小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑧
ブルレスケ
…散文
Trio; Burlesque
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
家族たちを、かならずしも愛しているとは言獲なかった。愛していないわけでは在り獲なかった。いずれにしても、それは愛と名付けるしかない、痛ましくて救いようもないなにかとは分離して考えるべき何かだった。例えば、自分自身がユイに感じる、不可能で、出口のない、惨めな行き止まり。あるいは、アンの。自分のからだをむさぼりながらも、フエが、ユイに対してそうであるように、結局はアンはなにも獲得など出来なかった。受け入れることさえ出来ない。自分が受け入れて遣ったところで、あるいは、アンは自分を殺してでもして仕舞うよりほかに、救済される余地など無い。自分と、まったく同じように。あなたは知っているの?と、頭のおかしなトゥイに、無言のままに問いかければ、割れた。
Bị vỡ...
つぶやく。知っている。壊された。
Hị huỷ
声。それら、
何が?
トゥイの声を聴くでもなく聴きながら
空が。
フエは、自分の足先
Huỷ...
その切れたひさしの翳の、光の直射を受けた
Nói gì ?
白濁したきらめきに
Chị nói gì ?
かすかに
Bầu trời bị huỷ
汗ばんだ発熱があるのを、
Chị biết rồi
感じる。ハーは結婚したばかりで、男の建てた少し離れたところにある新興住宅街に引っ越したまま、ほとんど帰ってはこなかったし、フンは二年前に結婚して、大きい腹を抱えて離れの、簡易キッチン備え付けた個室に引き篭もっていた。だれもトゥイを家族としては、ましてや姉妹としては認めようとはしないように。トゥイは姉妹の数から、彼女たちによっていつか完全に排除されていて、あきらかにトゥイはその事実さえ、事実して何の認識も持ってはいなかった。あるいは、フエをも含めて、彼女の世界には人間さえ存在してなどいなかったかもしれなかった。トゥイの頭をなぜてやると、いつもトゥイは
ử...
と
あぅうう…
言う。喉の奥から、ひん曲がって鼻に抜けて。その音声を、フエは頭をなぜてやりながら聴く。ブーゲンビリアの散乱した花々の中に、土の地面からトゥイは顔だけ突き出していた。色彩もなく、ただ昏いだけの、そのあなぼこのような男。何歳かは分からない。いずれにしても、男。その翳は、両眼いっぱいに血をためたままそのあざやかにすぎる色彩を揺らめかせて、地面に水平に血を流した。細く。口から。いつか、まどろみながら眼を開いた。おぼろげな意識の白濁が、見ていたはずの夢を一気に消滅させれば、為すすべもなく夢の実在は消え去って、もはや記憶さえ残ってはいないことに、さびしさとも喪失感とも名付けたくはない、ただ、空虚な穴が開いた感覚だけを、フエは身体のどこかに感じていた。やがて人の気配に気付いた。そんな事は当り前だった。かたわらに、壁に縋るようにアンは背を向けたまま寝息を立てていた。気の小さい女の子のような、しずかで、ひそめられた、その。半ばひらかれたドアのこっちに立っているのはトゥイだった。自分の寝室の中。アンがいつもように、結局は役にたたず、ふき溜まった想いをとげることもなくて、ただただ絶望的な眼差しだけを曝して終って仕舞ったあとに寝入って仕舞い、フエはまどろむしかなかった。なんどもまどろみ、なんども醒めかけて、ドアくらい閉めるべきだったのに、すべてを放棄したままで、通風孔が差し込む、日曜日の午後のやわらかい日差しに肌のあざやいだ褐色を曝した。いつのまにか入ってきたトゥイが、独り語散つづけていることは知っていた。いつか、何度目かの醒めかかった意識の中に、彼女が入ってきたことは知っていた。醒めきることを拒絶し、ふたたびまどろもうとしながら、トゥイ。雨が降らないよ。
Không mưa
雨。通風孔の向こう、空が雨を静かに降らしているには違いない。白濁した色彩、そしてあまりにやわらかにすぎる、ただ、悲しんでやるしかない光線の淡さが、容赦なくそれに気付かせて、フエは笑った。フエは、トゥイをベッドに誘った。トゥイは警戒を曝し、彼女にも警戒という本能があったことにフエは驚きながら、はしゃいだ。
来なさいよ。
ベッドが堕ちるよ。…
来なさい。
すぐに。
フエは、彼女の警戒の意味を知った。その寝室に、彼女は寝たことがなかった。そこはいわば彼女の処女地だった。アメリカ大陸にはじめて上陸するような、月の砂地にはじめて足を着けるような、そんな降って湧いた戸惑いに、トゥイは脅かされているに違いなかった。
来ないで。…ここに。
微笑みながら命じた瞬間に、いつものように、なんの表情も曝さないトゥイは、寝台のふちに腰を下ろした。フエが声を立てて笑ったのを、トゥイは聴く。それは、フエが仕掛けた策略だった。その策略に、何の意味や必然があるのか、フエには終に分からないままだった。トゥイは、いつでも、なんの表情さえも曝しはしなかった。言葉は彼女の認識をただ赤裸々に伝え、その嘘など存在しない留保なき認識の鮮明さだけをだれにでも突きつけたままに、であるなら表情など、彼女がいちいち作り上げる必要は無いのかもしれなかった。ふたまわり以上ふとっちょの、自分よりも濃い褐色の巨体を、フエは横たえさせた。仰向けのトゥイの額に口付けてやった時に、立てた
ử…
その音声に、
あぅうう…
