小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑬
紫色のブルレスケ
…散文
Burlesque màu tím
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
アンが、やせた、と言った。その日、出棺のときに。まるで、軍人が死んだかのように軍楽隊が吹奏し、
Chị ốm
夫婦のように寄り添おうとするアンを、人々はやさしい弟に想った。
フエは声を立てて笑いそうになった。自分自身以外のひとりの人間をも殺せなかったユイが、軍人じみて埋葬される。ラッパの群れが、国家解放を記念した軍楽を下手糞に吹奏し、ユェンがあ、と、ゆ、をまぜた長い声を立てた。その音声が、彼女のいかなる心情を表現したものか、アンには分からなかった。アンは、その、口に鳴った声の質感をだけ、背後に聴いた。クイはユイの父親、Vũ ヴーの肩を抱くしかなかった。ヴーの皮膚は、脂ぎっててかてかしていた。体臭が匂った。ヴィーの葬儀を想いだした。
ヴィーが家の離れで死んだとき、だれも葬儀を出そうとはしなかった。クイはひとりで、参列者のいない葬儀を手配した。悲しみは感じられなかった。出会ったときには、すでに彼女は死んでいたのだという気がした。他人の死の体験が、そのだれかを奪われるということであるならば、クイはすでにヴィーを、ヴィー自身に奪われていた気がした。ヴィーにふれたことさえもなく、ヴィーは、自分にふれさえもしなかった。留保もない喪失感にだけクイは苛まれた。良心かなにか、よくわからないが消えうせない何かが呵責を感じていた。十歳のチャンは、ただ、呆然としてそのひとりだけの葬儀に立ちあった。チャンは何が起こったのかわからないままだった。その日、チャンはフエの家に行かなければならなかった。学校で、フエと約束したから。夕方、夕焼けた空が、その、空そのものが崩壊していくような、みだらなまでのあざやかに染まっている光を、チャンはその背後に受けた。
歩いていける距離だった。そして、歩いていくしかなかった。ヴィーが付いてきた。クイの戸籍上の唯一の妻であるヴァンは、なにも言わなかった。ヴァンは、その眼差しの隅にでも、ヴィーをなど収めようとはしなかったから。チャンの、ヴァンに縋るような眼差しさえヴァンには無視された。いつか、チャンはそれが遊びにすぎない錯覚にとらわれた。付いてくる、引きずるようにしか歩けないヴィーを、完全に撒いてしないように、ふいに走って翳に隠れる。ヴィーがゆっくりと接近すれば、歩調を落として先導し、やがてはふたたび、唐突に走り出されたチャンは、ヴィーの視界から姿を消す。誰かの家の壁から顔を出す。チャンは、声を立てて笑う。ジグザグに走ってみせ、ヴィーが見失わないようになんども振り返って確認する。ヴィーが自分を見ているとは想えなかった。ヴァンのお下がりのピンク色の部屋儀を着乱れるにまかせて、ヴィーがどこを見ているのかわからない眼差しを曝す。フエの家のありかを教えたくない気がした。チャンはでたらめに迂回した。
約束の時間など、一時間近くも過ぎていた。フエがまだ待っているか、忘れたか、それとも、そもそもそんな約束など覚えてさえいなかったか、チャンにはわからなかった。広大な更地を、斜めに抜けた。ハン川に出る。
ハン川に沿って、フエの家の反対側に歩く。ハン川が、夕暮れた暗く、そして鮮やかな日差しに複雑に赤らんだ色彩を散らして染まる。さざ浪立つ。チャンは道を見失う。迷ったわけではない。そもそもが、フエの家を目指していたはずだった。フエの家に行くわけにはいかなかった。彷徨うしかなく、彷徨うわけにはいかなかった。想いあぐねて立ち止まり、降り返ったさきに、ヴィーが驚くほど至近距離にたたずんでいた。眼差しのすぐそこに、そのピンク色の布地があった。
チャンはまばたいた。立ち止まった自分を無視して、自分など踏み潰して仕舞おうとするかのように、ヴィーは歩くのをやめなかった。
後ずさりし、不意にチャンは自分が歯軋りしたのに気付いた。ヴィーの腹を押した。やわらかく、繊細な、その布地の下に息付いた、どうしようもなく瑞々しい触感が、手のひらにふれた。ヴィーがよろめいた。
ヴィーが、一瞬、表情を変えた気がした。
嘲笑と、驚愕と、恐怖をまぜあわせたような、微細な表情の変化を見取ったときに、ふらついてよろめいたヴィーが、横向きに川に堕ちた。自分で飛び込んだようにしか見獲なかった。どうして後ろに押したのに、横に倒れて仕舞わねばならないのか、チャンは理解できなかった。
川の浅瀬の泥地の中に、ヴィーは顔を突っ込んでいた。うつぶせに、両手が泥をつかもうとすれば、泥の中に沈んで行った。チャンは悲鳴を上げそうになった。我慢した。なぜ、我慢しなければいけないのか、分からなかった。誰にも見つかりたくはなかった。
