小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑫









紫色のブルレスケ

…散文

Burlesque màu tím









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ













腰の近くに転がった携帯電話をどけて、あまえるようにフエのそばに添い寝した。フエは表情を失っていた。彼女を、慰めてやらなければならなかった。

泣いているに違いなかった。涙も、泣き声も、乱れた息遣いさえもなにもなく。

聞き取れないほどの、静かでおちついた息遣いをだけ、鼻に、ゆっくりと繰り返して。いずれにしても、フエは号泣していた。フエの胸に横顔を預けて、アンは脈打つ鼓動と、彼女の体内の音を聴いた。

自殺したのだ、と言った。その様は、なにもアンには言わなかった。

Tự tử...

ふるえもしない、ただ、静かな声が、それを望んだわけでもなく、アンの頭のなかになんどか反覆された。フエは、まるで死んで仕舞ったようだった。なんの欲望に駆られたわけでもなくて、アンはなにか、時間を埋めなければならなかった。唇に、唇を触れた。何の反応も示そうとしないフエの身体に、その体温が発熱したような温度を持って、アンの皮膚に、Tシャツ越しに感じられた。頬をなぜた。

死体を抱いているようだと、アンは想った。やがて、初めて、その体内に自分が愛した痕跡を残したときに、自分がそれが出来て仕舞ったことに戸惑うしかなかった。フエは、身を投げ出したままに、ただ、その体温だけを発散させていた。汗ばんだ皮膚の触感は、フエのそれなのか、アンには区別が付かなかった。穢らしい匂いを、フエのからだ中が立てている気がした。ずっと、頭の中は醒めきって、冴えて、自分の疲れ果てたからだはもはや他人のそれにしか感じられなかった。フエは、壊れて仕舞ったに違いない、と、アンは確信した。すべては手遅れだった。その朝、小さなフエの携帯電話を鳴らしたのはチャンの妹だった。チャンが取り乱しているといった。どうして?

Chuyện gì vậy ?

ユイが死んだからだ、と、マイは言った。マイは聡明だった。いつでも、大人のように。ユイの母親から電話がかかってきたのだと言った。いきなり、何が起きたの?とユイの母親は言った。取り乱しているふうではなかった。秘密ごとめかして、ささやかれるその女の声に耳を澄まして、携帯電話の電波の雑音のむこうに、私では何が起きているのか分からない、と言ったらしかった。

チャンは何を言っているのか分からなかった。午前8時。一階の、叔母夫婦がやっているカフェと氷屋の店さきを、ユイとマイは手伝っていた。チャンが行ってくる、と言ったとき、マイも付いていく、と言った。それは予感がしたからだった。なんのというわけでもなく、自分も行かなければならないことだけ、マイは気付いていた。

チャンはいつものように拒絶し、マイは勝手に後ろをついて行った。臆病なチャンは自分ではバイクに乗れなかった。だから、主幹道路を歩いてわたり、その先の細い道に入って、飲食店が軒を並べた、学校の通りを歩く。

ひなびたコンクリート造の壁が、それぞれに黒ずんだ経年の汚穢を壁に染みつかせて、曝していた。まだ、男たちのだれからも好きだと、それさえ言われたことのない地味なチャン。彼女の豊満な下半身が、ひよこのように左右に振られながら歩く後姿に、マイはついて行った。込み入って濫立する家屋の、小さな庭先の樹木の群れが日差しに差され、きらめき、大気には温度があった。

熱い、肌にじかにふれる温度が、すでにマイの皮膚を汗ばませていることには気付いていた。狭い、コンクリート敷きの路面にバイクとなんども危うく、ふれあいそうなすれすれにすれ違い、ときに、男の眼差しがまだ十三歳の自分にふれることに、マイは倦んだ。自分が、すでに十分美しいことをは知っていた。

たぶん、男たちは自分をなんらかのかたちで愛するか、愛でるかする以外に、その存在理由などないに違いなかった。

通りを曲がり、さらに細い土の道に入る。樹木が匂う。その、茂った葉の群れが。小さな家が密集し、何回きても、どれがユイの家なのか、とっさには想い出せない。チャンは、その日だけ、すぐにわかった。暗い感覚が、その家にだけ在ったから。

なにもない普通の、なんでもない家の、なにごともないたたずまいに違いなくも、そこがユイの家でないことなど在り獲なかった。すべてが昏らかった。

庭に、ココナッツの木が一本だけ、その巨体を曝して狭い庭を埋め、庭はそれに翳っていた。

風にゆられる、淡い翳を地面にたゆたわせながら。開け放たれたままの居間から入って、そこの木製のテーブルセットの、椅子の上にユイの祖父がいた。

祖父はふたりに視線を投げたまま、なにも言わなかった。悲しげな表情さえ何も曝さずに、ただ、指先で上を指した。突き当たりの階段で、ふたりは二階に上がった。ユイの部屋が二階にあることは知っていた。

