小説《わたしを描く女》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/ディオニュソス・ザグレウス…世界の果ての恋愛小説②
わたしを描く女
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Διόνυσο, Ζαγρεύς
デュオニソス、ザグレウス
《くちあける》
不意に目の前に差し出された葉の文字の、意味が私には一瞬、わからなかった。…朽ち明ける?上から覗き込んだ葉の眼差しに、そして彼女に差し向けられた私の眼差しは、縋るような切迫した色を持っていたに違いない。その、無理な体勢のせいで。葉の頬は、かすかな笑みさえをも浮かべようとはしない。筋肉の、ひきつりそうな鈍い苦痛が、もはや私の眼を涙ぐませていた。…朽ち果てる?
…打ち明ける?
葉は、不意にその姉によって塗られた真紅の口紅に染められた悪趣味な、あばずれた唇を、容赦もなくあんぐりと開けて、…ほら。
葉の眼差しが言う。
…馬鹿なの?
ほら。…ね?
…わかる?私は、口を開けた。その瞬間いやおうなく、喉の、首の、皮膚と筋肉に引きちぎられそうな痛みが目醒めた。
結局、葉は私を描き始めることもなく、壁際に立てかけてあった描きかけのただの風景画の手直しをはじめて仕舞ったので、私は疲れ果てて脱力し、絨毯の上にうつぶせる。
「また、描いてる。…」愛は、私の背後に独り語散た。いつも、暇さえあれば手を入れているの、と。それはただの風景画だった。語られずとも、それは私も知っていた。早朝の、長い、長い、長い、けだるくからまりあって、感応しあう肌の、お互いの皮膚感覚にむせかって、汗の質感にふれ、匂い、倦むだけの、**さえ知らないままに体内で、萎えきってもなお続けられたそんな行為が中断するように終わったときに、愛が水を飲みたい、と言った。キッチンは向こうにある、といい、最上階のワンフロアを、そのまま全部占領したこの住居の中に、愛以外の人間が生きているという、そんな感覚さえもないままに、キッチンで私が顔を合わせて仕舞ったのは葉だった。
葉はキッチンでひとり、コーヒーを入れていた。コーヒーメーカーが、しずかにその内部の沸騰の音を立てていただけだった。そのまま、なにも身につけているわけではない見知らない男に、葉は振り返って、何の表情もなく、ややあって、コーヒーカップを指さした。…飲む?
首を横に振った私から眼をそらし、自分のためだけにコーヒーを入れてリビングに出て行った。葉は確かに、だれをも振り返らせて仕舞うような女だった。端整な顔立ちは色づいて、唇のかたちには装われない鮮明な媚があった。意志などなにもないままに。黒ずくめの、こだわりのない部屋着の下からも、彼女があられもないほどに女性的な、豊満で、ただうつくしく、豊かな身体をしていることが、すぐさま透けて見て取れた。灼けた褐色の肌の色彩が、その全体に違和感を与えた。傷とはいえないまでも、そのあざやかすぎる色彩が、うまく回収しきれない違和感のある魅力を彼女に与えていた。いかにも夢の女じみたそのたたずまいの中に、眉と、眼差しの素の冴えただけの表情が、鮮明な異物として目醒めていた。するどく、想いつめて突き放したような零度のそれには、あきらかに、いわば野晒しの野生のふれられない怖さがあって、あるいは、それだけが知性らしい知性を獲得できなかった彼女の内側の事実なのかもしれないと、やがて、帰ったベッドルームで、愛に葉の内情を聴かされたときに、私は想った。
リビングで、おどろくほど質素なガラスのテーブルの周りをかこんだ、巨大で豪奢なソファの端にすわりこんで、葉はコーヒーを飲んでいた。かたわらに、白い猫が倦怠をだけむさぼった。午前九時半。体が汗ばんでいた。愛が移した汗をもふくめて。
