小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑦
ブルレスケ
…散文
Trio; Burlesque
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
Thúy トゥイ
空が嘘ばかりつくので雨が堕ちた。それで雨が上がって仕舞った。雨が、と、トゥイは為すすべもなく、花が匂った。言った。
...Mưa
見る。
耳の中には庭先のブーゲンビリアが咲き乱れて、
sẽ
匂うのはただ
rơi
あるいは
rồi
雨が降らなかったせいだ。聴く。
雨がやがて降ったわ
鼻を嗅げば、匂うのはブーゲンビア。その、口から吐かれて鼻に衝く匂いに、花の匂いなどどこにもしてはいないことを笑う。それは雨の水滴のざわめきだった匂いにほかならず、トゥイは笑うしかなかった。不意のまばたきのなかに花々のあまりの無力さを。フエと呼ばれる百合。それは、Huệ、百合の花。仏壇の百合とは似ても似つかないながらも、蓮の花ならハノイに売っている。それは褐色の色彩をさらして、それが彼女であることは知っている。花が、
言った。
咲くよ。
Hoa
知っている。フエが
sẽ
昨日、食べさせたおかゆは
nở
硬くはなかった。光。
hôm
雨上がりの空。百合が笑って、拡がったのは
qua
空の色彩。
昨日花が咲くよ。
声を立てて笑うトゥイを
Xuan
フエと呼ばれたその花ではないものが、あるいは
青く
ふれた手のひら。額に、フエの手のひらがふれる。いつでもそうだった。やさしさはフエだった。百合は咲かない。なぜなら
Huệ không hoa
彼女は花ではないから。にもかかわらずそれをフエと呼ぶことは単なる錯誤にほかならず、口に喰えもしないすべての彼らが倒錯した愉しみとして、それを花として、呼んでいたにほかならない。トゥイは悲しい。空が、
Trơi ở đâu ?
花を咲かせもしないから。その
空はどこ?
事実がトゥイを傷付ける。フエ。花でさえない褐色の、嘘をつかれた百合の花が立ちあがって奥に入って言ったのは、それはアンのせいだった。呼ばれもしないのにフエはいつでもアンのところに行き、呼ばれもしないのに、アンはフエのところに行く。太っちょのHương フンが目の前の向こうに、翳を踏みつけてたたずめば、それが何か言っていることは知っている。聴く必要は無い。聴きたくはないから。なのに、いつでも呼んでもいないのに呼ぶフンを笑う。
声を潜めて。
フエが自分の寝室に入ると、アンが先に来てベッドの上に寝ていた。アンの眼差しにはどうしようもない絶望的な表情だけが浮かんだ。何が彼を絶望させたのか、フエには分からなかった。16歳のフエは、横向きに寝そべったアンの背後に回って横たわり、ひじを突いて、その頭をなぜてやった。
...Nóng
と、ただ一言だけ
暑い
独り語散るようにつぶやかれたそのアンの言葉に、フエが感じたのは自分への容赦もない拒絶だった。8月の昼下がりに、むかし物置だった、狭いフエの部屋は熱をかすかにだけこもらせて、停滞した空気は重量感をさえ持って、しずかに穏かな熱気に、肌を汗ばませた。壁際に詰まれて褪せた古い仏教の本と、アンのからだが匂った。十四歳の少年を、受け入れないで済ますことはフエには出来なかった。実際には、彼は弟なのだから、その眼差しから、アン自身さえ遁ることなどできはしないことなど、明白だった。あるいは自殺して仕舞う前に、アンを救ってやらなければならなかった。
その日、雨の日、いつものようにわざわざフエのベッドで昼寝するアンに口付けてやった時、アンが曝した犠牲者の縋るような表情に通風孔ごしのやわからい日差しは堕ちた。
堕ちた日差しがあたえる翳の繊細な表情に、フエは声を立てて笑った。アンは侮辱されたと想ったに違いなかった。フエを押し倒して自分のものにして仕舞う、アンの一回り以上大きな身体に揺さぶられながら、汗だくの彼の追い詰められた、下された徒刑のその寸前でもあるかのような、何の未来も見えない眼差しに、フエはただ哀れむしかなかった。まるで、一方的に強姦するようにアンは自分勝手に腰を使って、すぐに体内にそれをやわらかくして仕舞ったその理由は、アン自身にもわからなかった。求めいたはずだったが、自分が求めているものとの差異ばかりが皮膚に巣食った。そうではないと、ただそればかりを反芻するうちに、無意味に何の感覚ももはや与えない腰の動きだけを、惰性のうちに曝した。
部屋のドアは閉められきってはいなかった。誰かの目に触れる可能性はあった。そんな事はどうでも良かった。フエは。どうせこの部屋にだれかの眼差しなど入っては来ない。アンは、不意に立ち上がってドアを閉めて、改めてフエを裸に剥いた。それから、アンはなにも出来なかった。甘えて、もてあそぶように、その褐色の肌に戯れ、甘えたにすぎない。
