《浜松中納言物語》④ 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃三









浜松中納言物語









平安時代の夢と転生の物語

原文、および、現代語訳 ④









巻乃三









平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。

三島由紀夫《豊饒の海》の原案。

現代語訳。









《現代語訳》

現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、行かえ等はほぼない。

原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。





濱松中納言物語

巻之三


四、御君、行く末を想われること、聖らの住まいに御心尽くされること。


春の日の暮らし難いのは都にあってさえも同じ事、誠に大方、奥山には鳥の音さえもいまだに訪れはしない。

花の梢も霞みのたたずまいも、かつて世に知られぬがばかりに心細いのをお眺めになられなさる御尼君は、誠に世を背いて、かたえに後の世のことにのみ御想いはせられるような御方ならば、いかにもいちどはお尋ねされて然るべきところであることか。

やがての行く末にはかくありたくさえお想い続けになられなさって、御君の、経文などなんとも尊く《あはれ》にお読みご供養行われられなさっておわされるのを、聖は佛の顕れて出でられたよりも愛でたくとさえお想い差し上げさせていただいて、なんともすぐれて前の世に、萬のことをお行いになられられた功徳の御報いに、こうまでも限りなくも稀なる御すがたとお生まれになられなさりながら、いかなるこの世の道理の間違いの果てに、かくのごとくに濁りばかりの多い穢れた俗世にお生まれになられなさられたのかと終日(ひねもす)に、ただただ悲しくご拝見させていただく。

恥ずかしいなどという、俗の世の振る舞いに興じるべきところでもなければ、御尼君の御許へお渡りになられられて、御尼君、夜の暗がりのおぼろげな光の下には、さすがに唐土のかの御方に瓜二つにてあらせられる。

柴垣の、乱れて暴れ残ったものが、露も溜まりはしないがほどに荒れ渡って凄んだたたずまいなど、いかにしてこのようなところにお住まいであらせられることかと、《あはれ》に御眼にふれさせて差し上げられるが、御尼君のいらっしゃるところ、いかにも古びて褪せた気色のうちに、朽ち木形の几帳の帷子の、何のこだわりもなく歳の経るままに棄て置いたものに添うように、風さえかすかに吹き通う御簾の中に、なんとなく御薫りの匂い出でて、佛の御前の名香(みょうが)の匂いにまざりあって、さすがにあでやかにさえ感じられたその、御所の御有様も《あはれ》であった。

のどやかに御物語などお語りあいなさられなさって、かの御后の御心にも御断ちにできなくていらっしゃられるところの、御みずから率いてお還りになられられた御若君、いちど是非にお眼にかけてやってくださいませと御文にあったかの稚児は、いづこにいらっしゃられなさるのかとお問いになられる。

ありのままにはお知らして差し上げるべきでもなければ、

かの国の御帝に十分にお慕いいただいて、その身にも離し難くさえとお想いいただいておられた御方の、お育てになられていらっしゃった御稚児の、なんともお可愛らしく、かつかの国に頼もしき縁(よすが)もなきようにお見かけさせていただきましたものでございまして、かの宮の御方々も、お世話いただくならばなにとぞご随意にとの御志在り難くも頂戴させていただきましたもので、でこそあればと帰国させていただく折にお連れさせていただきましたのでございます、

とおっしゃられなさる。

夕暮れの空はなんとも深く霞みわたって、内にも外にももはやなにものの気配さえもなく、澄み切った寂の心地に聖の打った、黄昏のときの鐘の声ばかりが響く。


奥山の夕暮れ時の静寂に

澄んだもの想いをただ拡げさせた

そんな鐘の音が鳴り響きます


奥山の夕暮がたのさびしきにいとゞもよほす鐘のおとかな


うち眺め渡されられなさった夕映えは、さえざえとして愛でたく想われて仕方もなくていらっしゃられられる。今日も暮れていくこの時に、このように鐘の音が鳴り響いて仕舞えば、過ぎていった過去の因縁のことなどさえもが儚くも、想いだされて悲しがらせるのですとうち泣きなさって御尼君は、


明暮も山のかげには別れぬをいりあひの鐘のこゑにこそ知れ


日は明け暮れを繰り返し

ふたたび山に堕ち果てる

今日の陽の暮れの翳りにも

それでも心は添うていることを

別れた人よ

陽を弔った鐘の声にもこの想いを知れ


などと泣き交わしていらっしゃられる頃に、京にお遣わしになられられた人、帰り着いて、唐国より託されてお還りになられられたところの御品々、および御君のお志による御品々も多くお添えになられなさって、細やかにも日々にお使いいただける身の回りの御品々などもお差し上げになられられるのだった。

