小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑭ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
静華が零一を見初めたのは、彼が店にやってきてすぐだった。慶輔が静華の係りだったから、事の次第は慶輔にも筒抜けだった。零一を、慶介があてがったやったその瞬間、眼差しが彼にふれた一秒以下の瞬間にはすでに、静華は零一に恋に堕ちていた。
なんでもかんでも一方的で、年増の、自分に自信だけはあり、No.1の実績とプライドに塗れた、単に押し付けがましいだけの、無言の求愛。…ね?
わたしが、欲しいんでしょ?
うんざりするような、高級な香水と、
…あなただって。
矜持と、
だれもが、そうなの…
老いさらばえかけた女の
…ね?
体臭。それを眼差しいっぱいに撒き散らして仕舞いながら。…もう、ね?
「完全に、…」…ね?
言った。
「零くんって、私の弟。…完璧、弟みたいなもんだからさ」…ね?「てか、一緒にお風呂入れるけどね、…」わたし、…んー、「なんか、…ね?…恋愛とか、…さ。」…ね?「そういうんじゃなくても、なんか…」…あるじゃん?「弟と一緒に癒されちゃう自分、…的な?」…じゃん?…ね?…あるじゃん?…「から、…さ。だから、…」んー…「ま、…好きかな?」…ね?
「へー…」と、慶輔は言った。静華に、「で、」…さ。
「いつ結婚するの?」
その瞬間にあからさまに幸せに嬌声を立てて笑った静華の声を、私は彼らの背中合わせのボックス席で聴いたのだった。
「お前ってさ。」静華は、「ほんと、人の話し聴かないよね?」慶輔の肩をたたく。
「今日も来てんだ。…静華さん。」私の傍らで、加奈子と名乗ったどこかの社長の馬鹿な娘が言った。「有名なんでしょ?」
「なんで知ってんの?」
「キャバやったことある。わたし。むかし。」声を立てて笑う私にもたれかかって、「六本木だよ。…バカにしてない?…美貌じゃん?わたし。」
「売れたの?」
「三日でやめた。」
…ねぇ、と、静華が言った。彼女の席に零一が帰ってきた瞬間に。「色ついたの開けてよ。」
「…また?」零一が声を立てて笑い、「お金なくなっちゃうよ。」わざと媚びれば、静華はボーイを呼んだ。
「あるよ。…お財布のなかで腐りかけてるの。」…いいよ。と、零一がボーイを制した。「俺、やだから。」
「嫌い?」
「お前に必要以上金なんか使わせる気、ないから。」…馬鹿、と、ややあって静華は言い、ボーイを手招く。…わたしが、飲みたいだけ。…ね?
「安いお酒なんか、わたしに飲ませたいの?」…安くないから。…わたし。…ね?
「男の人ってさ…」加奈子が私に耳打ちする。「ああいう、年増がいいんだ。」…けばくない?…なんか、…「…さ。…匂う。」笑う。
「キィ君から聴いたよ。」
「夕貴?」
「すごーい、…売れてんでしょ?おばさん。」私は肩をすくめ、…お前も、…「年増じゃん?」笑う。
加奈子は二十代半ばだった。…ひどっ、…ね。それ、…
「ひどくない?」
「俺から言えば、年増だって。」事実、私はそのとき、二十一歳になったばかりだったから。
ドン・ぺリニオンのロゼは、いちいち零一が持ってきてやった。わざと派手に、下品な音を立てて抜いてやり、いい音…ね。…やっぱ。その、静華の声。十代から歌舞伎町で働いて、その店のNo.1になり、荒稼ぎし、二十代の半ばの頃、六本木のクラブで二年くらい働いていたらしかった。そこではまともに通用しなかった。流儀が彼女にあわなかったのか、単に、そんなレヴェルの女ではなかったのか。ミドル・クラスへの挑戦に失敗した静華は歌舞伎町に帰ってきた。帰ってくれば、そこはやっぱり彼女の町だった。ふたたびその街の、一番名の知れた女のひとりになりおおせるのに、静華は一ヶ月さえかからなかった。
シャンパンを抜いて、注いでやったフルート・グラスを静華に差し出してやった時、不意に慶輔が振り向いて言った。
「…お前、来ない?」
シート越しに、慶輔の髪の整髪料の匂いと、香水が匂う。
「ハナも、飲もうよ。」それは私の、慶輔が何の根拠もなくつけた愛称だった。…俺?
