小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説③
紫色のブルレスケ
…散文
Burlesque màu tím
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
チャンが市場の、日の下の台の上に曝された豚肉の塊の匂いに振り返って仕舞ったときに、眼差しにふれたその傍らの物乞いの戦傷者は顔を上げもしなかった。
地雷なのか爆撃なのか。あるいは銃弾の一斉掃射か。いずれにしてもなにかで迷いなく吹き飛ばされて、両足の無い老いぼれの彼はただうす穢く、まとな生き物とは想えない。
だれかがその前の、汚水をにじませた土の上に置いたざるのタオルの下に紙幣を押し込んでやった。しわくちゃの安い紙幣。物乞いの男はまばらな白髪を日差しに直射させて、彼は眼が見えないのかもしれない。なぜ、ずっと猫背のままにうつむきっぱなしなのかも、チャンにはわからない。目をそらそうとしながらも、彼女がっと目をそらし獲たのはたかった蠅の羽先が自分のまつげに触れようとした一瞬だった。羽音、至近距離の、そしてのけぞって蠅を払ったチャンを、母親は声を立てて笑い、14歳の娘を見遣る Văn ヴァンの眼差しははっきりとした嫌悪をだけ浮かべた。
チャンは、自分では育てられもしないくせにチャンを生み棄てて、あっけなく死んで仕舞った先妻の残した娘だった。その先妻の腕は、発育途中で幼児の状態のままに止まって、反対側に在り獲なくひねくれていた。米軍がばらまいた薬物のせいに違いなかった。そもそもが、その腹に在ったチャン自体、クイの種でさえなかったかも知れない。失語症で、言葉を一切話せなかったあの Vỹ ヴィーが、かつて韓国兵に強姦された母親から生まれたことなどだれもが知っていた。棄てられたように育って、まともに自国言葉さえもしゃべれないばかりか、眼差しに知性のかけらさえ浮ぶことすらなかったヴィーが、集落のだれもの慰み者なっていたことなど、そしてだれもが知るところだった。
悲惨な戦災地クアン・ビンで牛を飼っていた貧しい死にかけの家族から、クイがおそらくは同情に過ぎない感情のためだけに引き取って妻にしたに過ぎない哀れな女。やすりでならしたようにのっぺりしたチャンの顔立ちは明らかに外国人の顔立ちにすぎなかった。
あんな穢い母親の腹から生まれた蠅のような生き物が、蠅におびえる眼の前の姿には、軽蔑と、容赦もなく残酷で、同情の入る余地もない哀れみだけが誘われた。統一戦争で死んだ英雄の、ヴァンの父親の命日は明日だったから、そのパーティの料理のための買出しに追われた。この国では死者の命日には盛大なパーティを開くことになっている。そして父は救国護国の稀に見る英雄なのだから、だれよりも盛大でなければならない。たとえ、決まりきった十人ばかりの親族が集った、昼間の飲み会にすぎなかろうとも。
チャンは市場が嫌いだった。あの、うすくにじみ出た血と肉の脂に、黒く淀ませられた穢い木製の台の上に、無数の蠅をたからせながら曝された、あるいは鋼に吊るされてぶら下がった牛や、豚の肉の塊の断片の、鼻の奥を衝く異匂いの混濁が、チャンにはとても耐えられはしなかった。
クイのあまりにも醜い顔の半分も。父親が戦争から帰ってきたとき、未だに癒えない崩壊した顔の手当てのために、ヴァンが包帯を替えてやるのを見るたびにチャンは、自分の心の芯を腐らせられて仕舞いそうなまでの、無際限な恐怖の連鎖にのみふるえた。
替えてもすぐににじんだ血と倦みに汚されて仕舞う、あの手触りのよかった包帯の布地が、もはや人の顔の**を留めない骨格と、かろうじて張り付いているにすぎない皮膚、手荒な戦地の形成手術を施された色違いのそれからはがされて、黒ずみ、赤らみ、黄ばみ、黄土色ばんだボロ布に変わり果て、そして、純白のやわらかい布地がガーゼとともにあてがわれて、純白はその**にふれればすぐさま穢されていく。
