小説《それら花々は恍惚をさえ曝さない》イ短調のプレリュード、モーリス・ラヴェル。連作…世界の果ての恋愛小説⑰
それら花々は恍惚をさえ曝さない。
…散文
《イ短調のプレリュード》、モーリス・ラヴェル。
Prelude in A mainor, 1913, Joseph-Maurice Ravel
蘭陵王/小説
タンソニャット空港。乱立する柱の群れが淡い翳を作り、海。
私が、空港の到着ロビーを歩きながら見たのは海だった。白濁した海。
浪打つ表面のわななきを反射させる光によるのか、ただ空の色彩に染まって仕舞っただけなのか、いずれにせよ、海。夢。それが夢であることにはすでに気付いていた。海の上に、一人の少年が立ち尽くしていた。休みもなく、その形態を崩し続け、白濁した、光の、眼差しが捉えた先からすでに失われた名残りの残像にさえなっていくしかない、その、光の色彩。浪の。漣の、白濁の鮮やかなグラデーション。それは、もはや、と、想う。
色彩でさえない。
少年は、浪の上にただただたたずんで立ち、両目から涙のように、血を流し続け、海の水に受け入れられもしない血は、上の方、垂直に上昇していく。
その先に、なにがあるというわけでもないのに。
瞬く。…まばた、こう、と、する。
夢。見つめられた夢の中では、瞬くことさえできないことを知った。
少年。いまだかつて、何の記憶もなく、いちども、見かけたことさえもない見ず知らずの、美しくもなければ醜くもなく、抽象的というにはあまりに単なる具象にすぎない、その、単なる少年は、私に微笑みかけもしない。
タンソニャット空港の、到着ロビーの、その自動ドアを抜けると、出迎えの人々の群れ。騒音。話し声。それらの渦。
乱れるような。散り惑うような、混濁した、それら。
騒音の群れ。聴く。耳を澄ますまでもなく。熱帯の部厚い空気は巣でに私の皮膚に素手で触れていた。容赦もない熱気。息遣い。私に出迎えも泣ければ、彼らが、彼女たちが、疎らに差し出しているダンボールにかかれた名前の群れ。私の名前など在るはずもない。出迎え人のそれらに一切の用はない。
乗り込んだタクシーの中、トランスジェンダーなのかも知れない、男勝りで短髪の女性の運転にゆられる。
海がきらめく。
匂いは無い。あの、潮の薫りさえも。
少年は瞬きもせず、その、血に翳って見えない眼差しは、確かに私を見ていることを知っている。なぜなら、いま、見ているのは、その少年が見ている眼差しの、描き出した風景に他ならないことなど、私はすでに知っていた。
それは、その少年が、声さえ立てずに見ている風景そのものに違いない。
隠しようもなく。否定のしようもなく、フエは私に他ならない。
町の中心部のランド・マークに準備中の販売店舗を二店分視察して、その日本人クライアントと共に。英語さえまともに話せない、アパレル・メーカーのたたき上げの社長。人種差別の色に染まる。ベトナム人でも、理解できるかどうか、それが問題なんですよ。
センスが?
サービスが?
すべてが。「かれら、われわれから言えば、本当に未開の原人見たいものですからね。」…啓蒙してやら無いと。
日本のクオリティをね。笑った。
そうですね。…まさに。その男のプランが成功するとは思えなかった。日本でさえ、成功しているとは言えないその男の、かろうじて日本でしか通用しないプランが。
礼儀正しい差別主義者の群れ。外国にまで彷徨いでて仕舞った田舎者たち。
サイゴンの中心部に借り上げた事務所の中で、窓から刺す光の、その日翳のパソコンに出金データを入力しているフエを紹介された。彼らも、そんな現地の女に手を出すなどとは想わなかっただろう。だれからも美しいといわれる、独身主義者の私が。
パソコンから彼女が顔を上げて、いかにも外国人用に笑顔を作って見せた瞬間に、あるいは、その、眼差しがふれあうのその寸前の一瞬に、私は彼女と愛し合うことになるに違いないことに、気付いていた。たとえば、理沙のときもそうだったように。なかば、為すすべもなく。
一年間のコンサル契約を、更新しなかった私に、フエが言った。私と一緒に、ダナンに行きましょう。
どうして?
