小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑫ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
慶輔の唇が をふくんだ瞬間に、私は眼を閉じた。ソファに身を投げ出して横たわり、耳に重なり合うだけのかすかな音響だけを聴く。眼を閉じた暗やみの中に、閉じられただけにすぎない暗やみを見る。音。
耳に聴き取られたそれらのただ、かすかなだけの群れは終には、なにをも明かさなかった。明示せず、むしろ暗示さえもしないままに、ただその音響そのものの素肌だけを曝して、耳にかさなる。
想起され続ける、一瞬前の音響とさえ頭の中で重なって、それらは連なり、あるいは、決して、大音響にもなり獲もせず、密集もされ獲ないままに、私を隙間だらけのままに満たす。
私は聴いた。
皮膚に温度がある。慶輔が忘れて仕舞ったように落し続けている指先が私の腹部にふれ続けていて、そこにはその触感が目醒め続けている。それ以外には、だれにもなにも触れられてはいない皮膚が、ふれられてはいない事実にだけ、眼をそらしもせずに覚醒していた。私の腹部は、慶輔の指先に温度を伝えているはずだった。私は倦んだ。
没頭し始める彼らを棄て置いて、私はバルコニーに出た。
ルーフバルコニー、その広い空間の拡がりの、いたるところに理沙の残した鉢植えの花と観葉植物は息づき、それらの手入は、毎日、私たちのいない夜の時間に掃除にくる慶輔の妹の仕事だった。私は彼女とまだ逢ったこともなかった。
隆起した土地のてっぺん近くの、高層階の上空の、冴えた空気がしかに、全身の肌にふれた。…理沙。彼女が育てた花々ではあっても、同じそれにもはや彼女の記憶はなにも残ってはいなかった。彼女の実在さえ、私はすでに疑っていた。彼女とのことが、留保なき現実で、事実でしかなかったことなど、だれよりもよく承知していながらも。もはや理沙は、どこにも存在しなかった。記憶が、事実との差異をしか意味しないならば、いま、理沙は最初からこの世界に一瞬たりとも存在しなかったに等しかった。
バルコニーの、理沙が飛び降りたあたりの手すり。その手前にはバルコニーに、作り付けの植栽が在って、その白塗りのコンクリートの隙間を私は通り抜ける。その白が日差しに照り返してきらめきの中に自分の色彩を曝す。手すりは蒼白のペンキが塗りなおされていて、その剥げたところが、無造作に下地のグリーンを曝し、その下には、錆びた鉄の赤褐色が陽にあたっていた。
手すりに身を乗り出せば、横のビルの尽きた先に道玄坂が、そして、その街路樹が見えた。手すりを乗り越えて立つ。突風がときに吹き上げる。だれも見上げるものなどはいない。周囲の商業ビルはすべて、その窓を装飾に費やすか、つぶして仕舞ってる。素肌を曝し、なにもかも剝き出しにしていながらも、だれにも剥き出しにされることなく、だれの眼差しにもふれないこの事実に、私が感じたのは容赦もない孤立にすぎなかった。私はあきらかに孤立していた。この場所は孤立し、そして、人々は、あるいは建物、樹木、それらはすべて孤立していた。
見渡した東京の、まさに世界有数の中心部の風景の中に、無残なまでに人々が密集し、そこに生きていることなど知っている。そして、私の眼差しのなさに、それは人々の死に絶えた廃墟としてしか映らない。
人々は、都市は、そして樹木さえもが滅びていた。
鳥だけが飛んでいた。空は、彼らのものだった。彼らを従わせ獲るものは、もはや空にも存在しなかった。人々がすべて滅びて仕舞っているのなら、私も滅びているに違いなかった。遁れようもなく、なんども転生を繰り返しながら。
永遠の果てに時間が尽きた後でも、尽きた後のいつか…時間さえもが崩壊した、物質と反物質の完璧な均衡のあらゆる事象の永遠の不在の只中で、いつか不意に、いわば在り獲ない確率の中の決定的ないつかに、目醒めて仕舞ったいわば事故として始まる時と存在の事象のなかに、すぐさま私は目醒めるのに、…あるいは、目醒めたのに、違いないのだった。留保なき永遠の中で。
私は永遠だった。
