小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説⑤ブログ版









わたしを描く女

…散文









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Διόνυσο, Ζαγρεύς

デュオニソス、ザグレウス













閉じられもしないまぶたが、私に鮮明な昏い色彩の喪失を描いていた。その、喪失された色彩の名残りさえないなかに、見たこともない形態の残骸が、どうしようもない孤立を空間に曝して、穿っていた。なににもふれ獲はしないままに、その翳りはそれが存在したぶんの空間だけを、破壊し、破滅させていた。

男の背後の天井にへばりついて、翳が血を流す。鮮明な、真紅の色彩。ただ、赤い。

上の方に、まっすぐ、そのくせかすかにのたうち回りながら上がっていく、それ。血。冴えたひたすらな色彩。その噴き出す箇所が、翳りの口か、目か、そんな場所であるに違いなかった。形態として壊れて仕舞っている、無残な形態。男。それは、まさに、その男以外ではなかった。私の皮膚が、空中に飛び跳ねて堕ちた男のそれを受け止めた。皮膚に、その触感がある。翳が、私を見つめる。匂う。そんな気がした。男のそれ。なにも、眼差しに映し出しはしないままに、翳は。…それ。命を発火させるもの。

細胞にあざやかで、取り返しのつかない覚醒をもたらして、そして分裂させるもの。

生命。…いのち。

翳は身動きさえしない。色彩の一切を失ったままに、それは沈黙した。ソファーにしがみつくようにして、四つんばいになった男の体を知ったときに、私はそのはじめての感覚に倦んだ。それは、孤独と渇望から終に解き放たれた救済の、あるいは頽廃の惰性に、しずかな発熱を内側に溜め込みながら、目醒めつづけた。


やがて、まどろんで、眼を開いた朝に、私の皮膚にかけられたタオルケットと、ソファの体温に温まれた温度があった。床に座った男は私の傍らに、からだに凭れかかって私を覗き込んだまま、目醒めた私に表情さえ変えずに、ただ、微笑んでいた。「…起きた?」言った。

うなづく。そして、それ以外になし獲る動作などない。

私は、不意に噴き出しそうになるのを堪えなければならなかった。…ずぅうっ、…と。

男の声を聴く。

「見つめてた。」やがて、男の唇が私の唇にかさねられたときに、それが、彼とのはじめてのキスだったことに気付いた。

私はただ、幸せだった。

同性愛。それは、セクシュアリティの問題でも、ましてや人権に関わる問題でさえない気がする。どうしようもなく留保もない、たんなる無根拠な実感として。

それは、存在論の問題、あるいは、存在そのものの留保ない体験に過ぎない。性欲も、その無意識的な根拠も、必然も、それらはすべて副次的なものにすぎない。ただ、本質的なのは私が彼を愛していること、そして焦がれていること、さらに、なにをやってもその渇望を、満たすことなど出来ない絶望的な袋小路に堕ちてしまうこと、それだけだ。

同性愛に人権など必要もなく、そして、人権の名における保護も正当化も容認も、そんなものはたんなる愚劣な、何かへの媚びた融合にすぎない。それに人権上の正当さをを与える事は、例えば海が捲き起こした津波に人権を与えるようとするに等しい。津波は、人間など滅び去っても勝手に捲き起こり、為すべき破壊をしでかして、そして海に消え去っていく。そんなものに、人権など必要なく、人権で覆いつくせるほどなまやさしいものではない。それらは常に、人間を、あるいは精神的存在としての人間の存在そのものを、一瞬で留保なく破壊して仕舞う。

精神的な美しさも、倫理的な気高さも、なにもかも、精神と名のつくものすべてに、まさに破壊の限りを尽くし、完璧な破滅をだけ、与えて。

その、目の前の男への愛は、ただただ過酷で、救われる手立てさえなかった。そして、存在そのもに直接、容赦なく、素手でふれて仕舞う愛、…そう呼ぶしかない、その、乱れ狂い、浪立ち、荒れ惑い、沈黙し、ひたすらの静謐を刻む、その、ある感情、と、そう呼ばざるを獲ない、その、…体験?

