小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑧ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「仕事、なに?」
慶輔が、自分の上に覆いかぶさった私のわき腹を、繊細な、ふれていることそれ自体を否定したかのような手のひらの愛撫、とでも、そう言うしかない、ふれるという以前のなにか、そのみもふたもなくやわらかい仕草さを曝して仕舞いながら、「お前、…」
なにして、食ってんの?
私は声を立てて笑った。
「なに?」慶輔のあられもない戸惑いがむしろ私をまごつかせた。
「なに…どうしたの?」
「働いたことないよ。…」
「一度も?困らないの?」
「だって、…」…金なんかだれか払うじゃん。言った私は眼を伏せて、確かに、私は自分でまともに金など払った事はなかった。それは他人の仕事だった。女たちは、かならずしも自分が愛されているわけでもない私にただ奉仕しなければならず、男たちは私に気を使って物事を処理しなければならない。私のために。それが当然なのだから、むしろ私が自分の手を汚すことなど愚かなことだったし、そもそも、彼女たちや、彼らが望んでいることではなかった。理沙が残した口座には、大量に金が残っていたし、そして、もともと理沙の金で生きていた。身寄りのない理沙が残した金は、すべて私のものになるしかなかった。いずれにしても、私に貢ぎ、奉仕する彼女たちあるいは彼らのために、私は何もしないでそこにいなければならなかった。慶輔が立てた笑い声が、私を不意に恥らわせた。
「…ねぇ。」慶輔が言う。
声、慶輔の。私を容赦なく軽蔑した声を、私は嫌悪し、同時に自分自身を嫌悪していた。「お前、俺と一緒に働かない?」
「ホスト?」
「何で知ってるの?…言ってないじゃん。」
「見れば分かる。」知っていた。慶輔は私を片時も手放したくないのだった。ずっと側において、あるいは、ずっと、私の側に添わせて欲しいのだった。それは、あるいは、いずれにしても、私の求めていることでもあった。「何もしなくていいよ。」慶輔が言った。「女のほうが勝手に、全部自分でやるから。寄り添ってやればいいんだよ。…気を回して。…ね?って。…ね?って、女を見て遣ればいいんだよ。話し聞いてやって。それだけ。…馬鹿だから。所詮、あいつら。可愛いけどね。だから、…それだけで、あとは世界が勝手に回る。」
慶輔は、耳元に立てられた私の意図的な笑い声を聴き、触感。至近距離にふれ合って、決してかさなり合いわないままに、その、お互いを受け入れるためには存在しはしない部分が、それぞれに留保もない孤独と、容赦もない孤立にむしろただ沈黙してみせながら、たわむれにふれあう息吹きを感じあった。
それは、そこに存在していた。自分が存在していることを、ふれ合う一瞬に、無慈悲なまでに実感していた。それはもはや認識だった。灼けつくような。
絶望的なまでの。
もっと、と。それらはお互いに、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、ふれ合った事にさえ気付き獲ないほどの、かすかな、ほのかな、瞬間の、音もない、気配もない、その、接触、…した、かも、しれない、ただただ淡い接近をだけ求めていた。
射精?…そんなものは、もはや、たんなる家畜の戯れにすぎない。私は慶輔を愛していた。
留保なく。
「独立するの。…おれ。もうすぐ。」…んー…完全に、…「…だってさ、独立もしないホストなんて」…ま、なんか、…「糞じゃない?だから…」完全にオーナーって言うか、…「金はやくざの人が出すんだけど。」…そういうんじゃない。…残念。「…たいしたことないよ。」…半独立?みたいな?「怖い?…だいじょうぶ?」…ま、…ね。…ま、「いい奴だよ。檜山って言う…」…まー…「…馬鹿なおっさんだから。」…まーまーまーまー…「ただの。…ただの馬鹿。いいヤツ。」…まじだから。…これ「一緒に…」笑う。…もはや、「…てか、」もはや笑うから。…「手伝ってよ。…」
やがて私たちは、開かれた眼差しのままに見詰め合う。お互いの唇をむさぼりあいながら横向きに、頬にだけお互いの手のひらを回して、それぞれの先端をかさね合わせて戯れたのだった。うすく、執拗に濡らしたものを、まぜあわせて仕舞いながら。果てることさえもなく、濫費される時間をだけもてあそんで。
店の中で、慶輔が言ったとおりに女は勝手に群れてきた。歌舞伎町という町の中の限られた空間の中に、押しかけた女たちの眼差しが交錯する。出会ったその夜の、明けた日にやがて暮れていった夜には、慶輔は私を彼の在籍店に連れ込んだ。すぐに、女たちは新人の匂いを嗅いで、しっぽを振った。
いつでも、どこでも、女たちの眼差しが私を捉えた。店の外、どこか落ち着く場所をさがしてうろついた路上でも、デパートの中でも、ショップで、女たちに私の衣服を選ばせたときにも。すれ違いざまにも、どこでも。食事の隙に、コーヒーを飲む隙に、いつでもそれらの眼差しが、私を、決して私には聴き取られないように顰められてささやかれたささやきの、その声の群れは、眼差しの群れと一緒になって、私をただ、煽情しようとしていた。…どう?
