小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説③修正版
以下、修正版です。
オリジナルは、非常にオトナの表現が連発されるので。
物語のながれは、だいたい、そのままです。
完全版は、そのうちアップする《完全版》で、お願いします。
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
「妹でしょ?」と、私は言った。早朝、唇がはなれて、水を愛が飲み干したのを、その喉の動きに確認したときに。…だれ?
ささやく。呆然とした眼差しは、決して私を捉えようとはしない。あなたを見る価値など何もない、と、その事実にさえ絶望して、ただ、無残で勝手な絶望を曝した。「キッチンにいた。あれ、…」
「可愛いでしょ。」
「可愛くないよ」
「…うそ」
「綺麗。」笑った私に、おもしろくない、…それ。そう言った愛は不意にのけぞるように上半身を起こして、私の顎に唇をつけた。口付け、以前の、なにか、為すすべもなかった無意味な接触。少しの戸惑いを見せながら、そして、私の顎の形態をなぞった。「つきあいたい?」愛が、想い出したように微笑みを浮かべて、「いいの?」
私の声を聴く。眼差しがなにか、いま、自分が取るべき最適の、もっともエレガントな表情を探していた。
「まさか…」
「何歳?」
「年増、きらい?」
「てか、お前が好き。」私は唇に唇を、かすかにあわせた。そっと、ふれあって、かかる。愛の息遣いが、光。
「…知ってる。」窓越しの陽光が、「わたししか、…」もはや朝の鮮度などどこにもないぶ厚い明るさを「もう、…ね?」容赦もなく「愛せないこと。」投げ込む。「…もう。」
ベッドルームの中に。
「でしょ?」…違う?私はちいさく、声を立てて笑った。愛の眼差しは、微笑むままに私を離そうとしない。…あいつ、…ね?
愛の声。
「絵描きさんなの。」
耳に、
「知ってる。」
ふれた。
「なんで?」
息が
「見たよ」
かかる。
「…絵?」
唇に。
「そう」
…私の。
「どう?」
春。
「どうだった?」
桜はまだ咲かない。
どうって、…と、言おうとして、何と言っていいのか、わからないことに気付いた。さまざまな言葉が想起された。長い文章も、短い単語の群れも。とはいえ、結局は、美しい、と、ただ吐き棄てるように言って仕舞うしかなく想われて、私は自分の知性を疑うしかない。「…きれい、だね。」
諦めて、言った私に愛がささやいたに似た笑い声をくれる。「どっち?」
「…なに?」
「葉が?…絵が?」
…どっちも。そう言って、笑った私を押し倒し、水がこぼれる。ベッドの上にも、そして上になった愛の髪の毛は雪崩れて乱れ、私の顔中を覆った。そして私はあの女が、よう、と、すくなくと姉にはそう呼ばれていることを知った。
十二歳のときに、唐突に耳が聞こえなくなったのだと愛は言った。失語症も併発したに違いない。なにも、言葉を発さなくなった。中学校は障害者学校に通った。手話も何もおぼえようとはしなかった。言葉を読み取ること事が出来ないのかも知れないと、担当医は言った。母親はすでに死んでいたし、父親は仕事に追われた。必然的に、面倒はすべて愛が見たようなものだった。父親が、彼女が十八歳のときに自殺したときも、何の反応も示さなかった。なにもわからないんだよ、と、愛は独り語散るように言った。「なにも…でも、」…ね。
手は全然かからない。と、言った愛の笑い顔に自虐的な色があった。愛が一番、身近にいる彼女を持て余していたのかも知れなかった。真意の読み取れない、ただ複雑であいまいな表情だけ曝し続け、かならずしも興味をもたれるわけでもない途切れ途切れの会話が時間を濫費した。
ややあって、不意に愛が身を起こした。途切れ途切れの会話が、途切れきるのをさえ待たずに。「…で、…ね。」と、そして何も羽織りさえせずに部屋をでて行こうとし、立ち止まった愛は、私を軽蔑し果てたような眼差しを差し出す。「待ってて」その「まだ、…」縋るような声に、…帰らないで。私は彼女の真意を探さなければならなかった。
「待ってて。…ね。」