なんども見られた夢の中に、あるいは、いつの間にか唐突に目醒めていた記憶の中に、私が時間におけるいわゆる過去という事象と、未来という事象の、私が経験したそれらのすべてを知っていた事は事実だった。私はすべてを、すでに知っていた。
音が聞こえた。
街が立てた音。しずかに、下方に停滞する、人の、物の、あらゆる音、そして、至近距離に、あるいは至近距離よりも近いむしろ通り過ぎて仕舞った距離の果てた特異な場所に、その音、私を食い散らす音が聞こえた。
そのしずかで、ナイーブで、ナーヴァスな音色が、私を喰う。牙もないくせに、それは、噛み付くことも、咀嚼することも、そもそも私にふれることさえできないくせに、それは、私を喰い散らしていく。
…音響。
そのただなかにいるはずのこの街の、ただひたすらに遠いしずかな音響。静謐、…と。
その言葉の意味が分かる。
静謐とは、音がないことではなかった。一瞬たりとも沈黙を穿ち、鳴り止むことができない音が、にもかかわらず、しずけさに一致することしかできなかった背理の中に、唐突に目醒めるうち棄てられたような感覚。それが、静謐という概念の実体だった。
ただ、その実体が、そこに望まれたわけでもなく無造作に息遣っていた。すべては私に、すべて見出されていた。すべては事実として記憶されていた。そして私は、いま、ここに現実としてしか存在してはいなかった。
私は孤立していた。現在過去未来、その、あらゆる事象が体験したのと同じように、まさに、事象そのものとして。片手に手すりをつかんだままに、向こうの空に腕を伸ばす。
腕いっぱいに、突風の風圧がふれる。
それは、もはや部厚い力としてだけその存在を曝す。光が私の皮膚にふれていた。早朝の新鮮さなどを失って、にもかかわらず未だに正午でなどは在りえない、淡いというには強烈過ぎる日差しが私の肌にふれていて、気付かれない速度で、皮膚は陽の色に灼かれているのだろうか?細胞は、じかに素手でふれて仕舞った光の温度に、灼きつくされはじめていたのだろうか?自分固有の色彩をさえ喪失、あるいは放棄しながら。
皮膚を形成した、夥しいそれら、分裂と死滅を繰り返す生命体の群れは。振り向けば、背後のすぐ、至近距離に、理沙がいる事は知ってる。
見たこともない少年。色彩のない、昏い翳り。ルーフの床、白塗りのコンクリートの日差しの中に。その、少年らしい残骸の翳りは、静かに血を上方に捲き上げた。ゆっくりと、速度の概念を嘲笑ったかのような、無様な遅滞を曝しながら。
あざやかに。
ただただ上方へと、空の青の彼方まで尽きることなく、鮮明な血の色彩を、…それ。理沙。私を見つめ続けながら、なにをも見てはいない、あるいは、自分がなにも見ていないことさえ知覚できはしないままに。…ねぇ。
…と。
「ねぇ…」と言った、その葉は私を見上げて、そのあお向けたからだを黒ずくめのスウェットの下に息づかせ、いつか、私は彼女を求めていた。
「知ってる?」
私は葉を愛していた。いまだかつて経験したこともないくらいに。
むかーし。…ね?「昔の、…」
私の魂は、あるいは
「神様、…ね?」…ん、
肉体は、単純に彼女を
んー…「…ギリシャの神様。」
求めていた。
「知ってる?」
それは事実だった。そして
「すべてを想い出すこと。」…ね?
彼女がそれを許すとは
すべて…「忘れられた、その」
想えなかった。なぜか、
…すべてを、…「ね?」
その理由など分からない。ただ、
「想い出せば、」…そうしたら、
私には彼女が永遠に
「救われるんだって。」
私を
…究極的に、「…ね?」
拒絶し続けるに違いないと、
「知ってた?」
そうとしか
「…解脱、…とか?」…ん、
想えないのだった。すでに
「…そんな…」
彼女は私は裏切っていた。
「過去も、未来も、現在も、…」ぜんぶ。…ぜーんぶ、
私を。…私を、
…想い出せば。…「ん、」
受け入れる前に、
「…ね?」…ってことはさ。
すでに。
「救われてるんだよ。」…私たち、…と、言って、「…私?…たち。」…ね?笑った。葉は、笑った。
声を、小さく鼻に立てて。
「知ってた?私たちは救われてる。…解脱…っていうの?輪廻転生の輪の中から、解放されてるの。すでに。いまだに、これからも、ずうっと、生まれ変わって出逢い続けながら、…」…何回も、…ね?「愛しあって、憎みあって、許しあって、殺しあって…ね?」覚えてる?
