小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑥ブログ版
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「理沙。」…知ってた?
「本名は、マリア・ソーマ…」想いだす。堕ちる女。私を抱きしめようとして。「想い出せるでしょ?彼女だったら。」
「なんで知ってるの?」
「わたしだから。」…入って、と、葉は言った。日差しの中から室内に入ると、その一瞬に視界は昏らむ。たいして暗くもないはずの室内が、あざやかな暗やみとしてだけ曝される。匂い立つあらゆる臭気の束が、葉のなまめいた匂いを消して仕舞ったことに、私は喪失感にだけ駆られた。「話せるの?」と、そう言った言葉に、最初に驚いたのは私だった。言いたいのは「…え?」そんな言葉ではなかった。「なに?…え」声。
え?
そう言った、葉の声。かすかにしかめられた眉。私は、その声を聴いた。
「なに?」
「…話せるんだ。」葉が声を立てて笑い、私は彼女に微笑みをくれた。「…ばか。」…てか、さ。
「知ってるでしょ。」葉が言う。「なにもかも。忘れた?私は話さないだけ。話したくないから。聴かないだけ。もう全部、聴いて仕舞ったから。」…なにを?
「すべてを。」
無意味に、彷徨うようにアトリエの中を徘徊し、植物の群れを確認する。その眼差しのうちに。息遣い、その、皮膚の単なるたたずまいさえもが、彼女が生きてそこに在ることを証明していた。「あなたも、そうでしょ?」
振り向いた彼女が言った。「なんども、なんども。…時間さえも無関係に、なんどもなんども生まれ変わって、なんども私を抱いたこと。…」不意に、「愛したこと」掻きあげた指先が「憎んだこと」その長い「絶望したこと、そして…」髪の毛を乱す。「歎いたこと…」眼差しの中に、「悔やんだこと」彼女はただ「ときには殺して、」微笑みながら、その「時には裏切って」見つめる視線の中に「売り飛ばして」私を「救って」捉えた。「強姦さえして」まばたきもせずに。「自殺させて」知っていた。私は「…忘れた?」確かに、「いっぱいの…たくさんの…」彼女を愛していた。「…無限の、」ずっと、「彼女たちを」永遠よりも長く。
…でしょ?
葉は、言った。
「抱く?」
葉の瞬きが、私をおののかせた。
「欲しいでしょ?」
乱れて吐かれた息が、
「それとも、…ね?」
彼女が笑っていることを
「してあげようか?」
明かした。
「お姉ちゃんみたいに。自分で。」笑う。声を立てて。…笑っちゃう。笑い声に乱れて、「お姉ちゃん、…いっつもそう。」浪立つ声。「知ったかぶりするの。」…ね?
「ぜんぜん、うぶなくせに。ビッチっぽく。でも、いい。…」不意に落とされた眼差しが、はっきりと悲しみを刻んだ。「もうすぐ死んじゃうから。」
「なんで?」
「私と一緒。」…一緒?
「自殺、…みたいな?」笑う。その眼差しに、「理沙ちゃんみたいに。」屈託はない。
見詰め合う眼差しだけを、私たちは愉しんだ。なにもかも知っている気がした。確かに、私は葉を知っていた。それは間違いではなかった。彼女をなんども抱いた。時には、殴り殺しさえして。その直後に、悔恨に駆られながら。あるいは、…いいよ。言った。好きにしろ。私は彼女が私を見棄てるのを許した。背中を焼く熾き火に焼かれながら。そしてやがてはふれた。唇に。私は涙した彼女に、そのふたりだけの婚礼の日に。最期の時期、人類たちが滅びていくさなかに。あるいは、そして、それら。すべて、私はすでに知っていた。…ね?