曝された私のからだに、葉は女たちが見せる眼差しの表情をは曝さない。綺麗なほどに一切。これみよがしに、物欲しげに見惚れてみせることも。わざとらしい忌避をうかべて、その傍らで、精一杯に媚びて見せることも。
ただ、私をそのまま見遣るにすぎない葉に、とりたててかけるべき言葉も想いつかなかった。私には戸惑いもなかった。なにも。ただ、美しい葉は美しいと、美しくただ見つめられているべきだった。美しいものが何をしでかそうが、私の知ったことではない。好きにすればいい。私を殺したかったら、そうすればよく、八つ裂きにしたければそうすればいい。抗う気はない。たとえ私の理解の範疇を超えたとしても。
広いリビング。その、いっぱいに開かれた窓に、瀟洒で落ち着いた色彩を見せて、花の紋様を散らしたカーテンがぶら下がり、その向こう、ルーフバルコニーを囲んだ植栽は、近づきはじめた正午を予感させる陽光にきらめいて白濁していた。その先に、明治神宮の森が拡がって、窓と言う窓が片っ端からあっけ放たれているくせに、奇妙なほどに、外の物音がしない。それが高さ、地上からの隔たりの意味だったのだろうか。もともと、千駄ヶ谷は閑静な街ではあった。通り一本隔てただけで、神宮前と千駄ヶ谷とでは、空気の匂いそのものが違った。遠くに、かすかに山手線の通過する音が聴こえた。どこかで鳥が鳴いた。
壁に、色彩を撒き散らしただけの絵画がかけてあった。油彩画。さまざまな、鮮やかな色彩、…朱、むらさき、黄、赤、青、蒼、紺、茶、緑、褐色、群青、それら、下塗りの夥しい色彩が何かの形態を暗示しようとしていた。それがなんなのか感じ取られるその寸前に、上塗りの白を基調にしたグラデーションの白濁が、あらたな形態の鮮明な生起を顕現させかたに見えた一瞬に、凍り付いて沈黙のうちに停滞する。
結局は、そこに何が描かれていたのか、だれにもわからない。しかし、それは単なる色彩の戯れなどではありえなかった。線と、曲線と、円と点、あるいは、未分化な形姿、その色彩の群れは、なにも語りかけ獲ないままに、そこにあきらかに固有の形態に目醒め続けているのだった。最初、私はそれを、愛が描いたのだと想っていた。いかにもあの凜とした愛なら、そんな取り付く島もない絵を描き始めて仕舞いそうだった。
葉の眼差しが、疑いもなければ軽蔑も、色づいた潤いさえもなく、私をただ、澄んで見つめていた。沈黙された時間の停滞にいたたまれずに、私は不意につぶやいた。
「きみが、かいたの?」
ややあって、葉はうなづいた。意外だった。そう言われてみれば、こんな絵を描くとしたら、目の前の、その女以外には在り獲ない気がした。私は、私の眼差しが捉えた、眼の前の色づいた美しい存在の、生臭いはらわたの叫び声を聴かされたような違和感に苛まれながら、ひとことも言葉を発っそうとしない静かな瞳を見つめた。そして、眼をそらし、ただただ、静謐としたその絵画を、見つめなおした。
愛の部屋に、ペットボトルの水と、グラスを持っていったやった時、愛は、ベッドの上、なにもかににも絶望し果てたような表情を曝し、股をひろげたまま身をなげだして、あられもなく、なすがままに窓越しの午前の深い光に、その足首だけを直射させていた。
グラスに水をいれ、頬にグラスを当ててやり、「氷は?」言った。
「いらない。」
「…だと、想った。」
シャンパンには、氷を堕とすくせに。
愛の髪を掻き上げてやり、額に指先の、想いあぐねたようなやさしい愛撫をくれて、この、私に焦がれて取り憑かれた女。
縋るしかなく、求めるしかなく、私なしでは生きてさえいけない女。家畜のような。
奴隷のような。
家禽のような?