あなたは、私と結婚するから。
You will marriage
すでに、
with me
実現された事実であるかのように、彼女はそう言った。ただ一度の口付けさえも交わしてはいないうちに。まだ、愛の言葉さえもささやきあわないうちに。
It’s just a reality
誘惑。
決定論化された、留保も無い誘惑。
私は日本になど帰る気もなかった。私は、彼女に唇に人差し指をふれた。
I know
私は答えた。
引継ぎ処理に追われた、私の最終日、誰もいなくなった昼休みの雑然としたオフィスで。
クーラーをつけられた上に、回されていた天上の扇風機が、舞う。
しずかな、なぜるような風がかみの毛に触れる。
結婚が理由だと、フエが辞職理由をあけすけに言って仕舞ったので、フエがやめるまでの一ヶ月間、サイゴンの安いホテルで暮らした私は、会社の人間たちの仇敵に他ならなかった。その会社の中で、何と言われたかは想像がついた。とはいえ私には、直接的な連絡は一本も無かった。
女は息遣った。私のからだの上で。やがては、その、終わりの無い行為を、女は疲れ果てたように中断した。
体内に、そのままの私を残して。女の豊満と、肥満のあいだをさまようからだが匂いをたてる。しがみつくように覆いかぶさって、女は満足したのだろうか。そうではないのか。開かれた眼差しが、ふたたび雨を降らせて、やがて、ふたたび止ませた空の、しらんだ光のつくった形態を作りきれない散漫な翳を追う。私は女の首に手のひらを添えた。戯れに、その首を絞める。女は抵抗しない。もうすこし、と想う。力を入れてやれば。
もうすこし。
緩め、私は女の背中をなぜ、湿気に、汗ばんだ皮膚の、そのかたちをなぞった。女は、首筋に口付けるのをやめない。
ふたたび、女の首を絞め、身をよじってその唇が私の唇を舐めるのに任せた。足が絡みつく。もう少し。
もう少しの間、締め続けさえすれば。
いつのまにか、寝息を立て始めた女の、承諾もなくシャワーを浴びる。匂う。水の匂い。
雨の匂いとは、確実に違った、その。
Tシャツは渇いているはずもない。下着も、ショーとパンツも。肌につければ、自分がぬれてることの、その水分の鮮度を失って、しかもいまだ乾き始めてもいないそれらの布生地が、皮膚に張り付く。体温を、奪っていく冷たさを感じる。ふれあった皮膚の全面が。
外に出れば、ぬれた路面。無数の水溜り。切れない雲の、空に曝した白濁の、それ、地味でみじめったらしいグラデーション。そのむこうから直射している日の光が、みずからの姿をは顕さないままに、雲に光を与えていた。内側から照らされたような、明るさを。
樹木は、水滴に倦んだように、それみずからの色彩をただ、曝した。ぬれたままに。
フエの家の近く、雑然として、匂いを立てる飲食店が軒を並べた道路を、無数のバイクの群れにすれ違いながら、エンジンが止まりそうなほどの低速で進めば、人々が私を見つめては、何も話しかけようとはしない。ただ、それぞれに想いあぐねたように見つめ、そして、もはや目線を離そうともしない。
見たこともない、はじめて見る人間を見るように。
家のシャッターをくぐると、フエが、台に載って、仏壇に果物を飾ろうとしていた。素肌を曝したままに。
どこへいっていたの?
微笑み、彼女は
Đi đâu ?
かみの毛を肩に垂れ堕とす。斜に傾いた首の上に、そして、彼女の足元にだけ日差しが触れていた。鮮やかに、台をそこだけはきらめかせて。その、光みずからの色彩に。
ミーはソファの上にうつぶせて、そのまま眠っていた。未だに髪の毛はそこらに散乱し、彼らが来た、と言った。
誰?
町の人たち。
どうして?
あなたに、謝るために。
なぜ?
声を立てて笑ったフエは、不意にうつむいて、手のひらにドラゴンフルーツのやわらかい棘をなぜた。知らないわ。
I
でも、ね。
don’t
本当に、ごめんなさいって
know
言うのよ。
Em
紫色に
không
赤を混ぜ込んだ、その
biết
果物の。
色彩。私は言った。
You are me
君は、
笑う。私は、
僕。
鼻でだけ、短く笑い声を立てて、フエは声もなく、唇でわらった。
anh
開かれた唇が
là
もてあそぶように
em
空間に数回だけ震えて見せるのを、
Tai sao ?
なぜ?、と。
言ったフエは、台の上から私をやさしく眺め遣った。
Why ?
胸元にドラゴンフルーツを抱いて、腕にもてあそぶ。あまりにも小さすぎる子供でもあやしているように。
I
不意に、
know
舌を小さく出して、上唇をだけ舐めて見せた。
知ってるわ。
言った。
em
聴く。
đã
フエの声、そして
Biết
褐色の肌が、私の目の前に息づいて、息遣い、私が近寄るのを拒絶しはしない。なぜ、と。
Why ?
言った私には
Tai sao ?
答えもせずに、
微笑む。
なぜ?
私をやさしく
Tai sao ?
見下ろしたままに。
em
…ねぇ。
đã
もう、
Biết
知ってるわ。
Why ?
言葉。
わたしの吐く、空気の震え。
I
聴く。私の
don’t
声を、そして
know
つぶやかれる、彼女の
but
声、その
I
唇を、
just
微笑む。
know
私は塞いだ。
it
口付け、として。台に、片足だけよじ登りながら。目を閉じないままのフエ、そして、私が見上げた眼差しの、彼女の微笑みの向こうに、天井にへばりついたフエ、その、見たこともない色彩も無い男の昏さが、横向きに血を吐き続けた。
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