小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑪









紫色のブルレスケ

…散文

Burlesque màu tím









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ














十六歳のホンに英語を教えてやって、十二時を回ったことに気付けば、もう終りにしようと、フエが言った。ホンはそれを許さなかった。これ見よがしにわがままを言い、なじり、甘え、もたれかかって自分の髪の匂いをいっぱいに嗅がせる。フエは為すすべもなく頬に口付ける。あきらかな、幼さがその頬にはまだかろうじて残っていた。二十歳をこえた自分のそれが、すでに失って仕舞ったもの。ただただすべすべとしているばかりで、その臭気立ったでたらめなやわから、自分が決定的に失って仕舞ったもの。一時を回って、フエは寝室に入った。照明をつけた瞬間に、ベッドの上にうつぶせていたアンに声を立てそうになった。

アンは眠ってはいなかった。消された照明の中に、服も脱がないで、フエはアンの傍らに身を寄せた。いつのまにか、眠って仕舞ったあとで、まどろみながら目醒める。皮膚の表面に痛みがある。小さな家禽に引っかかれたような、無数の、しがみついて縋ったアンがいつかたてた爪の痕。癒えない、それらの傷痕。直りかけては、その上からすぐに引っかかれて傷は開き、アンが、その痛みを与えている長い時間のいつかに、フエは自分が眠り堕ちて仕舞ったことに気付いた。寝ていたことも、どれだけ寝ていたのかも、その記憶も実感もなにもないままに。傍らのアンが、自分でしていることには、気付いていた。そうでなければ、おかしいはずだった。自分以外に、女など知らなかった。そして、一度も想いなど遂げられはしなかった。そうなら、そうするしかないことなど、考えて見れば当り前だった。身をそっと起こしても、アンはそれをやめなかった。眼をやわらかく閉じて、顔を壁に背けたままに、アンはそれを曝した。フエは、曝されたその姿を、腕を突いて身をまげて、アンの胸元にかみの毛をしなだれかからせて仕舞いながら、見守った。ただ、残酷な気がした。アンが単に残酷な目にあっているだけでもなく、アンが残酷なことをしているだけでもなくて。目に映るものすべてが残酷で、自分自身がすでに残酷だった。

すぐに、アンは想いを達して、その身をベッドに投げ出したままフエの眼差しに、曝した。アンは動かなかった。アンの腹部を穢したそれに、フエは伸ばした指先をふれた。どうして、何もかもが悲しく、いたたまれずに、どうしようもないほどに切実なのか、フエには理解できなかった。指先の、ユイのそれと変わり映えのない匂いを確認した後で、フエは寄り添って眼を閉じた。それ以外にしてやれることなどない気がした。すでに、自分自身がアンに壊されて仕舞った残骸にすぎなかったことを、閉じられた眼差しのうちにフエは確認した。そして、どこをどうさがしても、アンに対する愛情などどこにもなかった。フエは、自分が滅ぼして、駄目にして仕舞った、かつてアンと呼ばれた存在の廃墟の匂いをだけ嗅いだ。


フエが覚えている最初の記憶は、ふれれば壊れて仕舞う壊れそうなものに指先を触れることを、必死に拒絶しながらそれにふれようとした指先を伸ばし、その指先がかすかにふるえている、いつでも痛みをしか想起させない記憶だった。その記憶の存在に気付いたのは、十歳とか、十一歳とか、そのくらいだった記憶が在った。それは、大切な記憶のように想われた。伸ばされた指先の先に何があったのかは知っていた。それはホンだった。ホンが、ハンに抱かれていたのか、ゴックが抱いていたのか、タオか、その娘姉妹たちか。いったい誰が抱いていたのか。そんな記憶はなにもない。指先のさきには、いずれにしてもホンがいて、それはしずかに、微笑みながら息遣っていて、そしてフエは、やがてホンが跡形もなく壊れて仕舞うことは知っていた。いつかの日、ホンがまだ完全には大人にもなりきらないうちに、それが無慈悲なまでの肉体の残骸になって仕舞うことをなどは。生まれたばかりのホンは、幼さの特権のような、鮮明にある生理に訴えかける甘やいだ臭気を放って、そこに存在していた。その臭気は、ただその存在を留保なく愛せとだけ命じていた。命令はもはやは宿命の重さを持っていた。だれもがそれを愛するのだった。だから、それはむしろ誰からも愛されたことなどなかった気がした。一切の固有の特異性にふれることなく、命じられるがままに愛されるしかないのならば、いちどたりともだれからもそれ固有の必然に基づいて、愛されたことなどないのだった。だれかが戯れに、お前も抱いてみろと言ったに違いなかった。やがてそれが壊れて仕舞う事実などともかく、いずれにしても愛するしかないあまやかな臭気の発生源を。ゆびさきが触れて仕舞えば、それはすぐさま破滅して仕舞うに違いなかった。それは予感ではなかった。歯軋りさえするような、灼けつくように明瞭な認識に過ぎなかった。お前にそっくりだとだれもが言った。自分も、同じ匂いを放って、同じように一瞬で破滅するやわらかく愛されて止まない危機そのものとしてかつて存在していたことなど、自分でさえ知っていた。