聖にも麻の装束など、弟子、下法師のための御品々までも、野山の麓の人々にまでお配りになられていらっしゃられる。

この国(地方)の御荘園のものどもらお召しなされて、今より後は京に参り伺候せずともよい、その代わりに皆この宮に伺候させていただかれよ。

夜番に三、四人づつ、宿直(とのゐ)させて確かに警備させるがよい。

など、詳細の指示をお与えになられられれば、遠くもない和泉河内などという所どころにまでも皆仰せ使わせられなさって、とともに御宮にお供させていただくべき下郎なども、それなりの素性のあり、想い遣りもあって親しくご伺候させていただいていたところのものどもを、こちらにお留めさせていただいて、ご伺候させていただき、近場の所どころに至るまでの領野にわたって、御尼君などのお住まいになられるところを修理しおつくろいになられて差し上げられなさられて、また、新たに建てて添わすべき屋敷なども柴垣わたし、水の流れも石のたたずまいに至るまでもをも今少し見所あるようにおつくり直させていただくようにと返す返す仰せになられなさられて、《伏見の里ならねど(注:1)》とは言ったもの、やがてわたくしもこの地にでも隠れようとは想うものの、今の煩事に追われてなかなかままなりはすまい、とは言え、京の俗世のもろもろもさすがに憂しと想ってはいるので、いつかはこちらに帰ってこようなどとおっしゃられなさられて、想えばここはあまりにも奥深くありすぎて、御文遣わされなさることとて朝夕に当たり前のこととしては覚束なくてあるに違いないものを、それでもこちらにこそはお想いいただけれる御心、まさに愛で差し上げさせていただきたいばかりなものを、聖らさすがに御君をはしたなくもお案じさせていただいて、こちらよりはもう少しでも行き来のすべの容易なる山里にお移りになられられればよろしいのではございませぬかと、ご奏上させていただけば、御君、身の憂さを想い知って隠れるところなのだから、むしろこちらよりも更に奥深く、かの現世にいかにも遠く隔たったところをさえ望んでいるのだのに、とお想いになられられつつ、聖らご拝見させていただく御君の、この世のうつつの住まいなど、いささかの意にもおかけになられてはいらっしゃられないであらせられるその御有様、今はお縋りしてただ甘えさせていただくべきに違いなければ、ともかくも御想いの赴かれるがままにと、お想いになってお控えさせていただいているのだが、昔より、世の常の人めいたところなく、まさに稀なる過ぎたるその御身の、やがて俗世に縁をお切りになられなさって、世にその御消息さえ知らしめられなさらずにお隠れになろうとされる御志、お耳うちいただけるその誉れもまさに、超俗されためずらしき御方の御振る舞いに感じ入らせていただき、もはや見苦しいがばかりに心うち震わせて仕舞うしかない。

この俗世を断ち切らないのもむしろ、唐土の御后のその御ためでこそあるのですよとうち泣かれられていらっしゃられるのも、なんとも《あはれ》に感じられたのも道理であって、当世風でもあらせられない御尼君の今の身でいらっしゃれば、ことの因果を問わず語りにお語りだしなさる友なる人もいらっしゃられず、その侘しさに、なんとあってもかの唐土の御方に、みだりに怪しい御心などあらせられもせず、ただ故に萬事心にやすらかにお慕い想いさしあげられなさいませと、御尼君にもこまやかにお語りになられられて、御心残されられながらも御涙落とされつつ、こうして事が動き始めたなら、かの御后にまたふたたび生きてご対面にあずかるのも遠いことではございますまいよと、おっしゃって差し上げられなさって、聖にもゆるやかに、ご自愛のうちにお過ごしなされよとおっしゃりおきなさられてお帰りになられられるのを、佛聖とは口にいいながらも、所詮現世に生きてあっては世を切り捨て果てはできもしないものか、あまりにも深く閉じ籠った山の行く末を、弟子どもら、案じて心細くているばかりのものどもらも、かたえに御頼みにお想いさせていただいて、まさに御佛の変じてわれらをお助けくださったものに違いあるまいと、涙落としつつ喜んで、拝ませていただくばかりなのだった。


