小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説⑥









紫色のブルレスケ

…散文

Burlesque màu tím









《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作

Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel









Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ













ハンが何も言わなかったので、フエは、ハンがそれを知っているをことを、ユイから聴くまで知らなかった。隠そうとしていたわけでもなかった。息さえひそめて、秘めごととめいて耳元にささやくユイに、それが秘密の、禁忌じみた行為にほかならなかったことに、あらためて気付いた。フエは、ユイのためにそれを秘密にした。

ふと、フエのアオヤイにふれた指先に、ユイは一瞬戸惑って、ややあって、もういちど触れて、なぜ、そして、綺麗、とユイは言った。

Đẹp quá

指先が、褐色の腕を覆った絹地のてざわりを確認した。絹の光沢を放つ無地のアオヤイは女の子の制服だったから、ユイは着たことなど一度もなかった。なにが?フエは言った。笑いながら言ったに違いない、フエのその言葉の微細なふるえを、ユイは聴いた。何も答えないユイの眼差しに、そして見る。ユイの頭の上、学校の、飾りの無い広だけの教室の、ただ、高い天井の上に、色彩をなくした頭部の無い子供がさかさまにたたずんでいるのを。血を流してみるべき穴さえないので、昏い翳のでたらめないたるところから鮮明な紅彩の、鮮血を糸のように垂れ流して、チャンが母親を殺して仕舞ったに違いないことは知っている。チャン。臆病で、内気で、話しかけた男の子の嬌声にさえも、まともに一言も返せもしないチャン。彼女が、頭部を失って血を流す。

フエはすでに知っていた。雨が下から上に、反対向きに降っていた。そのありえない光景にフエは笑って見せるしかなかった。チャンは何も言わなかった。ただ、残酷な笑い顔だけを曝した。すでに、チャンは両目を失っていたから、それはただ、昏いあなぼこに過ぎなかった。百合科の花々らしい香りが、無造作に、それぞれにかさなりあわない匂いを撒き散らして、それはチャンの体臭だった。そんな匂いなど、彼女の皮膚から匂ったことなど一度もないにかかわらず。やめたほうがいい、と想った。フエは。それは自分を殺して仕舞うことだから。

チャンは身を屈めて、体の下からなぶるように振付ける土砂降りの、もはや暴力でしかない無際限な雨粒にもてあそばれながら、食い散らした。それは、両目の無いチャンだった。あなたはあなたの母親をさえ殺して仕舞った。フエは、涙さえ流せない気がした。滂沱の涙をながして、獣じみて食い散らすチャンを見つめながら。

花々の匂いが薫り、充満し、むせ返りそうだった。フエが、ユイの頬に手のひらを預けると、ユイはその手のひらに頬を預けた。見つめる眼差しに、戸惑いは無かった。その戸惑いの無さに、むしろフエは戸惑った。どうしたらいい?フエが言った。ユイが、自分を愛してなどいないことは知っていた。せめて、縋るような、おびえた眼差しでさえ曝されていれば、まだしもフエには為すすべがあったような気がした。小さく首を振って、沈黙し、ただ、眼差しを不安げに揺らめかせて、大丈夫よ、と

Không sao

つぶやいてみせるフエを、ただ愛おしいもののように、ユイは見つめてやるしかなかった。フエの指先が、自分の白い男物のシャツの襟元にふれるのに、ユイは任せた。**!と、

Gái !

背後に嘲った Bính ビンたちの声を、ユイは聴いた。笑い声を、その男のたちの疎らな集団は立てた。ティンもいた。ティンが、自分の気持ちなど気付いているだろうことを、そのあけすけな哄笑を浮かべたティンの眼差しに、ユイは感じ取った。ユイは微笑み返した。チャンが血を流す。天井にさかさまにへばりついて、逆さに血を流して見せるしかないチャンに、フエはただ言葉もないからっぽの哀れみをだけ感じて仕舞い、神々は光る。光はすでにすべてにじかにふれていた。チャンが何も感じてなどいないことは知っていた。色彩をなくして。そこにたたずんで、ただ、存在して、血を流し続けるしかなく、なにものも彼女を燃やし尽くすことなど出来なかっただろう。天国の光も、地獄の業火も。なのに、なぜ、それらは存在して仕舞うのだろう。空の向こうに天国が、地のはてに地獄が、それぞれに至上の幸福と、救済と、至上の苦痛と、責め苦を湛えて、すべてをつつんで永遠に裁き続けているのは、なぜなのだろう。神々は眠ることなく目覚め続け、何の言葉もないままに、言葉そのものと無縁なるがままに、しずかにすべてのものの内側に、光さえなく輝き続けているのは何故なのだろう?救済をのみ志向しながら。