十歳か、十一歳か、アンの眼差しに、明らかな自分への愛が巣食って、彼を内側に病みこませているに違いないことに気付いたときに、フエははじめて誰かに愛された気がした。だれが、いかなる必然性を持ってそれを禁忌であると認定して仕舞ったのかはしらない。何の権限による認定なのか、そんな事は知らない。フエが自分で認定しなかった限りにおいて、それは他人の禁忌にすぎない。いずれにしても、アンも、フエもそれが禁忌であることをだけ知っていた。かならずしもだれかにそう調教されたわけでもなく。フエは、アンの戸惑うしかない葛藤に、共感してやるしかなかった。アンは、フエが眼差しに触れるたびに自分の中に木魂する、かたちにはならず、聴き取れ獲もしない無際限なささやき声の群れた騒音、その、かさなりあった単なる無意味な叫喚に、むしろ耐えているしかない。いつか、自分はその轟音に殺されてしまうかもしれないと、その、体験したこともない死の存在にアンはおびえた。伸ばされた指先がふるえた。フエは、差し伸べられた自分の指先が触れて仕舞うことを、恐怖した。泣き叫びたいほどの恐怖だった。自分が、留保なき破壊者になって仕舞うことへの。反芻され続ける記憶の中で、そしておののいた。終にはすべてを破壊して仕舞った自分自身を責めて、やがては為すすべもなく絶望して仕舞うしかない事実への接近に。あるいは、破壊者に他ならない自分が、世界中を敵にまわして、世界そのものが曝す憎しみに、ただ、叩き潰されて滅ぼされて仕舞うことへの接近に。指先は、ひたすらその匂い立つものに接近し続け、それへの至近距離の中にふるえつづけた。昼下がりのチャンの部屋のベッドの上に肌を曝し、仰向けに向こうの壁の、塗りたくられた白一色に映ったレース地のカーテンの翳の模様を見遣った。開け放たれた窓が、主幹道路沿いの穢い風に揺らめいた。大人近くになればなるほど、変わり果てた町にバイクはあふれかえり、あきらかに大気は穢く汚されていった。もはや皮膚にさえ感じ取れて仕舞うほどに。大人になる頃には、この町は廃墟になって仕舞うのではないかと、16歳のフエは疑った。チャンのなすがままに、フエはまかせた。からだの上に寄り添うように馬乗りになって、足に自分の腹部を、胸を、その皮膚をなすりつけたように密着させたチャンの、真っ白い肌の触感と温度とが目醒めつづけていて、フエは倦む。それら感覚も、感情も、やがては倦み果て終には腐り堕ちるに違いなかった。あるいは、もう、腐りかけている気がした。舌を触れないままに、ただうすく開いた唇をだけ、チャンは下腹部にあてた。いつでもそうだった。焦がれながら、恥じらうチャンは、結局は自分からフエに舌を触れることなど一度もなかった。チャンが抱きかかえた下半身に、チャンの体温があって、汗ばませ、そして、外気にじかにふれた上半身が、テトの前の雨の日の冷気にふれた。フエは鳥肌だった。私の部屋から、マイを追い出したのだ、とチャンは言った。どうして?

なぜ?

なんで?

