小説《紫色のブルレスケ》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作/オイディプス…世界の果ての恋愛小説①
以下は、連作《イ短調のプレリュード》の、ちょうど真ん中の長めの中編小説です。
舞台はベトナムで、出てくるのはベトナム人だけ、だいたい2000年ぐらいの過去のダナン市。
あるふたつの家族の崩壊していくまでの過程を描いたもの、というか、
作中人物《フエ》の物語です。
彼女の親友が、ついに自分で眼をえぐり出して仕舞うまで、が、描かれます。
物語が、非常に残酷な方向に傾き始める小説であることは否定しません。
なので、そう言うのはちょっと、と言う方は、読んでいただかないほうがいいんだろうなとは想います。
原文は、基本的に行変えなしで書かれているのですが、Web上ではあまりに読みにくかったので、一応の行変えがしてあります。
2018.10.22 Seno-Le Ma
紫色のブルレスケ
…散文
Burlesque màu tím
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。連作
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
Οἰδίπους ἐπὶ Κολωνῷ
まばたくまもなく、見あげられたブーゲンビリアの葉の群れのざわめきが水滴を撒き散らした。
こまかく風に煽られてこすれ、乱れ、フィリピンの方に荒れ狂っているらしい台風の、名残りのような暴風と暴雨にすぎないにしても、このあたりにめずらしく荒れた天候だったには違いない。16歳の Trần Thị Huệ チャン・ティ・フエは庭先にバイクを出してまたがり、クラクションを鳴らすと、がらんとして広い家屋の奥から顔を出した弟に、尻を振って見せた。早く。遅れて仕舞うから。Guyễn Huy Trang グイン・フイ・チャンとの約束の時間は午後二時だったから、すでにその時間には十分ばかり遅刻していた。
午前中の、風が荒れて、ときに間歇的な土砂降りの雨が降った天気は、おさまりはしても空にまだ荒んだ気配がある。未来が見えると言う母親は、妹を学校に連れて行ったきり、まだ帰ってきてはいない。だから、弟の Anh アンを英語学校に連れて行ってやるのはフエの仕事だったが、アンはいつもに増してぐずついた。
アンの頭は英語など勉強するようにはできていなく、そのからだは無意味に遊びまわるようには出来ていても、九十分も机に座っているようには出来ていない。だらだらといまさら着替え始めるアンにいらだった言葉をかけるのにも飽きて、午後、白濁した雲の密集が処々に鋭利な裂け目を散らして、急激に流れ崩れていくそれらの群れの、その向こうに輝いているらしい空の相変わらずの青をときに垣間見せながら、細く長い光の筋を堕としさえしたのを見る。上空の大気の流れは、たぶん、早い。
見つめるさきから雲間は潰れ、変容し、その先、乱雑な土の道の先の泥色のハン川の向こう、遠く、かすんだ山の頂にぶつかって崩壊した雲は、無様に雪崩れて覆いかぶさって、無残で破滅的な崩壊を曝した。その崩壊のさなかには、霧か雨か定められもしないこまやかな水滴が、止め処もなくただ大気に舞っているのかも知れない。フエは、そのぬれた匂いさえ感じられた気がした。生まれたときからそうだった気さえもする濃い褐色の肌にやわらかく、力の失せた午後の光がふれる。ただただ広く古びた家屋にはいま、20歳半ばの、知能障害を抱えた叔母 Thúy トゥイと、その母親である Thảo タオ、つまりはフエの母親の妹と、そしてフエと、アンしかいない。父親は朝早くからいつものように、仕事か飲みにか出かけていたままだったし、トゥイの妹たちは学校に行っていた。ぬれた土の匂いがし、葉が荒れた風に煽られるたびに水滴を散らすので、ブーゲンビリアの木立の下で、フエは黙ってぬれるにまかせるしかない。
雨を止ませた空は、しかし、降っては止み、止んでは降った土砂降りのせいで、皮膚にふれるそのすみずみまでが執拗なほどに潤って、息苦しさをさえ感じさせ、一方で冴えた涼気をいっぱいに張らせていた。わざとなげやりに、車体をゆらしながら後ろに乗ったアンのせいで、一瞬ひっくり返りそうになって仕舞ったとき不意に、開け放たれた木戸に立ったトゥイが叫んだ。
偸まれたから死んだんだよ!