破壊の現実。
肉体は破壊されても、にもかかわらずそこに息遣い、生存しつづけ、細胞はそれでも分裂して繁殖しているに違いないのだった。まさに、生き生きと。おびえるばかりで何もできずに、そして、父なる存在の英雄的な惨状を軽蔑するわけには行かないことくらいは自覚している6歳のチャンの、複雑ででたらめで情けない表情の、もはや表情をなくした外国人じみた顔つきを、横目に視界に入れながら、ヴァンはただ、後悔した。
なぜ、こんな情もなにもないみじめな餓鬼が、目の前に存在していなければならないか、しかも自分の娘として。
ヴァンは自分の骨に咬み付くような悔恨にくれるしかなかった。その、残酷を極めた現実そのもののために。チャンは、彼女が処理しなければならなかったその、生き物の肉体のはき棄てた**で穢れた包帯を、素手につかんで処理しなければならなかったその時の、皮膚と神経の狭間に張り付いた鈍い醒めた苦痛を忘れることが出来ない。ただ、ヴァンが差し出す穢れた包帯を、裏庭の焼き場にもって行ってほうり捨ててくるだけだったが、その、どうしようもない臭気。眼差しにじかにふれる生き物の***さ。雨に濡れた日、樹木が倦んだ匂いを立てた。ブーゲンビリア。むらさきがかった紅の花。ここにはいくらでも、どこにでも不意に忍び込んだ犯罪者のように繁殖している、年中咲き乱れさせて花々を、好き放題に撒き散らしてやまないみだらでふしだらでけばけばしいあばずれた樹木が、執拗にたてたぬれた匂い。
どうして、と、チャンは想う。生まれてなど来て仕舞ったのだろう。あまりにも穢い生き物の、その穢さそのものとして。
いつでも常にチャンは、十二歳まで、妹と弟のあいだに、彼らに決して寄り添われることさえなく同じベッドで寝たものだった。ふたりはヴァンの生んだ子どもだったが、ヴァンがひねこびて想っているようには、そこには何の違和感もなかった。ただ、亜熱帯の熱気を孕んだ大気が、三人を寄り添わせることを拒否させた。恋人同士でもない限り、その大気の中で寄り添うことは不可能だった。
妹の Hân ハンは4歳年下で、弟の Đạt ダットは2歳年下だった。十二歳の頃に、急激にヴァンのようになり始めた身体がチャンの感情を翳らせた。男でも女でもだれもが、かならず一度は眼を見留めて仕舞う、あまりに豊満で女性的なヴァンの身体に、チャンの下半身だけはそっくりになっていた。シャワールームに置かれた、手洗い場の上に離れて映る罅の入った鏡が映した、あきらかに女性づいたみずからの下半身を、チャンはそれでも美しいのだと想おうとした。その周りの多くの男たちが、自分勝手に色づかせた眼差しをくれていたのだから。
そうであるなら、そうであるべきだった。ほとんどふくらみを持たない胸がチャンに、さまざまな感情の小声で騒ぎ立つせめぎあいの中に、ぽっかりと明いた穴に堕ちたような安心をだけ与えた。その胸の中に、あきらかな変化を持った女の乳首だけがチャンを裏切った。いまでも、クイとヴァンが愛し合っていることくらいは知っている。
もういちど、ヴァンは身篭るかも知れず、クイは新しい生命体を生誕さしめるかもしれない。そんなことは問題ではない。ほうっておいても、繁殖するしかないのだった。自分自身の身体、あるいは存在そのもを空間に穿ってやまない細胞たち有機体の、無際限なまでの分裂と再生と同じように。
庭先の、チャンが名前さえ知らない樹木は、日差しの下に、ただ風に葉を揺らすばかりでたたずみながらも、その荒々しい幹を曝した。その樹木。土を突き破って突き出した細い幹が互いに重なり合って、半身同化しあってひとつになって、人六人よりもふとい基幹を形成し、天に伸び上がる途中の不意にいくつも幹別れして彷徨って、さらにふたたび同化して、にもかかわらずまた分化する。のた打ち回るようなその幹の乱れた形態を、チャンは吐き気に近い感覚とともにいつも見た。まったく、でたらめで、無意味な同化と分化。まともな生き物とは想えない。とはいえ、そのあまりに奇形的な形態こそがその生体に本来的な形態であるにほかならず、どうして?と。想う。どうして生まれてきてなどして仕舞ったのか。このような生き物の亜種のひとつの固体のひとつとして。地球上に繁殖する生命組織のひとつとして。それはあまりにも無残な事実だった。