通路に、ユイの母親が背筋を伸ばして、傾きながら突っ立っていた。Duêyn ユェンというのが、その名前だった。通路は、吹きさらしの外廊下だったから、フランス風の装飾のきつい手すりの傍らに突っ立った彼女が、むしろなぜそこから飛び降りないのか、マイは一瞬、訝った。ユェンが取り乱していることはひと目で分かった。表情も何もなく、両眼を真っ赤に充血させて潤ませながら、あまりの混乱が、いかなる表情をも、いかなる行動をも、仕草をも、もはや彼女にとらせることなど出来ないのだった。そんなに興奮して、よく自分に電話などかけられたものだと、チャンは想った。

ユェンはなにも言わなかった。その眼差しに、なにかの言葉のかけらのようなものが暗示されて、かたちをなさないままに崩れ、相変わらずの停滞した混乱に堕し、結局は、何の仕草のひとつさえも、ユェンは曝すことができなかった。ユイの、通り沿いの部屋に入ると、ベッドの上に血まみれのユイがいた。

マイは、いちど眼を閉じた。そして、もういちど開いた。もういちど確認した。ようやく、もういちどマイは、はっきりとユイが死んでいることを自覚した。

わぉ…

後れて、傍らにチャンがつぶやいたのを、

Trơi ơi...

マイは聴いた。あきらかに、その場にふさわしくはない音声に過ぎなかった。それ以外には、なんとも言い獲なかった。言葉など、いつも絶対的に不足していることに、マイは気付いた。ベッドの脇に、ユイたちが飼っていた長毛の大柄な犬がいじけたように寝転がっていて、ややあって、不意に、想い出したようにチャンたちに吠え掛かった。

立ち上がって、足元に駆け寄って、くるくる回り、しっぽを立てて、ユイの兄が、壁際に凭れて胡坐をかき、顔を覆って泣いていた。

最初に、首をつろうとしたのに違いなかった。Tシャツをいくつか引き裂いて、捩って輪にしたそれが、ぶら下がったカーテンレールを破壊して、ゆがませ、ひん曲げて、窓ガラスは罅が入っていた。綺麗に、一本だけ、斜めに。にじんだ汗か人肌の脂に白濁した線に自由に穢させて。仰向けのユイの眼は、開けられたままだった。眼を開けたまま失心して、その失心のうちのどこかで、彼は死んで仕舞ったに違いなかった。ベッドが血だらけで、乱れたそぶりはないい。手首が何回も切ってあって、皮膚がぼろぼろに裂けていた。死に切れずに、終には、首にナイフを入れたに違いなかった。首にも、数箇所の裂傷があった。なんど、…と、マイは想った。いったい、なんどユイは自殺したのだろう。たかが一回、死んで仕舞うために。

右手が、いまだに優しく、いつくしむような手つきで大振りな中華包丁をつかんでいた。まるで、大切な楽器にでもふれるかのような、その手つきに、なぜ、と、なぜそれを振り下ろして手首を叩き切って仕舞わなかったのだろう?例えば市場の肉屋が豚にそうするように。マイは想った。どうせ、そこまでして死ななければならないのならば。ベッドの、腰の辺りにノートがあった。遺言のようなものが書いてあるそのページを、その上に棄てられた鉛筆が開いていた。半分血に染まったその紙に、

穢してごめんなさい

僕の血は強いです

切ってもすぐにふさがります

そう、書いてあるのが読めた。犬は吠えるのをやめなかった。吠え立てられ続けるその騒音と、床を引っ掻く爪の騒音を、なんども、マイは想い出したように意識した。ゆっくりと、からだに体温が戻っていくのをマイは感じた。その瞬間、マイは吐きそうになった。背後に、やっと、チャンが悲鳴を上げたことに、マイは気付いた。その声。まるで、かよわい女じみたそれ。


ユイの葬儀には、ダ・ラットからも親戚が来ていた。ビン・ジュンからも、ハー・ノイからも。ユイの親族たちが、ばらばらに、職を求めてあらゆるところに生きていることを、フエは想い出したように認識した。狭い界隈の、雑然として、ただごみごみするしかないユイの家の、その小さな庭に無理やり葬儀用のテントが張られ、装飾が施され、そして、音楽隊の三人ばかりが好き勝手に追悼のものらしい音楽をエレキギターに奏でて、太鼓をたたき、銅鑼が鳴らされ、慰問客が来るたびに大太鼓が決まった音頭を打ち、そして、花々は棺を埋め尽くしていた。

白い花々。薔薇にさえ白い種類があることを、フエは初めて知った。最期の日、Cảnh カンのことはもう諦めたと言った。それは間違いなく、ほかに好きな男が出来たことを意味した。いつでも、誰かに焦がれていなければ気がすまないほどに、ユイは惚れっぽかった。そして、自分をは決して愛さなかった。

フエは、ユイの顔に、死斑を隠して描いたように濃い死化粧が施されて、それはまるで彼を女の子のように見せた。ユイが、結局は初めて自分自身として死んでいけるのだと、フエは想った。十二歳のとき、フエがユイとチャンに化粧をしてやったとき、チャンはその気になって、ユイは恥らうばかりにうつむいて、上目遣いにフエを見た。ハンは、声を立てて笑った。もっと、綺麗にしてあげなさいよ。それじゃ、まるで死んだ人みたいだわ。

