小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑩修正版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「ちょっと、休憩、…ね?」
葉がひとり私に話しかけ、「もっと、ね。」
笑い、
「追い詰めてやりたいけど」…ぼっろぼろに。
聴く。私は。
「むっちゃくちゃに。…」…けど、
その声。
「…休憩。」
声。耳にふれた、愛おしさしか感じさせない声。
葉は、立ちあがってリビングから出て行った。
明るい暗やみの中で、私が曝されたのは単なるむき出しの孤独だった。その正体など分かっている。葉の不在だった。それ以外には理由などなかった。筋肉に、ゆっくりと力を入れる。たかが身を起こすという行為に、どれだけ全身の筋肉を、繊細に酷使しているかを、体の細部に走るさまざまな痛みが自覚させた。両肘を突いた、その姿勢でさえも。いつか、腹筋を痛みが発熱させていた。喉の奥だけでうなりさえしながら、私はようやく座り込む。息遣う。痛みに体が慣れていく。あるいは、麻痺していく。たちあがろうとしてよろめいて、よろめいた力みが鮮明な痛みに体を引き攣らせる。失心した記憶などない。どれだけ、あの姿勢を無理やり維持していたのかもまったく記憶になくて、あるいは姿勢を維持して立ちながら、そのまますでに意識など飛ばして仕舞っていたのかもしれなかった。
私は葉をさがした。どこにいるかの見当はついていた。あのアトリエか、あるいは、彼女の部屋か。リビングの外に出ると、彼女の居場所はすぐに知れる。照明の消された廊下の突き当たりに、完全に開かれて仕舞ったドアの、ひとつの部屋の中からだけ光があふれていた。…葉。そこは、葉の寝室のある場所だった。
壁にかるく手を添えながら、廊下をゆっくりと歩いて、入り口の木枠に凭れると、その花だらけの部屋の中の、窓際のベッドに葉が横たわっていた。仰向けの葉は、しずかな寝息を立てて、彼女は寝ているのだった。私は、彼女の周囲に群がった花々が立てる匂いに倦み、そして葉が鼻にたてた聴き取れはしない寝息、その、眼差しが錯覚してして仕舞ったにすぎない架空の音響に違いない微弱音を、聞いた。
見つめた。ただ、美しいことだけ曝して、息遣う彼女を。そっと近づいて、ベッドの隅に腰掛けて、目に映るその姿のすべてをいつくしみながら、葉の形態を眼差しは確認する。
結局のところ、いわゆる何人なのだろう。さまざまな要素が入り混じりすぎてあてどなく、ただ抽象的な美しさをでもかたちづくるしかすべがなかったような、そんな稀なほどに美しい存在が目の前に曝されて、濃すぎるほどに濃い灼けた褐色が、色づいて肌に息づく。そらされた眼差しの先に、すべて曝して見せたときにもその全身は、同じ色彩に灼かれていたに違いない。だから、それは彼女の肌の地の色彩なのかもしれない。重力にやわらかく押しつぶされた流線型が、黒一色のスウェット地の長袖の中に、なめらかな流線型を暗示していた。上下する、腹部の波立ちに、彼女の生きてあることを眼差しはひとりで確認した。目の前に廃墟が拡がった。壮大な、最期の風景。崩れた巨大なビルが斜めに、そして空が向こうにまですべて白濁して、色彩のあざやかさの不在を曝し、ただ、もろもろの事象は沈黙した。にもかかわらず、生き物の気配など存在しない破滅の風景とは言獲ない。瓦礫の山の散乱の、いたるところをでたらめにを食い破って、さまざまな形態の植物がもはや無造作に繁殖していた。あるいは、まさに命のあふれかえった、むしろ生き生きとした風景だというべきなのかもしれなかった。