小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑪ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「…でも、」
ん…、と、零一が私のその声を聴いた。
「好きでしょ?」
私が彼を見つめ続ける眼差しを、零一は直視して離さない。「…俺のこと。」
一瞬の間の後で、まばたき、一度視線をどこかに流して、獲得されかける。零一の眼差しに、なにかの表情の形のようなものが。そして、それがかたちに堕して仕舞う前に、零一は声を立てて笑った。「…そう。」…わかんねぇー…
「なんで?…」…ねぇ。
まじ、…わかんねぇー。てか、「ね?」まじ、…狂ってね?
なんか…
「好き。」零一が言った。「…死ぬほど好き。」
シャワーを浴び終わった慶輔はそのまま肌を曝して、リビングに入ってきた瞬間に、目に留まった零一に一瞬素直にたじろいだが、すぐに気付きもしなかったような顔を作った。私は何も言わなかった。零一が私の男であることは慶輔も知っていた。私が慶輔の男であることは零一も知っていた。
私は唾棄すべき裏切り者だった。だれにとっても。裏切り者にさせられて仕舞った零一はその一瞬に眼を伏せて、ややあって、…ね?
言った。
「俺も、シャワー、浴びていい?」
私に。
私を見つめた眼差しには、伺うような色はあっても、悪びれたふうもなくて、確かに彼は汗くらい流すべきだった。あくまでも自分勝手に色づいた、女たちの無数が振りかけた香水と、体臭と、ファンデーションの臭気と、髪の毛の臭気と、夥しい酒の匂いと自分の肌が廃棄した汗の匂いに、うす穢れた彼の仕事終わりの体を。
慶輔が笑って、背後に言った。
「好きにしなよ。」
…からだ、べたべたすんだよね。私に答えた零一は笑い、振り返って、慶輔にも笑いかけた。慰めるように。
あいつ、あんま、もてあそぶなよ。…と、零一がシャワールームに消えた後に、慶輔は言った。
「もてあそんでないよ。」
「くれてやってるだけ?」
慶輔は笑う。「愛して、くれてやってるだけ、…って?」
うなずきでもしたら、逆上した慶輔が殴りかかってくる気がした。事実して、そうだったのかそうでなかったのか、私にはわからない。私はむしろ、かすかに微笑んで、慶輔を見つめただけだったから。
「おんなじことだって…あいつにとっては。」…違う?
私はソファに身を横たえて、見上げた眼差しが見いだした慶輔の姿の先の、午前の空の青さを見た。空は晴れていた。
「あぶないぜ。」
午前の早い時間帯ではあっても、もはやそこに明け方のあのあざやかすぎる破滅の色彩の、その鮮度は一切失われていた。それは、朝という時間の、夜が明けるという行為の滅びた残骸を曝した、無残な老醜か、目も当てられない惨殺死体のようにしか見えはしなかった。
「単純に、」…ね?…「単純に、…さ。」
空はもはや死んでいた。見事なまでに、痕跡さえ残さない絶滅。その事実に悲しみさえ感じる余地もなく、完璧に。
「…おまえ自身が。」
「なんで?」
慶輔が笑う。
「あいつ、あぶないじゃん。」女を殴った、と言った。ホストの一人が。店を出た後、一緒に行ったクラブで、何が気に入らなかったのかは知らない。零一は連れて行った女が一瞬曝した表情を、いきなり殴りつけたのだった。
フロアの中で。
あまりに唐突だったので、むしろだれも騒ぎ出さなかった。…あれ?
…え?
と、…そう想われた一瞬の空白が、正気を取り戻し始めるうちには、折れ臥したように倒れこんでいた女は立ち上がって、自分になにが起きたのかも分からないままに、…ごめん。
ごめんね。…ね?言っていた。
無数の眼差しはそれを見ていた。殴られた女を。言葉も、眼の前に曝されたあきらかな暴力に対するかすかな仕草ささえも何もなく。
だいじょうぶ?…女が、慈しみ、ただただ心遣う眼差しを曝して零一を見つめたとき、零一は言った。「二度とするんじゃねぇぞ。」唾を、「…くそ。」吐き棄てるように。
「ごめん。」
むしろ、女はそれでも零一がなに言ってくれたことに、なぜか感謝して仕舞っていた。それはひとつの鮮明な救済劇だった。そして、それで終わりだった。零一は数分だけ不機嫌さを引きずり、なにかのきっかけが、彼にそれを忘れさせた。一瞬の心の隙間に、入り込んで仕舞ったノイズのような、そんな小さなエピソードとして、人々は忘れて仕舞うしかなかった。なにも起こりはしなかった。
そんな話しなど、私だって知っていた。ほかにも、いくつもあった。いちいち覚えてさえいない。…でも、
「でもさ。」…ね?
「そういうところが好きなんでしょ?」
私が慶輔にそう言うと、
「まさか。…」
「そういうやばいところが、買いだって、…違う?言ってなかったっけ?」
それは事実だった。そして、だれが見ても明らかだった。いつでも理不尽で、突発的で、予想がつかないところ、それがなくなって仕舞えば、零一など話もまともに出来ない顔かたちがいいだけの馬鹿で幼稚なでくのぼうに過ぎなかった。
「言ったっけ?」
…言ったじゃん?笑う私の髪を撫でて、私の頬に口付け、慶輔はささやく。…確かに。
「言った。…ね?…確かに。」
…でしょ?
