小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑨
ブルレスケ
…散文
Trio; Burlesque
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
見ろ、とフエはトゥイに言う。海を。浪を湛えたそれには見向きもせずに、何を言っているのか?
Em…
あなたは、何をしているのか?
Nói gì ?
問いかける
Làm gì ?
トゥイに、フエは答えを返さない。
…海よ
湾岸道路の右手には、
これが
建築されたばかりの大規模なホテルと、
Biển...
遊興施設が立ち並ぶ。同じ町の、ほんの数分を隔てた風景だとは想えない。
...của em
フエがなんどか声を立てて笑い、トゥイに話しかけるのを、トゥイはただ風が逆流するのは明日雨が降った証拠だと言った。
浪立つ。その音が聴こえる。バイクを止めた。止めた瞬間に、ひっくり返りそうになった。トゥイが大袈裟な、刃物でも衝き立てられて仕舞ったかのような悲鳴を立てた。フエは声を立てて笑った。潮が、執拗に鼻に匂って、肌に潮気がべたついてふれた。…花々。浪立つ。ブーゲンビリアの花々が、あれが海だ、と、匂う。トゥイに言った。トゥイは、空間の中にいっぱいに、無際限なブーゲンビリアの、何?
Nói gì ?
何、言ってるの?と、地にふれようとさえしない停滞が、瞬くまもなく、いつか、言ったトゥイは知らないに違いない。海。燃え上がって仕舞ったのは知っていた。その言葉を。その色彩。海。むらさきに近い紅の、それらブーゲンビアの色彩の向こうに、トゥイは、だれにもつれてきてもらいはしなかったから、何があるのか気になった。花々の尽きた先に。すでに、知るわけもないのだった。海という言葉も、何もありはしないことなど知っていながら、永遠。海と言う存在そのものも、永遠の空間の中に、咲き乱れるブーゲンビリアが、トゥイは。匂い、フエは声を立てて、その色彩をさえ匂わせて、笑った。すでに。泣いていたのに違いなかった。その眼差しに、ブーゲンビリアが捉えられる、あるいは、声を立てて笑い、眼差しを花々が捉えて仕舞うその前、永遠の時間の先から、フエは、流すべき涙もないままに。耳元に繰り返す。トゥイの耳元に、声もなくて。海よ。…花々。海。
Biển...
フエに手を引かれるトゥイの眼差しには、一切の驚きもない。トゥイは目に映るその色彩、青と、反射光の白濁と、かすかな緑彩と黄彩、微細な穢れたような赤らみ、それら、こまやかに過ぎる色彩の群れの、浪打って留まらない変転をけ、その眼差しにじかに触れて、匂う。
Vì
独り語散る大声には、耳を貸さずに
Huệ
フエは、砂浜に誘って、
đi
その足をよろめかせる巨体を
tiểu
笑いながら支えるが、
百合がおしっこをしたからだ
周囲の、まともな仕事もなくて、平日の朝からほかに宛てもなくて、海にでも繰り出すしかなかった男たちの無数の眼差しに曝される。かならずしも美しいとは言獲ないはずのフエは、見当たる理由さえもないままに男たちの人目を引いたし、トゥイの大声のつぶやきは人々の神経にふれた。そして、華奢すぎるアオヤイの少女と巨体過ぎるおかしな女が、ふらつきながら砂浜を歩くのを見るなというほうが無理なのだった。
押し付けるような、あるいは誘うような、嬌声を上げるのと変わらない、あるいは囃し立てるような、嘲笑したような、発情したような、ふたりの存在そのものを咎めるような、それら、無数の眼差しを、フエが感じたのは最初の一瞬だけだった。空は、あまりに輝いていた。
ただ、真っ白く。
薄くしか張ってはいない雲は、それでも見上げられた空の全面を隈なく覆い尽くして仕舞いながら、高くなりはじめた太陽光に背後から差されて、いくつも空の高みに層をなしてかさなって、曝された混濁した白濁の推移は、推移に推移にをかさね続けたその無際限のグラデーションの繊細さそのものを、きらめかせもせずただ静かに光らせて、白い。バイクを出すときも、土の粗い道を通るときも、湾岸の主幹道路を走ったときも、いつでもそこに曝されていた、あまりにも巨大で、惨めな白。
その色彩に染まった海さえ白濁しながら、それでも終にはみずからの色彩に染め上げることなど出来なくて、雲は、不意に浪間に、無数に細かく裂かれて垣間見させる海そのものの暗い青の色彩の、その上に、上空の大気に押し流されて変容する。むごたらしい風景だ、とフエは想った。トゥイが、フエの失禁を嘲笑う声の色合いだけをひけらかさせながら、ただ、いつもの無表情に眼を見開いて、フエは、かならずしも、そのまん丸な眼が何かを見入るわけなどではないことをは、すでに知っている。
トゥイの眼差しは、素手ですべてを見出しながら、結局は何をも見てなどいない。
