小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑭









紫色のブルレスケ

…散文

Burlesque màu tím









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ














周りで、犬が吠えた。庭先で、放し飼われたクイの祖父が、どこからかつれて来た犬が。茶色地に、黒い毛を散らした大型の犬。単なる機械仕掛けの有機体のような、表情のない犬。舌を出して、有機体じみた唾液をたらす。クイはチャンをはあえて責めなかった。チャンは知っていた。クイさえもが、チャンが人殺しどころか、母親殺しであるにほかならないと、固く認識してさえいることに。クイは作業が終わった後で、たったひとりで花を抱えてきた葬儀屋と話しこんだ。葬儀屋も土地問題を抱えていた。離れたところにあったが、ゴルフ場の建設の圏内にあった。土地は、唐突に高騰した。放し飼いの牛が、草を食んでいるにすぎない、勾配のなだらかにうねる土地の、一角だった。家族のお互いが、その所有権の独占を主張しあった。どこにでも彼処にでも、もはや日常的にあふれている話だった。チャンは、背を向けて話し込むクイの眼差しを遁れるように息をひそめて、庭を抜け出した。めずらしく犬は吠えなかった。フエの家に行った。フエの家族は、チャンを見留めると、チャンを気遣った。だいじょうぶ?そう言い、忘れればいい、気にする事はない、あれは事故だったんだからと、言って抱きしめてくれたハンの言葉に、チャンは彼女の体臭をいっぱいに嗅いでみながら、ここでさえ自分は人殺しであることを認識されていたことを、抗い獲もしないままに認識するしかなかった。フエが言った。声をひそめ、ブランコにゆられながら。その、白い、フエのためだけにハンが買ってやったそのブランコが、軋みながら音を立ててゆれ、綺麗だった?

Đẹp không ?

言う。

Má em

お母さんは?

Đẹp

うなづく。あなたの綺麗なお母さんは。そう言った、フエに。町の人間は、まともにヴィーを見もせずに天女か何かのように美しいらしいヴィーの美しさと、頭と体の欠陥を噂した。フエさえ、いちど戯れじみて木戸の隙間から、息をひそめながら隠されたその生みの母親を垣間見ただけだった。声をひそめ、秘め事めかし、綺麗。

Đẹp

それしか言葉を知らないように、ただ、その短い言葉をフエがいちどだけ口にしたのを、背を丸めて覗き込んだフエの背後に、チャンは、聴いた。フエがそう言えば、それは誇らしいことに違いないと、チャンは意味もなく自分に傲慢さが目覚めたのを感じた。チャンはそれを恥じた。ものめずらしそうなフエの眼差しから、かすかに高揚した倦んだ色彩が消えなかった。生みの母の死体のすがたを聴くフエに、結局は、綺麗だった、と、それ以外に言う手立てさえなく、ただのなし崩しに綺麗だったわ。

Đẹp

そう言いながら、不意に嬌声を上げたフエに、チャンは彼女に留保ない嘘をついて仕舞ったことを自覚した。人殺しで、その上母親殺しで、しかも嘘つきだと、これからだれもが自分をそう呼ぶに違いない容赦ない実感が、チャンをおののかせた。目に映るものすべてが、チャンに敵対していた。牙を剥こうとは決してしないままに、にもにもかかわらず、すべて、例えば眼差しの先に自分を覗き込んだフエの、そのかみの毛の先に絡んだ、咲き乱れて堕ちたブーゲンビリアの花、一年中飽きることなく咲き乱れ散りつづけるその色彩さえもが、チャンを無言のままに拒絶しているのは明らかだった。そ、無言には留保もなく、ただいかめしい厳しさだけがあって、不意に、チャンはフエに口付けた。フエは、意味もわからずに声を立てて笑い、キスを返した。遠くに、ハンが笑った。トゥイが庭に立ちつくして、庭に突き出した水道を指差して何か叫んでいた。この、自分を拒絶しかしない世界の中で、生き残っていくためにはただ、計算され尽くした倫理が必要だった。チャンは、倫理だけを、その眼差しの中に探した。唇に、誘惑するように笑い声を立て続けるフエの息がかかった。