フエは明らかに彼女が今、そこに自分の皮膚が存在していることを認識しているに違いないことを、悟った。あるいは、ふれたのかもしれなかった。トゥイは、すでに存在していたトゥイの自分自身そのものに。なんどめかに。フエの、手のひらが彼女の頭をなぜてやった時と同じように。感じて、と。
フエは想う。感じればいい。
歯軋りするほどに。もはや、自分が誰かも分からなくなるほどに、自分自身を感じて仕舞えばいい。憎しみに近い、やさしい感情がフエを満たした。いつくしみ、そして彼女を虐待する。留保なく。フエが、教え諭すような、いたわるような指先で、トゥイにその性別の存在の、根拠そのものを教えて遣っている間中、トゥイはその声を低く、猫が泣いたように立て続けて、そして、失禁した。なんの恥じらいもなく、容赦もなく。
やがて眼を醒ましたまどろみの中に、トゥイの巨体にしがみつくように添い寝をするフエを、アンは見た。フエは寝ていた。トゥイは起きていた。沈黙していた。じっとしたままで、何一つ言葉を発さないトゥイを、アンは久しぶりに見た。眼を開いたままで、まどろんでいるのかも知れなかった。身を起こしたアンの気配に、トゥイの死んだ眼差しに瞬間で生気が宿った。
Lá
トゥイのつぶやき始める言葉と、その
cây
嗅ぎ取られる臭気。
rơi
それが何なのは知らない。あるいは
lả
体臭。
tả
よどんだ、複数の
trong
狭い空間に
trời
押し込められた
mưa
自分たちの。
雨の中に木の葉が飛んだよ
いたたまれない。アンは、フエが寝ていることも、トゥイがそこにいて、大声で独り語散はじめたことも、自分がフエを見つめていることも、すべてがいわば開いた傷口か何かのようにさえ感じられて、追い立てられて部屋を飛び出すと雨の匂いがする。
雨の日の、薄暗い家屋のなかには人の気配は無い。外の、庭のほうにフンの罵り声が聴こえた。どうせ、新設された自分たちの部屋の水道の調子の悪さに逆上したに違いない。
トゥイは海辺の町に生まれて、育ったにもかかわらず、二十五歳まで海を見たことがなった。だれも海辺に連れて行ってやらなかったからだった。初めて海を見に行ったのは、十六歳のフエが、バイクに乗せて連れて行ったときだった。
その日の朝方も雨が降っていた。人々が眼を醒まし、起き上がる頃には止んでいた。空に、うすく乱れてその向こうからの朝の太陽光に、自らを内側から光り上げさせた雲の、繊細な白濁だけが残された。
庭の地面も、木立も、地に堕ちたブーゲンビリアの花々も、路面も、なにもかもが濡れていまだ乾かずに、眼差しのそこは水気に匂いたってあざやかに光っているばかりだった。フエは高校の制服のアオヤイに着替えると、庭にバイクを出した。
地面はぬかるむ。ぬれた地面があざやかに匂う。ブランコにトゥイが一人で座っていた。樹木の、葉が風に吹かれて、水滴を散らした。ほかに選択肢などない気がした。
なにか決断を下したわけでさえなくフエはトゥイを手招きした。トゥイは
Đi
ただするどい、睨みつけるような眼差しを
ăn
いつもと
ắp
同じに曝すだけで、
泥棒にいくのか?
立ち上がらないトゥイの手を、フエは無理やりに引いた。気がつけば、すでにフエは決断して仕舞っていた。来なさいよ、と、その巨体が立ちあがらされるとブランコがゆれる。朝はまだ早い。アンはまだ寝ているか、シャワーを浴びているに違いない。ハンとタオの姉妹は炊事場の竈に火を起こしているに違いない。明日の分の飲み水を沸かしておくために。ダットは朝早くにいつものカフェに行き、十時近くにならなければ起きてこないフンと、フンが捕まえたお金持ちの自動車業者は、離れに引き篭もっているばかりだった。
騒音を立ててゆれるブランコが、水滴を散らしてフエを濡らした。フエは声を立てて笑った。華奢なフエが支えるには、太って骨太で大柄な、トゥイの巨体はバイクの後ろに、あまりにも困難すぎる存在だった。それがむしろフエを楽しませて、お金もちの Thanh タンが庭に止めている日本の車をよろめきながら迂回し、庭を出る。
すれ違う風に、あからさまにぬれた触感がある。どこに行くのか、と、聴きもしないトゥイはハン川に牛乳がぶち撒かれて仕舞うったことを歎き、樹木がひん曲がっているのはタンが水道を食っていたせいだと言った。そうに違いなかった。
フエは、気まぐれにトゥイに話しかけ、極端な低速度でゆれながら走るフエのバイクを、みんな大袈裟に避けて追い抜いていった。トゥイは、同じように大柄なアンよりもむしろ重いに違いない。
容赦もないほどに本格的な開発が始まった町は、至るところにさまざまな破壊された旧家屋の残骸の群れを曝し、広大な更地と、膨大な建築現場と、工事現場を無様に剥き出しにして、フエは掘り起こされて破壊された道路を迂回する。残存した細い土の道を通り、やがては山のほうからぐるっと整備された湾岸道路に出ると、雨上がりの大気に、すぐに左手の海の潮の匂いが混ざる。
見ろ、とフエはトゥイに言う。海を。浪を湛えたそれには見向きもせずに、何を言っているのか?
Em…
あなたは、何をしているのか?
Nói gì ?
問いかける
Làm gì ?
トゥイに、フエは答えを返さない。
…海よ
湾岸道路の右手には、
これが
建築されたばかりの大規模なホテルと、
Biển...
遊興施設が立ち並ぶ。同じ町の、ほんの数分を隔てた風景だとは想えない。
...của em
フエがなんどか声を立てて笑い、トゥイに話しかけるのを、トゥイはただ風が逆流するのは明日雨が降った証拠だと言った。
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