小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説④ブログ版
以下、ブログ用修正版です。
刺激的過ぎる表現は控えてあります。
完全版はそのうち、まとまったかたちで、アップします。
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「頭の中は十歳くらいよ」愛は、あお向けてのけぞり、液体を受けた。曝された肌の生物の白さの上に、金色が、しずかに泡だって流れて、かすかな淡い、穢れた模様を描く。
色彩を与えるというほどではない。皮膚にふれればいかなる白さといえども、金色は淡すぎて、はかない色彩に過ぎなかった。ただ、美しかった色彩の名残りをだけ暗示した泡だちの明滅は、皮膚の上に、わずかで否定し獲ない痕跡をだけ残し、流れ、すべり、息遣う曲線のふるえになぶられて堕ち、「飲まないの?」
私は言った。
「…飲んでる。」つぶやく。
愛の見上げた眼差しが、私をさかさまに捉えた。「飲ませてよ。…もっと。」
私は、自分のグラスも一緒に、全部傾けて愛にかけてやった。シャンパンの、酸味を散らして饐えた匂いがその周囲に無残に拡がった。彼女の体臭にまざりあいながら。
「見る?」…と。
絨毯の上、その、愛の笑い声が乱した声に、「わたしの、…」私はあお向けて、「ね?…」葉。「…すべて。」ずっと、向こうで絵を修正し続ける葉。もはや彼女は私たちに何の関心も持たない。無理な体勢をそれなりの時間、ひとつの線分さえも描いてももらえないままに取り続けたわたしの筋肉に、あるいは筋に、かすかな痛みは執拗に残っていた。
私の腹の上に投げ出していた足を開いて、着衣のままに、愛はしてみせる。両手のひらに、自分の体を好き放題、馴れない手付きでまさぐって。私は声を立てて笑う。…好き?
愛が言った。
見るの、好き?
「大好き。」言った私は、膝枕を付いて、横を向いた眼差しに、愛の装われた嬌態のむこう、沈黙したままの葉の姿を追った。
「見たい?…もっと?」
…ね?
「見たい。ずっと。」
見てる?
葉の指さきが、カンバスの上の、塗ったばかりの油彩の色彩に一瞬、ふれようとした。
「ずっと?…見たいの?」
「ずうっと。」
ふれようとして、一瞬、戸惑う。指さき。褐色の肌。停滞する。
なぜ?
「見て。ずうっと」
「見せて。…もっと。」
想った。なにが…
なにが起きたの?
「いいよ。見つめて。」
「もっと、…」
その、指さきの至近距離の、かすかな向こうに。
不意に大きく持ち上げられた愛のふとももが、のけぞって空間に弧を描く。
「なんで?…」
「好きだから。」私は言って、太ももに口付けてやる。やがて、大きな、もはや本気なのかわざとなのか、区別のつかなくなった声を立てて終った愛が、本当に終ったのかどうか、そんなことはたぶん、本人さえ知らない。あお向けに、四肢を投げ出して無防備に倒れこみ、荒れた息遣いだけを吐く愛の上に、ややあって覆いかぶさった私はその唇に、ながい口付けをくれた。一種の、ご褒美のようなものとして。眼差しの向こう、そして少年は血を流し続けた。
色彩を失ったその少年、昏く、翳り、弧を描く両眼の鮮血に無様な鮮度をを見せ付けて。
…慶輔。
その、二歳上の男と会ったとき、私は二十歳になったばかりだった。たったひとりで。渋谷のクラブのトイレの前ですれ違ったとき、彼は不意に私に声をかけたのだった。
「お前、好きでしょ?」
