小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑨ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
リビングに戻ってきた葉は服を着て、いつものように黒ずくめの格好で、心も、意識も、ましてや性感など一切持ち合わせてはいないとでも言いたげな眼差しを曝した。日が、静かに暮れ始めて、西の空は破滅しているはずだった。日没の、あざやかな破滅。…夕暮れ。窓から見える北向きのルーフバルコニーのその先の、空の昏んで蒼い空のいっぱいに、西の空のその色彩の名残りがかすかに、暗示されていたから。
葉は、私たちの正面のソファにすわった。ソファの隅に放り棄てられていたスケッチブックを取って、はぐる。何も描いてはいない、無地のページを見つめ、指先にやわらかくなぜた。…描くみたいよ。
愛が、耳もとにつぶやいた。体が匂った。首をよじって、私の首筋にあやうくその唇を触れさせそうになって仕舞いながら、そして、意味の分からない恥じらいを曝し、一瞬戸惑い、抜かれようとした指先を押し留める。…ねぇ、
「だめ。」
待って…。つぶやく。つかまれた手の甲は、彼女の手のひらの質感に倦んだ。やや汗ばんだ、その触感に。そのまま、指をふかく侵入させて、息遣い、「まだ、だめ。」言った。
「なんで。」
「まだ、終ってない。」
「いつ、終るの?」…死んだら、と、ややあって愛が言い、ちいさく、笑った。「わたしが死んだら、終らせてあげる。」
ゆっくりと、抜かれていく指先に、そして愛は抗わなかった。そのままの姿勢で、立ち上がった私を愛は見惚れた。呆然としてかすかに開かれた唇が、なにか言いそうになって、そのまま、しかし、諦めた。自分のものである美しい男に見惚れながら、その男を自分のものにして仕舞った自分に見惚れていた。
目の前に立った私に、葉は指示を書き出さなかった。画用紙をなぜる指先を見つめたままに、美しい女。匂うばかりの、そして、彼女が実際に漂わせた、ただなまめかしいだけの芳香。…匂い。葉が、不意に眼を上げて、初めて私に気付いた表情を曝した。私を見つめたままに、ソファーに鉛筆をまさぐった指先が、やがて画用紙に乱れた字を書いた。
《またひろける》
彼女の目の前で、股を広げてやった。《もと》と、その指示に、もっと股を広げて、
《うちまた》
内股になった私は、困難なバランスによたつく。もはや、
《つまさきたつ》
愛は声さえ立てずに、私を見ていた。葉が、
《うてはんたいまける》
腕をひん曲げながら背中から上に無理やり、伸ばした
《かおてのひらふさく》
腕の苦痛にゆがんだ私の顔を見て
《てのひらさかさま》
その鼻先に、いつか
《つまさきたてとまる》
隠しようもなく屹立したそれに息を
《ゆひくわえる》
かけた。捻じ曲がったひじが
《あこつきたす》
筋に噛み付くような痛みだけをのこして
《せなかまける》
痛み。あまりにもあざやかな、
《のけそる》
充血。…興奮など、してはいない。
《ひいいいいん》
なにも。なにも、欲望など
《こしつきだす》
感じることさえ出来ないにもかかわらず、
《まえつきたす》
あきらかに私のそれは、
《ひいいいいん》
押さえようもなく飢えて
《ゆひまける》
曝される、鼻先のそれに葉は
《ひいいする》
目もくれない。無理やり
《ゆひのといれる》
くわえ込んだ指の味を
《くひはんたいまける》
舌が咬む。味覚。
《かおはんたい》
自分の指の、その
《のけそる》
必死に顔をつかんで
《いいいいいいとした》
しがみつこうとした小指。
《したるくし》
目さえ開けられずに、
《のひる》
肉体の残骸。
《かとる》
もはや、
《るらる》
残骸でしかない。
私の肉体など。
筋肉と筋の限界近くまで反対側に、ただ肉体を苛むことしか目的にしていないかのようなポーズに、私の身体はゆらいで倒れて仕舞いそうになり、必死に力んで持ち堪えるその力みがさらに鮮明な苦痛を上げた。生きながら、すべてを健常にたもたれたままに、私は自分の肉体が切り刻まれていることを実感した。それは事実だった。いわば、私は汚物として解体されていた。女たちの眼差しの先で。腐肉の処理。あるいは、それ以下の穢れものの破壊処理。
残骸。肉体の、切り刻まれ噛み千切られて荒らされ、棄てられた無残なくずの群れが、私が存在している空間に、私自身として散乱する。あまりにも残酷すぎる気がした。言葉もなく、眼差しはせめてもの救いを乞うた。
容赦のない葉は、ただ、黙って私に上目の眼差しをくれているに違いなかった。私の眼には見えなかった。耳に、鉛筆の音が聞こえた。膝の上に置かれたそれに、かさねて描き乱されるだけのその文字の読解など、私にはもう不可能だった。構いもせずに、誰の眼にもふれ獲ない指示を描き続ける葉に、私はただ純粋な冷酷をだけ感じた。むしろ、私を殺して欲しかった。そればかりか、完全に破滅させて欲しかった。
最初、葉に私を描くことをそそのかしたのは愛だった。リビングの真ん中に立たせた私を指差して、愛がスケッチブックをとらせた。…かぁ、く。
いい?