「来なよ。…お金持ちで頭と性格の悪い静華さんが、今日も全部使っちゃうんだって」言った瞬間に、…違うから。
静華が立てた嬌声を無視して、「金遣うしか女としての価値ないからね、もはや」笑った。
私が加奈子を連れて慶輔たちの席に言ったとき、立って、みずからシャンパンを注いでいた零一が、一瞬、眼差しに恥じらいを浮かべた。その眼差しの表情には、確かに彼固有の色気があった。私は彼を見つめた。メイクを除いたとしても、明らかに自分よりは劣った容姿の加奈子に、静華はこれ見よがしなほどに世話をしてやって、自分がひとりで立てる嬌声にまみれ、ただ、静華は幸せだったにほかならなかった。
静華は檜山という、歌舞伎町の加藤連合の二番手の女だった。要するに、地元のやくざの手にある女だった。だから、ホストたちはだれも彼女に手をつけようとはしなかった。そして、静華にはどこか破滅型の、なにをしでかすか、なにをしでかさせるか分からない、ある危うさが感じられた。
強気の慶輔さえ零一に気を付けるように言っていたが、零一が最終的には客観的な助言など聴くような人間などではないことも、だれもが知っていた。チャイニーズたちに煽られて、規模を縮小させていくしかない純国産マフィアの男に過ぎないにしても、マフィアはマフィアだった。檜山となんども、慶輔との関係の中で、一緒に遊んだことがあった。そもそも檜山は静華に、水商売さえやめさせたがっていた。それを強制しないまま放置させていたのは、結局は静華の月収の、単純計算で500万超の収入その金の穴埋めを出来ないでいるからにすぎず、そして、かならずしも馬鹿ではない檜山にとって、歌舞伎町から足を洗わせて仕舞えば、歌舞伎町だけでしか権威を発揮できない自分の社会的地位など、実際には単に最下層の違法者階級に過ぎないことなど、公然の事実に過ぎなかった。静華をつなぎとめるには、静華を歌舞伎町に深く、深く、沈めきっておかなければならないのだった。
静華を半年近くもてあそんでやった挙句、唐突に零一は静華に堕ちてやった。零一は言った。
「…知ってる?」
その胸に、私の頭をのせて、私の髪の毛の匂いをいっぱいにすいこんでみせながら、
「すげぇ…可愛いの。」
笑った。声を立てて、零一は笑い、心臓の音を聞く。
私は。…零一の体内の、やわらかい騒音の群れを。「…なにが?」
「てか、ね。」噴き出した零一の息が私の額にまでかかって、「あいつ、…静華…あいつ、ほんと、…笑っちゃうの。」…やばい、と、静華は言ったらしかった。そのからだのなかに、初めて零一の存在を感じた瞬間に。
…ん?
「…やばいの。」
なに?
…ねぇ。…「わたし、初めて、女になった気がした。」…いま。
声を立てて笑った私の頬を、零一の手のひらがなぜ、「いいじゃん。」私は言った。「終に女にしてやったらしいんじゃん。」
「何歳だよあいつ。」
零一がただ、無残な哄笑でだけその声を彩りながら、「実際、本当は三十超えてんだよ。」
「そうなの?」
「完全、おばさんだからね、からだ。」…笑う…もう、さ、「まじ笑うから。」…なんで、…と。
私は不意に顔を挙げ、「なんで?」言った。
「なんで、そんなのとやったの?」
零一は沈黙した。…あるいは、単に、口を閉じた。
零一の、言葉を捜しているわけでもないただ澄んだ眼差しが私を見つめ、その眼差しにあった情熱の、留保ない素直な温度と鮮明さが、私を戸惑わせた。…だれも。…言った。
「だれも、やんないから。」…だれも、…「あいつ、檜山の女じゃん。だから、だれもやんないじゃん。で、あいつやばいじゃん。手、出したら、やばいわけじゃん。…ってことは、さ、…ね?」
「だから?」
「…そ。なんかずーっと。…まじずーっとうぜぇって、…んー、それ以外想わなかったんだけどさ。三日前歯、磨いてたの。三日前。寝る前。そんとき、気付いたの。あいつまじやべぇやつなんだなって。…事実じゃん?それ。つまりさ、それってさ、…」いい女ってことじゃん?
私はむしろ、零一に微笑をくれた。
最高の、…さ。「…ね?」…女ってことじゃん。
零一の指先が私の頬をなぜる。…どう想う?
