小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑬ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
白濁した空が、鉛色の夕暮れを曝した。風がかすかに酸化した芳香を運んだ。夜が来る。白濁の空をそのまま昏め、ほのかにその上部からなまぬるい光に照らされた夜が。
体中に苦痛があった。死に瀕した私は、もうすぐ死んで仕舞うはずだった。生き残りたちも、その寿命をゆっくりと消費しながら、結局は、よくわからない。
私たちが生き残ったのか、滅びたのか。
新しい、だれもかつて見たこともなかった風景なのか、単なる留保なき破滅の風景なのか。すべては、明るい。
絶望しきり、混乱しきった眼差しのなかで、すべてはただ静謐とし、やさしく、ささやきを無残にかさねるしかなかったような、そんな澄み切った清らかな明るさにつつまれてさえ見えて、死んでいく。私は。そして知っていた。いずれにしても、私は転生し、すでに、転生していた。
例えば眼差しの先に、ブーゲンビリアを育て続ける少年として。…永遠。
魂の永遠。…救われたの。
「もう…」…ね?
葉が、つぶやく。
ふたたび、眠りに堕ちる前に、
これが、…ね。その、…「…風景。救済の、…」…その、風景。
ささやいた。
まどろみの中に。
気が付いたとき、葉は寝息を立てていた。その、最後の言葉の音型をなぞって、唇は未だにかすかに開かれたままに。私は葉を見つめた。見つめ、息を殺しさえして、そして、それ以外に為すすべはなかった。私のそれは救済を求めていた。私の手のひらはそれにふれた。一瞬だけ。それは息遣っていた。それに、あたえるべき救済のすべはなにもなかった。
やがて、立ち上がった私はリビングに戻った。愛が、ソファにうずもれるように膝を抱えて座り、顔を膝に押し付けて、あくまでも、入ってきた私に気づいていないという嘘を、自分につきとうそうとしていた。傍らに寄り添って座り、私は愛の肩を抱いた。
かすかな涼気が、すでに冷気にちかく接近していて、愛はかすかに鳥肌だてていた。髪をなぜた。その頭を。愛は顔を上げない。愛は、すべてを諦めていた。例えば、目の前で私が葉と結ばれたとしても、愛はただ受け入れ、許して仕舞ったに違いなかった。愛はすでに、私がいまだ侵さなかった罪をまで許しきっていた。もう、とっくに、なんども繰り返し。不意に、私が声を立てて笑って仕舞った瞬間に、…ねぇ。
顔を上げた愛が言った。
「知ってる?」
私を見つめて。
「なんで、人間が人間を愛するのか。」
…なんで?
鼻に笑った、私の吐いて仕舞った笑い声交じりの息を、愛は聴き取らない。
「 気にふれたいから。…」…知ってた?
私の指先が、彼女の頬をなぜる。
「生殖したいだけなら欲望以外必要ないでしょ?育まなきゃならないなら本能と条件反射だけで十分でしょ。…」…でも、「…ね?」…なんで、「…さ。なんで愛なんか存在しちゃったの?…たとえ結果的に、でも。愛って、ときに殺戮するでしょ。愛する人さえ、愛してるから、ただそれだけが理由で殺しちゃうでしょ?…意味ないじゃない?なんで?」…ねぇ?…「…でしょ?」…なんで。…「…なきゃ、いけないから。 わないといけないから。病むとか、そういうんじゃなくて、単純に理不尽に壊れるの。修正もできなくて、手の施しようがなくて、病んでるわけじゃないから、打つてだてさえなくて、不意に壊れるの。…破綻しちゃうの。… っちゃうの。…突破しちゃうの。そうしないと、人間って人間じゃいられないの。壊れた瞬間にだけ、人間になれるの。だから、壊れるの。… 気。…それに、素手でふれるの。その、突破の瞬間が、愛って、そう呼ばれる一瞬なの。…私たちって、壊れて、破滅して、ぼろぼろになって、砕け散って、狂って、もう人間でさえいられなくなった瞬間にだけ、はじめて人間になれたの。…見るの」…ね?「…見たの。」…ん、「見えたの。…人間、が、見た、その風景を。」…ね?
私はややあって、想い出したように愛のまぶたを閉じてやった。両の指先で。やさしく。
愛は抗わなかった。
私は言った。耳元に。…ね?