これみよがしにだらしなく、それが正式な作法であるかのように壁にもたれて座って、三人の女をはべらしていたその男を、私は見つめた。薄暗く、そして、間歇的に、一瞬だけけばけばしい照明に引き裂かれて浮かび上がっては消えていく、その男の薄昏いすがたに、私が受けるべき印象は何もなかった。場違に、色づいた筋肉質の体の線をくっきりと曝すスーツを着こんで、そしてその商売が透けてみえる煽情的で、軽蔑的な眼差しの女たちはみんな、煙草をすっていた。
煙が匂った。
「好き?」言って、男は笑った。理沙は死んで仕舞った後だった。一週間と、数日のまえに。だから、だれも私の誕生日を祝おうとする人間はいなく、理沙の部屋に取り残されたまま、私には時間だけが大量に残されていた。男が、何を言いたいのかは、すでに察していた。私は彼に笑いかけた。
男は、身をもたげて女たちに言った。ごめん、と。この子、可愛がったげてくる。笑う。女たちはなじった。女たちの眼差しに、軽度の薬物の匂いがした。錠剤かなにか、そんな程度。ひとりの女の頬に軽いキスをくれ、男は私の腰に手を回した。抗うすべなどなかった。男は誘うことに馴れていて、あまりに自然で、それに抗うことは作法を無視することのようにさえ、想われて仕舞うのだった。そして、それが男の手の内にぎないことを、容赦なく曝して見せびらかすのを、ためらいさえしてしない。私は、男を、ほんの一分もかからない理沙の部屋に連れて行った。
マンションのロビーでエレべターを待っている間に、私はその男の美しさには気付いていた。明らかに、何かを暗示して止まない、そのくせ、その内側には何の秘密など残ってはいないこともまた明らかな、なんの役に立たない想わせぶりな眼差しを曝した。そして、それはなぜか、心に咬み付いて仕方ないのだった。無能な、知性さえない、空っぽのでくの坊に過ぎない事は、見ればすぐにわかって仕舞うのに。…お前、「こんなとこ、住んでるの?」
男は笑いながら言い、でも、…と。
「もうすぐ出て行かないと。」
「なんで?」
「借りてるヤツが飛び降りて、死んじゃったから。」
「間借りなの?」
うなづいた私に、男は無意味な喚声をくれた。眼の前に転んだよちよち歩きの、可愛らしい子供を囃し立てるような、そんな。…笑っちゃうね。男は言った。いずれにしても、私がもうすぐ出て行かなければならないのは事実だった。期日は月末、月末までは理沙の契約が残っていた。行き場所もなく、両親に連絡を取っているわけでもない私に、オーナーも無理に出ていけとは言獲なかった。犯罪者を見るような、いかがわしい不審の眼差しをくれながらも。警察の処理は事故。転落死だった。警察が部屋に入ってきたとき、テーブルの上には理沙の覚醒剤の粉が散乱していたままだった。それは、理沙の死から三日後のことだった。警官は、私を調べた。私の尿からも、髪の毛からも、薬物反応は出なかった。…見てみない振りをして、と、「見殺しにするのも、」…ね?「共犯だからね。」五十代の警官は言った。過呼吸の薬だと言っていた、と想いつきで私は言った。副作用がきつくて、大変なの、…と、いつもそう言っていた、と。「やばいんだよ。…これ。」潤んだ眼で。いつでも、副作用のために、うつろで焦点のあわない眼差しだけを曝して。
傍らの男の体臭が匂った。クラブの中からずっと、見せびらかすように私の腰を抱き続けていたその男の仕事は、聞かなくても分かった。ホストか、闇金融か。闇金融のありふた安っぽさの変わりに、在り獲ないくらいの安っぽい色気を撒き散らしていたので、彼はホストに違いなかった。男が、すれ違う人目の前で、腰に回した手をわざと誇示し、自分のそんなセクシュアリティをもはや誇らしげに見せつけるのを、私は不意に堕ちこんだ落とし穴のような違和感とともに見た。そして、すれ違う男たちは奇妙な敬意を無言の忌避する眼差しのうちに曝し、女たちは、ふしだらなほどに発情した雌の眼差しを、彼に捧げた。つるんだ女たち同士は、すくなくともその男に焦がれたその瞬間には、在りもしない自分たちの同性愛と、彼への欲望をだけひたすら色づかせた眼差しと、挙動の一つ一つに顕して見せ、ささやきあいながら、とはいえ、彼に話しかけられるわけでもない。子飼いの小動物のような女たち。