想い出したように、葉は言った。「見る?」
言葉さえ、私は忘れていた。眼差しの中に、愛する、そして、愛した、あるいは、愛している彼女の姿があって、その眼差しが私を見つめていた。「見たいでしょ?」
服を脱ぎ捨てる彼女を、私は止めなかった。私は眼をそらした。そらされた眼差しはフローリングに映えたなにかの翳の淡い形態だけを見出し、気配の中に、眼差しの先に初めて顕わされた、その、あまりにも美しすぎた身体に、私は意識さえ消滅させて、焦がれた。その限界を超えて仕舞いそうになった瞬間に、そこで、すべてを曝していた彼女は言った。…待って。
「…ね?」
待って。
それが、耳元でささやかれたように、私は感じた。眼差しは彼女の素肌を捉えはしないままに、そして葉は部屋を出て行った。そのまま。ドアを開いたままに。
取り残された、アトリエの中は単なる孤独を突きつけるだけの、為すすべもない空間に過ぎない。
私は、空間のすべてに対して孤立していた。私を受け入れるものは何もなかった。葉さえもが、喪失されていた。私はすでに、留保なく破滅していた。目に映るもの、それらのそのすべてが悲しい。ただ、切実で、そして、体中を、決して滅び獲はしない魂ごと切り刻んで仕舞うばかりに。
ひしゃげ、ゆがみ、ぐじゃぐじゃな変形を曝し、ただその色彩と形態の残骸だけを曝したその絵。アトリエの隅に、うち棄てられたように薄い埃りをかぶったそれらの油彩画は、葉がいま描いてる、正確に言えば、これから彼女が書こうとしている絵そのものなのだった。それらは、私だった。すくなくとも、油彩に写された私。
彼女はすでに、私の絵を描き上げていた。「モデルになってよ。」そう言ったのは、愛だった。
「いいでしょ?」…モデル?
「葉の。」
早朝、ベッドの上、自分の体に注がれたシャンパンの匂いにむせ返りさえしながら、愛はつぶやく。「なに描いてるのかわかんない、単なるおあそびばっかしてる。…あの子、」…暇なのよ。なんにも…「いいでしょ?」描くものがなくて…
「いい?」
私が声を立てて笑う。その笑い声は、愛にとっては同意にほかならなかった。…来なよ。
愛は、そう言った。
ふたたび辿り着いたリビングは明るい。北向きのそこは、日差しをやさしく、すべての毒気を抜き去りながら、ただ、明るい。匂いさえない明るさが停滞する。
フルートグラスをつかんだままの葉をリビングの中央に立たせて、その正面に立った愛はなんども大声を出す。「…描く」か、…く。表情のない葉を覗き込んで、身振りをくわえ、愛の手が諭すようにフルートグラスを奪うのを、私は見た。
声を立てて笑った。私は。か、…く。その夥しいヴァリエーションの反覆。
そして私は、葉がスケッチブックに書いたまるっこい文字の指示の通りに体を捻じ曲げて、腕を後ろ手にもたげ、尻を突き出したのだった。
無様な、**かなにかのように。
差し込まれていた指先が引き抜かれて、慶輔がその匂いを鼻に嗅いでみせた。戯れて。恥じらい。
「お前の、匂い、…するんだけど。」
言って笑った慶輔の顔の前に尻を突き出して、初めて人目にじかに曝した私のそれを、私は恥じた。***
慶輔の奴隷に堕した気がしていた。そして、慶輔は私に抗うことなどできない奴隷に過ぎなかった。彼の眼にし、鼻にかがれ、舌が味わい、皮膚がふれる、その、私のすべてが彼をとりこにしている事は知っていた。
慶輔は、私の、理沙の部屋で夜を明かした次の日の午前中に、オーナーを探し出して話をつけて仕舞った。マンションの管理人に聴きだしたのだった。その六十過ぎの二人の管理人たちが、私をうとましがっていることは知っていた。公式には事故死であっても、要するに自殺した、風俗嬢でジャンキーの女が勝手に連れ込んでいた、管理組合の申請もなければもちろん承認もない二十歳になったばかりの住所不定の同居人だった。彼らが良く想うはずもなく、そして結局は、所詮は、世慣れた慶輔の敵ではなかった。ほんの数分で下僕のように、ただ自分に尽くすことだけがとりえの犬っころを二匹、捕まえた。もともとは分譲マンションだったので、オーナーは個人だった。