無慈悲なまでの命の楽園。生き物たちの至上の地。いずれにしても、眼差しのうちには、すべてが破滅した廃墟とは言い獲た。少年が植えてまわるブーゲンビリアの樹木が、苗木のまま、ゆっくりとは生長しているはずの、その、あまりに緩慢すぎる発育を、眼差しは決して捕らえる事ができない。時間の感覚の絶対的な差異が、私からその見えているはずのものの明示を奪う。いまだかつて見た事のないその少年が、それでも彼が少年なのだと気付いて仕舞うのは、彼が少年であるからにすぎない。私はもはや死んでいくしかない。そんな事は知ってる。少年は死にかけの私になど見向きもしない。その、しゃがみこんだ少年の後姿の向こうに剝き出しの鉄筋を何本も曝した、瓦礫の山が風化の、ながいながい時間を自分勝手にむさぼって、植物の繁殖に食い荒らされていることにも気付かずに、さらにその先に、半分でへし折れた高層ビルと、それに寄り添って傾いた何棟かのビル群が、あるいは鳥。
遠くの空の、白濁をやさしい逆光にして、無数のそれらは色彩の中の翳りとして舞った。空…その光の只中を。
群れをさえ成さずに、目的もなく。
見たこともない飛び方だった。
あるいは、…と、想う。目の前に存在した風景が、地球のそれである必然などなく、あるいは、この宇宙の中のどこかのそれである必然性さえもない。だれもまだ見たこともあるわけではない無際限なまでに無数の、たとえばブラックホールの中心に存在しなければならなかった、なにもかもが無限の超越点の中に、無際限に存在しなければならない宇宙のどこかの、もはやどことも特定できもしないどこかで、いつか見たあるいは、未来と言えば言獲たのかもしれない時間のなかに、いつか見ることになるのだったその記憶を、なまなましくただ眼差しは捉えるしかない。
鳥。それら、滅びの世界のなかに繁殖する翳。…生き生きと、そこに生存した鳥らの散乱。
翳る花。
ブーゲンビリアが日差しの中に、繊細な翳りをそのあざやかな色彩の上に撒き散らして這わせた無数の花々を咲き乱れさせるよりもさきに、少年は死んで仕舞うに違いない。私は無際限にすでに生まれ変わり、なんどもなんども生まれ変わり、…魂。
永遠不滅の、無限でしかいられない魂が存在し続けるしかないそのあまりの無意味さに私は、気が遠くなる気がして、見出され続けていた葉の唇。眼差しは、美しい、無意識にたぶらかすかすようなその繊細な造型に、そして伸ばされた私の指先がそれにふれようとした瞬間に、「死んじゃいそう?」
葉は、まぶたさえ開かずに、ささやいた。
葉の声には、感情などなにもない。ただ、ささやき、つぶやかれた、耳にふれるだけの、音。音声。音響。
つまりは、ささやき。「…ね?」在りはしない。
愛も、軽蔑も、憎しみ、嫌悪も、執着も、なにも。…ただ、空間の至近距離に響くだけ、なにものをも感じさせない音響を、私は、「好きすぎて…」聴く。
「死んじゃいそうなんでしょ?…どうしようもないくらい。」…いいよ。「好きになれば、」…ね?
かすかに、声が笑む。わずかにだけ。
「わたしのこと、好きになるの。…そうなるしか、もう、ないの。」
唇の至近距離に停滞した指先に、葉のかすかな息がかかり続けていた。唇が立てる、その、そして感じ取られた息の温度に、指先は戸惑う。
「好き?」
眼を開いた、葉が言った。私を見つめて。
「めまいしちゃいそうなほど好きなんでしょ?」…わたしが。
鼻に笑い声を、短く立てた葉を、私はただいつくしんで見つめるしかなかった。「なにが欲しいの?…ね?」
なにが、…欲しいんだろ?