固有の、…それ。

それを、なにものにも、…肉体にも、ましてや性欲や生殖の本能的必然あるいは妥当性に還元することなどいかにしても出来ない、単に不当な事故にすぎないそれは、ただ、精神をだけ輝かせて仕舞うのだった。

精神。

人間だけに固有の、孤独ななにか。男を見つめる眼差しの中に、男を想う心のうちに、確実に、留保もない精神の、その実在だけがきらめいていた。心は、ただ、精神にふれた。

やがて、立ち上がった男の後姿が、私を一瞬で不安と孤独の中に突き堕とす。彼を、失って仕舞う可能性の、その無慈悲なまでに現実的な存在が私の皮膚に、筋肉の中、神経系のすべてに、あるいは脳細胞の一番奥の深いところにさえも、ふれて、突き刺さったのだった。…どこ行くの?

言った私の声を聴き逃した男は、立ち止まって振り向き、ん?、と、私はその鼻にかかった音声を聴く。

「どこ、行くの?」

かすかに立てた、男のやわらかい笑い声が私にやさしく、ふれた。「水。…喉、渇いた。」

微笑みあう眼差しだけが、空間に交錯し、…ね。

ん?…「名前。」

それ。私の、声。「…、なに?」

「なまえ?」

「…ん。」

「けー。」…ん?

「けい。…けいすけ。」

「けー。…」

「ん。」

「けい。」

笑う。

けいすけ。慶輔。ケイ。

私は彼の名前を了解した。


愛たちの居住空間に、まともに閉められたドアなどひとつもありはしなかった。もはや姉妹ふたりしか住んでいないからそうなのか、その前からそんなものだったかのか、いずれにしても愛が連れ込みさえしなければだれも来る者のない空間の、ドアと言うドアは半開きのままにだらしなく放置され、時に吹き込む風だけがいきなり閉めて、愛をときに驚かせた。玄関のドアさえもが、かすかに反った木枠のせいか、それとも古びた建物の構造自体のゆがみなのか、まともに閉まりきりはしない。それで支障などないのかもしれなかった。巨大なペントハウスで、そしてだれもがそこがビル・オーナーの、あるいはオーナー社長の住居だと知っていて、そして、一階のエントランスはオート・ロックだったのだから。

愛が自分で終った後、私は頬にキスをくれて、勝手にシャワーを浴びて、吊り下げられていた、姉妹どちらのそれなのかも分からないバスタオルで、濡れた体を拭う。リビングに戻れば、愛は肌を曝したままにあお向けてまどろんで、そして、葉は姿を消していた。

絵を見た。

葉が修正していた白い絵。何が描いてあるのかはわからない。単純に言って仕舞えば、白い、というしかない。とはいえ、そこに何かが描かれていることは分かった。それが何なのか分からないのではない。想い出せないだけだという気がした。想い出したところで、なにが報われ、救済されるというわけでもない。白。

単なる、白い絵。テーブルの影になって、終わりを偽装して、中断されたままに放置された愛は、死んでいるとしか想えなかった。横を向いたその眼差しが、窓の向こうのほうを見上げて、時に、まばたき、その、カーテンの切れ目から差し込まれた日差しに差された腹部は、息遣い、生きてある証拠を刻み、そして、愛は死んでる。そうとしか想えない。

私は、不意に愛を失った喪失感に駆られ、そして、自分の頭の中でだけ、笑った。自虐的な、苦笑、の、ような、もの。

短い、哄笑。

横たわったままの愛は、私の存在に気付きながら、私の存在には気付こうともしない。私の眼差しにふれられていることを、その体中に、あるいは体毛の一本にさえ意識して仕舞いながら。葉を探した。

何かの必然があるわけでもなければ、何の用があるわけでもない。語られるべきなんの言葉も持たない心の中に、自分の、言葉を持たないささやき声だけが連鎖する。さざ浪のように。まるで、今まさに、自分自身とたいせつな対話に明け暮れているかのように。キッチンの中。私を見つけた猫が逃げて、そして、立ち止まって振り返る。

鳴く。

…だれ?

と。…お前、

だれ?