男なのか女なのかもしれない、そして、その四十代の不動産屋の口ぶりから察すれば、六十歳以上の女性らしく想われた、このマンションの数戸を所有しているらしい人物は、事故物件になって仕舞った、マンションの中で一番高くていい部屋を、ただただ歎いていた。取引法上は、事故の存在は二世代前まで新規契約者に説明しなければならない義務があった。…もう高くは貸せないわよ、と。「あんないい部屋なのに。」部屋の管理はその不動産屋が一手に引き受けていた。部屋まで訪れた不動産屋は、数分の間ごねてみせ、職務上の疑いの眼差しを慶輔と私に、交互に向けた。話が流れることなどありえなかった。不動産屋自身が言ったように、どうせ事故物件には違いなく、いずれにしても、冷却期間は必要なのだった。物件の冷却に私と慶輔くらいふさわしい存在はいなかった。二日後に持ってきた賃貸契約書のドラフトに、この物件での自殺、覚醒剤等禁止薬物の使用等反社会的行為があった場合、即刻立退きの上賃借人の全責任とする、…と、書き込まれた追加文に、私は声を立てて笑いながら、自殺が禁止薬物の乱用と等しい反社会的行為であることを知った。
初めて慶輔が私を、あるいは私が慶輔を、要するに私たちがお互いを初めて抱いた日、その終った後に、倦怠じみたまどろみのなか、深い午前から午後にまで、ただ戯れるだけの時間を濫費し、やがて夕焼けていく空を見た。
ルーフ・バルコニーに出れば、その西の空いっぱいに夕暮れの色彩が、空に曝されていた。その、みずからの素の色彩を無防備に曝した空のあられもない色彩が、巨大で、原始的な痴態にさえ想われて、私はもはやふしだらにさえ想う。留保なく大きな、数億年の時間にわたって繰り広げられる、何をも見出しはしない天体の無残なポルノ・ショー。人間種が滅びた後においても、もはや人間の目にふれないままに、それらは繰り返されるに違いないのだった。人間が生まれもしない、カンブリア期の、あるいはその前の、冥王期の長大な時間の流れのなかにあってさえ、あるいは何かの眼差しか、眼差し以外の知覚かが、それを捉えるか、捉えられもしないままに、ただ、その光に差されていたに違いない野生の、ただひたすら剝き出しの光。
「服くらい着ろよ」慶輔が、リビングのソファに横たわったままに言い、「…てか、」私は振り向きた眼差しに、その「そういう、趣味?」微笑みを見る。西向きの窓から差した光に、慶輔さえもが照らし出されて、彼の眼差しの中に、日差しの破滅的な紅彩に染まって仕舞ったに違いない私の素肌は、光に着色された複雑な色彩を曝しているに違いなかった。
「来いよ。」
言った。それは、私だった。私は笑い出して仕舞いそうだった。
「そこへ?」
慶輔の声。…聴く。
「やだよ。」
私は幸せだった。満たされ、そして
「露出狂じゃないんだから、…」
彼を愛していた。
「お前と違って。」
終に笑い出して仕舞った私に、つられた慶輔がたてた笑い声が耳の至近距離をなぜた気がした。…見ないよ。
つぶやく。
「…だれも。」
私は。
「ここには…ね?」
笑う。
「だれの視線も、…ないから。」
立ち上がった慶輔の身体は、ただ、私にとって美しい。なにがどう美しいのではない。それは暴力として、ひたすらに美しさだけをそこに存在させて、私を無残に放置して仕舞う。
ルーフ・バルコニーの、上空の風が慶輔の髪を乱した。
乱れて、彼の唇にふれた数本の髪の毛に、私は私たちが結ばれてあることを実感した。ただ、それは切実で、しかも不意に背後にささやかれたような、かすかな認識として。私は慶輔の髪の毛にふれて、親指がその鼻のかたちを確認する。
口付け合うしかない。だから、私たちは口付けあう。私たち自身が、意識の下方でふれあった、そのお互いの触感を確認しあう。抱きしめはせずに、ただ、至近距離の中に、それとそれが不意にふれあい続けるのを、私たちは愉しんだ。
確かに、鮮明な記憶として、どれも見たことが在る絵画がうずめたアトリエの空間に、倦んで私は行き場所を失った。その空間のなから、私は出て行くしかなかった。突き刺さって、私の骨を砕いて仕舞うような、そんなあきらかな質感を持った孤立が、私を苛んでいた。植物のすべてが、私にあられもない沈黙だけを、さまざまに固有な研ぎ澄まされた牙として曝した。