わたしは、どう?
慶輔は陽気に、私を煽った。女、食いついてくるね。…笑って。お前の体臭、シャブでもまぜてない?
歌舞伎町の有名人だった慶輔がはべらした私を、町の中で知らないものはほとんどいなくなった。知らないものは、町の外から来たものに過ぎず、そんなものは町の中では軽蔑の対象に過ぎないのだった。町の外では、単なる軽蔑の対象に過ぎないこの町の中では。
慶輔が自分の店を作るのには、半年近くかかった。内装の片っ端に、慶輔が文句ばかりつけたからだった。だれもが、慶輔は成功すると想っていた。そして、事実成功した。
初めて愛と会ったとき、それは半年前だった。私の相棒のようなものだった、同い歳の零一という名のホスト、…本名は知らない。彼が紹介した男客の連れだった。そのIT系べンチャーの社長だった男客は、かならずしも同性愛者ではなかった。彼がはべらしていた水商売の女たちとの関係の中で、勝手に零一を見初めたのだった。二十歳近く年下の零一と、単純に気が合っていた。取引先の女社長なのだ、と零一は言った。だから、…「一番いいの紹介してって。…で、さ。…」
「俺?」
「…そ。」
無意味に豪奢な更衣室で、私は零一の頬に口付けて遣った。慶輔の店に流れてきた零一の、新人時代の手ほどきは私がした。男の手ほどきも。彼が私に焦がれていたのは、初めて彼を見たときにすぐにわかった。私に手ほどきした慶輔がそうだったように。取り立てて、なにが美しいというわけではない。けれども、零一には暴力の匂いがした。計算された理論的な破壊ではなくて、突発的で、理不尽で、飽きっぽく、そして無意味な破壊。予感される、いつかの破滅と不幸、…と、そう言うよりはむしろ単なる行き止まりの絶望。そしてそのいつかがいつなのか、だれにも分からないのだった。そんな、あからさまにエロティックな匂いがした。女たちは彼に群がった。実際に、彼が破滅的な自滅に似た死をとげたときも、だれも驚かなかった。街が、自殺あるいは不審死として曖昧に処理して仕舞った彼の、だれにとっても理解し難い謎の死を、だれもが理解し、許し、ただ悲しんだ。
愛がまともに男など知りもしない事は見れば分かった。男に抱かれたことばかりか、誰かの女になったことさえないかも知れない。その、明らかな兆候が、どこにどうというわけではなくて、全身から匂った。あけすけな女に見せながら、執拗な殻を感じさせた。装われない凜とした気配が、余計に愛の、いわば純潔を曝したてた。愛が私に堕ちるに違いない事は、遠めに零一に指さされた瞬間に、気付いていた。初めて相手をしたときに、愛は一度も私をまともに見なかった。話しかける言葉も、ことごとく無視するか、理不尽に否定して、「…あー。ごめん。」それで終わりだった。「全然違うから。…」どこからどう見ても、「ごめんね。」愛は不機嫌だった。「わたし、違うんだ。」零一も、彼女を連れてきた男も「あんた、間違ってるよ。」不審がっていた。「…話しかけないでいいよ。」あえて言葉にしない、その「…てか、」眼差しのうちにだけ。「…黙っててくれる?」私はすでに愛が、もはや私なしでは生きていくことさえ出来ずに、たんなる私の下僕にさえ成り下がって仕舞っていることなど、笑わずにはいられないくらに気付いていた。
その瞬間にはすでに、愛はただの、私の子飼いの家畜に過ぎなかった。私をそのひそめ、そらした眼差しの片隅に捉えて仕舞った瞬間から。