いかにも悲痛に、想い詰めて、そして嘲るような醒めた知性を眼差しにだけ感じさせて。フエには、もちろん彼女の眼差しが捉えている風景の意味など分からない。そして、馬鹿でまともなことなど何一つ話せもしないトゥイは、いつでも高邁な哲学者のような眼差しを曝して、表情もないままに罵ってはふたたび沈黙する。一日中、ずっと。
偸まれたら殺さないんだよ!
…そう。そうなの。
...Hiểu
なんの意味もなくフエが独り語散るのを、不機嫌なアンは許そうとはしない。腰を振ってバイクを揺らし、早く出せよ。無言のうちに、
Nhanh đi
そして、14歳のアンは小柄で華奢なフエの一回り以上太って大きいから、あやうくバイクを支える手首さえ傷めて仕舞いそうになる。不意に夢を見るような眼差しを曝して、どうして?と、
Tai sao...
私を殺したの?
Con giết mẹ ?
そう母親が言った9歳のとき、フエはその、Hằng ハンの潤んだ眼差しをただ、美しいとしか想えなかった。なにかに焦がれたような気配さえ持って、夢をまだ見ているとしか想えないハンは、膝の上に抱えたフエに不意につぶやいたのだが、感じられたその体温。肥満したわけでもない痩せぎすのからだのくせに、不思議にやわらかさをだけ感じさせるその触感、母親の、それ、フエは、ただ懐かしく、美しいものとしてのみ、その、ときに意味も分からない言葉を吐くハンを見あげるが、なんて…
Con xấu...
…悪い子なの?つぶやくハンはいまだ醒めたまま見た夢を見つづけていたに違いない。フエは目を閉じて、身を預け、過去も未来もその目に見て仕舞う母親がそう言うのなら、きっと、自分は彼女をいつか殺して仕舞うに違いないと、ただ、その受け入れ難い事実を受け入れるしかなかった。
悲しみも、不安も何もなく、フエはハンの胸に顔をうずめるが、淡いピンク色の粗末な部屋着の布ごしに、頬が感じるのはその粗くやわらかい布地の触感の下の、痩せた肋骨の触感と、肉付いたあたたかさとの両立しない質感だけだったにすぎない。フエがバイクを走らせ始めると、ぬれた土にタイヤを取られて、転びそうになるそのたびに舌打するフエを、アンは背中で笑った。水溜りをいっぱいに散らした土の道は、どこをどう走ったとしても泥水を跳ねて仕舞うので、フエのハンドルはあぶなっかしくふらついてばかりいる。
道を横切ろうとした牛に向ってアンが口笛を鳴らしたとき、フエは恐怖に駆られて諌めて罵る。追いかけてきたらどうするの?そんなわけがないことくらいは知っているが、あの、ずぼらなほどに巨大な牛の群れの体躯は、いつでもフエを恐怖させた。アンを送って約束の海鮮料理屋に辿り着くと、チャンのパーティはめずらしくもう始まっていた。彼女たちは小穢い露天に並べられた赤いプラスティックのテーブルを囲んで座り、一斉にフエに微笑んだ視線を投げかけるが、高校の制服の、真っ白いアオヤイを着たままのその彼女たち、学校の友人たちは十人ばかりたむろして、自分勝手に話しこみ、フエの一時間近くの遅刻に、一群の中から立ちあがったチャンは笑いながら、まだ始まったばかりだと言って、食い散らされた食べ残しの料理の皿をフエの前に差し出した。アオヤイを着替えていたのはフエだけだった。