眼の前の樹木はチャンを、チャンが感じた吐き気と同じ感覚の中に見つめているに違いなかった。葉の群れはただ緑彩を散らして、ざわめかせながら年中豊かに茂った。
信じられないのは、****クイの皮膚に、ヴァンがその皮膚を*****かさね合わせ、ふれあわさせて仕舞えること、それそのものだった。チャンは、それだけは自分には不可能には想われたばかりでなく、純粋な、例えば疾患として分類可能で解析可能なものではなくて、ただただ壊れた壊れ物としての*気、それだけを感じた。ヴァンも、クイも*っていた。そして、皮膚を一枚剥ぎ取りさえすれば、自分そのものもあの穢さを体中に存在させていること、あるいは、あの穢さそのものが自分自身の生存の根拠にほかならないことの事実の遁れ難さに、チャンは嫌悪をだけした。
チャンは*っていた。自分は*気そのものだった。なにものも、彼女を救うことなどできないことだけが、現実として彼女に認識された。
チャンが乳首をくわえてやると、フエは声を立てて笑った。十三歳のチャンは、そしてそれからもずっと、あるいは彼女が両目を失って以降にさえも、フエの、あきらかにそれが女のものであることを曝したてて仕舞っていながらも、いずれにしても中性的な、少年のような褐色の肌を、埋もれるように愛した。籠った欲望も何もなく、チャンはそれにふれ、愛し、匂う。その肌の、生き生きとして匂い立つ新鮮な生き物の臭気。穢いもの。穢さをはかろうじて感じさせられないですむには違いなく、そして、にもかかわらず決定的に穢いもの。その本質的で遁れようもない穢さによって成立させられていることを、すでに十分に知りすぎるほど知ってさえいるもの。
愛している、と、それを否定することは出来なかった。それが同性愛と呼ばれるものか、どうなのか。それはチャンには終にも分からなかった。自分のその欲望のかたちそれ自体さえも。
チャンが愛したのは単純にフエだけだったから、それ以外の何かへの愛が、チャンに自分のあるいは性的な性別を教えてくれることなどなかった。フエを愛しつづけるかぎり、結局は自分がなにものであるのかさえ未解決に伏すしかなかった。いつでもそのときに、戯れるように声を立てて、笑いながら耳たぶをさえ咬んでみせるフエが、自分を、自分がそうであるようには愛してなどいないことなど知っていた。未来を知っているというフエは。この世界の、生まれ変わりの秘密を知っているというフエは。
ときに目醒めたままに夢を見始めて仕舞う、半分この世界にはいないのかも知れない頭のおかしなフエは。
彼女にとって、チャンにふれることは子どもの戯れに過ぎず、それ以外ではない。愛おしいもの。戯れれば戯れるだけ愛おしいその真っ白い肌の少女の服を脱がせると、フエは高い天井の下でただ広く開口された木枠の窓ガラスに手をつけさせた。見えないから。と、つぶやいてやったチャンの耳の裏の匂いをかいだ。どうせ、反射光が、すべては白濁させて仕舞っているのだから。きらきらと、ときに斑にきらめかせさえしながらも。後ろ向きのチャンのそのあまりにも女性的な尻を突き出させると、美しいと、想ってみるもまもなくフエは声を立てて笑った。
Đệp
きれい、…と、不意に哄笑したかのような笑い声を立てるフエに、もっと尻を突き出してやりながら、嘘でしょう?
Phải ?
本当に?つぶやくチャンは、フエの言っている事がまったき嘘に他ならないことをは知っている。生み出すもの。
Phải...