二週間後、愛は一人で来た。私を指名して。来なかった二週間の間の、懊悩と葛藤らしきものが、眼差しの奥に追い詰められた色彩を与えていた。
何も話さずに、私の顔さえも見ずに、ただ傍らに、姿勢だけをただしてむしろ、貞淑な貴婦人めかして座っている彼女に、私は彼女が曝すのと同じだけの沈黙をくれた。
数分の後、愛が、終に耐えられなくなって、振り向いた瞬間に、「なんで?」
私は言った。
「なんで、お前…俺に夢中なの?」
愛は、微笑んだ私につられたように、容赦もなく微笑みにその老いさらばえかけた顔を崩し、「なんで?」つぶやく私の、表情さえない顔に見惚れた。
「…ばか。」
言った愛が、唇のなかだけで、声も立てずに笑った。…ねぇ。
「なんで?」愛。年増の貞淑な淑女。
正しく、教科書じみた姿勢のまま、「なんで、…さ。」ささやく。…ね、
なんで…
「ばれちゃうの?」
「わかるよ。」…だから…
だから、…ね?…だから、
「なんで分かるの?」…気持ち…ね、
「…わたしの気持ち。」
「だって、俺もお前、好きだもん。」
それは教科書通りの返答とは言獲なかった。あまりにも女が追い詰められていたので、私は私が愛しているという設定を、持ち込んでやるしかなかった。つまりは、愛は私を追い詰めることに成功していたのだった。意図もしないままに。
声を立てて、愛は笑った。上半身を瀟洒にまげて、すべての挙動に所作の美しさを装わせて神経質なほどに、凛として、清楚で、そして、愛は幸せだった。
たぶん、あきらかに、生まれて初めて女に生まれた意味にふれたに違いなかった。
…家畜。
90年代のバブル経済がはじけた直後の歌舞伎町は、どうしようもなく潤っていた。金もなければ未来もない、自殺するか金を借りるかしかする事がない男たち。いまだに死んでいないというだけの存在価値しかない男たちと、馬鹿な行き場所のない女たちから巻き上げた金で、闇金融たちはこれ以上ないほどに潤った。バブルがはじけたあとのバブルに、彼らはいいまだかつてないくらいに潤っていた。貧しく病んだ国家だった中国から、生き伸びるために渡ってきたチャイニーズ・マフィアたちが大陸流儀の暴力と犯罪をかさね、町を彩った。歌舞伎町を一歩出れば、生気もない疲れ果てた男たちが、小さな、未来もない金のために朝から晩まで町を闊歩していた。やや猫背で、早足で。私たちに軽蔑をくれながら、私たちよりはるかに飢えて。この国が崩壊して、破滅して、滅びて仕舞っていることを、私は眼差しの中に実感した。そして、それは単なる事実だった。歌舞伎町の外の彼らはすべて、その国家と国旗と憲法と文化をも含めて、身の回りのすべてを完璧に崩壊させて仕舞い、生きながらに絶滅していた。
私は笑うしかなかった。滅びたなら、死んで仕舞えばいいのに。にもかかわらず、とっくのむかしに、完膚なきまでに滅びていた没落のヨーロッパや、爆弾も落ちないまま焦土と化して十年以上立ったアメリカも結局はそうだったように、彼らは生存して未来の命をつないでいた。生存者たちの生には、それがどんなに切実な何かを孕んでいようとも、どうしようもない滑稽さがあった。ネオ・ナチの孕む、あるいはネット時代の日本の、今更の右翼や良識派、あるいはアメリカのリベラリストや保守主義者、彼らが曝すのと同じ、笑うしかない滑稽さ。ヒトラーとナチスが、あるいは旧大日本帝国がすでに夥しく孕んでいた滑稽さ。アメリカの国旗がどうしようもなく孕む滑稽さ。大韓民国と北朝鮮がなにをやっても撒き散らして仕舞う滑稽さ。目に映るものすべてを茶番に変えて仕舞う、留保もない滑稽さ。終には、ツイン・タワーとペンタゴンを炎につつんだイスラム教徒の原理主義者たちが、そのもっともあざやかな滑稽さを曝すことに成功した。