零一は言う。「檜山が知ったら。…どうすると想う?」
表情のない微笑みを静かに浮かべて。
「わたしも、殺すの?」
言って、葉はソファに座り込む。見あげ、見つめた、絶望をだけ浮かべた眼差しに、私を見つめていた。…まさか。
私は、そのみじかい言葉さえ、口にしないままに彼女を見つめた。
私が葉に近づこうとした瞬間に、「だめ。」
来ないで…
ささやく。
待って。…駄目。
「なんで?」
ひざまづいて。
葉は言った。私を見つめたままに、からだをそっと横ばいにたおし、伸ばされた腕の先に指先が、無理な姿勢のためにかすかにふるえる。それは、痛ましい風景のように、私には想われた。自分をせめても守ろうとしたように、意志を持った指先が、かすかな痙攣を空間にきざみながら、スケッチブックをまさぐった。
指先に、ようやくふれた鉛筆が、そしてスケッチブックの上に彼女の指先をもてあそぶ。
ただ、無機物の転がるだけの戯れに、私は白痴的なむごたらしさのみを見た。その、無機物の形態の上にだけ。
やがて、ソファに身をうずめた葉は、胸に抱えたスケッチブックに何も書き出さないままに、私を見つめた。その眼差しに、私は恥らうしかなかった。彼女の眼差しに、曝されて仕舞った私の剝き出しの肌、色彩、気配、あるいは形態の、それらすべてを。
終に、彼女の指先につかまれた鉛筆が、スケッチ・ブックを穢し始めたときに、私はむしろただあられもない許しをのみ感じた。もちろん、だれにも、なにものにも、なんらの許しなど与えられてはいないままに。
《ひさまつる》
突然ひっくり返されたスケッチブックに、無造作に書かれたその文字に、私は従う。…ひざまづく。
私は。葉の眼差しのまっすぐな正面に。
《しるくつ》
暗がりの中に浮き出した画用紙が白く浮かびあがって、そして私は眼を凝らしながら、尻をつく。その絨毯の長く、白い
《すあしある》
絨毛の上に。足をあげ、バランスを失いそうになりなりながら、見つめた。ただ、
《いにたるつ》
表情もなく私を見つめ続けるだけの葉。持ち上げた両足に無理やり腕を通して
《ひしあたい》
なんどもよろめいて倒れ、床がからだを打つ。足に通した腕を、からだ中をひきつらせながら
《いひとりう》
足首をつかむ。そのとき首筋に、強烈な痛みが走って私はのけぞり、倒れた私は最初からもう一度、
《はいつる》
やり直す。股を限界まで拡げて見せて、無様に、葉の前に私のそれを曝して仕舞う。容赦なく
《ふぬいたん》
葉の過酷な指示に私は眼を凝らすが、両足の裏をくっつけようと、もがくたびに苦痛が
《いちいしん》
むしろ骨の中を這う。息をすること、それ自体がすでに筋肉と、筋と、やがては骨格そのものに
《ひたむなる》
与えて、のた打ち回ることさえ出来ずに、出来ずに私は口を開く。大きく、なにもかも飲み込んで、
《るひていゆ》
あるいは、蛇のように。直径の数十倍の卵を丸呑みする蛇のように、無理やり
《んたつるい》
開かれた口のままに首をのけぞらせれば、背骨に執拗な
《いひつた》
痛みが目醒めて私は
《きたむつて》
もはや人体の破綻した残骸に過ぎない
《るるるにる》
肉体を曝した。
葉は、スケッチブックを放り棄てもせずに、胸に抱えて私を見つめた。葉は微笑んでいた。何も描き出しはしない。描かれるべき絵などすでに、描いて仕舞っている。目の前に曝された無残な、苦痛以外を最早感じてはいない肉体を、葉は、ただ、時間を無為に濫費するままに、ながめるだけだった。彼女にできることはそれしかなかった。心に、何の感情さえ浮かべられもしないに違いなかった。
葉は微笑むしかなかった。そうでもするしか、停滞しながらしか経過しない緩慢な時間をもてあそぶすべなどないのだった。私の体中が汗ばみ、ふるえ、痙攣し、筋肉の内側を発熱させていた。
血液の熱気に倦みながら血の気を失っていく頭がなんども白濁し、失心しそうになるのに私は耐えながら、そして繰り返される意識の一瞬の暗転と、無理やりの覚醒。私はたんなる苦痛と葛藤そのものだった。全身が、ただ無意味な葛藤にくらんでいた。…あ、と。
葉が言った。
そのやわらかいアルトが、むしろ頭の中に響いたかのようにさえ聞こえ、私は戸惑い、「…また。」
葉が、声を耐えながら、しのび笑った。…ねぇ、
「また、もらしちゃった。」
その感覚などは無い。とっくに、痛み以外の感覚に神経が麻痺して仕舞っていることには気付いている。私そのものが廃棄物だった。残骸で、腐った肉と骨の塊りに過ぎない。私は滅びていた。壊滅、それだけが、私の身体にいきいきと、息吹いていた。
忍び笑う葉の、こまやかな笑い声が、ただ、私に留保もない癒しを与えた。
鮮明に。
あざやかに。
為すすべもなく。
その記憶された音響に、私は縋っていた。
ややあって、…ん、と、言って立ち上がった葉が窓際に行く。足音さえ立てずに。あるいは、彼女が立てた静かな足音を聴き取る余地など、もはや私の耳には存在しなかった。
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