《浜松中納言物語》⑨ 平安時代の夢と転生の物語 原文、および、現代語訳 巻乃二
浜松中納言物語
平安時代の夢と転生の物語
原文、および、現代語訳 ⑨
巻乃二
平安時代の、ある貴にして美しく稀なる人の夢と転生の物語。
三島由紀夫《豊饒の海》の原案。
現代語訳。
《現代語訳》
現代語訳にあたって、一応の行かえ等施してある。読みやすくするためである。原文はもちろん、行かえ等はほぼない。
原文を尊重したが、意訳にならざる得なかったところも多い。《あはれ》という極端に多義的な言葉に関しては、無理な意訳を施さずに、そのまま写してある。
濱松中納言物語
巻之二
九、尼の姫君の御すがたに想われること、御帝御涙お流しなさられること。
御殿の人々の、昼には御君にお渡りいただくことなどありはすまいよと打ち解け憩うているばかりなのを、姫君、言いようもなくただあさましくさえお想いになられなさって、とはいえ御想いを紛らわされなさるすべなどなければ、ただ知らぬ顔にいらっしゃられられるのを、かの御君の眼にふれさせていただければいわば、そのたたずまい、花の匂いにもお立ち勝りになられられて、あざやかに気高く、愛敬(あいぎょう)づいてお可愛らしい御人のお断ちになさられた御髪は、座っておられられればそれほどにはお目立ちもなされられない。ゆらゆらと芳香のたって、五色の扇などを拡げたような心地さえして、なおも見事にたおやかなるばかりに、飽くまであでやかになまめいていらっしゃられられて、御額髪の華やいで御額にふれてかかったのに、その漆黒の麗しさの隙間に垣間見られる御顔立ち、御すがたの、なんとも言い獲ずに美しい事の勝っていらっしゃられることの愛でたさ、紅の色彩を空に撒き散らしたがごとくに匂いわたって、理(わり)もなく苦しげに憂いてお想い乱れられなさった御色あいなど、あたりに薫りたつ心地さええして、鈍(にび)いろ、香染(かうそめ)など、薄やかなる色彩を数多かさねて沈む色あいに戯れていらっしゃられてもやはり、かすかにやつれていらっしゃられるその優美のはかない翳りのさまは、いろいろに派手に装束めかした女の頃の振る舞いよりも、さらには悩ましい様変わり、仏の道に染まって尊げにさえなられなさって、お近くにご拝見させていただくのはあまりにも礼を失してお可哀相に想われさえして仕舞おうに、なかなかに見断ちがたくていずれにしても、愛でたかるべきその御すがた、御たたずまいにこそあれと、独り語散るでもするしかない、《あはれ》これほどまでを、親の御心は御帝の后になして差し上げてさせていただいても猶も、愛してやまぬに飽かずお想いであらせられたには違いなく、この世にいたずらに宿世の導きにもてあそばれられなさって、御君は、御親君のいかに我を妬ましくも疎ましくお想いであらせられようかと御母上の御心さえさしはかられなさられて、かの御心、祈るが如き心の一途にお想いであらせられようとも、《あはれ》世を経るにしてもこの我らが罪の去るべきかたなく悔しくもいたたまれなくもあるべきことかなと、その御眼差しに見つめ見つめ続けなさられるがうちにも御魂は憧れられなさって、為すすべさえもなくお泣きになられてお仕舞いになられなさるのを、はしたなくも理(わり)なくも、さまよう心の御惑いは微細にうちふるえてお仕舞われなさられれば、《かうようけん》の御后の恩事は、すべてこの国にはない風情の中に見た、知らない異国の異彩のなかに見出した可憐なる花、その人にさえも劣らずに、ましてこの故国にあってはこの目の前の人に、この御有様に勝る人など終にありはすまいと、ただ類いもなく魅せられていらっしゃられられるにも、御想い、為すすべもなく口惜しくていらっしゃられて、であればしかし、そのうちうちの御心の清くも濁りないさまは、理(わり)もなく乱れるほかない心のうちを沈めて仕舞うがほどに、佛さえお見守りになられるこの世の俗世の衆生の、とにもかくにもとりなして言う言の葉為す行為も、かならずしも心苦しいことばかりではなくて、この人を心の泊まりに朝夕見てこそ、又大将の父上の御恨みも少しは解けるというものだろう、想うにかつて、いまや俄に御帝の皇子たる式部卿の宮を婿取りさせていただこうなどとなされられたほどの頃の華やぎには様変わりしたに違いなかろうこの頃を、少将の乳母もいかに浅ましく在り獲ないことと想っているものかと御想いにお留めになられられて、御君、心の棘に苛まれられていらっしゃられれば、乳母を召しだされなさられて、お聞かせになられられるに、今は御身の怠りを申しても甲斐などありはすまい、今は御母上のみあらせられる、中将もあまりにもなこの変わりように、里勝ちにばかりなっているのだろう、そこにて万事養生しているがよかろう、萬のことを、どうせお願いしなければならなくなるのだから、と懐かしくもおっしゃられなさるその御言葉の愛でたさに、心のすべては慰められて、この世にも落ち着かないばかりに騒ぎ立ち、そこまでお想いになっていただいていたものかとありがたく、苦しくも口惜しいがほどであって、その嬉しさには限りもない。
内裏よりしきりにお召しの声をかけていただかれられれば、御参らせていただかれるにも有様愚かではあり獲ずに、愛でたき御装束きらめいて、匂い整わせられなさってこの頃に珍しくうちより立ち出でられなさられれば、その御すがた、眼も輝くばかりであらせられなさるのだった。
世にかつて知られないがばかりの御芳香の、百歩の外にも薫るがばかりであらせられて、日頃に降り積もる雪、今や解けかけの輝きを為すのさえもが殊さらに光を添えた御有様でさえあらせられれば、往来の人々も稀なるものをご拝見させていただくと、見惚れるほかにすべはない。
御君の陣の宮内にお入りさせていただかれるうちに、何の深い心のあるわけでもないものども、女官どものつかさなどさえもが涙流してご拝見させていただいて驚く。
ましてや知ることを知る御方々の、細殿のうちにさえこぼれ出でて、苦しきがまでにお見送りさせていただいているのを、後目におかけになられなさいつつ通り過ぎていかれなさるのも、ただ口惜しくも妬ましいがほどの眼差しにふれてお仕舞いになられなさっていらっしゃる。
御帝の御前にお召し上げられなさられなさられて、御帝の年頃隔てられなさられて御覧じられなさられるには、あさましいがまでにこの世のものならないその御すがたの華麗。
御目にも驚きなされられて、とばかり物も仰せられなさられないで、御涙堕とさせなさられる御気色、ただかたじけなくて御君のその御心もさすがにお強くばかりはあらせられない。
かの国に在りて在った事どもなど、委しくお聞かせさせていただかれなさられるに、尽きぬ御心の御交じらいに、御前を早々に辞して差し上げさせていただくすべすらあらせられなさらない。
暮れて仕舞うに雪も猶降り勝りつつ、月えも言われ獲ずにおもしろく澄みわたって上がる。
遊びなどの御愉しみもお想いなされられて、殊に巧まれた庭の万象の音ら御耳に愉しみになられられるべく、御遊びは始まる。
中納言の御君はこの夜の事ども稀なることにさえお感じになられなさって、かつて見られなさった春の夜に似た風情など、ことごとにつけてお想い出されられなさっていらっしゃられれば、心澄ましてお掻きたてられなさられた筝の琴の音、おもしろく《あはれ》であらせられることその限りもない。
例のことであれば、その音色に涙留められる人などありはしない。
珍しくもないことながら、筝の音の果てた後には御衣など賜っていらっしゃられる、これも常のことではある。
あのとき、別れて後には雲居の月も
雲って翳ってこのように
決して晴れ渡っては見えはしなかったものだよ
別れては雲居の月もくもりつゝかばかり澄めるかげも見ざりき
と仰せになっていただかれなさられるに、御言葉、かたじけなくも御心をうたれていらっしゃられる。
ふるさとのかたみぞかしと天の原ふりさけ月を見しぞかなしき
海の向こう、
ふるさとの形見であることかと
天の海にふりさけ見た月こそは
なんとも悲しく切ないものでございましたよ
かくお返しさせていただかれなさって、興じられて舞踏など舞ってお差し上げなさられる。
《原文》
下記原文は戦前の発行らしい《日本文学大系》という書籍によっている。国会図書館のウェブからダウンロードしたものである。
なぜそんな古い書籍から引っ張り出してきたかと言うと、例えば三島が参照にしたのは、当時入手しやすかったはずのこれらの書籍だったはずだから、ということと、単に私が海外在住なので、ウェブで入手するしかなかったから、にすぎない。
濱松中納言物語
巻之二