「そういうところが好きなの?」
「自分が、でしょ?」
「俺が?」…まさか。
シャワールームから、一応は服を着て出て来た零一を、慶輔は手招きした。…来なよ。
「こっち、…」
…来なよ。零一は、表情も作らないままに、ただ、澄んで、落ち着いたやさしい眼差しに慶輔を見つめ、従う。零一は、微笑みながら私が自分を見ている事は知っている。
「…おばかな壊し屋くん。」
笑って、慶輔は言い、意味も分からずに、声を立てて笑う私たちに零一は笑んで見せる。…え?
「なに?」
何だよ…ね?…「え?」…
ささやき、その声のふるえを耳に感じながら私は、自分の髪を掻きあげた指先に、その髪の毛の触感を感じ取っていた。まだ、濡れていた。水気が皮膚を、しかし、垂れて濡らして仕舞うというほどではない。
私の傍ら、ソファに座ったままで、慶輔は筋肉を薄く張らせただけの、華奢な、そして、いままでに何人もの人間を壊して来たに違いない、きなくさい俊敏さを湛えたみぞおちに、その指先でふれた。…したいの?
と、ややあって、不意に驚いた、不審な表情を曝して零一が言って仕舞ったとき、慶輔が言った「お前が、…でしょ。」その言葉を、私は聴いた。
むしろ、用意もないままに、耳元につぶやかれたような、その慶輔のささやき声を。
零一は声を立てて笑った。…あいかわらず、
「ケイさんって、どエスだよね。」
「言えよ」
…なに?
「お願いしますって。」
…ん。
「…ね?」と、言って、零一は慶輔の髪を、なぜて仕舞いそうになるが、一瞬ためらった手のひらが、その至近距離に停滞する。
「言って欲しい、…ん、ですか?」零一は言った。
「言えよ。」…してください。早口に言って、笑い、零一は私を見る。見つめ、その笑顔は私に何の感情も、言葉も伝えきらないままに、やがてそらされた眼差しは慶輔を見つめるのだ。
自分が吐かせた言葉に答えも返してやらないうちに、慶輔はその、みぞおちのに唇をつけた。
零一の指先が、その髪の毛をなぜた。
私は嫉妬した。見つめた。他人の皮膚にふれる唇、あるいは、他人の唇にふれられた彼らの肌を。何の気もなしに、私に視線を投げもしないで、零一の胸元に顔をうずめた慶輔が、後ろ手に伸ばした片手の指先に私の腹部をまさぐったときに、私はただ私への留保なき冒涜を感じた。それは唾棄すべき、許してはならない冒涜だった。
唇が、みぞおちを流れて、その腹部を、そして、そのためにゆっくりと折り曲がっていく慶輔の、筋肉の張った背中に、背骨のかたちに浮き上がっていく突起のうねりに見惚れる。私の指先が、それをなぜて確認して仕舞いそうになるのを、私は必死に我慢し、耐えて、その触感はすでに私の指先にあざやかに感じられていた。想像、なのか、想起、なのか。妄想とは言い獲ない、あきらかな鮮明さが指先に残って、私は耐え難く、私は確かに嫉妬に狂ってさえいるのかもしれなかった。しかし、彼らは所詮、私に焦がれた男たちに過ぎなかった。
私に群がった、私なしでは、生きてさえいけないふたりの男。私が、彼らに対してそうであるのと同じように。その事実が、私にとって、ただ皮膚感覚として無残で、留保ない悲惨を認識させた。
零一の浮かべた、絶望しきった表情が何かに耐えていた。感情になのか、感覚になのか、いま、して仕舞いそうになってる行為になのか。私はわからなかった。
慶輔の唇が、やがて零一の 先端にふれ、当たり前のようにためらいもなく、それは口に含まれるしかなかった。
私は眼を閉じた。ソファに身を投げ出して横たわり、耳に重なり合うだけのかすかな音響だけを聴く。眼を閉じた暗やみの中に、閉じられただけにすぎない暗やみを見る。音。
耳に聴き取られたそれらのただ、かすかなだけの群れは終には、なにをも明かさなかった。明示せず、むしろ暗示さえもしないままに、ただその音響そのものの素肌だけを曝して、耳にかさなる。
想起され続ける、一瞬前の音響とさえ頭の中で重なって、それらは連なり、あるいは、決して、大音響にもなり獲もせず、密集もされ獲ないままに、私を隙間だらけのままに満たす。
私は聴いた。
皮膚に温度がある。慶輔が忘れて仕舞ったように落し続けている指先が私の腹部にふれ続けていて、そこにはその触感が目醒め続けている。それ以外には、だれにもなにも触れられてはいない皮膚が、ふれられてはいない事実にだけ、眼をそらしもせずに覚醒していた。私の腹部は、慶輔の指先に温度を伝えているはずだった。私は倦んだ。
没頭し始める彼らを棄て置いて、私はバルコニーに出た。
ルーフバルコニー、その広い空間の拡がりの、いたるところに理沙の残した鉢植えの花と観葉植物は息づき、それらの手入は、毎日、私たちのいない夜の時間に掃除にくる慶輔の妹の仕事だった。私は彼女とまだ逢ったこともなかった。
隆起した土地のてっぺん近くの、高層階の上空の、冴えた空気がしかに、全身の肌にふれた。…理沙。彼女が育てた花々ではあっても、同じそれにもはや彼女の記憶はなにも残ってはいなかった。彼女の実在さえ、私はすでに疑っていた。彼女とのことが、留保なき現実で、事実でしかなかったことなど、だれよりもよく承知していながらも。もはや理沙は、どこにも存在しなかった。記憶が、事実との差異をしか意味しないならば、いま、理沙は最初からこの世界に一瞬たりとも存在しなかったに等しかった。
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