「何が見える?いま。」
「あなたが見える。」
愛は、そう言った。
沈黙。
長い間、そのまま私たちは黙っていた。なにも言うことがなった。もとから、この、愛してもいない女に対してかけるべき言葉など、持ち合わせてはいなかった。そのことに改めて、何度目かに気付いた。目の前で死んだとしても、所詮は赤の他人にすぎない、取るに足りない石ころ以下の存在に他ならなかった。
愛と過ごす時間の、すべてはたんなる浪費に過ぎず、記憶に残すべき、あるいは残すべき、なにものを愛は私に刻めはしないのだった。理由はただ、愛がまさに愛であるから。それ以外になかった。愛はすでに知っていた。おそらく、そんな事はすでに、十分すぎるほどに。
沈黙しながらも、愛が沈黙などしていないことは知っていた。彼女は言葉をその口に発していないだけだった。饒舌の極みが、彼女にあきらかに存在していた。私のすべて、息遣いも、体温も、なにもかも、全身で完全に感じ切って倦み果て、その心の中に在ってさえ明確な、言葉になどなりえない思考の容赦ない連なりに破滅させられ、危機に堕とされ、破壊され、破裂し獲ないままに飽和しきって、指先が震えていた。
痙攣するように。その唇さえもが。
やがてその、饒舌な時間を持て余しきったわけでもなくて、愛は言った。…殴って。
顔を上げて、私を不意に、想い出したように見つめて、「…ねぇ。」
殴って。…ささやく。
「想いっきり。」…壊して。
愛の頭を、私はやさしくなぜた。
立ち上がって、私は上目遣いの彼女を見つめた。
その、皺のよった眉間を。眼差しが、そのやわらかで複雑な形態にふれた。その瞬間、私は愛を殴った。
拳で。容赦なく。
ソファの上に吹っ飛んで、横倒しになった愛が、数秒後れて、鼻を鳴らした。
私は想わず、微笑んだ。曝された愛の醜態は滑稽で、愛嬌があって、いじらしかった。
骨に生じた苦痛に無様に苦悶した愛はただ、かわいらしいだけだった。
んんん…、と、そう言いながらのんきに、呆然として身を起こしかけた愛の側頭を殴る。喉に濁音を散らして、引き攣りながら愛は同じところに倒れる。
なんども。もっと。ずっと、なんども。立ち上がりかける愛を、私の拳はもう一度同じ場所になぎ倒す。さまざまな、破綻した雑音が愛の喉か、鼻に立った。ときに、頭の先の方から立ったような短い叫び声をあげて。確かに、葉の言うように、私たちは救われて仕舞ったのかも知れなかった。
想い出されて仕舞ったすべての記憶のなかに。ムネーモシュネーの泉。…女たち。マイナスΜαινάδη、デュオニューソス Διόνυσος に狂った豊満な、豊饒の女たち。破壊し、引き裂き、喰い千切り、八つ裂き、乱れ散らすものたち、彼女ら、オルフェウス Ὀρφεύς を引き裂いた狂乱の野獣たち。そして転生するもの、オルフェウス。永遠にその妻を失って、涙しながらただ奏で、言葉を発して歌うしかすべをもたないもの。すでに救済されていた風景。…ザグレウス Ζαγρεύς 。神々に先行した巨いなる存在たち、彼らティターン Τιτάν たちに生きながら破壊されたもの。屠殺され、八つ裂きにされて惨殺されたもの。そして、挙句の果てに喰い散らされたもの。自らの救済のために、更に神々にその心臓をふたたび喰い散らされて、交配られた月の大地が受胎したデュオニューソス、その転生の姿。デュオニューソスの翼の下に惨殺されたオルフェウスの信者たちの救済の神。かつて父親にその母と、兄弟のすべてを惨殺されて発狂した神。デュオニューソス、転生のザグレウス。容赦もない、殺戮の連鎖。…救済の風景。
記憶にふれる。あらゆる存在の記憶に。
私は救済されていた。
すでに。
無慈悲なまでに。
鼻血を流していた。鼻水がまざって、垂れ堕ち、顎を濡らした唾液には血が混じる。ぼろぼろに傷付いた口の中の粘膜が、しずかに流して仕舞った血。
上目遣いの、おびえた、縋る眼差しを愛がふるわせて、ただ、愛は私を見つめるしかなかった。
真っ赤に変色した顔が殴打痕を曝す。髪をひっつかんで無理やり立ちあがらせると、殴っていない反対側に、赤らみが生じていた。
もっと、と。
愛がそう望んでいる事は知っていた。殴る。空中に、投げ出した愛の体はふらついて、よろめいて、ようやく自分で立てそうになった瞬間、一瞬、愛の表情は安堵の笑顔を曝しそうになった。私の膝が彼女のからだを薙ぎ倒す。ぶつけられた頭が絨毯に鈍い音を立てた。 。痛みと恐怖が、その身体から完全に自由を奪った。そこに存在したのは人間の に過ぎなかった。
もっと。私は想った。完璧な破壊を。もっと。あざやかな破壊、留保もない壊滅を。愛が、望み続けているに違いないもの。
壊れていく身体を、私は蹴り上げ続けた。愛が失心したことには気付いていた。
見下ろされた足元で、愛は失神しながらも感じられ続け、無限に反芻されさえして連鎖し、反響する苦痛の響きに倦み果てるのをやめようとはしなかった。
「…殺したの?」と、その声に振り向いた眼差しの先に、おびえた葉が、ドアの脇に縋りついて立っていた。
葉を、耳にふれる音響のすべてが恐怖させ、嫌悪させていた。葉は、私を見つめていた。眼差しに、あきらかに私を咎める色彩があった。
「なんで、…」
声。
「殺しちゃったの?」
ふるえる、その、葉の。
声。私は首を振った。…殺してない。
つぶやく。「まだ。…」
死んでないよ。…
葉の眼差しは絶望していた。失望し、諦め、歎き、おののき、悔恨に責められてただ沈黙する。「なんで、…」
殺しちゃったの?