リビングに戻ると、愛は絨毯の上に身を横たえたままに、背中を向けていた。その向こうに、素肌を曝したままの葉が立っている事には気付いていた。葉は壁にもたれ、窓の向こうを見ていた眼差しを、私に投げた。私は眼をそらしていた。私は見ない。葉を。彼女は、どうしても美しかった。犯罪をさえ犯して仕舞え、と、その皮膚も、体の線も、色彩も、色合いも、髪の毛の一本さえもが、命じていることは知っていた。彼女を見つめること自体がすでに、犯罪にすぎなかった。私は、彼女を見つめはしない。そして私は、彼女に姦され、犯罪者にされていた。私は葉を愛していた。
自分をまたいで、眼そらしたままに葉に近づこうとする私の足に、不意に、愛がふれた。それは、かすかに伸ばされた指先が皮膚に、かろうじてふれ獲たにすぎなかった。足元の、体を横向きに投げ出した、すべてを放棄して脱力した女の、その身体を見た。痩せた、虚弱な、老いさらばえ始めた、ただただ見苦しいそれ。もう若くない。そして、生まれたときからすぐに、生まれたものは老いさらばえ始めなければならない。愛が、私を求めている事は、言葉も眼差しも何の表情もないままに、すでに私に理解されていた。倒れ臥して力尽きた女の傍らに、私はひざまづくようにすわり、その頬に触れた。愛はまばたきもせずに、床のすれすれの何かを見つめ、そして、私に視線を投げようともしない。私の存在など、気付いてさえいないかのように。
ながい、無意味な、あるいは、その意味をついにだれにも探ることが出来なかった沈黙の後で、愛が不意に声を立てて笑った。
私を見つめ、首を一瞬もたげて、髪を乱れさせ、いきなりあお向けたからだをくねらせて、折り曲げ、ひん曲げさえして、笑う。肺を引き攣らせながら。もたげた両足をばたつかせ、手のひらは口を覆い、笑う。愛は。指先が痙攣した。まぶたが引き攣って、首が左右に回されて、首筋に力みすぎた凹凸がはっきりと、何かの破綻を暗示しながら刻印されて、腹部の不規則な浪打ちが、そして、愛は笑う。葉は、リビングを出て行った。
「きれいでしょ?」
愛が言った。前触れもなく、いつか笑いやんでいた愛は、
「あの子…でも、」
その眼差しにあざやかに絶望を曝す。
「何人なんだろ?」…あの子、…「…あいつ。」
呆然と、
「ハーフなの?」
んー。…つぶやく。
「…元無国籍児」…パパが拾ってきたの。
空虚な、為すすべもない、ただ単なる絶望。…と、絶望と、そうとしか結局は言って仕舞うしかない、眼差しに浮かんだ悲しみ。…の、ような。
そんな。愛が、眼差しに曝した表情を私は見た。
「わたしが十八歳のとき。…あの子、」その眼差しは私を捉えずに、「十三歳だった。」私のそばに棄てられる。
「二年前に、どこかのアパートから…千葉?…埼玉かな。…忘れちゃった。この話、…」…ほら。
「あんまり、しないから。…」でしょ?
私の腕が、愛を抱いた。
「発見されたのよ。」保護されて…「…お母さんとか、」…んー…「…とか、…」
抱かれるままに、愛は腕さえなげ出し、
「お父さんとか?…そういう」…なんか、悲しい子なのよ。「…ね?」
完全に脱力されたその
「そういうの、いなくなって。」…で、…ね。「なんか…」
上半身のあられもない体重を預ける。
「裁判?…民事?…みたいな…無国籍児の」…それ、…ね。
私の腕に。
「それ、パパがやってあげてた。」…だから、さ、…
「なんか、ひとりでもう、壊れちゃってたらしいよ。きったない、ごみだらけのアパートの中で。」…ごみ屋敷。「十歳くらいで。」…ね?
「おもしろそうだね。」不意に私は言った。その、自分の声に、私は戸惑う。「お前。…まるで。…他人の不幸が」
「おもしろがってるみたい?」悲しみさえ渇ききって、枯渇した先に薄い歎きだけを停滞させた、そんな、どこかうつろな表情を崩さないままに、愛がつぶやいた。その、かすかにひらかれた唇に。「…かもね。」
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