ドアさえ閉めない。もとから、閉められてはいなかった。彼女が私を愛したただ、為すすべもなく退廃的なだけの時間の間にも。そのまま出て行って、すぐに、なにごともなく、なにも持たずに帰ってくれば、愛はもう一度懐かしむような微笑をくれて、私の傍らに背を向け座る込んだ。
ベッドが、彼女の体重にへこんで、かすかに音もなく軋んだ。
「好き?」と、絨毯の上にうつぶせた私に愛が見せるのは、葉に指示されるがままに、からだをひん曲げていたときに、彼女が撮り溜めた写真の数十枚だった。
「笑っちゃう。」接写された、私の画像をめくり、愛が声を立てて笑った。それは自分の生物としての実在だけを曝した。「記念に、パソコンに移しとくよ。」愛は耳元に、脅迫するようにささやいて、私は眼をそらす気にもならない。
「俺のこと。お前。」
「…やだ。」
「で、見つめたりして。」…ばか。言って、私の頬に口付けた愛が、垂れ堕ちた髪の毛で私の視野を覆う。
「毎晩?」
葉の描いている絵は、色彩が、あるいは、その
「好き?俺のこと、」
色彩が作り出した筆先の形態の群れが、お互いに
「想ってる?ずっと。ずうっと。…朝から」
かさなり合いながらただ、しずかにそこに
「晩まで。ずっと。お前、」
存在しているだけ、なにをも描き顕されはしないものの、
「俺のことしか考えられないじゃん?違う?」
それが、
「好きで、仕方なくってさ、もう、お前、」
何かの風景であることはすぐに
「俺だけが。俺の、全部だけが。」
分かった。愛が
「…違う?」
笑いながら身を捩って、「愛していい?」…ねぇ。「じゃ、」わたし、…
「愛していいの?…あんたを見つめながら、想うままに、」…ね?「いい?自分で。…勝手に。」…むしろ、…
「いいよ。」私はささやく。「自分だけ、…」愛の「…いいよ。」耳元に。愛は声を立てて笑った。
嬌声。おかしくて仕方がなくて、愛は私の体の上に足を投げ出す。風景。
身をくねらせる愛の向こうに垣間見えている女が描いているのは、それでも確かに風景以外のなにものでもなかった。使われる色彩の数は寧ろ抑えられていた。なんどもかさねられた下塗りを、複雑な白のグラデーションがこまかく色彩の隙間を這うように、そしてやがて塗りつぶして仕舞い、さらにその白いとはもはや言い獲ない白の上に、色彩が置かれた。さらにその色彩は下塗りとして塗りつぶされて、白く染まったキャンバスが顕したのは、地平線を曝したなにかの風景。たとえば、廃墟のような。
人の気配などない。むしろ、生き物の気配さえ。あるいは、すくなくとも私の知っている生き物と概念の存在は、そこには存在し獲ない。
静謐。ただ、寂として、何の音響さえもなく、それらは重なり合いながら、なにかの形態を描き出す。なにが描かれているのか、なにを描こうとしたのか、一切の理解が出来ないくせに、それは私にただ、懐かしいほどの鮮明な印象を残した。見たこともない、あるいは、これから見出しもしない風景に違いないくせに。同じ風景を見たにしても、描き出されたのは葉が見出した風景なのであって、私のそれでは在り獲ない。必然的に、永遠に、かさなりあいはしない風景の、懐かしさ。…永遠。
確かに、永遠はありふれて、いたるところに点在していた。それを時間の問題だと考えて仕舞うから、永遠であることに稀なる意味があるのだと想って仕舞うのだった。私たちは、いずれにしても、いたるところにのさばり、あらゆるものを喰い散らして、むしろ好き放題に氾濫していた。
部屋に、葉が入ってきた。私は眼を疑った。そのとき、ベッドにあお向けた私の指先は、いまだに愛の背筋に彷徨っているばかりだった。これで何の嘘もなくなった、と、私は意味もない実感に駆られた。早朝の日差しに、窓越しにじかにふれられて、葉は長い髪の毛に光沢を倦ませ、私は、あなたのおねぇさんが金で買った男だ。だから、ここにこうやって、身を投げ出している。…ね?と。もう、なにも嘘はない。
不意に、私は声を立てて笑って仕舞いそうになったのだった。葉は、片手に冷えたシャンパンを持っていた。ボトルのネックのを無様につかんで。フルート・グラスを反対の、左の指にぶら下げて。グラスはみっつ。つまりは、そういうことなのだった。
「飲むでしょ?」