フエは声を立てて笑い、ビンたちにいたずらじみた微笑をくれてやった。女の子よ。

Em gái…

わたしたち、女の子よ。フエの唇がそっと、自分たちを見つめて微笑むままに、ユイの頬に口付けてやるのに、ビンたちは喚声を上げた。**、と

Gái !

はやしたててみせ、恥ずかしげに顔を赤らめてうつむいたユイの頭をなぜてやるフエの手のひらの下に、ユイは屈辱に塗れた。彼らが、自分に焦がれていることはフエは知っていた。その、白いアオヤイが隠している褐色のすべてに。彼らの押し付けがましい眼差しが彼らの心のうちの、純粋ななにかと欲望にまみれた何かの、いじましく滑稽な混合物を、もてあそんでやるすべをフエは知っていた。もっと見つめればいい、息をひそめて、自分がかならずしも哀れみ以上の想いをなど与えてはいない限り、あなたたちは永遠に救われはしない。ずっと、ただ、自分の体の内側に巣食って、自分のいじましい感情のさざ浪をだけもてあそび、もてあそばれて彷徨うしかない。まだ、一度たちともわたしの肌の匂いさえ嗅ぎ取ったことのない哀れな少年たち。さまざまな、それらの眼差しの、それぞれに浮かべた、結局は自分に対して惨めな発情と求愛を曝すことしかできない一瞬ごとにあざやかに変容していく、それらの色彩を、フエは見比べてやった。せめても彼らに報いてやるために。


腕の中で、チャンが自分への密かな欲望に、その内側でだけふるえていることは気付いていた。夕暮れを過ぎた海は、浪をいよいよ高くし、そして、昏らんだ空は月の光に、いよいよ明るく、その昏い色彩を曝した。まだらに、無造作に、雑然と、装われもせずに、ただただ散らして乱れさせた、でたらめに千切れはてた雲の群れが、むしろ雲母のような複雑で繊細な模様を空の明るんだ昏さに翳ったままにきらめいて、明るい夜には違いない。たぶん、貧しく困難なフィリピンを、いまふたたび壊滅させているに違いない海の向こうの台風のせいなのか、見上げられた雲の流れは速く、形態の自在な変化を見せて、昏い空はその色彩を澄み切らせて鮮やかだった。色彩らしい明確は伴わない、黒いとも言い難い、ともあれ、その夜空の鮮明を極めた色彩は。鮮やかだ、と、ただ、そうつぶやいてみるしかない。亜熱帯のダナンの海辺は、夜になる涼んだ。その涼気が、あるいはチャンを鳥肌だたせているかも知れなかった。チャンの頬をなぜ、唇を、その唇にあわせてやると、チャンは素直に目を閉じて見せた。フエになされるがままに、自分勝手に愛されることを待ち望むしかできない奥手で、内気なチャンに、いっぱいの幸せを与えてやらなければならない必然が、フエにはあった。ぬれた髪の毛をなぜてやった。人翳はまばらに、やることもなくて暇を持て余した田舎町の住人たちをその周囲の遠くに、単なる翳りとして散らした。さまざまな音響が、周囲に、ごく微細音としてなって、混濁することなく群れて、散り、惑う。