周囲に通り過ぎるバイクは、自分のことなど視界に入れようともしなかった。
斜めに、主幹道路を渡った。
フエの家の前に行き、一瞬の逡巡のあとに通り過ぎた。道をでたらめに曲がり、走り、息が乱れ、自分の向っている先がどこなのか探した。それは、自分の家以外にはない気がしていた。ややあって、迂回に迂回をかさねるのに飽きたチャンは、諦めて自分の家に辿り着くしかなかった。
ヴァンが、氷屋を手伝っていた。空はすでに昏らんでいた。見あげれば、いつものあまりにも透明な、いまだ青みを帯びた黒さ一色として、夜を始めた空は拡がっているはずだった。そのままチャンは、ヴァンには口が裂けても救いなど求められなかった。クイは誰かの売買の相談に行って、いまだに帰ってきてはいなかった。自分の部屋に引きずり込んだ、幼いマイの相手をしてやった、それを矜持するかのように、未だに乳臭い臭気をいっぱいに放ったマイは、声を立てながらチャンにじゃれついた。夜の、食事さえ食べ終わった。ヴィーの不在に気付いたのはヴァンだった。クイが、離れに見に行った。いなかった。ヴァンが言った。どこにいるの?その眼差しはチャンを捉えていて、チャンは答えることが出来なかった。チャンは息を止めた。ややあって、不意に振り向いたヴァンがチャンをひっぱたいた。息を止めていたチャンは、鼻水を噴いて仕舞い、クイが立ち上がった。
どこ?言った。ヴァンの眼差しには何の表情もなく、ただ、化粧をされたその眉だけがしかめられていた。川だ、とチャンは言った。クイは音も立てずに座り込んだ。チャンはただ、ヴァンを見つめた。難解すぎるその表情に、ヴァンの感情の在り処を探ろうとした。クイは、考えをまとめようとして、まとめ切れなかった。額を、手のひらに覆った。まるで、自分はいま失意の人間のようだと、クイは想った。ヴァンは、人殺し、と独り語散て、それが疑問形としてつぶやかれたにほかならないことに、気付いた。ヴィーの死体は、クイが要請した近所の友人が見つけ出した。何重もの意味で、チャンは母親を殺した気にはなれなかった。勝手に、その日めずらしくついてきたのはヴィーのほうだった。危険を感じるほどに接近したのはヴィーのほうだった。押しはしたが、川になど突き落としはしなかった。勝手に堕ちたのはヴィーのほうだった。チャンを育てたのは、あくまでクイとヴァンだった。生まれたのはヴィーの腹からかも知れなかったが、いかなる母なる実感も、もはや人間でさえないヴィーに感じることは出来なかった。チャンは、母親殺しの犯罪者以外の何ものでもなかった。だれもが、それをチャンのせいだとは言わなかった。チャンはあまりにも幼すぎた。クイのせいにもしたくなかった。クイは町の名士だった。ヴァンのせいにする気もなかった。ヴァンは、気立てがよく美しかった。ヴィーのせいにでもするしかなく、だれもが、ヴィーを殺したのがチャンであることは知っていた。クイがひとりでその葬儀の準備をしていた翌日の夕方に、部屋から降りてきたチャンが、ヴァンに縋って、今更のように私が殺した、
Con giết
と言った。涙さえ浮かべるわけでもなく、何の悔恨も、曝される何の葛藤の痕跡もない、言われたことを言われたがままに追認しているにすぎないチャンの口ぶりが、ヴァンを一瞬いらだたせ、次の瞬間、ヴァンは声を立てて笑った。笑うしかない気がしたし、事実、笑いを抑えることなど出来なかった。戸惑いもせずに、チャンはヴァンにしがみつき続けた。クイは何も言わなかった。チャンのような子どもと、一緒に同居させたのが間違いだった気がした。あの、まともには生きてはいけない儚い、美しい存在を、むざむざと娘などに殺させようとしたのと同じことだ、とクイは想った。とはいえ、家の動物小屋じみた離れ以外に、囲って遣るべき場所もなかった。いずれにしても、家族のものたちはヴィーの死に安堵した。クイがヴィーを連れて帰ってきた日の、その朝に、これが私の妻だと、自分の部屋に連れ込んでベッドに寝かせた腕のないヴィーの身体を見せられたときに、家族のものたちはだれもがクイの正気を疑った。そして、クイが連れて来た女も、明らかに正気ではなかった。父親は思いとどまらせようとして罵り、母親はなんども押し黙ったままのクイの、その頭の中の狂乱の理由を尋ね、慮り、クイを知る人の片っ端に尋ね聴いて回った。それが、クイが壊れた出来損ないの女を連れ込んだ事実を吹聴して回ったことをしか意味しなかった。人々は、戸惑い、すぐに、クイの無私の善意がなせる慈善なのだということに、気付いた。それが、英雄クイの名声をより高めた。母親はただ、苛立った。クイが望んだ法的な、正式の入籍を家族は拒否した。父方、母方両方の祖父にまで拒否されては、さすがに勝手に法手続きして仕舞うわけには行かなかった。そもそも、ヴィーに戸籍はなかった。父親にそれを言ったとき、一瞬哄笑がかった笑い声をたてたあとで、父はやがて深い同情に眉を顰めた。ヴァンがクイに想いを寄せていることは家族のだれもが知っていた。暇さえあればクイのうちに来て、そこが当然の居場所のようにクイの弟が仕切っていた、氷屋の仕事を手伝った。いつか、もはや既成事実としてクイが婚約者であることを、家族のものたちに承諾させた。クイは、いつか、婚約者としてヴァンを見るしかなかった。