言う。
「か、く。」
葉の顔の正面に自分の顔を接近させて、そして、葉は姉の顔など見てもいなかった。葉の眼差しは、姉を通り越して、私を見つめていた。ずっと。表情もなく、その、顔にただ開けられただけに過ぎない両目で。
葉の眼差しが、そもそも私をひとつの人格として認識しているのかさえ、私は不安だった。むしろ、彼女が捉えた眼差しの中で、背後の壁も、床の絨毯の一切差異もなく、あるいはその固有性も獲得されず、分離されさえせずに、つながった同じひとつのものに見えている、そんな容赦もない実感があった。私は、単なる物質にすぎない。そして、それは間違いではない。存在する、物質以外のものでは在り獲無いのだから。
むしろ私は葉の認識のあまりに整然とした正しさに対して、自分が自分であってそれ以外ではない私の認識そのもののほうが、為すすべもないほどに狂って、倒錯し、転倒されていた認識にすぎない気がした。私は、惨めな私を哀れむしかなかった。
愛は、諦めたようにソファに身を投げ出した。突っ立ったまま、葉は私の正面で、私、あるいは、視界を占領する、彼女に見えているものをだけ見つめていた。愛はなにも言わなかった。ただ、葉の後姿を見つめていた。どこかで、呆然としながら。
ややあって、不意に、葉が文字を書き出したとき、私は想わず声を立てて笑った。なにがおかしいわけでもなくて、笑ってやるしか、葉の行動に対する反応のすべがなかったのだった。
葉は、私を見つめたまま、鉛筆を走らせる。その手が停止して、何秒か、私はその秒数を数えた。いきなり向けられた画用紙には、《ひれふす》とだけ、描いてあった。…なんて?
言った。愛が、かすかに右の眉を持ち上げて。
「ひれ伏す…」
沈黙し、愛は私を見つめ、そして、声を立てて笑った。…いい。それ。
「いい。…私も見たい。」
乱れる。息が。
笑い声に。
愛が立ち上がって、息遣いをでたらめに乱しながら、私の頬にふれた。「…ね。」
いいでしょ?
「ね、…ひざまづいて。」私は鼻で笑って、愛に、あるいは葉に従う。
気付く。
自分が、そして、生きていることに気付いた。不意に。私は眼を開けていた。暗やみがあった。何も見えず、そして、私は、それがすでに日が沈んで仕舞ったことの、たんなる必然に過ぎないことに気付いた。愛たちのペントハウス、そのリビングの中だった。背中に絨毯の触感があった。ややあって、傷めたに違いない筋肉と、筋と、そして頭の中に重い、痛みになる以前のやわらかく、不快な感覚が巣食っていた。何が、いま、起きているのか、あるいは何がかつて起きたのか、私には理解できなかった。起き上がる事は億劫だった。首だけよじった先に、愛がそのまま寝付いていた。仰向けに、その肌を曝したままに、のけぞるようにして向こうに首を曲げた彼女は、すでに死んで仕舞った気がした。だれかが彼女を殺したに違いなかった。葉しかいなかった。眼差しは、すでに、私が静かな寝息に波打つ愛の腹部を捉えていたことを、意識の向こうに認識していた。愛は寝ていた。
腰骨にも、足の先に、その骨の中にも、至るところに私の身体は、痛みに近い重い不快感を、かすかに、鮮明に息づかせていた。筋と筋肉が発熱していた。はっきりと、自分の体が、ある惨状を曝している実感があった。「気付いた?」
声。
葉の。
私はそれを聴く。葉。…美しい、ただ、愛おしい女。「…ね?」
生きてる?