本当よ。生み出され、そして生み出していくもの。そのやわらかく、丸みを帯びて、ただ扇情的に、なにを矜持してみせているのか特定さえしないままにいきなり矜持してみせたような、その
Không phải...
嘘よ。ふくらみ。嘘でしょう?褐色の指先が、
Không phải...
…いいえ。それにふれた。
Không...
違うわ。チャンのつぶやく声には耳を貸さない。答えて遣りさえもしないままに、フエはその*******を指でなぞってやって、少年が育てたブーゲンビリアは、花を咲かせはしない。無数の苗木の、あるいはすでに人間よりも高いところの空気を、その乱れた葉のうちに呼吸させさえしながらも。何十年かかるのだろう?それらが花を咲かせるまでには。死に行く彼女は知っていた。フエ。…だった、には違いない、その女。見たこともない女。血まみれで死んでいく、その、滅びのとき、人間たちの壊滅の、見た事もない風景の中の。もっと前にも、焦土で死んだことがある。空から堕ちてきた爆弾が、生きたままフエを焼いた。叫んでいるのか、叫んでいないのかさえわからないままに、彼女のその存在それ自体が、もはや叫び声にすぎなかった。過去。あるいは未来。たぶん過去。いつかの戦争。ナパーム弾なのかも知れない。未来の、もっと違う爆弾だったのかも知れない。燃え盛る炎が、そしてもはや眼差しは何をも捉えは出来かったはずなのに、あの男が、哀れみのつもりで彼女の額を銃弾に撃ち抜くのを見た。焼き尽くされた洞穴の瞳孔の存在の名残りに。伸ばせば指先をふれられる至近距離に。あの男。ダット。彼は私を殺した、と、フエはつぶやきもせずにチャンのその、ひざまづいた眼差しの先のそれを匂って見せた。
彼女たちのみだらな戯れに気付いていたクイが、それでも何も言おうとしなかったのは、戯れることには明け透けだったヴィーを想いだして仕舞うからだったかもしれない。それが正しい選択だったのかどうかはクイ自身さえ知らない。
何人もの男たちに、小さな腕をひん曲げたままにそのからだを与えて遣っていたヴィー。土の上にばたついた幼児の腕。だれもが、彼女を夢のように美しいと言った。そしてそれは事実だった。ただ、その肉体は留保もなく綺麗な造型として形作られた流線型を曝し、その豊かな曲線は恐れることなく女性美のあるべき姿を、もはや煽情的なまでに顕した。
澄み切りきった、なんらの色彩をさえ感じさせはしないほどに翳りのない眼差しは、それがなにを見ているときでさえもなにものをも捉えずに、不意に肉づいて、やわらかく、見事なまでに繊細にふくらんでみせる物言わない沈黙の唇は、大股を開いてひれ伏して、皿に顔を押し付けて物を、動物じみて食い散らすときにしか、決して開かれようとはしなかった。
三歳児のままに、そしてひん曲がった両腕が、そこに曝された美しさに、何かの兆しを与えている気がした。そして、その兆しを解読できるものなど誰もいなかった。反対側にぶら下がっているだけのそれはなにひとつ、明かしてなどいはしなかったから。
知性など、なにもなかったのかもしれなかった。だれもが、そう想っていた。言葉もない彼女の、ただ沈黙をしか曝さない眼差しに、だれもがその知性の欠如だけを当然のこととして認識していた。いずれにしても、ヴィーは美しかった。
その生みの母親に、禁忌にふれた**以下の扱いをされながらも。
あのヴィーに比べれば、あきらかに劣って失敗作じみた不細工さをこそ感じさせて仕舞いながらも、あるいはチャンも、たとえばヴァンと同じ程度には美しいのかもしれなかった。とはいえ、美しいと言い切ることはクイには出来ない。みじめな失敗作を、まるで自分が美しすぎて存在して仕舞ったことへの無償の代償として、ヴィーが生産して仕舞ったのだと、そんなふうにしか想えないチャンは宿命として、母親譲りのあけすけな戯れに、だれかの慰み者にされるよりほかはないはずだった。できそこないの生まれ変わりのようにしか見えない。クイには為すすべもない。
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