ひとつ目のトイレ。そこにいないことは、ドアを押す前からすでにわかっていた。

ひとつの目のバスルーム。私が使ったばかりのそこ。開け放たれたドアから、かすかな湿気が空気にふれる。かすかな臭気は、私の体臭の残骸だったのだろうか。いない。

だれも使っていない部屋。死んだ、父親の荷物がそのまま残されて、空気は停滞していた。停滞した空気が淀む。匂いがある。古い匂い。何の立てた匂いなのかはわからない。

愛の部屋。ドアを押して、完全に開ききった瞬間に、自分たちの籠った体臭が匂った気がした。

だれも使っていない部屋。完全な、ヴォイド。

葉の部屋。匂う。彼女の体臭。空気に撫で付けたように染み付いて、そして、どうしようもなく煽情的な匂い。匂いが命じる。この女を愛せ、と。自分のものにして仕舞え、と。その匂いを撒き散らす驚くほど美しい女は、つぶやくべき言葉をさえもたない。

もうひとつのバスとトイレ。もはやだれにも使われていないらしいそこの大気は渇ききっていた。そもそもが、各部屋にバスとトイレが設置されているのだから、いまや、たんなる無用の空間にしかすぎないはずだった。排水溝が、穢れている。

だれも使っていない部屋。日当たりの良すぎる部屋は痛みが激しく、淡い紋様を散らした壁紙が日に灼けていて、そして専用のバス・ルームのドアを開けば、排水菅が持ち上げた汚水の匂いがした。

背後のどこかで猫が鳴いた。姿は見えない。振り返っても、あるいは、私はその姿に気付かなかった。

だれも使っていない部屋。たぶん、書斎のようなスペースだったに違いない。壁を占領した棚に、資料、書籍、アナログ盤、CD、散乱したカセットテープにMD。それら。日差しの中に、朽ちていく。古いJBLのスピーカーがひとつだけ。壁の角にぴったりと、一台だけはまり込んで埃りをかぶる。

もう一つの、それほど広くないリビング。逆光。葉は、そのルーフバルコニーで、夥しい鉢植えの花に水を遣っていた。北向きの、壁一面に開かれた窓の向こうに明治神宮の森をそのまま開かせる部屋は、葉のアトリエに違いなかった。その部屋にだけ絨毯ははがされて、フローリングに替えられていた。おびただしい花々と、観葉植物の瑞々しく冴えて息吹いた匂い、そしてでたらめに立てかけられたキャンバスの、油彩とテラピン・オイルが匂う。腐った脂じみた悪臭。それらの癖のある芳香の、束なって単なる臭気に堕した強烈な匂いの群れは、美しく色づいた女のなまめいた香気などたちどころに消し去って仕舞うしかない。窓の向こう、レース地のカーテン越しの、葉のすがたがかすかな逆光めいた光の中に翳として、うごめいて戯れるのを見る。

絵。さまざまな絵。白一色の、同じような絵。

そして、人体を模したのかも知れない、そんな色彩がゆがんだ空間に停滞して、崩壊した形態のなかに、単なる色彩としてだけうち棄てられた、…抽象的な?具象画、の、ようなもの。根拠はないが、それが人体であることをだけは留保なく認識させる。ひとつの鮮明な皮膚感覚として。

あるいは、色彩をだけ、荒れ狂わせたもの。かさねられ、荒れ狂わされたそれは、もはや昏い、としか言獲ない。穢い、という感覚が、一つのはっきりした価値観であることを、それは明示した。混乱した色彩の戯れに過ぎないそれは、もはや、穢いとさえ言獲ないのだった。昏く、明瞭で固有の色彩と形態を曝す。

その三つの連作の群れ、…なのだろうか。それらのヴァリエーションが、描きかけのそれをもふくめて、散乱する。あるいはそれらは、彼女が頭の中に抱えた、疾患か破綻の病状証明だったのかもしれない。

自分を見つめる私に、愛は気付かない。気付くはずも無い。彼女の眼差しはいま、花と流し込まれるやわらかな水流にだけ注がれていて、私の姿など見ていない。音のない、静寂の彼女の世界に、いま、私は完璧に存在しない。

私が背後に、大声で叫んだとしても。自分でこの胸を刺し、腹を引き裂いて臓腑を引き出して、激怒した怒号を上げてみたとしても。あるいはたとえ、その視界に端に私の翳くらいはふれさせて仕舞ったとしても。いま、花に捧げられる水の流れのきらめきを見ている彼女は決して、私を知らない。