言って、鼻にだけ、ちいさな笑い声を、ほんの一秒だけ、葉は立てる。ささやくような。そして、ほんとうにささやかれる、その口の中だけに鳴る葉の声。耳の中に、その声がじかにふれた。「…知ってる?」
気絶しちゃったの。…あんた。
葉が、声を立てて笑った。声を忍ばせながら。首を上げようとした私は、その力んだ瞬間に首を激痛に襲わせ、絨毯越しに、後頭部を打ちつけられた床が鈍い音を立てる。
痛み。
一瞬だけ、私の脱力した足の向こうの翳りに、ソファに葉がすわっているのを、私の眼差しは確認していた。…笑っちゃった。
…わたし。いきなり、「だって、…」…ね。
笑っちゃう。…だって、
「どーんって。」…ね?「…どーんって、後ろ向きに倒れるの。まじで。…笑っちゃう。」
ささやかれる。その声に私は
「やばかった」…いきなり、
耳を澄ます。
だって…「だって、ね?」
沈黙に、わずかに色をそえただけの微弱音に、私は
「いきなりだよ」…どーんっ、
耳を澄まして、そして
どーんっ、「…て。…ね?」
聴く。
「びっくりしちゃった。」…
葉の声。
ほんと、…もう。「…………ね?」
葉が、立ちあがったことにはその気配で気付いた。そして、耳が聴き取る、やわらかな衣擦れの音。葉の。
空間の暗さに眼が馴れて、やがて瞳がものの輪郭を次第に、克明に刻み始めた。なにもかも、馴れれば見え始めて仕舞う。たとえ、照明など一切つけられない暗がりの中でも。驚くほどの明るさを、室内は持っていた。単なる、闇にすぎないその空間は。窓の向こうから差し込む夜の光源が、なにも隠すことなく、隠そうとさえせずに、むしろ、すべてをさらけ出す。
くっきりと。
無造作に。…ふしだらなほどに。
「けが、した?」葉が、私の頭の先にしゃがみこんで、覗き込まれたさかさまの顔が、かすかな重力の存在を感じさせた。葉の体臭が、その、夥しい髪の毛の匂いとともに、匂った。どうしようもなく「…だいじょぶ?」懐かしい。
…死んでない?
葉は笑う。私はただ、そのやさしい音色の、情のない笑い声を聴き、彼女を見つめた。垂れ堕ちた髪の毛が、私の顔にじかに触れて、むせかりそうなほどに匂い立つ。「…知ってる?」
なにを?と、私が頭の中でつぶやいた事は、葉は気付いたに違いない。「おしっこ、もらしっちゃったの」声。
葉の、笑い声。
「失心した人ってさ、」…ね、「みんなそうなの?」…みんな、なんか、…ね?「…なんか、」ほら、…「いきなり、ね?」…ん、…「じょーって。いきなり。」…わらう。なんか、…「いっぱいだしちゃうの。」…ごめん、ね?「…びじょびじょびじょって。」なんか、「びっくりしちゃった。」…笑っちゃうの。…なんか、…「そんなものなの?」
…知ってた?
ふれた事もない、葉の肌の質感の記憶が、体中の皮膚の表面にいつか蘇った。指先で、私にふれさえせずに、葉はただ垂らされた髪の毛で無造作に私をくすぐる。葉が笑って仕舞うたびに、その体ごとふるえて。「…お姉ちゃん、…ね。」
お姉ちゃん、「…なんか、ね?」よころんで始末してた。
「…ん?」…好きなのかな?そういうの。…「バケツとか持ってきて」…ね?「かのじょ気取り…的な?」…なんか、…「馴れてるの。」…ほんと、「カーペット」…まじ。「掃除したりして。」なんか、…ね?「あんたの」…さ、…ね?「からだ、」んー、…「拭いて。きれいに。」きれーに。すごーく。「心、」すっごーく。…「込めまくっちゃって。」…まじ。「笑う。」…なんか、「私で馴れてたのかな?」…ごめん、「そーゆーの」…んー「子供のとき。」もうしわけないけど、…「…知ってる?」…ね?「よく」なんか、…「漏らしてたから。」わらう。…「わたし」…まじ、「いきなり。」わらう。…「じゃーって。」…らしいよ。「やばい。」
言った。
「いまのあんた、なんか、もはや単なる**以下。」
笑う。
「ごみだね。」
せめて、と、私は想っていた。葉の頬にでも口付けさえ出来れば。それだけで想いなど果たしたに等しい気がした。無意味に私を見つめるだけの葉に、そんな想いつきなど在り獲るはずもなく、その、私の渇望の実現はいかにしても不可能だった。
「ちょっと、休憩、…ね?」
葉がひとり私に話しかけ、「もっと、ね。」
笑い、
「追い詰めてやりたいけど」…ぼっろぼろに。
聴く。私は。
「むっちゃくちゃに。…」…けど、
その声。
「…休憩。」
声。耳にふれた、愛おしさしか感じさせない声。
葉は、立ちあがってリビングから出て行った。
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