海辺を彷徨って、海辺にぶら下がったハンモックも何も、フエが媚びれば男立ちはタダにした。道路沿いのカフェでたっぷりと午前中の時間のほぼいっぱいを潰したあとで、午前十一時、低速のバイクをよたつかせながら家に戻ってきたフエを、ブランコに座っていたハンは立ちあがって殴りつけた。トゥイを乗せたバイクごと横様に倒れて、頭を打ったフエは、一瞬失心した。背後に、投げ出されたトゥイが、ながいながい、間歇的な悲鳴を上げ続けていることは意識のどこかで知っていた。泥だらけの横顔と、アオヤイを曝して立ちあがったフエを、瞬間さえおかずにハンが殴り続けるのに容赦はなく、不意に手に触れた箒さえたたきつけられて、身をよろめかせて逃げもせずに、フエは鼻血と、鼻水と、口からの出血にむせた。壁にぶつかって、二度目の軽い失神の後、ひれ伏した背中を殴りつけるアルミのちりとりが、背中の皮膚を無造作にえぐって、呼吸を困難にした。えづきながら空気を求めた。体内に肺がもはや存在しない実感が在った。
むせた。
体の中にこもった痛みが、吐き気じみたかたまりになって鼓動した。トゥイはバイクの下敷きになったまま、地面に背中を押し付けて、ながい悲鳴をあげつづけるだけだった。タオが、遠巻きにハンを諌めていることには気付いていた。吐きそうになるほどの罪の意識が、体中を羞恥させた。自分の存在そのものが、恥じられるべき恥辱以外のなにものでもなかった。佛たちの天の国など失われて仕舞ったに違いなかった。フエは、自分が生まれてきたことそのもを後悔した。
疲れ果てたハンが、ようやく折檻の手を休めたときに、フエはうずくまって、頭から地面にひざまづいたままに、四肢を痙攣させながら必死に呼吸を整えようとした。狂った肺が、呼吸とはいえないささくれだったさざ浪としてのみ躍動し、血管の中には発熱があった。体中が汗ばんで、その穢らしさを恥じた。ちりとりを放り投げたハンは、庭先のコンクリートに鈍い騒音を立てさせると、最後にフエの丸められた背中を殴った。のけぞって、一瞬の静止の後、フエは吐いた。
木戸の翳で、アンは見ていた。学校に行く時間だった。ハンが倒れたままのバイクを起こしても、トゥイは仰向けにのけぞったままに、いつか、その悲鳴はあぅうう、…という、
ử…
うめき声に変わっていた。起こしたバイクの後ろにアンを乗せて、ハンは出て行った。トゥイを棄て置いたままに、フンがフエを介抱した。あきらかに、フンは戸惑っていた。それは理不尽な暴力以外のなにものでもなかった。だれにとっても清楚で、頭もよくて、ただ、無防備なほどにやさしいフエに、落ち度など在ろうはずもなかった。トゥイが、どこかへ遊びに行きたいと言ったに違いなかった。すでに、彼女は自分たちが、結局は一度も海も、山も、なにも、ほとんどなにも見せてはやらないままに、この敷地の中にトゥイをなかば幽閉していたことには気付いていた。トゥイが言ったに違いないのだった。遊びに行こう、と。フエから、どこへ言ったのか聞きだすまでに、一時間近くかかった。もう二度と、この子が微笑むことなどないだろう予感が、フンをしずかに戦かせた。フンが寄り添ってやった数時間のあいだに、ただ一言、フエが言ったのは、海
Biển…
その一音節にすぎなかった。フエのからだの痙攣が、やみそうもなかった。
ひとり、シャワールームで、泥と傷にまみれたからだを洗った。立っているのもやっとだった。傷にしみこむ水流が、無際限なほどに皮膚の表面いっぱいに、こまかくあざやかすぎる痛みを撒き散らして、いまだに指先と唇を痙攣させ続けるままに、フエは赤らんだ褐色の傷だらけの皮膚を曝した。拭うタオルを、にじんだ血がでたらめに穢した。口の中を執拗な痛みがぶしつけに乱し続けた。フエは、部屋に引き篭もって、その日出ては来なかった。夜遅くに帰ってきたダットは、タオから昼間の虐待のことの次第を聞いたものの、何をし、何を言うわけではなかった。気の弱く、結局は無能なダットは、肉付きのいい大柄な体躯を神経質にときに揺らして見せながら、ただでさえいつも内気でおとなしいハンに、自分の動揺を隠して、何も知らないように接するのに苦労した。ハンがいつも通りなので、ダットは結局は何事もなかったのだと了解してみた。