海から上がって、大気に曝されれば、ぬれた肌は一気にその涼気にふるえた。チャンが声を立てて笑った。チャンが戯れてしがみつけば、しかし、冷えた肌はいつものようなその体臭をさえ匂いたてずにちぢこまって、フエは笑う。腰を抱いてやり、バイクの後ろに乗せると、走り出したバイクが送り込む風はふたりの皮膚を固まらせて、骨をふるわせる。両手を回して抱きついたチャンの腕がこまかくふるえる。

チャンのうちに送って行ったとき、びしょぬれのチャンを、その家族たちは罵った。あばずれのチャンが、自分の誕生日にさえも、わけのわからない戯れにフエを担ぎ出したに違いなかった。わめき散らすような嬌声を上げて自分の部屋に駆け込んでいくぬれたチャンに、ヴァンはもはや声さえかけなかった。クイは、家の先に出したプラスティックのいすに座ったまま、フエに、シャワーを浴びていけ、と

…Ly hằng

言った。壊れた顎が無理やり発するでたらめな言葉を無理やり

...Đi tắm

聴きとって、フエはただ、やさしく微笑んでやりながら、片手に空を指先した。散り散りの雲は雲母の様のそのままに、こまかな雨を降らしていた。空のどこから降っているのかさえ理解できない、文字通り降って湧いたような、水滴の無際限な、繊細すぎるそれら。

それらには温度があった。その温度が、むしろ、ぬれて涼気に渇き始めたフエの肌を、温めさえした。

クイは、うなづきも、それを否定しさえもせずに、眼差しが捉えた褐色の、ただ、何の穢れもなく生きて行くためだけに生まれたような信仰の厚い少女の、けなげで清楚なたたずまいを見つめた。どうしようもなく、少女はその母親の妹の方に似ていた。ひたすら知的で、もの想いの深いその、どこか哲人じみた気配を曝した母親には、望んでも手に入らない清冽な気配だった。

彼女がそう想うなら、そうすればいいのだった。フエ、百合の花、その名前の通りに、観音佛に護られた彼女がふれれば石ころでさえ百合の花々の芳香を嗅ぐのかもしれないのだから。

百合の花は小さく手を振って、やわらかくあたたかい雨の中に、バイクをふかして去って行った。

風が吹き荒れた。海の向こうの島国は、殲滅されたに違いない。海のこっちのこんなところでさえも、こんなにも風が、横殴りに吹き付けるのだから。

フエは、十分ほど遅れて、アンの英語学校の前にバイクを止めた。雨は降り止まなかった。その温度を残しながら、太ももの、腕の、首筋の、顔の、皮膚の上を撫ぜながら這い堕ちた。

アンは、その、個人が開いているあばら家の塾の軒先に突っ立って、絶望したような表情を曝していた。ほかには誰もいなかった。ただ突っ立ったままのアンに手招きしてやると、ようやくアンは、決心をつけたように、足を踏み出した。

雨だよ。

...Mưa

アンが言った。

雨ね。

Mưa…

…そう。

フエは、自分がつぶやいたその、

Mưa

そしてアンの

Mưa

それら。

それらの音声を、でたらめに頭の中に、なんども響きなおさせて、雨。

後ろに乗ったアンは、もっと。

もっと、しがみつけばいいのに。フエは、いつものように、そう想う。

かたくななまでに、姉のからだにはしがみつこうとせずに。

そんな仕草に、もはや何の意味さえないのに。わたしたちはすでに、すべてを知ってるに違いないのに。

哀れむように、その、意味の分からないプライドを声なく笑ってみせて、

Mưa

しずかな、やさしい雨。

明るい空に降る。

…フエ。

雨にぬれる。






Lê Ma 小説、批評、音楽、アート

ベトナム在住の覆面アマチュア作家《Lê Ma》による小説と批評、 音楽およびアートに関するエッセイ、そして、時に哲学的考察。… 好きな人たちは、ブライアン・ファーニホウ、モートン・フェルドマン、 J-L ゴダール、《裁かるるジャンヌ》、ジョン・ケージ、 ドゥルーズ、フーコー、ヤニス・クセナキスなど。 Web小説のサイトです。 純文学系・恋愛小説・実験的小説・詩、または詩と小説の融合…

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