会社の友人の誕生日パーティは長引いた。二次会のカラオケに、その誕生日の Quan クアンが誘って離さなかったからだった。フエがうちに帰ってきたとき、家には照明などなにもついてはいなかった。会社は来月で辞めるつもりだった。上司にはすでに伝えてあったし、クアンにも誰にもすでに言ってあった。サイゴンに行くつもりだった。サイゴンの、砂糖をぶちまけたように甘いらしい料理が自分に食べられるかどうかが不安だった。そして、自分のひどい中部なまりが聴き取られるのかどうかも。いずれにしても、サイゴンに行けばキャリアを積むことはできた。父親や、弟のようにダナンのような中部の田舎町に埋もれて仕舞う気にはなれなかった。十二時をあと二十分で回った。ブランコに、トゥイが座っていた。トゥイとタオが住んでいる、北側のもうひとつの離れのドアは開け放たれていた。眠れなかったのか、あるいは、はやく寝すぎて、はやく起きすぎて仕舞ったのか。フエはバイクを降りて、トゥイの隣に座った。眼差しの向こうにブーゲンビリアの花々が、いつものように咲いていた。明るい夜だった。その、花々と葉々の上、そしてその果ての向こうの空は、暗い雲母の様の雲をまばらに、引き裂いたように散らして乱し、暗く、さらに明るく澄んでいた。花々が、庭に無数に堕ち、樹木のうねって地をめくり上げた根の前に、見たこともない首が突き出しているのを、フエは見つめた。その、堕ちる女。見あげられた青空の下に、逆光の中、堕ちて行った女、開かれた口から、そしてたんなる昏い穴ぼこにすぎない両目から、血を流しているのは知っている。フエは瞬く。かつて愛するその女。そこで、色彩もないままに、血の色彩の鮮やか過ぎる鮮度を曝すしかない女。もはや、その昏いだけの翳りに、男なのか女なのかの区別さえ付かない。翳りさえもがすでに風化して仕舞ったかのように、そこに、その否定しようもない存在を克明に穿った。違和感があった。なにに対しての違和感なのか、とっさには分からなかった。ややあって、トゥイが、いちどもなにも叫ばなかったことへの違和感であることにようやく気付き、フエはあわててトゥイを見た。覗き込み、トゥイは寝ていた。ベンチに座り、肌寒い外気に触れながら、寝息を静かに立てて。トゥイが不意に、前触れもなく死んで仕舞ったかもしれないその可能性を疑った自分を、フエは心の中でだけ笑った。立ち上がったとき、ブランコがゆれた。軋む。トゥイは起きなかった。締められた木戸をなんどか叩いた。ややあって、アンが鍵を開けた。アンがフエのバイクをふたつめの居間に収納してやっている間に、フエは、父と母とアンの寝室のシャワールームで、汗を流した。父親は寝ていた。母親は、いつものようにホンの部屋で寝ているに違いなかった。バスタオルでからだをふきながらシャワールームを出て、暗い空間に褐色の肌を曝し、涼気は皮膚が乾いていくほどに、鳥肌立てて仕舞う。自分の皮膚に、いまだにかいた汗の匂いがこびりついている気がした。ふたつ目の居間、その天井の真ん中に、チャンがさかさまにぶらさがって血を流していた。しずかに、西の方に、…海のほうに。あざやかな、瞬きして仕舞うほどに鮮明なその血の色彩。色彩のない、昏く、穢すぎてもはや穢いとさえ言獲ないただの翳りのゆがんだ残骸が、チャン。それが彼女であることは知っている。明日、自分のすべてを破壊して仕舞うチャン。チャンの吐き出す血が、ひたすらな鮮度を矜持しながらしずかに、ゆっくりと、フエの頭を越えて流れ去っていく。ほら、と、フエはチャンに、バスタオルを完全にはだけさせて、自分のからだを曝してやった。見たいんでしょう?あなたは。

Em...

ほら。

có biết

あなたが焦がれるものが

tồn tại em mơ ước

ここにある。微笑み、

có ở đây

頭の中でだけフエは独り語散る。あなたは…

nhìn chằm chằm...