「わかる?…自分で。」
声。
「…ね?」
つぶやかれる、声。
「なにが欲しいの?」
葉の。
「わたしの、何が?」
声。
「欲しいの?永遠に、なんども生まれ変わって、無限に、愛し合ってるのに。…すでに」
葉の、なににもふれなかった指先が、なんども迷いながら、やがて、私はその指先に、私の唇をふれ、確認して、私が葉に曝し続けたのは意味もない微笑み。
表情のない彼女の眼差しのなかに、微笑み続ける私を曝す。
私たちの眼差しが、絶望している。そんな気がした。
零一が単純な日本人であるはずもなかった。それはひとめ見れば分かる。なぜか、それが人種的な矜持なのだと言いたげなほどに褐色の肌を曝して、どんなに洗ってもおちるわけでもないその執拗で宿命的な色彩には、にもかかわらず、人工的にサロンで灼いたのとは違う、なにか淡い軽さがあった。あたりまえの、大気の中に踊りながら気ままに散ったような軽さ。東アジア系の、彫刻の顔をいちいちやすりがけしてのっぺりさせたような切れ長の顔立ちにはありえない、本質的な堀の深さがあって、その、インド系とも欧米系とも違う、骨まで穿ちすぎないはしない浅はかな堀は、零一にどこか稀なその固有性を与えた。父親はインドネシア人だった。
インドネシアの実業家が、日本人の妻に産ませた男だったが、零一はその物心ついてからの大半を日本で過ごした。それは父親の意向だった。理由はただ一つだった。インドネシアで、日本が教育がいいことで有名だったからだった。それを聴いたとき、私は声を立てて笑った。はっきりと軽蔑的な笑い声。そして、零一は言った。みんな、笑う…そして、零一は笑い、「でも、…ね?」…そういうことになってるんだよ。
零一は、あきらかに稀な美しさを誇っていたから、いじめにあうわけでもなかった。自分の人種的ななにかに抗ったわけでもなかった。両親に反抗したわけでもなく、社会制度に不満があったわけでもない。ただ、彼は異分子にしかなれなかった。まるで単なる悪癖のように暴力と、違法行為に明け暮れた。資産家の父親は絶望して、彼を見放した。父は妹の方に未来を託した。母親は歎くしかなかった。悪いのは人種差別のせいだった。そうするよりほかはなかった。零一は、結局は、歌舞伎町に流れ着くしかなかった。
資金援助さえ絶たれていた。それは、何ほどの事でもなかった。零一は、彼が女にそれを許して遣りさえすれば、彼女たちはたやすく彼に奉仕した。美しいものの特権として、彼は邪気もなく許してやりさえすればいいのだった。…ね。
オープン間もない慶輔の店のフロアの真ん中ですれ違いざまに、零一はそのとき、私の手首をつかんだ。「…聴きたい。」
「なに?」
「なんで、俺、奪ったの?」
唐突に、真顔で言った零一に、私は声を立てて笑った。冗談でもなんでもなく、縋るでも乞うでもなくて、出来した、ただ不思議な現象の秘密を無心に知りたいというだけの、疑問符以外になにもない空っぽの表情を、零一は曝していた。それは可愛らしくさえ想われた。
店の中は混雑していた。だれもがそう想っていたように、慶輔は成功しようとしていた。そうなる以外にはなかった。慶輔はそうなるべき人間だった。何年続くか分からない泡だっただけの成功にすぎなかったにしても。シャンパンが抜かれて、女の嬌声、酒にか、薬にか、男にか、酔いつぶれかけた声が四方に立った。
「…知らない。」
私は言った。不意に、私は零一の頬に口付け、耳たぶにかるくキスをくれた。正面の席に座っていた女と目が合った。キャバクラの女だった。希美哉の客だった。零一はその答えを許さなかった。彼はなじるように、私に縋った。眼差しにだけ、だだをこねてみせて。