自分は美しい、と、その事実をはフエは知っていた。何が美しいのかはわからない。愛されるのだから美しいのだ。だから、アンも何も、そうなる以外にはなかった。美しいものは愛されなければならない。フエは、自分が求めているのはユイであることはすでに知っていた。手に入らないからこそ求めているのだとは言獲なかった。家畜のような、女の子のユイは、すでに手にふれられて、手の中にもてあそばれていた。為すがままだった。そして、ユイが自分を愛する事など在り獲ないことは知っていた。一度たりとも、最後にはいたらない少年たち。アンは求めてばかりで、かならず途中で無力になって仕舞うし、ユイはただ、自分の神経が感じ取った感覚にだけ、意志もないままに強制されていた。だから、最後に飛び散らされるものは、それはかならずしもユイのものとは言獲なかった。誰かの、何かの、決定的に他人のものに過ぎないそれを、いつか、腹部に停滞し、息遣われるたびにかすかにだけふるえるそれに指先を触れた。ユイの眼差しを確認するまでもなく、犠牲者のような、ただ絶望的な色彩を曝して、絶望そのものの中に虚脱するユイの眼差しが天井にうち棄てられていることは知っている。悲しむしかない。悲しむことしか出来ないのならば。フエは、ユイのために、指先がふれた、その見たこともない他人のそれが立てる、いかにも生き物じみた匂いを嗅いだ。
だれかが窃盗したから、空に雲が浮かんだに違いない。庭先のブランコにゆられながら、その、窃盗者の姿を探すまでもなく、眼差しに捉えられたフンの、不自由な片足に声を立てて笑った。トゥイは、眼差しのいっぱいを、空の投げた色彩の束に埋めさせて仕舞って、
Chết
死んで仕舞った。百合は。
rồi...
いくつかの腕や、胴体や、足や
em
顔。それら、
sẽ
壊して仕舞うから。ずっと
chết
いつも、踏み散らすように
rồi
フエは死んだ。…殺された?
仕舞った!
つぶやく。歎きの、
妹は死んだよ
ただ、歎きの色彩、…青い。
いつか、もう
その色彩を乱した白濁のそれらが
花は
空のただなかに
Hoa bị sẽ giết rồi
悲しい。なぜだろう?
Tai sao ?
なぜ、…と、いくつかの、フエに触れた指先と、その
やがて
皮膚の群れ
死んで仕舞った
どうして、と、想う。空が悲しむのか。
Buồn...
花。眼差しの向こうに、そしてトゥイはブランコにゆられながら、隣に座っているのはフエ。知っている。百合。向こうにいるのはフン。ブーゲンビリアの下に。トゥイは知る。百合は蓮を食う。何度目かに、あるいはフンと、フエと、ブーゲンビリアには一切の差異がない。そればかりか、つながってさえいた。ひとつの、分かちがたい一塊の、その眼差しのなかに、想わず声を立てて笑って仕舞うトゥイには、だれも眼差しを投げはしなかった。
仕舞った、と
Chết rồi...
そう言った。
空は死んだ。
Chết rồi...
ブーゲンビリアが匂った。
Em chết rồi...
フエはまばたいた。傍らにトゥイは
死んだよ
太った巨体を曝して、汗ばんだ肌を匂わせ、午後の陽光。ブーゲンビリアに無数の、色彩のない翳が、でたらめに四肢を、突き出した。ばらばらに。無際限なほどに、むちゃくちゃに。馬鹿なことばかりを大声に独り語散るトゥイの傍らに、寄り添うようにフエは座って、トゥイの、自分の膝に礼儀正しくそろえて添えられた両手の、その甲にふれた。肥満したその巨体は、たっぷりと脂肪をその皮膚のやわらかさの下にたたえて、身じろぎもしないトゥイの、その手の甲は何の感情をも伝えない。いとこの Hà ハーもフンも、長女のトゥイの面倒をみはしなかった。それに対して、何の文句があるわけでもなかった。家族たちを、かならずしも愛しているとは言獲なかった。愛していないわけでは在り獲なかった。いずれにしても、それは愛と名付けるしかない、痛ましくて救いようもないなにかとは分離して考えるべき何かだった。例えば、自分自身がユイに感じる、不可能で、出口のない、惨めな行き止まり。あるいは、アンの。自分のからだをむさぼりながらも、フエが、ユイに対してそうであるように、結局はアンはなにも獲得など出来なかった。受け入れることさえ出来ない。自分が受け入れて遣ったところで、あるいは、アンは自分を殺してでもして仕舞うよりほかに、救済される余地など無い。自分と、まったく同じように。
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