見る。

チャンが焦がれて、求めた、フエの褐色の身体を、チャンが見るはずもない。その眼差しに、フエの身体を見つめ続けながら。寝室に入ると、アンが背を向けてベッドに寝ていた。蚊帳をはぐってベッドに滑り込めば、崩れるように垂れ堕ちるその繊細な布地が皮膚にふれる。声を立てて、その感触に笑いそうになり、フエは、アンが身につけているショート・パンツを脱がしてやった。アンはいじけたように、いまだに眠ったふりをした。いつものように、そして、アンの尻に、戯れて口を付けてやる。フエが、仰向けになると、閉じられた眼差しの向こうに、アンが身を起こしたのに気付いた。自分のからだの上に馬乗りになったアンを、フエは、まぶたさえ開かないままに、手のひらに制して、アンは戸惑う。それが、フエに、なんの音も何もない気配で、鮮明に曝されて仕舞う。フエは、傍らに棄てられていたバスタオルを、顔中に巻いた。鼻に、ぬれた布地と、ぬれた自分の体臭の移りが匂った。ほら、と、フエは想った。出来るでしょう?いまなら。こうすれば。最後まで。あなたは想いを遂げられるでしょう?まるで、私がすでに死んで仕舞ったように、そしてからだだけを曝して、あなたに捧げられて仕舞えば。バスタオルが完全に包みこんだ暗やみの中に、フエは身を完全に投げ出して、アンの暴力的な愛撫に任せた。息遣い、目を閉じた暗やみにさえ、暗やみの固有の色彩の鮮やかさが存在していることに、もはやフエは哀れむしかなかった。

次の日、フエを起こしたのはチャンの携帯電話からの着信だった。アンはもういなかった。下腹部に、鈍く、重い痛みがあった。枕もとに寝乱れたバスタオルに、それを拒絶するかのように横顔を押し付けて、フエはヴァンのしずかな声を聴いた。チャンがいないのよ。どこにも。どこにも?どこにも。ヴァンは、チャンを探してくれ、と言った。チャンのうちに行くと、クイが、絶望している、と、単純にそう言って仕舞うしかない、表情を喪失させた複雑な顔を曝して、赤いプラスティックの椅子に座っていた。傍らに突っ立って、誰かをまっているらしいヴァンが、フエを見つけると、その、フエを見つめながらも、決してフエをは見てはいないその眼差しのままに、チャンが朝からどこにもいない、と、同じ事を繰り返し、クイは何も言わない。クイのいとこが一人だけ残って、氷屋を切り盛りしていた。クイの友人たちをも含めて、何人もの人間たちが、チャンを探し回っているらしかった。フエは、バイクで町を彷徨った。午前の早い時間の光が、着の身着のままに出てきたフエの肌に、じかにふれた。海辺を遠くまで、走ってみた。なんども、暇つぶしにこの主幹道路をバイクで走ったものだった。何軒か、海沿いのカフェを覗いた。いつもチャンはミルクコーヒーを飲み、フエはサトウキビのフレッシュジュースを飲んだ。大通に出て、チェの店を回り、空港の近くの飲食店を回った。極端に小食なフエの食べ残したものは、いつでもチャンが食べてやった。一緒に通った学校の片っ端を回り、チャンの翳をさがした。想いだされるいくつかの取りとめもない想い出以外には、チャンの姿などどこにもなかった。あらゆる友人たちに、電話した。だれもチャンの姿など、見たものはいなかった。もう一度海に行き、バイクを止めて、雑然とした砂浜の海水浴客の中にチャンの姿を探した。海はさざ浪だち、その止め処もない音響が空間をひくく満たす。潮が匂った。フエは不意に気付いた。チャンは、まだあの部屋にいるに違いない。フエはチャンの家に急いだ。珍しく、交通法規もなにも無視して突っ走る女のバイクを、無数のバイクが逃げるようにクラクションを鳴らして避けた。クイに言った。チャンはどこ?

クイは首を振り、まだ還ってきていないと、その言いかけた言葉が終らないうちに、部屋の中は?