書はさりともとうちとけ給へるに、姫君いはむかたなうあさましう思されて、紛はさむかたもなければ、唯うちそばみ居給へるを、見聞き給へば、花のにほひにも立ち勝りて、鮮(けざや)かに気高う、愛敬(あいぎやう)づき給へりし人の髪は、ゐだけにあらむかし。ゆらゆらとそぎかけられて、いつへの扇などをひろげたらむ心地して、猶いとたをたをと、飽くまであてになまめきて、額髪の花やかにかゝれるに、はづれたるつらつきかたはらめ、かくてしもさまことに、美しげなる事勝りけるにこそと見えて、くれなゐに匂ひわたりて、理(わり)なう苦しげに思し乱れたる色あひなど、あたりに匂へる心地して、鈍色(にびいろ)香染(かうそめ)など、数多重ねてうちやつれ給へる、いろいろにしやうぞきたらむよりも、なまめかしきさまかはり、ほけつきたふとげになりて、気近く見むは、気疎くうたてあらむと思ひしを、なかなかいみじう見所ありて、めでたかるべきわざにこそありけれと見え給ふに、あはれこれを、親の御心には后になして見ても、猶飽かずこそ思すべけれ、この世には、いたづらなるやうにしなして、おぼすらむほど、我をいかばかり妬しと思さるらむと、上の御心にはゞかりて、念じ給へるにこそはと、あはれに世を経(ふ)とも、罪さるべきかたなく、惜(あたら)しういみじうあるべきかなと、かつみるみるもあくがれて、せきやるかたなう泣きたまふに、いとはしたなうわりなきを、さまよう心にくうもてなしたまふほど、かうやうけんの后のことは、なべてこの世のものならざりし御有様を、知らぬ世の変れることのみ多かりしほどにしも、珍しういみじう見つけ聞え給へりし、御心まよひに更に劣らず、この世に又かけても、この御有様に勝る人あらじかしと、類(たぐひ)なういみじう見え給ふにも、やる方なう口惜しければ、さばれかし、うちうちの心清う濁らざらむさまは、わりなき心をしづむる程も、佛おのづから見給はすらむ、世の人の、ともかくもとりなし言はむ事は、いたく苦しかるべき事にもあらず、この人の心のとまりに朝夕見てこそ、又大将の恨みも少し解けめ、ひきつくり今一かた俄に、式部卿の宮を屠どり給ひけむほど、萬かはりけむ程などを、少将の乳母も、いかばかりかはあさましう、珍かなりけむとおぼしやるに、いみじういとほしければ、召し出でて、今は身のおこたりを聞えてもかひもなし、上ばかりおはします、中将もあまりにこのあつかひに、里がちにこそあらめ、其処に何事も今より思しはぐゝめ、萬頼み聞えてあるべきぞと、懐しう宣ふさまのめでたきに、萬慰みて、世づかぬ御有様なれば、外ざまにや思しならむと思ふも、苦しう口惜しかりつるに、嬉しさ限りなかりけり。内裏より頻りに召しあれば、参り給ふ御有様おろかならず、めでたき御装束の匂ひを整へて、珍しう立ち出で給ふ、目輝くばかりなり。世にしられぬ御にほひ、百歩の外も薫るばかりに、て、日頃も降り積もる雪、今もうちそゝぎわたすに、いとゞ光を添へたる御有様にて、往来(ゆきき)の道の人々も珍しう見奉る。陣(ぢん)歩み入りたまふより、何の深き心もなげなるものども、女官どものつかさなどさへ、涙落として見奉り驚く。まいて御方々の、細殿(ほそどの)の内にこぼれ出でて、苦しきまで見送るを、後目(しりめ)にかけつゝ過ぎ給ひぬるも、口惜しう妬げなり。午前に召しありて参り給へるに、年比隔てて御覧ずるは、あさましうこの世のものならず。御目も驚きて、とばかり物も仰せられで、涙落させ給へる御気色、かたじけなきに、我もえ心強からず。かの国にありけむ事どもなど、委しく問わせ給ふに、御前を頓に立ち出づべうもあらず。暮れぬるに、雪も猶降りまさりつゝ、月いとおもしろう澄み上りたり。遊びなどもすさまじう覚えて、殊に物の音なども聞かでなむ過しつるにとて、御遊び始まる。中納言はこの夜の事ども珍しう思されて、見しい夜の春に似たりし程など、事につけつゝいみじう思さるれば、心すまして掻き立て給へる筝の音、面白う哀れなる事限りなし。例の事なれば、涙留むる人なかりけり。珍しげなき事なれど、えぞ掻き続けざりけるぞ、御衣賜はり給ふ、常の事なりかし。
別れては雲居の月もくもりつゝかばかり澄めるかげも見ざりき
と仰せ事あるに、いとなべてならぬ事なれば、かたじけなうおぼす。
ふるさとのかたみぞかしと天の原ふりさけ月を見しぞかなしき
と奏し給ひて、おり給ふまゝに舞踏したまふ。
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