して。
やばっ
まじ?
ひく。それ…「まじ、ひくんだけど。」
女たちは零一を許した。むしろ慶輔に早口のささやき声で食って掛かって、「大丈夫なの?…零くん。」
つめる。「追い詰められちゃうんじゃないの?…」まじで、…さ、「やばいよ?…ね?」それでいいの?あんた…「見殺しにする系?」…そういうの、違うと想うからね、…わたし。「守ったげて…ねぇ、…」…違うかな、…ねぇ、「違う?…」…あいつらやばいからね。…なめてっと。「…なんか、やばい気がするの。」…止めたげてえって、想うの。「…もう、まじで…」…死んじゃうよ?…いいの?「何してんの?…」…てか、…「なんか他人の振りしてる?」
慶輔さえ、持て余していた。すでに、それらの声の群れと、零一そのものを。「…どう想う?」
「何が?」
私を微笑みながら、見つめたままの慶輔に、私は、「…あいつ、」
「だれ?」ただ微笑み返すしかない。「…零一。」言った。
慶輔はそう言って、その眼差しは動かない。あー…と、言って眼を細めて仕舞う私の、頬を慶輔は指先になぞった。
風鈴会館の一階の、いつもの、《パリジェンヌ》という名の、喫茶店の中だった。水槽に、熱帯魚でさえない単なる安っぽい金魚の巨体が泳ぎ、椅子に凭れた私がかすかに見上げた視線の先の歩道、ガードレールの向こうの数足の女のサンダルが歩いていった。
「…やられちゃうよね。」
私は言った。事実、殺されるかどうかはともかく、何かをやられて仕舞うに違いない事は、だれもが気付いていた。檜山の静華に対する執着は留保も、猶予もなかった。静華は愛されていた。「お前、…」唇が動く。
「なんか、…なんとか、…」慶輔の。「できない?…」…よね。…独り語散て、つぶやく。「…無理だな。」
慶輔が言った。
「1000パーセントくらい無理だよ。…たぶん。…な?」
「なんとかしたいの?」と、言った私から、初めて慶輔は視線を外して、「…んー、」その無意味な音声の後に、短い沈黙をくれた。
「…それで、いいかなって。」
「やられちゃっていいって?」…だって、…その、慶輔の声が発された瞬間に、私は一度瞬いて、「そんなもんかなって。」
慶輔はささやいた。
私は微笑む。
「あいつ、…なんていうか、健常体のまま老いさらばえていくのって、なんか、あいつ的には違わなくない?…最低、…なんか、ぼろぼろになって駄目になってく感じ?…最低、生き残っても普通じゃない状態で…心とか、からだとか、何でもいいけど、…そういう、壊れちゃった状態で生きてくか、それでなきゃ、…」
「砕け散って死んじゃうか?」…そ。
ややあって、私を見つめたあとに言った、その「そ。」というただ一つの音声を、私の耳が反芻する。
「…そ。」私は言った。「…そう想う。」…俺も…
「あいつ、生きられないよ。」…死んでいいの?と慶輔が言った。
慶輔はそう言って、そして私を見つめ、その眼差しにかすかな、感じ取られないぎりぎりの弱さで、ただ、あっけにとられただけの驚きが浮かんだ。言い訳のしようはなかった。
慶輔が想っているよりも、あるいは私自身が想っているよりも、私が零一を愛していたことは事実だった。死、という不意に想起されたその言葉が私に破壊的な匂いを鼻の奥に撒き散らして、喪失におびえ、零一のいない世界のあまりに荒涼とした無残な拡がりに一瞬おののいて目舞い、私は知った。何度目かに。
私は零一を愛していた。そして、彼が破滅するしかない事はもはや防ぎようもなく、そうなるしかなかった。いまさら手を引いたところで、のめりこんで仕舞った静華がそのまま事を洗い流して棄て置くとは想えなかった。檜山の耳に入り、目に触れるのは時間の問題だった。私たちは危機に瀕していた。ふれれば壊れて仕舞うしかなかった。むしろ、私は願った。
そうなるしかないなら、いっそのこと零一はこれ以上なく残酷で、悲惨で、無残な死にかたを人々の、あるいは私の眼差しの前に曝して果てるべきだった。
惨劇を、もはやだれのためにでもなく私はただひたすらに願った。目の前に慶輔の私を見つめる眼差しがあった。…好き?
と、慶輔は言った。「好きなの?」
「好きだよ。」
私は言った。微弱な色彩のおびえと戸惑いを、慶輔の眼差しは空気がすこしだけふるえて、ふるえた自分にさえ気付かない、そんな気配を湛えた。
愛さずにはいられなかった。「…好き。」
つぶやく。
「お前が、好き。」私はささやいた。
それは留保なく事実でしかなく、報われようもない感情の、どうしようもない発熱に私は倦んだ。…将来、…ね?