「殺してないよ。」
…うそ。
私は彼女を殺してはいなかった。彼女はまだ生きていた。事実として、愛は死にはしないのだった、私によっては。
葉は、姉の死を歎いていた。その歎きには止め処がなかった。駆けよりもせずに葉は、身動きもしない愛の、腹部を乱して息遣う無様な肉体を見つめた。私の体はいつの間にか汗ばんでいた。その匂いが匂い、私は私のふるった暴力それ自体に、明らかに穢されていた。
窓越しの空の光に、私は瞬いた。
その時、仰向けの私の、上に覆いかぶさったまま私を見つめる慶輔の、その、かすかにカールした髪の毛の乱れた先端の先に、不意に眼にじかにふれた陽光に瞬いて、
…ね?
言った慶輔にうなずく。彼の話など聴いていなかった。
「悲しいの?」…どうしたの?
ささやかれた慶輔の声に私は戸惑って、あわててなにもかも打ち消そうとしながら、結局はなにも言い出し獲もしないままに、私の眼差しが慶輔のうかべた微笑を見つめる、そのままにすべてをまかすして仕舞うほかない。皮膚に彼の体温が、剝き出しのままにふれていた。ふれあった皮膚が、お互いの体温に汗ばんでいだ。私は、かならずしも悲しいわけではなかった。…知ってる?
想い出したように言った、慶輔のその声にはどこか、いたずらに企まれたような耳ざわりがった。「…なに?」
「零一。…」
…ん?
彼と、彼が関係を持ったのは、あの一度きりだった。すくなくとも、私が知っている限りでは。
「どうしたの?」
関係は悪化することもなく、気付かれたことも気付かれなかったことにされて、見出されたことも見獲もしなかったことにして、いずれにしても彼らは、そして私たちはただ、平和に戯れあっていた。…なに?
「なにか、…」…あったの?
なんか、…
争いあわないやさしい顰められた諍いに、いつでも取り巻かれて仕舞っているのは、むしろ愛しあう時間の中での慶輔と私の、私と零一の、その周囲のぐるりの全部だけにほかならなかった。ふれれば切り裂かれて仕舞うのかも知れない痛々しさが息吹いて、生起しつづけるなかに私たちは、ふたりの素肌を曝していた。私たちはただ、無際限なまでに愛し合って、留保もない危機に直面していた。眼差しにふれた慶輔のすべて、仕草さの一瞬の明滅さえもが、私に研ぎ澄まされた、角のないやさしい痛みを与えた。そして、慶輔の眼差しの中で、私の存在はまさにそんな痛み以外ではあり獲ていないことにも、私はすでに気付いていた。
「あいつ、女、作ったでしょ。」
言って、慶輔は笑った。声を立てて。その声に含まれた、かすかで執拗な軽蔑の穢らしさが私を悲しませ、そして、感じ取れないほどにちいさな、はっきりとした、慶輔への暴力衝動の芽生えを、感じさせた。
慶輔をなぐり倒して、生まれたことそれ自体を後悔させて遣りたい、そんな、かすかで、どこかナイーブな感情。私は声を立てて笑った。…知ってる。
「あの、…」…やばい女でしょ?
「檜山さんの女…」笑い声にすこしだけ乱れた慶輔の声を聴く。そして、結局は、埋めなければならない、行き場のないいわばどん詰まりの私たちの空間の中に、氾濫した時間を焼き尽くして濫費しおおせて仕舞うためにだけ、ふたたび愛しあい始める。やさしいだけの、どちらともない口付けとともに。
零一がその、静華という源氏名の、三十近いキャバクラの女に手を出した事は知っていた。あるいは、零一のほうが手を出されたのだった。
女たちは、つまりは私たちに手を出して仕舞いたいがためになけなしの、あるいは穢い大金を手にその手を差し伸べるのであって、結局のところ先に手を出したあるいは、手を出そうとしていたのは女のほうに違いなかった。ときに、意図的に私たちのほうからそれを仕掛けて、それをさせて仕舞うにしても。
静華が零一を見初めたのは、彼が店にやってきてすぐだった。慶輔が静華の係りだったから、事の次第は慶輔にも筒抜けだった。零一を、慶介があてがったやったその瞬間、眼差しが彼にふれた一秒以下の瞬間にはすでに、静華は零一に恋に堕ちていた。
なんでもかんでも一方的で、年上の、自分に自信だけはあり、No.1の実績とプライドに塗れた、単に押し付けがましいだけの、無言の求愛。…ね?
わたしが、好きなんでしょ?
うんざりするような、高級な香水と、
…あなただって。
矜持と、
だれもが、そうなの…
老いさらばえかけた女の
…ね?
体臭。それを眼差しいっぱいに撒き散らして仕舞いながら。…もう、ね?
0コメント