ハンは、三人に化粧の仕方を教えた。白いユイの皮膚は、不思議に褐色がかって見えた。むしろ、自分の肌に近いその色彩に、フエは無意味な裏切りを感じた。ユイは、自分が死んだ理由をは、だれにも明かさなかった。自分が殺して仕舞ったに違いないとフエは想った。確信はなかった。ユイは、自分を求めはしなかったが、決して拒絶しはしなかった。それだけは知っていた。なぜ、死んで仕舞ったのだろう、と、誰かがつぶやき声に、話し合っている声が耳にふれるたびに、フエは、自分のその、頭から離れない同じ疑問が鮮明であり続けるままに、どんどん風化していくのを感じた。

棺の中の死体の、どうみても美しいとは言獲ない死化粧に、そしてやがて力尽きるようにそらされたフエの眼差しは、ただ、自分たちの悲劇を茫然としてそれぞれにむさぼり続ける、床に座り込んだその遺族たちの白装束を、なにかの残像のように眺めた。ユイが、死んで仕舞うことはすでに知っていた。ずっと前から。

片手に首を抱えた、見たこともない色彩のない老婆が、なんどもフエに青空の下で微笑みかけ、ユイ、と、その名をつぶやきもせずにフエは微笑みかけた。眠りの中に見た夢の中でか、醒めたままに見た夢の中にか。悔恨と、葛藤だけがあった。

そう言って済ます以外にすべのない、かたちのない鈍く、ぶよついて、なまあたたかい塊りの不快さが喉の奥に存在していて、それらがでたらめにフエを蝕んでいた。

自分が、だれよりも愛した、そして、どうしようもなく愛して、耐えられもしなかった愛するべき男の死体が目の前にあることは知っている。

親族たちの、なにもまとも運営できない葬儀の手順を手伝って仕切るフエを、けなげなものに人々が見ている事は知っている。確かに、僧侶のカンがかつて吹聴してまわっていたように、観音菩薩の生まれ変わりなのかも知れないと。そしてその華奢な少女の心の強さに彼らが感じ入って仕舞っていることも。フエは、だれも、どうしても、自分が泣き叫んでいるのに気付いてくれないのを、しかし、その理由などすでによくわかっている、自分が、一滴の涙をすら流してはいなかったから。このまま生きていたら、死んで仕舞うに違いないとフエは想った。

ユイの父親は、自分の寝室に閉じこもったきり、出てもこなかった。祖父は、頭の中の大部分を消しゴムで消して仕舞ったとしか想えなかった。ユェンは、何もできなかった。棺の傍らに座りこんで、息子の死を不意に想い出してはふたたび、泣いた。それだけが繰り返された。ダ・ラットで野菜を作っている60歳の Thanh タンは言った。フエが望むなら、私の30歳の息子と結婚させればいいんだ。息子はホー・チ・ミン市で働いていた。タンは周囲に、諭すように言った。息子は金もあるし、そもそもが、フエの尻を見るがいい。あれは五人も六人も子供を生んで飽きない尻だ。どんな子供が出来るだろうと、タンは想いをもてあそんだ。

茶色い喪服の質素なフエは色づいたほどに美しかった。俺だってあれならまだ二三人作ってやれるよ、とタンは言い、人々は笑う。いたるところに人々は微笑み、笑い声が立って、お互いの近況を報告しあった。フエは彼ら、彼女らにお茶を用意して回った。結婚式と同じ、アルミの丸テーブルがしつらえられて、訪れた僧侶にフエは手を合わせた。テーブルの上に、喰い散らされたスイカの種の菓子の殻が散乱した。

朝から晩まで、慰問の客は途絶えずに、学校を休んでフエは付き添った。一週間たって、その日の早朝に埋葬されるユイを、ひとりで早く起きたフエは見つめた。ガラス張りの棺の下に、もはやユイはふれることさえできなかった。埋め尽くした花々に、かすかな朽ちが確認できた。その死体が、やがてはクンクリートの碑の中に、ゆっくりと腐敗していくに違いないことに、フエは戸惑った。

やがて、ハンとホンが死んで仕舞った、その遺体を前にしても想いはしなかった印象であることは、フエは知っている。やがて、自分をも腐敗が蝕んでいくことを、フエは為すすべもなく実感した。なんの救いようも感じられなかった。

ユイは、自分に愛されることの不可能性だけを突きつけて、結局は、自分に愛され続ける前に、その肉体をさえ破滅させていくのだった。どうしようもない裏切りだけが、フエの眼差しのうちに生々しかった。アンが、やせた、と言った。その日、出棺のときに。まるで、軍人が死んだかのように軍楽隊が吹奏し、

Chị ốm

夫婦のように寄り添おうとするアンを、人々はやさしい弟に想った。フエは声を立てて笑いそうになった。自分自身以外のひとりの人間をも殺せなかったユイが、軍人じみて埋葬される。







Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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