その明け方、八時を回ったころに、道玄坂の部屋に来た零一は、シャワーを浴びている慶輔の、シャワールームの音に耳を立てた。「…ケイさん?」
二つあるそれぞれの部屋に、それぞれにタイル張りのユニットバスがついていた。むかしの高級マンションの作り方だった。ジャケットを放り投げて、それがソファにかかりきらずに一瞬の、たるんだ停滞の後に衣擦れのやわらかな、なぜか私を悲しくさせた音を立てて床に落ちる。見るも無様な布の塊になって仕舞ったジャケットのかたちを、私は見るでもなく見ていた。
私は先にシャワーを浴びて、髪を拭き終わったところだった。私が肩からぶら下げたバスタオルを剥ぎ取ると、零一は不満げに私を見つめた。
私は声を立てて笑い、笑わない零一の眼差しを見た。彼を抱くのは簡単だった。スタッフに紹介されて、店で初めて会った零一には、とりたててなんという印象もなかった。二人で、ある資産家らしいだれかの娘だかなんだかの、二十代半ばの女とその連れの相手をしてやった明け方の早い時間に、風鈴会館の一階の喫茶店で一瞬だけ時間を潰したときに、朝焼け。冬の、遅い朝焼けが歌舞伎町のビルの濫立の向こうに見えた。最初にトイレにたった零一が、帰ってきたすれ違いに、なにかの意味があったわけでもなくて、私は零一のみぞおちにふれた。「待って。」言った。
…え?
と、その、眼差しと唇の先だけの表情がかたちを造りきる前に、私は零一の唇をかるく奪って、そのまま、トイレに行った。
零一は、私たちのだれに対しても無口な男だった。敵意があるわけではなかった。単に話さないのだった。女たちは、沈黙に堕ちれば自分から気を使って、無理やりにでも零一に話しかけるから、それでなにも問題は無いのだった。零一の仕事といえば、基本的には詰まらなさそうな顔を曝し、ときに、気が向いたときだけ気が向いた話に乗ってやればいいのだった。女たちは気遣いと奉仕の悦びにむせかえった。零一が気まぐれに、不意に話しに乗ってきたとき、それは女たちにとって、なにかの稀なごほうびの恩寵に浴したことを意味した。それは至上の時だった。そのとき、女たちが曝すのは特権的に選ばれたことの、優越の恍惚じみた眼差しだった。
席に帰ったとき、零一は何をするでもなくて、ただ外を見ていた。私がすわるのはいつも、区役所通り沿いの窓際のテーブルだった。ゆるい勾配を刻む土地のせいで、座れば歩道は窓の目線の高さ近くまで隆起していた。
前の席の椅子を引き、目の前に私が座って、そして彼を見つめ始めても、わたしの存在など気付きはしない無関心な眼差しのままに、そして零一は沈黙していた。…ねぇ。
ややあって零一がようやく言った。
「俺、そういう趣味、ないんだけど。」
その言葉に、沈黙が崩されたことを気付かされた瞬間に、私はかつて、私たちの占有した空間を、沈黙が覆っていたことに気付いた。かるい目舞いを感じた。為すすべもなかった。私を見つめる零一の眼差しには、想いつめた色も、嫌悪の色も、まして憎しみの色もなにもない。無表情とは言獲ない、単に何かが喪失されただけの、空虚な表情を曝した。「…なんで?」
「*いじゃん。」…おかしいよ、…「あいつら。」
言った瞬間に、私は声を立てて笑った。「…でも、」
ん…、と、零一が私のその声を聴いた。
「好きでしょ?」
私が彼を見つめ続ける眼差しを、零一は直視して離さない。「…俺のこと。」
一瞬の間の後で、まばたき、一度視線をどこかに流して、獲得されかける。零一の眼差しに、なにかの表情の形のようなものが。そして、それがかたちに堕して仕舞う前に、零一は声を立てて笑った。「…そう。」…わかんねぇー…
「なんで?…」…ねぇ。
まじ、…わかんねぇー。てか、「ね?」まじ、…おかしくない?
なんか…
「好き。」零一が言った。「…死ぬほど好き。」
0コメント