(注:1)《いざこゝに我が世は経なむ菅原や伏見の里は荒れまくも惜し》古今集雑歌部、詠み人知らず





《原文》

下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。

なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。





濱松中納言物語

巻之三


春の日の暮しがたきは都だにあるを、誠に大かた、鳥の音だに音づれもせず。花の梢も霞のたゝずまいひも、世にしらず心ぼそきを眺め給へる、誠に世をそむきて、偏に後の世の事を思ひ出でたらむ人は、尋ぬべくもある所のさまなるかな。やがてもありつきぬべく思し続けられて、経いと尊く哀れに読み行いて坐(おは)するを、聖は佛の顕はれて出で給へらむよりも、めでたく見奉りて、いかばかり前の世に、萬を行ひけむ功徳の報(むくい)に、かう限りなき姿と生れながら、いかなりけむ違(たが)ひ目にて、濁多かる世に生れ給ひけると、終日(ひねもす)に悲しく見奉る。恥しなどつゝまるまじき世界ならねば、宮の御方に渡り給へるまじく荒れ渡れるなど、いかでかくて人の過し給ふらむと、あはれに見ゆるが、いまする所からにだにあらず、ふりにたるけしきなるに、朽木形(くぢきがた)の几帳の帷子、年経にけるをしそへつゝ、吹き通ふ御簾のうち、何となくかをり出でて、佛の御前の名香(みやうがう)の匂ひも、ひとへにあひて、さすがにあてはかなる、うちの気色も思ひやり哀れなり。のどやかに御物語聞え通はい給ひて、思ひはなつまじき人、率て渡し奉り給ふを、見入れ奉るべきやうに御消息に侍るは、何処にと問ひ給ふ。ありのまゝに知らせ奉るべきならねば、「かの御身にも離れざりける人の持給へりし児(ちご)の、いとらうたく侍りしかば、かの世界にも、殊にたのもしきよすがなどもなきやうに見え給へりしかば、かの宮の中にも御覧じなれなどして、さ申させ給ひけるにや、さるべからむ折に、率て参らむ」など聞え給ふ。夕暮れの空いといとふかく霞わたりて、内も外も人の音もせず、かすかにいみじきに、聖の入相(いりあひ)の鐘の声ばかりぞ聞ゆる。

 奥山の夕暮がたのさびしきにいとゞもよほす鐘のおとかな

うち詠めわたい給ふ夕ばえは、いとゞしきまでめでたく見え給ふ。今日も暮れぬとばかりは、この鐘の音に聞き過し侍るほどを、推し量らせ給ふこととうち泣き給ひて、

 明暮も山のかげには別れぬをいりあひの鐘のこゑにこそ知れ

などうち泣きかはし給ふ程に、京につかはい給ひし人、帰り給ひて、唐国より奉り給へりける物どもに、我が御志も多く添へて、細やかに使ひ給ふべき物どもなど奉り給ふ。聖にも、麻の装束など、弟子にも下法師の品までも、野山の麓までくばらせ給ふ。この国の中のみしやうどもめして、今より後は京にはな参りそ、みしやうのものどもを皆この宮に奉れ、はんをもてよに三四人づゝ、宿直(とのゐ)たしかにめぐらひて侍はせ。このごろつと仕う奉るべきよし、委しくめし仰せられて、程なき和泉河内などいふ所々も、皆仰せ事遣(つかは)して、御供に下郎なども、ものの故ありて思ひやりあり、親しう仕うまつるを、此処にとゞめ給うて、具し給ひて、近き所々をも催して、このおはしましどころ修理(すり)しつくろひ、又建て添ふべき屋ども柴垣しわたし、水の流れをも石のたゝずまひをも、今少し見所ありてしなすべきよし、返す返す仰せられおきて、伏見の里ならねど、やがて我が世も経ぬべく立ち返りにくけれど、京もさすがに、えさらぬ事ども繁う思されて、帰り給ひなむとて、こゝは余り物深うして、御文にてだに、朝夕の覚束なさをはるけたるべうも侍らぬを、いづくも唯思しすまさむ御心からぞ、めでたうも侍るべきを、これよりは少し往来(ゆきき)の道、容易(たやす)く侍るべき山里に、渡らせ給ひなむと申し給へば、身のうさを思ひ入り侍りしほどは、これより今少し、世の中ならざらむ所もがなとこそ思ひ給ひつゝ、世のつねのすまひなどは思ひもかけ侍らぬを、今はたのみをかけ奉るべきに侍りければ、ともかくもさそはせ給はむにこそと、思ひ給ひなりぬべく侍るも、昔より、世の常の人めいたる有様ならで、過ぎ侍りし身の、やがて跡絶えにしかば、世にありなしを知らるゝ方なくて過しはべりぬるを、かやうにかずまへ知らせ給ふにつけても、めづらしき方に今さらなり侍らむも、見苦しうも侍りぬべし。かはらぬ身ながらも、世を隔てたる御ためこそ、心苦しう侍れとうち泣き給へるも、いと哀れに道理にて、今めかしからぬ身の有様に侍らねば、何の故、誰を尋ね聞えさせたるなど、問はず語り出づべき人も侍らず、又いみじうとも、唐国のかたざまに、霞ばかりあだあだしう、後めたき心にも侍らず、萬事心安くおぼしものせさせ給へと、いとこまかに語らひおきて、後めたうかへりみがちにて、涙落ちつゝ、今よりはかやうに侍るべければ、対面覚束なかるべきにもあらずなど聞え給ひて、聖にゆるゝかにて過すべきさまに、おきて給うて帰り給ふを、佛聖といひながら、生ける世のほどは、身を捨てぬわざなりければ、あまりに木深く閉じ籠りたる山の末を、弟子どもなどは、つきなく心細げに思ひたるに、偏に頼み申したる程、佛の変じて助け給ふめりと、涙落しつゝ、喜び拝み聞えたり。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

0コメント

  • 1000 / 1000