唇に、私の指先がふれたとき愛は、半開きの唇に指をくわえて、その触感を確認しようとしたかのように、かすかに歯にかみ、私を上目に見つめて、…ねぇ、と。
彼女が、なにも言いたい事などないままに、私に呼びかけていたのは知っている。ふさがれた唇に、言葉さえもなく。行為のあと、愛は言葉を失っていた。**もなにも受けることなく、中断されたに過ぎない行為。私は水を口に含んだ。愛は、いちどだけ音もなくまばたいた。ふれられた唇が、ゆっくりと自分の口の中にぬるい水を流し込んでいくのを、愛は眼を開いたまま受け入れた。
かならずしも、充足しているわけではないはずなのに、愛がこれみよがしに曝したその、自分に飢えた男に暴力的に蹂躙され、穢され果て、使い古されてぼろぼろにされ、完全に破滅されて仕舞ったような、疲れ果て、絶望するしかない表情に、私は愛の自分勝手な想いあがりをしか感じ取りはしなかった。愛の体に張り付いた汗ばんだ体臭が匂った。それは、自分の体臭の移り香さえ含んでいるのかもしれなかった。自分の皮膚にも付着していたはずの愛の体臭さえ、私の鼻はただ自分の匂いとして、麻痺の果てにもはやなにも感じ取りはしないのだった。
葉は、私のことなど意にも介さずに、ただ自分の絵画の修正にだけ耽り込んでいた。たいして、その事自体に興味が在るふうも見せずに。素肌をさらして、絨毯の上にうつぶせたままに、腹部に感じられたその、真っ白くこまやかな毯毛の群れの触感と温度に倦みながら、上眼遣いの私の眼差しは葉を追った。相変わらず上も下も真っ黒の簡素な部屋着を着こんで、初めて見かけたときも、葉は同じような格好をしていた。
二日前、愛が店に来る前に、自分を迎えに来てくれとせがんだときに、迎えに来てやった千駄ヶ谷のビルの前で。明日が休日だというわけでもない平日に、時間だけを浪費しながらあの日、愛は執拗に私にすがり付いて、時にからだの匂いを嗅いで、無意味な笑い声を立て、つまらない嬌声を上げて見せた。愛されていることの、あるいは、愛されていると錯覚しようと必死に努力したときの、絶望的な恍惚に愛は、ひとりでむせていた。シャツの上から指先が私の乳首をもてあそんで、フェイクのつめにはじいた。紫色に、ガラス玉を無数に散らした、その。
「あれ、だれ?」ビルの前にタクシーを止めて、午後十一時、背後のタクシー・ドライバーと、残業終わりの退社する従業員の数人と、出入りするマンション居住者の数人と、すれ違う目線に禁忌にふれた、好奇の眼差しを無様にぶつけられて仕舞いながら。彼女の髪の毛を撫ぜる私に、愛は私の胸に埋めた顔をあげ、大袈裟に首を傾けた。私にしがみついて、体温と体重をうつそうとし、覗き込むように見つめ、私の唇を不思議そうに見つめる。
不意に見あげた最上階のバルコニーに、女らしい人翳が立っていた。淡い逆光の中、光の翳りとしてだけ、それは眼差しに捉えられ、確認できるのは、彼女が身にまとった衣服の黒い色彩の、光線を嘲笑い、空間に穴ぐらを穿ったかのような漆黒に過ぎなかった。…え?と。
何を言われたのか、耳元に未知の言語がささやかれでもしたかのように、愛は「だれって、…」つぶやく。
だれ?と、愛は言って笑った。鼻にだけ、かすかに、その笑った息を立てて。
「バルコニーの」
「だれ、いる?」愛の眼差しは、私以外のものを見ようとはしない。
「女の人。」…ああ、と、そして愛は軽蔑的に鼻で笑うが、密着した皮膚はお互いに、お互いの温度にむせて、しずかに潤った。不快なべたつきをだけ感じさせながら。「…妹。」
「妹さん?」
…そう。と、短く、私はつぶやいたにすぎない。いずれにしても、その、黒い翳りをしか曝していなかった逆光の中の女は、疲れ果てた眼差しのなかで、日差しにさされない部屋の翳りにたたずみ、自分の白い絵を修正する。
知性を感じない。不意に、彼女が見つめる眼差しの中の風景が、いったいどんなものなにか気になった。いつのまにか私に寄り添って、傍らに胡坐をかき、自分の体臭と、髪の毛の匂いを至近距離に撒き散らす愛の気配に倦み、確かに、と。想う。確かに、私は葉に描かれる、…あるいは、私を描きはじめもしない葉のために無意味なポーズをとってやりながら、私は興奮のようなものを感じていたのは事実だった。性的な、とは言獲えない。とはいえ、性的な、と、そう言って片付けて仕舞うしかない、そう言ったたぐいの、興奮、の、ような、もの?