フエはそのアオヤイが好きになれなかった。その、光沢を持って真っ白い、留保もない清冽な色彩のなさ、それ自体が。清楚という見かけのために、どうして色彩の喪失と言うおおきすぎる代償を払わなければならないのだろう?あるいは、頻繁に顕れる色彩のない死者たちの翳りのように。彼ら、彼女ら、あるいは、あれら、ただ鮮明な血を吐くしかないあなぼこのような翳りは、その存在が結局はなにものにもふれ獲たことさえない以上、眼に映るもののなかで、あるいはもっとも清楚なのかも知れなかった。むしろ無慈悲なまでに穢く、一切の美しさという概念に対するまったき差異としてのみ、それ自身をそこに曝したてながら、あれら。たとえば、ぐずったアンを待つ間に彼女の目にふれた、ブーゲンビリアの木陰の翳りに顕れた、見たこともないその少女。…アン。かつてアンだったもの。
色彩のない少女は木の枝、ブーゲンビリアの花々のむらさきがかった紅彩の間に、さかさまにぶら下がって空の方に血を、あざやかに静かに流れ堕とさせた。穴ぼこでしかない両目と、口から、そして、なんの知性のかけらさえ、その名残りさえもなくフエを見つめるしかないそれは。確かに、それ以上に清楚な存在はなかったかもしれない。なにものも、それにふれることさえ出来なかった以上、それは永遠に無垢なのに違いない。
店には彼女たちしかいなかった。四時半をまわって、その日の夜の、単なる惰性にほかならない名目も無いパーティに、男たちが集まってくるまでのあいだ、その店は自然に彼女たちの貸切になって仕舞った。少女たちの集団の中に、一人だけ男の子がいたが、その Đào Quốc Duy ダオ・クオック・ユイは、実際には女の子だったから、要するに少年たちの眼差し、あの必要以上に媚びてくる犬っころのような眼差しにふれる煩わしさなどなにもなかった。戯れに、目の前の席に座った Guyễn Nhi グイン・ニーが魚の肉を、わさび菜につつんで差し出すのを、顎を突き出してフエは、その白い指先に舌をさえふれながら食いついて見せた。
フエは、ニーの色づいた眼差しが、むしろフエのその、あまりにも無作法な仕草を求めていたことには気付いていた。ニーは声を立てて笑った。隣に座ったチャンが、これ見よがしに体をすり寄せてきて、フエの目の前のコーラ瓶を取ろうとしたときに、チャンのおびただしいほどに豊かなかみの毛の匂いが否応もなくフエの鼻にふれたが、廃墟。目の前にどこまでも拡がる廃墟群の、繁殖した樹木に覆われた崩れかけのビルのひとつが、見つめられた眼差しの向こう、焼けた紅蓮の夕方の日差しのそばに遠く、その音さえ聴こえさせずに倒壊して行った。自己破壊、と、フエはそう想った。
その、見たこともない巨大なビルの残骸は、結局はそれ自らの風化を待たずに、それらを多い尽くした植物の繁殖の群れにその内部を破壊されて、崩壊させられて仕舞ったのだった。だとしたら、そのビルが瓦礫として下敷きにし、押しつぶし、引きちぎり、叩き潰し、へし折って叩き殺し、壊して仕舞った樹木の群れの無数の殲滅は、文字通りその樹木たちが意識も望みもしないままに果たした自己破壊の風景にほかならないはずだった。それでも樹木が自死したとは言い獲なかった。ただ望まれたのは無際限な繁殖に過ぎず、自死などその風景のどこにも描き出されてはいなかったのだから。なら、なにが、それら、殲滅された樹木の繁殖を、殺して仕舞ったのだろう?もはや、破壊者さえもたない無残な破壊の風景に、フエは目舞う気さえした瞬間に、振り返るまでもなく、彼女の傍らのその男は涙を流していたことを、彼女はすでに知っていた。その、見たこともない男は、もはや頭髪も、肌の自然な色彩さえも失って、毛細血管からうすく血をにじませ続けるしか出来ない血まみれの彼女に寄り添いながら、何を、見てるの?
Anh xem gì ?