部屋に入った瞬間に、男は嬌声を上げた。すげぇえじゃん…言って、ひとりで騒ぎ、笑い、その声が空間に停滞した空気を震わせて、彼の周囲にだけ覚醒し、照明さえつけずに、男はひとつひとつ部屋を確認してまわった。最後に辿り着いたリビングの、花だらけの巨大なルーフバルコニーに、もはや我慢できずに男は声を立てて笑う。「ばかなの?」言った。…ねぇ。
「まじで、ばか?」
ソファに座った男がそのまま寝転がり、「ここ、次の借り手決まってる?」…さぁ、ね。言った私に微笑む男の眼差しに、かすかな憂いがうかんだ。照明さえつけられないままの、月と、星と、地上からの淡い夜の光源にだけ照らされた中に、しずかに男はその、単純すぎて何を考えているのかわからない表情を曝す。男は憂いていた。そう見えるだけで、男はなにも憂いてなどいない、と、そんなことには気付いていた。「…俺、ここ、借りる。」男が、つぶやくように言った。
「いい?」
「俺は、…いいよ。…別に。」
たぶん、私はまるで、おとなしい家禽じみた眼差しを、男に
「お前も、住むでしょ?」
曝していたに違いない。
「ここに?」
私は男を、息をひそめさえして
「住みなよ」
見つめていた。
「住んでほしいの?」うなづく男は、脱色された長い髪の毛を掻き上げ、「住みたいでしょ?」ささやきかけた。
まるで、ふたりの距離がすでにふれあう寸前にまで接近されていたかのように。
「俺と、住みたくない?」
声を立てて笑った私の相手もせずに、「…決まり。明日、オーナー紹介して。今日から、ここ、俺の家。」
ジャケットを脱いで、床に放り投げた男は言った。…で、さ。
「脱いで。」
脱ぎ棄てた衣服が床に散乱する。私は男の至近距離に近付いてやり、ソファに座った男の鼻のさきに曝して、立つ。男は私を見つめた。見あげた眼差しが私の体を、残る隙間もなく見つめ、息がかかってふれる。かすかに開かれた唇から、吐かれた空気だけが。見つめられるにまかせ、私も男を見つめてやった。…ねぇ。
男が言う。…やばい。
「きれい」
言った男の頬を、両手のひらに、ただ、ふざけあって、ふれあって仕舞ったにすぎないほどの軽さで抱いて、「駄目。」私は言った。
「まだ、駄目。お前のも、見せてよ。」
見つめ合った時間の、惰性の、無言の経過を愉しみ、「見たい?」男の声。
聴く。
「お前の。」…てか、
言った私の声には、
「お前の、ぜんぶ。」
媚がある。私の声に。…いかにも穢らしく、どうしようもなく家畜じみた媚。私は私を軽蔑した。そして、その軽蔑には何の根拠も見当たらなかった。男を見つめていた。息をひそめて。私にその傾向はなかった。あるいは、十歳くらいのころに、同級生に同性愛に近い、やわらかくて、ただただやさしいだけの感情にふれらたことはあった。まるで他人の感情のように。なんの煽情もなく、いじましくなるほどに繊細な、壊れそうな、なにをも煽りたてはしない、そのくせどこかで切実な感情。欲望とも、愛とも、恋とさえも言獲ない。とはいえ、それはまさに恋というべき感情にほかならなかった。
私は、彼を求めていた。それは、男の眼の前にさらけ出された私のそれが無残に証明していた。もう…