穢いからだ、とチャンは言った。そして、穢いものは嫌いなのだ、と、チャンはそう想いあぐねたように言い、そのくせ自分が口にしたその穢い軽蔑的な言葉を後悔していた。眼差しに、ただ、逡巡があった。フエは、頭をなぜながら、口付けて遣った。その唇に。そのとき、チャンは鼻から息をながく、吐いた。ふれあった唇を半開きにしたままに。吐かれた息に、かすかな、微量の、感じ取れないほどの生き物の匂いが感じられた気がした。かつてこの部屋で寝ていたマイは、彼女のいとこたちの部屋でいつも過ごしていた。かならずしも、それに不満を言うわけではなかった。チャンは、マイが自分と同じようになってからではなくて、その前からずっと、マイを憎んでいたことを、マイが自分と同じようになってから、気付いた。目の前のはるか下方を、無数の小さなバイクの群れが抜き去っていく。それらを轢き潰して、破壊して仕舞うことは容易に想われた。事実そうだったに違いない。アクセルさえ踏んで仕舞えば。

18歳のアンは大型バスのドライバーに納まっていた。旅行会社の仕事だった。いつの間にか街にあふれかえった韓国人たちがバスの中に、アンの背後に唇の中に癖の在る拗音を淫しながら彼らの言語を撒き散らし続けた。運転席に乗って仕舞えば、あきらかに地上とは別の空間と、時間が開けた。

目に映る、路面を這う彼らとおなじ存在であることが、どうしてもアンには信じられなかった。フエがいつでも曝す、絶望に絶望を重ねて、なにもかも空っぽになって仕舞ったような絶望的な眼差しの意味が、アンには不可解だった。彼に縋るように抱きついてくるときの。何人かの、数えるばかりの女たち。アンを愛した、フエ以外の、彼女たちも、その殆どがアンがかさねてやった唇を離したときには、同じ色彩の眼差しをくれた。そうではない瞬間には女たちは、そもそもアンに愛されていると錯覚された自分自身にだけ酔いしれているに過ぎなかった。どうしようもない、傲慢な発情を、その眼差しは無残に曝した。アンは眼をそらした。自分が姦された気がした。絶望の眼差しにも、結局はアンは眼をそらすのだから、見つめつづけた眼差しは、いつでも眼をそらされているほかなかった。

みずからに倦んだ生き物たち。

アンは、フエに焦がれた。そうなるしかなかった気がした。焦がれなければならない理由さえ分からなかった。頭のおかしなフエ。未来が見える、その、母親とおなじように。アンが十七歳のとき、そのテト休暇が終ったばかりの日曜日に、なかなか起きてこないフエを訝ってその寝室に入ったのは午前の十時過ぎ、日差しは昼に近い強烈さを持ち始めていた。いつものように、鍵はかかっておらず、そして、半開きのままだった。ドアが軋んだ。降ろされたままの蚊帳の白く霞むこまかな網の目の向こうに、フエが仰向けに横たわっていた。

朝早くに、アンが彼女の部屋からでてきたそのままの褐色の肌が、やわからい日翳の昏さの中に目醒めていた。眼を開いて何かを見つめたまま、フエの眼差しが、自分をさえ捉えようとはしていないことには気付いていた。フエのからだにだけ、時間など一切経過していなかったかのような錯覚にアンは戸惑った。蚊帳をはぐって、頬をすれすれに近づけて、その息遣っている証拠を確認した。

Duy chết

ややあって、フエが言った。アンは、そっと

ユイが死んだわ

フエの頬に口付けた。

Chị giết Duy

汗ばんだ肌が匂って、

わたしが殺したの

それがかならずしも本当ではないことには気付いた。信心深くて、おとなしく、特別なパーティの前の鶏の屠殺にさえ立ち会うことが出来ないフエに、人間をなど殺すことができるはずもなかった。腰の近くに転がった携帯電話をどけて、あまえるようにフエのそばに添い寝した。フエは表情を失っていた。彼女を、慰めてやらなければならなかった。

泣いているに違いなかった。

涙も、泣き声も、乱れた息遣いさえもなにもなく。聞き取れないほどの、静かでおちついた息遣いをだけ、鼻に、ゆっくりと繰り返して。いずれにしても、フエは号泣していた。フエの胸に横顔を預けて、アンは脈打つ鼓動と、彼女の体内の音を聴いた。

自殺したのだ、と言った。その様は、なにもアンには言わなかった。

Tự tử...

ふるえもしない、ただ、静かな声が、それを望んだわけでもなく、アンの頭のなかになんどか反覆された。フエは、まるで死んで仕舞ったようだった。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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