葉を振り向きもせずに、愛が私に言った。愛の眼差しは微笑みさえしない。…なに笑ってるの?と、やがて振り向いて、寄り添うようにその体をよせて、愛は言った。ふたたび私を覗き込んで、自分の体温を、私の至近距離に好きなだけ撒き散らして。「…なんで、」
なに、笑ってるの?「…ね?」…あんた。…明確な、笑うべき事実などほとんどありはしなかった。同じ空間をそれぞれに占有したみっつの、フルートグラスと同じ数のもの。
私が何の行為も終ってさえいないままに、いかにも疲れ果てたように横たわっていた事実と、眼差しに映った、華奢なばかりで煽情的ななにものをももたなず、凛として見えながらもいまや、一瞬の表情さえもが饒舌でしかいられないな姉と、色づくほどの美しさを、地味な黒い衣服に丁寧に包み込んで、表情もなく、寡黙な妹との、でたらめに見えた対比とが、無意味なままに顔を笑みにゆがませて仕舞うのだった。説明は困難だった。「見惚れてるんだよ。」
私は言った。
「葉に?」…妹にでしょ?愛が耳元にささやく。「違う?」愛はあきらかに、自分で嫉妬を愉しんでいた。
ささやいた愛の唇が、耳に接近していた。
葉がシャンパンの栓を抜くのに苦労した。近づいた私が開けてやろうとするのを、その挙動に気付いた葉は容赦もなく拒否した。…できるわよ。
ちゃんと。わたしだって。
クリエイター気取りの人間がよくする仕草さ。他人に任せて仕舞えばいいことに、へんな固執を自己の尊厳を架けて見せてみる。私は他人のように微笑んでやるしかない。その表情が、愛を嫉妬させずにおかないのは知ってる。ベッドにあお向けたまま、責めるような眼差しを愛が、ひとりで送っている事は見るまでもなく気付いていた。私は、いっそう葉のすれすれに接近した。愛をもっと、自分の嫉妬に愉しませ、倦ませてやるために。私は声を立てて笑いそうだった。葉に、決してふれはしなかった。黒いボトルを、不器用につかみ込んだやわらかな手が、やがて、音を立ててコルクを抜いた。
はしたなすぎて哀れなほどに、葉がなみなみと注いだフルート・グラスを私は、愛に持って行ってやった。自分のと、愛のと。受け取ろうとはしない愛の唇の先のすれすれにそのグラスを持っていき、匂いをかがせた。クルグ。高すぎるシャンパンではない。いつでも愛が飲むのはクルグだった。…あの子、と、
「シャンパンの注ぎ方も知らないの。」愛が独り語散てささやく。
「教えてやれば?…お前が。」
愛の
「で、…」唇は、グラスのふちにふれ、すこしだけ泡だったうすく金色を孕み込んだ液体の透明度にその先端をだけふれさせ、潤し、言った。「恋愛はあんたが教えるの?」
愛が、私が終に立てた笑い声を聞く。ふるえた唇と私の手が、愛に金色がかった液体をこぼす。「教えてやって欲しいの?」液体は「お前、…」こぼれながら、うぶ毛に雑な泡立ちを散らす。
「自分が見てる前で。」
「そういう趣味なの。…わたし。」自分の後ろに回りこんだ私にからだをすべて預けて、「…うそ。」聴く。私の声。
自分を煽って、煽情する
「見たい?お前、」
私の声を。焦がれたように、
「俺の、」
葉を見つめ続けた。
「恋愛教授」
私は。
「…ないから。」愛が、呆然として、つぶやいた。愛は嫉妬に淫していた。ひとりで。私は愛の頬に口付けた。
葉は自分でグラスに注ぎ、何杯か一気に飲み干した。好きなのかもしれなかった。暇さえあれば、姉と一緒に飲んでいるのか、ひとりで飲んだくれているのか。それはわからない。あきらかに飲みなれた人間の飲み方には違いなく、そして、一切の乱れるそぶりも見せない。姉と同じように。頬さえ上気させるでもなく、これはただのおいしい泡つきの水だ、と、そう無言に諭されているような気さえする。
「****?」
想いだしたように愛が言った。私の胸に縋ってしがみついて、その気もない愛撫を惰性にくれながら。
「だれが?」
「あんた」
「なんで?」
「好きなんでしょ」…あの子、…と、愛の言葉が言いおわらないうちに*****
「好きだったとしても、同い年くらいじゃない?」
「頭の中は十歳くらいよ」愛は、あお向けてのけぞり、肌の上に、金色が、しずかに泡だって流れて、かすかな淡い、穢れた模様を描く。
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