我慢が出来ません。それが曝している事実。男は、脱ぎもせずにむしろ、見つめ合うだけの停滞した時間をむさぼって、その、想いつめた、鮮明な絶望を浮かべた眼差しが、不意に瞬かれた一瞬、あからさま崩壊を刻んで仕舞って、唇は私のそれにふれた。一度だけ。すぐに、離れた。男の息がかかった。鼻から。そのとき、私の、何にもふれられてはいないそれに、執拗な喪失感と孤独が目醒めた。なぜか、ためらいながらさしだされた舌が、至近距離の空間にいちど戯れて、ふれられた触感に焦がれた。
もはや、自分が穢れきった気がした。まだ、男に抱きしめられてもいないうちに、すでに私の体中に彼の体臭が染みついた気さえしていた。理沙も、そう想ったのだろうか?私に抱かれたとき。腕の中に抱きすくめられるより前に、私の唇だけが嘲笑うようにふれた瞬間にさえも。
そのとき、私が知っていた女は理沙と、そして、あの、母親だけだった。
…美紗子。彼女も倦み、苛まれたに違いない。むしろ、私に焦がれて私を見つめた瞬間に、なんども、その体中に取り返しようもなく、他人の体臭を移されて仕舞った実感に。
男の眼差しが、あきらかに私に焦がれる。
あっけなく、唐突に力尽きた私は、彼の目の前に、床にあお向けて倒れこみ、そして、彼を待つしかなかった。私に穢された、かるく捲かれた毛先と、悪趣味にはだけさせた胸元を、男は拭いもせずに立ちあがって、私を見下ろし、一枚一枚もったいつけながら脱ぎ棄てていく男の仕草を、眼をそらしままに私は見守る。「見せてみなよ。」男は言った。
素肌を曝して立ちつくしたまま、男は独り語散るように言って、眼差しは表情さえなくその留保もない絶望をだけ訴えた。声はどこかあからさまな軽蔑をだけ曝しながら。…何を?
と、私の唇が動く前に、「お前のぜんぶ」男が言う。見せて、と、私は言った。
微笑み、やがて、私は笑顔に表情を崩して、「…見せてよ」言った私の声を、不意に、はじめて耳にした言葉を聴くように、男は眼差しを戸惑わせた。
「…俺の?」
頽廃。
私にまたがった男が、立ったまま、見下ろした私に焦がれながらそれをした。私は身を投げ出して、男の眼差しに見つめられるままに任せた。夜の光のない暗さの中でさえも、男の肌の白さはあざやかだった。私は男を見つめ、男にふれられていない皮膚のすべてが倦んだ渇望に苛まれた。
閉じられもしないまぶたが、私に鮮明な昏い色彩の喪失を描いていた。その、喪失された色彩の名残りさえないなかに、見たこともない形態の残骸が、どうしようもない孤立を空間に曝して、穿っていた。なににもふれ獲はしないままに、その翳りはそれが存在したぶんの空間だけを、破壊し、破滅させていた。
男の背後の天井にへばりついて、翳が血を流す。鮮明な、真紅の色彩。ただ、赤い。
上の方に、まっすぐ、そのくせかすかにのたうち回りながら上がっていく、それ。血。冴えたひたすらな色彩。その噴き出す箇所が、翳りの口か、目か、そんな場所であるに違いなかった。形態として壊れて仕舞っている、無残な形態。男。それは、まさに、その男以外ではなかった。私の皮膚が、空中に飛び跳ねて堕ちた男のそれを受け止めた。皮膚に、その触感がある。翳が、私を見つめる。匂う。そんな気がした。男のそれ。なにも、眼差しに映し出しはしないままに、翳は。…それ。命を発火させるもの。
細胞にあざやかで、取り返しのつかない覚醒をもたらして、そして分裂させるもの。
生命。…いのち。
翳は身動きさえしない。色彩の一切を失ったままに、それは沈黙した。ソファーにしがみつくようにして、四つんばいになった男の体を知ったときに、私はそのはじめての感覚に倦んだ。それは、孤独と渇望から終に解き放たれた救済の、あるいは頽廃の惰性に、しずかな発熱を内側に溜め込みながら、目醒めつづけた。
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