フエが、問いかけようと想った瞬間にフエは、もはやそんな能力さえ残ってはいないことに気付く。すべてはもう、滅びていくしかない。なぜならもう、すべて、とっくに滅びていたから。あるいは、と、彼女は想う。なにもかもが生まれる前から、なにもかもすでに滅びていたのかもしれない。あの、色彩のない翳りの群れのように。ただ、鮮血の色彩のあざやかさをだけ撒き散らしながら。
あなたは何を見てるの?彼女は想った。
いま眼差しの先で、跡形もなく崩壊して仕舞ったビルが何の罪の意識さえ持つことも出来ずに、実現して仕舞ったあの留保なき殲滅の風景を、あなたはその網膜に見たのだろうか?フエは想う。
見たのだろうか?あなたは、紅蓮の日没のこっちに遠く舞う、いまだに滅びることが出来なかった夕暮れの鳥らの群れの無数の羽ばたきを。
聴いたのだろうか?その音響のつらなりを。本当に、それは夕暮れの風景だったのだろうか?自分の体内がにじませ続ける血の色彩が、血染めの眼差しに見せた単なる錯誤だったのではないか。あるいは、空は、澄み切って青かったのではないか?どうして、と、想う。
あなたは泣いているのか?声をさえ上げ獲ずに、かろうじて喉をだけふるわせて、わたしが死んで仕舞うからか、すでに実質的に死んでさえいるからか、すべてはすでに滅びて仕舞っていたからからか、ひとり取り残されて仕舞うからか、知っていた。その、見知らない、視界に翳さえ顕そうとしない背後の男、もはやだれも手のほどこしようもなくて、滅びるのを見つめるしかない最期の世界の最期の時間の中で、終には人間でさえなくなった彼女にだけにそれでも一途な愛を捧げ続けた男、やがてフエが殺して仕舞った Đật ダット、あの、父と呼ばれた男。なんども生まれ変わって、永遠に巡り逢う。
突き出された自分の手のひらが、そして指先がふるえているのは知っている。うすくにじんだ血が、いつのまにか血まみれに染め上げて仕舞ったその華奢な、骨格を反対にゆがませた指先。何をつかもうと、何に差し伸べようとしたわけでもなくて、神々の光。それら、無数の神々の光が、その指先にも目醒めていた。すべて一切を救って仕舞おうと、それだけを切に望み、それだを常に果たし続けながら。神々の、光さえ放ちはしない光。そのしたたった血の一滴にも、チャンが声を立てて笑って、倒壊したビルの殲滅の塵墳にも、チャンが流し目をくれるのを、植物、フエは、樹木、息をひそめもせずに、光そのものにさえも、見つめ返す。あらゆるもに宿って止まない神々の…ほら。光が、飲んで。…ね?ただ眼差しの中にきらめきさえもせずに、映える。
ほら、と、なにものをも救いもせずに、チャンがグラスに、なにものをも裁きもせずに、注いだコーラが、ただただ映えるだけのそれら神々が、黒の色彩を、いつでも、泡立てる。とめどもないばかりに、泡立つ。溢れかえって、泡立ち。やまない。ほら、と、美しい、と、飲んで。そう言う気にさえならない。チャンはただ、美しい。なぜ、微笑んでばかりで、神々はこれほどまでに、眼差し。すべてのものたちに、チャンの、映えて、色づいた、すべてのものたちを照らし出すのだろう?神々は。眼差し。内側から、ニーが目をそらした。ただ、それは、命そのもの、なぜだろう?存在そのものの息吹きをまさに撒き散らして。ニーの、この、そらされた、留保なき滅びの最期の時にあってさえも。眼差しが瞬いて、フエは知っている。チャンがフエを愛していることを。
少女の同性愛の、その理由付けはどうでもいい。いずれにしても、チャンが焦がれているのは、自分のこの褐色の肌にほかならない。そして、チャンにとって、どうしようもなく煽情的なまでに美しいはずの自分の顔に、あるいは、からだ、ときには仕草、気配、身のこなし、立てられた声、不意に吐かれた歎きに倦んだ息遣い、要するに存在そのすべてに。フエはしなだれかかるようにチャンにからだを寄せてやった。醒めたまま見た夢の残像がいまだに眼差しに離れようとしないままに、綺麗、と、
...Đẹp quá
十二歳のチャンがフエに言ったとき、そのつぶやかれた言葉には明らかな憎しみさえある気がした。
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