家族のものたちの、死者の命日のパーティの日に、クイの母方の祖母が、いつ結婚するのだ、と言った。ヴァンが大袈裟に恥らいながら、クイに全部任せてある、と言った。クイは聡明だから、タイミングを見誤ることなどありえない。クイの慈善家ぶりは、街中のだれもが知っている。すべて、クイに任せておけばいいので、実際にはもう夫婦同然の生活なのだから、何も心配も問題もありはしない。クイは、もはやほうっておくことなどできないことを自覚した。母親に言った。来月か再来月か、術師に日を見てもらって縁起のいい日に結婚する。ヴァンにそう伝えておいてくれ、そして、ヴァンを術師のところに連れて行って、ふたりの縁の日を見てもらってやってくれ。母親はクイに、何か言葉をかけてやることさえ忘れて、店先のヴァンに声をかけると、ヴァンに言った。恥ずかしがり屋で、奥手なクイがやっと決心したみたいだよ。一瞬で、滂沱の涙を決壊させて、ヴァンは泣き崩れた。
周囲のだれもが噂しあって、そして祝福した。クイは両親とヴァンに折れたわけでは決してなかった。事実して、すでにヴァンを愛していた。女として、妻として、恋人として、妹として、想い付く限りの、すべてとして。自分がヴィーへの想いの純粋さを、ただ、自分で勝手に泥を塗り、自分がした行為のすべての意味を剥ぎ取り、地に落とし、踏み潰し、破壊し、穢して仕舞ったことを、クイは自覚した。そっけない術師の言うとおり、二ヵ月後の4月24日にクイとヴァンは入籍した。だれの種とも知らないチャンは1歳だった。だから、慈善家のふたりは、ふたりがむすばれる前にはすでに、一人の娘を育てていたのだった。
結婚式の写真を撮るのに、写真屋は難儀した。新郎が顔を半分隠して横ばかり向いているのはあまりにも変だった。ふたりが正面を向いて笑っている表情が、最低でも一枚くらいは必要だった。だが、新郎に正面を向かせることは、これから築かれるべきふたりの未来へと、容赦なく暗い破壊的な翳をなげつけて、泥を塗り唾を吐く行為にほかならなかった。カメラマンの、言い出しかねた逡巡にはクイも気付いていた。気を使うあまりに、クイはあえてなにも言わなかった。はやく撮影が終ってくれることを、写真屋のために祈った。ヴァンは、横向を向けばつねに真正面から自分を見つめているクイが、取らされるポーズのすべてがどれも、あまりにも色男じみていたので、正気をなくしそうになるばかりで、ふたりの逡巡と葛藤には気付かないままだった。祖父が、不意に言った。
気にしなくていい。顔なら気にするな。それは英雄の証拠なのだから。その、立派に崩れた顔を克明に撮ってやってくれ。
写真屋とクイは自分の不明を恥じるしかなかった。たしかに祖父の言うとおりだった。写真屋は、まともな人間のものとは想えない英雄的な顔を撮った。
チャンには違和感があった。
クイがひとりで取り仕切ったヴィーの葬儀に、だれも参列しないことに。だれもが、ヴィーを毛嫌いしながら尊重していた。クイの選んだ女だったから。死んだヴィーの周辺に、その死そのものを忌避するかのように、近づくものはだれもいなかった。そして、ヴィーの住まわされていた小屋が、花々に装飾されていびつに偽装された美しさに彩られていくことに。それは、例えば美しい羽根だけを持たされた、穢らしい毒蛾を見せ付けられたようにさえ想われた。さらに、いつも美しいには違いなかろうが、明らかに狂ったものの穢らしさを曝していたヴィーが、あるいはそして、穢い泥の中に顔から埋もれていたヴィーが、洗浄されてただただ綺麗に花々に飾られて沈黙していることが。いつも、ヴィーはチャンを見かけると、ヴ、と、ヴァ、と、や、のない交ぜになった音声を、ながくその喉に立てて、威嚇するのか微笑みかけるのか理解できない表情のようなものを、その眼差しにだけ曝したものだった。薄暗い、いつでも半開きのドアの向こうに幽閉されて。
周りで、犬が吠えた。庭先で、放し飼われたクイの祖父が、どこからかつれて来た犬が。茶色地に、黒い毛を散らした大型の犬。単なる機械仕掛けの有機体のような、表情のない犬。舌を出して、有機体じみた唾液をたらす。クイはチャンをはあえて責めなかった。チャンは知っていた。クイさえもが、チャンが人殺しどころか、母親殺しであるにほかならないと、固く認識してさえいることに。
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