零一がささやく。
それは朝。その朝、零一が静華をその夜に静華を抱いた事はまだ、零一と静華しか知らなかった。早く帰った午前7時の渋谷の部屋の中に、私がシャワーを浴びて出て来たとき、寝室のベッドの上には零一が横たわっていた。「…来てたの?」
私は笑いかけた。「…来てた。」…いまさっき、…で。
「なに?」
なんでもない。…ややあって、零一は言った。そして声を耐えて笑った。朝の日差しにやさしくふれられた、その、着乱れた零一はふしだらで、色気づき、そのくせどこか清冽とした美しさがあった。ふれれば、その理不尽な拳が不意に答えて仕舞うに違いない、ようするに始末におけない面倒くささを冗談のように全身に漂わせて、傍らに腰掛けた私が指先に、その額のかたちをなぜるのを、零一が拒否する。…やめて。
「いや?」
…立って。
零一は言い、ややあって、自分で噴き出してしまう。…ばか。
「俺、馬鹿。」
「…なんだよ。」声。
私たちが立てる笑い声を、私たちは聴いた。…ねぇ、
「見せて。」…立って、…俺に、さ。
「ね?…」…見せて。
私は肌を曝したままだった。バスタオルだけが私の体に抱きついていた。私は想いあぐねた零一を見下ろした。その個性的な額のやさしい隆起とかすかな陥没の戯れを指先に確認しながら。…俺って、
「変だよね?」笑う。
その気もなく。なにも、零一にとって以外は、おかしいことなど、笑うべきことなど何もない朝の空間のどうしようもなくかすんだ気配の中で。
疲れ果てた朝。眠気を呼び、夜が始まるまでの時間に、ただ睡眠をだけむさぼって果てたくさせる、そんな、そして、立ちあがった私から零一は眼をそらした。
私が投げて堕としたバスタオルが零一の胸の上にあった。私は彼を見つめていた。その、乱れた長い髪の毛。匂い立つような、荒々しさを繊細に形成した、暴力と優美の不意の交錯、その顔立ち。華奢であらくれた首筋の動きのひとつひとつに、装われない美しさが目醒めつづけて、私を辱じさせる。息遣う腹部と胸元が、その衣服の下に存在するものの生々しさを暗示して匂う。無造作に投げ出された太ももの辺りに、ある、執拗なみだらな気配が芽生えていた。
零一は私を見つめようともしなかった。彼が、望んでいるはずの私の肉体を前にして。あるいは、かならずしも望んでいるわけではなかったのかもしれない。愛の対象。…それは何だったのか。つきつめていえば、結局は肉体そのものを求めているわけではなかった。その内側のものは、手をふれることも見つめることも出来ない、いわば一緒に生きてやるしかない共生の対象にすぎず、それを愛しているとなどと言う事は、愛と言う言葉の概念操作でもしおおせない限り、終には不可能なはずだった。肉体を愛した。そして、当たり前の事実してそれは、愛の最期の対象であり獲るはずもなかった。何を愛しているのか、私にはわからなかった。
私は零一を愛していた。「見ないの?」
私は言った。…ねぇ、
「見てよ。」…見て。
見つめて。…もっと。恥らうくらいに。恥ずかしくて、どうしようもなくて、隠すことも出来なくて、眼差しの中に曝け出さされて、あばかれきって、羞恥に壊れて仕舞いながら、それでも見つめられて。あるいは、見つめられることを求め、焦がれさえいて。
だから、眼差しで、俺を破壊して。「静華とやっちゃった。」
零一が言った。「…ん?」と、ややあって言って私の声が、逆に零一を戸惑わせて仕舞ったに違いない。一瞬、答えようのない質問に曝されて、理不尽な葛藤に苛まれた、そんな翳りを投げ棄てられた眼差しに曝した後で、不意に零一は笑った。諦めたような声を立てて。「あいつ、まじで駄目なんだけど。」
聴く。
「あいつ、まともに男知らないんじゃない?」
零一の声を。…きもち悪いの。…もう、
「すうっ…っげー。…気持ち悪いの。」
零一は疲れ果てていた。そして、眼差しには明らかな、行き止まりの絶望があった。「もう…さ。べたべたと…さ。からだじゅう…さ。」…あいつ、…「おかしくない?」想いを終に果たした、ただそれだけに起因する為すすべもない疲労と未来も過去ももはやない絶望が、わずかな装いもまとわずにただ曝されて、私の眼の前にあった。
「…まじ、駄目。」
零一の存在、剝き出されたそれ自体として。
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