燃え上がる都市。歌舞伎町。…いずれにしても、ハオという偽名のチャイニーズが火を放って、ある雑居ビルを焼き堕として仕舞うまでの期間、歌舞伎町はならず者たちの美しく、猥雑な唯一無二の居城だった。
葵、と名のった四十代の女は、当時の携帯電話の画像データを、私の全裸体で埋めた。そのくせ、私に指一本、現実にはふれることが出来なかった。眼差しに焦がれただけの色を、無残なまでに曝して、ただ、ふれあいそうな距離のかすかな隔たりをだけ愉しんだ。
ひなた、という名の風俗嬢は、私の体など求めなかった。ただ、私に寄り添われることだけもとめて、…ねぇ。つぶやく。見つめててもいい?私は彼女の髪を書き上げてやり、わたし、まだ、ヴァージンなの。言って、ひなたは自分の嘘に酔った。**以外では、稼げない借金塗れの女。
蘭という名のキャバクラ嬢は、私に自分の所持金を片っ端から貢ぐことによって、彼女固有の安心を獲た。つかんだ金のすべてを、私のために浪費しなければ気がすまなかった。私はその押し付けがましい自分勝手な浪費ぐせに飽きて、倦んだ。
美容形成外科の女医者、何かのベンチャー企業の女社長、そして、大量の、歌舞伎町と言う風俗街に棲息したあぶく銭をつかんだ女たちが、大量の金銭を私に貢いで、結局は、私に狂った記憶をだけ獲得した。想い出したくもないはずの、とは言えかつて愛した男して想い出し続けたに違いない男。愛。…誰かを本当に愛して仕舞った人間は、みんな、例外なくうまく分類できない狂気そのもの…正気の破綻としての、ある鮮明で固有の破滅そのものを、それぞれに曝した。決して精神疾患にはカテゴライズできない赤裸々な発狂。そして、慶輔を愛している私が、あるいは私を愛している慶輔が、お互いに対して無防備に曝すのも、間違いなく留保もない狂気の眼差し以外でないことも、私はすでに気付いていた。私たちは、狂っていた。精神。…結局は、それが終に愛というかたちで姿を顕したとき、曝され獲るのは狂気そのも、それ以外ではなかった。なにもかもが無残だった。ベッドに座り込んだ慶輔を押し倒して、その大きく開かれた太ももの前にひざまづいた。窓越しに、午前の浅い時間の日差しが当った。
斜めに。
慶輔と両手のひらを組んで、私は唇だけで彼にふれる。そっと、それに息を吹きかけて戯れながら。慶輔は声をさえ立てないままに、私のその行為にあえて逆らおうとはしない。なすがままに。私の唇が、彼をむさぼる。果てることもできない、かすかな接触と、接触されないままに屹立した私の抱えた孤独とが、脈打って倦み、私たちは息遣う。舌の先だけでなぞる。その、愛しいものの、愛しい形態を。
確認したのは、その触感と、体温と、舌に残ったかすかな味覚。知っていた。彼のそれが、私の舌が残した唾液の質感に鮮明な、いたたまれないある喜びのような感覚に倦んで、しずかに目舞っていることを。果てることなど許さない。本当に、おかしくなって仕舞うまで、中途半端でいたたまれないかすかな感覚と時間の濫費だけをむさぼっていたかった。
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