フエが言った。ヴァンが、もう見たわよ、と、なじるように言った。クイにはいまだに表情もなく、ヴァンの眼差しは、それが見つめるものすべてを見出してはいない。もう一度、と、フエは、もう一度、見てみましょう。言った。ヴァンが、やさしく声を立てて笑った。いないわよ。チャンの部屋は、まともにドアさえ締め切られてはいなかった。ヴァンとクイを連れて階段を上がり、その半開きのドアを押し開けると、壊れたチャンと、死んだマイがいた。マイはベッドの下の床に、首を在り獲ない角度にひん曲げてうつぶせ、自分の血と、自分の体の穴と言う穴から吐き出して仕舞ったみずからの汚物に穢れていた。体中に刺し傷があった。あるいは、なんども刺された挙句に、首さえ絞められたのかもしれなかった。いずれにしても、首の骨格は完全に破壊されていた。ベッドの上に、チャンが胡坐をかいて、こっちに向いていた。うつむいていた。髪が垂れ、なにもかも、チャンは血まみれだった。チャン、と

...Trang

その名前を読んでやるしかなかった。フエは、その名前を呼んだ。背後に、クイも、ヴァンも、何の反応も示さなかった。フエは、チャンに近づき、ひざまづくように、その前に座って、チャンの頬に触れた。フエの眼差しは、チャンのすべてを捉えていた。チャンの両の眼窩に眼球はなかった。チャンが自分の指で、穿り出して仕舞ったに違いなかった。眼窩が流した血は、むしろわずかだった。チャンが染まっていたのは、マイが流した血だった。チャンは鼻血を両方の鼻から流していた。鼻水が混じって、息遣うたびに、水をゆびさきにちいさく混ぜたような音が立った。いつか、自分で咬んだに違いない唇が裂けて、血をにじませ、そして、真っ赤な両手は、両腕にその千切り取った眼球をつかんでいた。フエの心に、もはやなんの、感情のざさ浪さえもが打ちはしなかった。フエは、チャンを見つめた。チャンはまだ生きていた。致命傷ではない、のかもしれない。そして、フエはすでに知ってる。チャンが、そして両目をなくし、心さえなくしたままに、ずっと、その後、自分が死んだ後の何十年もまで生き続けていくことくらいは。チャンの頬をなぜた。チャンが声を立てた。う、と、ヴ、と、は、と、あ、と、その他、何かの拗音を混じらせたような、そんな音声を立てて、そして、フエは、振り向きもしないままに、ヴァンか、クイか、あるいはその両方かに言った。知ってたんですね?

Chú đã biết không ?

知らない。…まだ。

Không biết...chưa

答えたのはクイだった。

Điện thoại Trang ở đâu ?

チャンの携帯はどこにあったの?

Sàn phòng... gần Mai

…床。マイの近くの。

答えたのはクイだった。

どうして、見なかったことにしたの?

見なかったから。

クイが言った。

なにも、見なかった。

つぶやいた、クイの声を、チャンは聴いていた。






紫彩のブルレスケ



昼下がりに、19歳になったアンはバスで、ハン川沿いの主幹道路を走った。もうすぐ、家の前を通るはずだった。背後に、十人ばかりの韓国人たちが、アンには一切理解できない彼らの言語をわめき散らして、なにかに喚声を上げて騒いでいた。晴れた日、日差しがガラスの向こうのすべてに散乱し、邪魔っけな一台のバイクに一度アンはクラクションを鳴らした。家の前を通り過ぎようとする、その何秒かの前に、妹を乗せた母親のバイクが道路に侵入して、その中央に止まった。バイクを止めたハンが、アンを見ていた。ホンは、母親相手になにか、さかんにはしゃいぎたてているだけだった。不意に振り返ったホンの眼差しがアンを捉えた。微笑んだ。ブレーキを踏めばいいだけだった。いくつかのバイクが彼女たちを迂回して走った。アンはアクセルを踏みしめていた。それが間違いだということに、バイクごとその巨体が二人を轢きつぶして仕舞った後に気付いた。自分が踏んだ急ブレーキが、むしろタイヤの下の身体を、完全に破壊しているのには気付いていた。背後に、韓国人たちがいっせいに罵り、彼らが立てた、絶望的な悲鳴の連鎖を聴いた。





2018.09.21.-09.25.

Seno-Lê Ma






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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