**していたのも事実だった。愛との行為の間にさえ感じられなかった、単純でシンプルな感覚が、そこには目醒めていた。むしろ私は女たちの前で、単に去勢された愛玩動物にさえなっていた気がした。身を曲げて、私におおいかぶさるように愛が何かささやき、私がその声を聴き取らないままに、声を立てて笑う。頭の上で鳴ったその声は耳に聴き取られ、血。
その色彩の鮮度に、私は瞬く。眼の前、少し離れたところに、明確な距離かえさもなくただ、翳ったもの。
両眼から流れ出してやまない血が、ゆっくりと、速度あるいは時間の流れを嘲笑ったような、もはや逆流に近い緩慢さで弧を描いて流れ出す。かすかで、微細な泡立ちさえ曝して、瞬く。
私は。それは決して瞬きさえもしない。何も見えてはいないはずなのに、それはただ、何を見出すわけでもなく見つめ続けて、その翳り。
色彩のない見ず知らずの少年の残骸が、ただ、無様な翳りとして眼の前に曝される。魂。無垢な?…あるいは。なにものをも見出さず、なにものにもふれ獲さえしないのばら、それは、それがいかにみじめで、醜悪でさえ在り獲ない無様さをだけ曝そうとも、明らかに無垢である以外に在り獲なかったに違いない。
無垢極まりないもの。無際限なまでに遅延され続けた血の流出が、あざやかな色彩を描いて、あなぼこでしかない少年の両眼から流れ出し、その、絨毯の上に形態を崩して、首を必死に伸ばした頭部にだけかろうじて形態を名残らせた少年は、私を見つめていたに違いない。慶輔。愛しい男。愛のささやいた声が聴こえた。聴こえないわけではなかった。聴く気にはなれなかった。私は、その声を聴き取れなかった。
愛が瞬いた。それが、気配でわかった。葉は絵筆をキャンバスに、そっとふれさせようとして、一瞬、その手前で逡巡した。眼差しが捉える風景。不意に、想う。葉がさっき見出していたのは、私の美しい男の肉体の自虐的な形態などではなくて、単なる新鮮な肉の変形だったのだろうか。ひん曲げられ、押し開かれ、のけぞらされて、引き攣けられた、その。
少年がふと、彼の口に違いない翳りの部分らしきところを開いて見せれば、一気に血が流れ落ちる。こぼれて堕ちる、その血の色彩の鮮度。…ね?
声。
それは、愛の声。
「妹でしょ?」と、私は言った。早朝、唇がはなれて、流し込まれた水を愛が飲み干したのを、その喉の動きに確認したときに。…だれ?
ささやく。呆然とした眼差しは、決して私を捉えようとはしない。あなたを見る価値など何もない、と、その事実にさえ絶望して、ただ、無残で勝手な絶望を曝した。「キッチンにいた。あれ、…」
「可愛いでしょ。」
「可愛くないよ」
「…うそ」
「綺麗。」笑った私に、おもしろくない、…それ。そう言った愛は不意にのけぞるように上半身を起こして、私の顎に唇をつけた。口付け、以前の、なにか、為すすべもなかった無意味な接触。少しの戸惑いを見せながら、そして、舌が私の顎の形態をなぞった。「やりたい?」愛が、想い出したように微笑みを浮かべて、「やってもいいの?」
私の声を聴く。眼差しがなにか、いま、自分が取るべき最適の、もっともエレガントな表情を探していた。
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