いつも、十二時を回れば部屋に忍び込んでくるアンさえも今日は来なかった。皮膚にいまだに、痛みの火照りが巣食い続けていた。癒えることなどない気がした。ハンに対する怒りも、憎しみも、恥辱も、なにもなかった。非難の想いさえも。フエを悔恨が襲い続け、母をただ愛していた。記憶され反芻されるその暴力の生々しさは、いまだに執拗に体中に息遣い続けたままに。アンに許してやってから、ずっと、一年近くアンは、同じ絶望しきった、フエ自身をふくめて、目に映るものすべてに迫害されているかのような眼差しを曝したままに、フエの傍らに寄り添って、求め、結局は何もできずに、やがては疲れ果ててしがみついて、そして寝息を立て始めたのだが、ひさしぶりに傍らに誰もいないで一人でいることの、孤独と言うよりも、寂しさというよりも、たんなる空虚さを、フエは味わうしかなかった。一年近く前のその雨の日に、夕方、だれもどこかに出払って仕舞って、家に残っていたのはフンとトゥイの親子だけだった、その、黄昏近くのあざやかな朱に近い光線の中に、帰ってきたアンと顔を合わせた瞬間に、フエは自分がすでに決意していた気がした。そうしなければならなかった。フエはアンを手招きして、寝室に誘った。アンは一瞬だけ戸惑いながら、フエを見つめるときにいつも曝す、その留保もない絶望を、無防備に浮かべていた。フエは、今日、いま、それをして仕舞うしかない気がした。それはもはや遁れ難い認識だった。寝室のドアを半ば、うすく開けておいたのは、いつでも自分が遁げ出せるように、フエが意識のうえにしたことだった。アンの眼差しが、恐怖していた。不安と、恐れ、渇望と、戸惑いと、歎きと、そして相変わらずの絶望と。それらが混濁して、ただ、赤らんだ、恐怖の表情以外のなにものでもない、何もかたりかけてはこないしずかな表情を、アンは曝した。
いいわ。
Em được
フエが言った。
Không được
駄目だよ。
アンが独り語散るようにつぶやいたとき、かすかな微笑みが、フエの唇にだけ浮かんだ。アンがひざまづいて、腹部に顔をうずめ、フエの匂いを嗅いだ。ユイとチャン以外に、初めて他人に体臭を曝すことに、フエは羞恥した。それ以上のことを、アンは自分ではできなかった。アンを横たわらせて、脱がせ、フエはアンに教えてやった。仰向けにひっくり返された愛おしい、フエのからだの上で、アンができたことは折檻以外のなにものでもなかった。体中に押しつぶされそうな体重がかけられて、へし折っても飽き足らないほどに、男の四肢がしがみついてフエを締め付けた。押し付けられた汗まみれの胸から顔を背けて、やっとフエは呼吸した。****たたきつける、アンの骨が皮膚と、筋肉と、やがては骨格そのものにまで、鈍い痛みをだけ響かせた。アンのそれは、ほんの一瞬にも満たない時間に、すでに能力を失っていた。ながいながい、なんの意味もないたんなる暴力に、アンの***は費やされた。フエはしがみついて耐えるしかなかった。許したことそのものを後悔した。
折檻の次の日に、なにもなかったように、いつもの清楚な笑い声を立てて、トゥイに朝ごはんを食べさせてやって、学校に行くフエを、タオは奇妙に違和感にとらわれながら見送った。相変わらずハンは内気で、無口で、そしてタオも、あえて姉のその理不尽な虐待に触れようとはしなかった。
ハーは、フエが悪いのだろうと言った。理知的で、質素で、いつでも凜と清らかなハンが、間違いなど犯すはずはなく、そして、タオは、ハーがいつでもフエを嫉妬していることには気付いていた。むしろ、自虐的にさえ見える容赦のない嫉妬を、ハーは飽かずフエに曝しつづけた。一夜を明ければフンは、そもそもが興味をさえ持たなかった。フエなど、眼差しにすら入れたくはなかったのだから。フンは、ただ、フエを軽蔑し、憎悪した。殴られて少しは頭が良くなったの?庭先ですれ違いざまに、目線も合わせずにそう声をかけたフンに、フエは無言で首を振り。そして微笑みかけた。振り向いたフエがタオに、そしてトゥイに手を振った。
バイクが、その至近距離にだけちいさな小石を撥ねた。
白いアオヤイがひるがえる。風にはためく。
風がはためかせる。それは百合ではない。その巨大な嘘に、トゥイは言葉を失った。
だれもが嘘をついた。
ブランコは白い、それは百合ではない。だれもが
Huệ
嘘をついた。事実
bị
百合はかならずしも
nói
白くはない。にもかかわらず
dối
だれもがそれを
nói
ただ白いと言うときに
dối
嘘をつかれたのはその
嘘をつかれたフエが嘘をついた
花。…百合の花。ブーゲンビリアでさえ、かならずしも赤くはなかった。大気。
Huệ
雨上がりの大気は、ふるえる。いま
bị
雲が急激に流れていくから
đi
大気はふるえた。見られることが
tiểu
なかったフエが
là
大気を揺らした。雲が
ai
急激に雨を
đi
降らす前に
tiểu
流れ去って行ったから。
百合はおしっこを引っ掛けられたは誰はおしっこに行った?
流れない。なにも。水滴は、そして
Huệ
雨が降ったら、と、トゥイは
là
瞬くまもなく失心しそうになって
của
失禁したのはだれなのか?
anh
フエが、失禁させて仕舞ったのは、あの日、
百合は光のもの
誰が?
フエはアンのもの
声の主。聴き取られる声を立てているもの、それ。
トゥイはだれも自分の声など聴いてはいないことなど知ってる。フンは、いつものように、わめき散らすトゥイの声には耳を貸さない。
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