葉は言った。
「…なにを?」
「私を殺したときのこと。」
記憶、それは、すでに想い出されていた。むしろ、私の
「四十九歳のとき…」
手のひらが想い出していた。ただ
「そう、…」
触感として。あざやかな
「十六歳の」
忘れらないその、
「…お前を?」
事実が残した触感の
「そ。…老いさらばえた、穢ったない、…」…あんたが。
事実を。
私が泣いている事は知っていた。涙も流さずに。泣き声も、乱れた息も、荒れた心もなにもなく、曝されるべき表情さえないままに、むしろ空っぽになった心の空虚をただ澄みきらせて仕舞いながら、確かに私は号泣していた。
私は叫んでいた。…その時、…あの。
その、あの、時、その、あの時、十六歳のその少女を絞殺してしまったとき、私は、そしてそれが葉であることなどすでに知っていた。
彼は叫んだ。歓呼の叫び。
私は してた。 った、… 気、としか言獲ない容赦のない切片に気付かないままふれて仕舞ったその時に、私は。
その後には、絶望しか残りはしなかったことさえ知りながら。
手のひらの中で、私が拉致してしまった少女は死んでいた。なんども私にな られ、殴りつけられて、原形をとどめない顔を曝して。
歓喜。
私はただ、歓喜の切片に触れていることを自覚していた。あてどもなく、口の中だけにながい顰めた叫び声をあげ続けながら。
「…ね?」…救われたの。
言った。
…すでに、永遠に。…「私たちは」
葉は。
ルーフバルコニーから帰ってきたとき、窓越しの陽光の斜めの直射の中に、 慶輔はソファにひじをついて、尻を突き出していた。一瞬、それは私に主客転倒のように想われて、私は想わず微笑んで仕舞うしかない。
その、失笑に近い微笑みが私を、どちらにともなく向けられた嫉妬から救っていた。背後から零一をかるく抱きしめて、私は頬をその後頭部に寄せた。
髪の毛が匂った。髪の毛の、ざらついた触感があった。その頭部はかすかな発熱をおびている気がした。私の に、 零一の がふれていた。汗を含んだ皮膚が匂いを立って、そして少年は振り向かない。
あの、廃墟の中、人々の世界の終焉の風景の中で。
考えてみれば、この形態、人間という形態において、人々がかつて世界、と、そう過剰な想いあがりを含めて呼んだ単なる地上に君臨した時代は、ほんの瞬くほどの時間に過ぎなかった。膨大なカンブリア期の、あるいはそれに先行した冥王期の、惑星の時間を無慈悲に濫費し続けたかのような時間の広大な拡がりに比べれば。
いまや人々は滅びようとし、そのかつての固有の形態を喪失しかけ、終には完全に失って仕舞う以外に未来はなかった。
いずれにしても人類に未来はなかった。だから、すでに滅んでいるに他ならなかった。わずかなその残党が、その形態を急激に変容させていくさなかにさえあっても。死んだ肉体は、結局はあまりにも膨大すぎて、処理しきれないままに野ざらしになっていた。眼差しが捉えた風景の先の、無際限なまでの荒野の拡がり中に。
人々は、異化した生きた体躯を曝しながら、生存者だけの集落に生活していた。例えば少年のように、無意味にブーゲンビリアを埋めて育てたりしながらも。死んで仕舞った人々身体は見るに耐えないものだった。結局は、人間として死んで行った破滅した人々の、健全で、健常な身体をなどは。滅びかけの、あるいは滅びきった、健常な人間種が健常だった頃のその名残りの、破滅し滅びた形態をなどは。
奇形化。あるいは進化。要するに環境適化…超人化?あるいは要するに、留保なき単なる奇形種の一気の奇跡的な増大。いずれにしても、人々にはすでにさよならさえ言わないままに、その決別の時はすぎて仕舞っていたのだった。
白濁した空が、鉛色の夕暮れを曝した。風がかすかに酸化した芳香を運んだ。夜が来る。白濁の空をそのまま昏め、ほのかにその上部からなまぬるい光に照らされた夜が。
体中に苦痛があった。死に瀕した私は、もうすぐ死んで仕舞うはずだった。生き残りたちも、その寿命をゆっくりと消費しながら、結局は、よくわからない。
私たちが生き残ったのか、滅びたのか。
新しい、だれもかつて見たこともなかった風景なのか、単なる留保なき破滅の風景なのか。すべては、明るい。
絶望しきり、混乱しきった眼差しのなかで、すべてはただ静謐とし、やさしく、ささやきを無残にかさねるしかなかったような、そんな澄み切った清らかな明るさにつつまれてさえ見えて、死んでいく。私は。そして知っていた。いずれにしても、私は転生し、すでに、転生していた。
例えば眼差しの先に、ブーゲンビリアを育て続ける少年として。…永遠。
魂の永遠。…救われたの。
「もう…」…ね?
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