ルーフに出て、素肌を外気に曝す。人目は存在しない。すべての建物より高い、かつての合法、新法上の違法の建造物は、たんなる6階の高さの中で、地上に対して驚くほど孤独だった。素足にじゃりの触感があった。

背後に近づく私に、背を向けたままの葉は無防備な後姿を曝していた。声をかけるすべもない。至近距離であっても、彼女にふれる以外に、彼女に私の存在を教えるすべなどない。

彼女の体臭と、豊かにあふれた髪の毛と、衣類の布地があざやかに匂った。たしかに、美しい女、そうであるには違いない。だれをも愛する事ができない、その。差し伸ばされた指先が、その肩に触れようとした瞬間に、葉は振り向いた。

眼差しが、無表情なままに私を捉えた。

軽蔑とともに、責められた気がした。眼差しは、何も語らず、空虚なままだった。洞穴のように。

欲望にふれた、のではなかった。例えば性的な。

ただ、その、ふれられ、愛され、いつくしまれるためだけにそこに存在していたような、ただ、冴えて、やわらかな息吹きだけを立ててそこにある彼女の唇に、私の、空中に戸惑って停滞した指先は、ふれようとした。だれの許可も、私自身の許可さえもなく。

「やめて。」

葉が、言った。

私はその声を聴いた。低めのやわらかな音色。ヴィオールの高音。指先は、自分の存在そのものを恥じた。永遠の穢れものとして。

…さわっちゃだめ。「…苦しくなるよ。」色彩。眼差しには、すでに鮮やかな色彩が浮かんでいたのかもしれない。その、鮮やかな黒目には。私が見過ごしてただけで。息づき、息吹き、そこにずっと存在していたのかもしれない。私は、彼女が曝す無機的な黒目の輝きを、見つめた。「…さわる、けど、…」

…ね?

そう言って、「どうせ、…」葉は微笑みむ。「…苦しむけど。」声。…ね。低音楽器が鳴らした高音のようなそれは、やわらかすぎて耳に残らないままに、記憶にだけはその痕跡を残して仕舞う。そんな彼女の音声を、私は頭の中に反芻していた。至近距離の、ふれあわないぎりぎりを通り抜けていく葉の、髪の毛が匂う。匂い立つ女が、文字通り芳香を撒き散らして、いたずらに、装うこともなく目にふれられたものの片っ端を破滅させていく。そんな、残酷さが実感された。「覚えてる?」

小さなピンク色の、子供用のふるい如雨露を入り口近くの棚において、「私のこと。」

「だれを?」

「忘れた?」

…なに?と、言った私は、戸惑いながら、なにに戸惑えばいいのかさえ分からない。「あなたが殺した女。」

だれ?

その言葉を、私がつぶやくことはなかった。私はむしろ、彼女に見惚れるばかりで、その言葉さえ聞き取ってなどいなかったのかもしれなかった。「理沙。」…知ってた?

「本名は、マリア・ソーマ…」想いだす。堕ちる女。私を抱きしめようとして。「想い出せるでしょ?彼女だったら。」

「なんで知ってるの?」

「わたしだから。」…入って、と、葉は言った。日差しの中から室内に入ると、その一瞬に視界は昏らむ。たいして暗くもないはずの室内が、あざやかな暗やみとしてだけ曝される。匂い立つあらゆる臭気の束が、葉のなまめいた匂いを消して仕舞ったことに、私は喪失感にだけ駆られた。「話せるの?」と、そう言った言葉に、最初に驚いたのは私だった。言いたいのは「…え?」そんな言葉ではなかった。「なに?…え」声。

え?

そう言った、葉の声。かすかにしかめられた眉。私は、その声を聴いた。

「なに?」

「…話せるんだ。」葉が声を立てて笑い、私は彼女に微笑みをくれた。「…ばか。」…てか、さ。

「知ってるでしょ。」葉が言う。「なにもかも。忘れた?私は話さないだけ。話したくないから。聴かないだけ。もう全部、聴いて仕舞ったから。」…なにを?

「すべてを。」







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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